壬生の街を歩いていると、寒椿が目に入った。
美しい花だなと思う。彼――山崎ススムにも、美を愛でる心がないわけではない。
もちろん可愛いもののほうがずっと好きだが。
可愛らしさは心を安らがせる。美しさは心を刺す。
山崎が椿の花に目を留めていたのは、ほんの一二秒のことだった。
その間、彼の表情はまったく変わらず、余人がその内面をうかがい知る資料といえば、
わずかに足を止めたというただそれだけ。
そしてまた山崎は、冬だというのにサンダル履きの素足のまま、壬生の街を歩きだした。
手には彼が属する組織である心戦組の副長が設計した、黒船の資料図がある。
やりすぎだと言われる程に多くの砲門を装備し、次元を渡る能力すら備えたその船の建造計画を、
もう一人の副長はひどく嫌っていた。だから山崎が自ら出向いて、人目に付かないように
直接それを上司の元にまで運ぶという習慣が、いつの間にかできていた。
あの一本気な土方トシゾーが、よもや書類を握りつぶすということはないだろうが、
哀れな一般隊士の手からこれを奪い、もう一人の副長――山南ケースケの元に怒鳴り込むことは
容易に考えられる。それも毎回毎回、書類が局内を行き交うたびに。なにせ土方は一本気な男だ。
山崎にとっては、どうでもいいことではあった。
刀で戦うのか砲で戦うのか、侍としてどうあるべきかなど、密偵である彼には関係がない。
最強の人斬り集団を目指すことと、世界を盗ることを目指すことは、どこが違うのかとすら思う。
現状に満足せず、貪欲に上を目指していく人の有り様こそが彼にとっては楽しいのであって、
手段は正直なところどうでもよかった。
まあ確かに、刀というこだわりに囚われた土方よりも、あらん限りの力で
スマートに敵を制圧しようとする山南のあり方のほうが、山崎自身の性質とは近しいのだが。
またそれとは別に、今手にしている資料に書かれている内容には、
純粋に興味を引かれているのも事実だった。山南ケースケは確かに天才的だと思う。
心戦組内にこの中身を理解出来る人間が少ないことは、率直に残念だった。
そんなことを考えるうちに、心戦組の建物が視界に入ってくる。山崎は正面からは近づかず、
脇道の路地に入ってそこから屋根の上に飛び上がり、誰に見られることもなく塀を飛び越えた。
微かな音と共に中庭に着地すると、もう目の前が山南の居室だった。
障子の向こう側からはあきらかに人の気配がして、上司が部屋にいることが分かる。
近づいていくと、カリカリと紙にペンを走らせる音がしていた。
山崎は縁側に膝を突き、声をかける。
「ただいま戻りました。山南さん」
「お帰り」
部屋の中からは、柔らかな声がした。
それを確認して障子を開け、素早く体を滑り込ませて、また音もなく障子を閉める。
「ご苦労だったね、山崎くん」
後ろで高く髪を結び眼鏡をかけた男が、こちらを向いて笑う。
整った穏やかな顔立ちの中で、瞳だけが異常に鋭く輝いているその顔は、
笑うとひどく子供っぽかった。
「大したことではありません」
山崎は表情を変えることなく答える。
むしろ表情の変え方を知らないのが、彼という人間だと言うべきか。
黙って資料の束を差し出すと山南はそれを受け取って、また嬉しそうに、子供のように笑う。
その笑顔が山崎は好きだった。あの寒椿のように。人の心を刺す、笑顔だった。
「砲台の設置は上手くいったんだね」
「はい」
「口の部分に大量設置した砲台の、同調性が心配だったんだけどね」
「はい」
「まったく問題ないようだ。山崎くんもそれは確認したんだろう?」
「はい」
それはよかったと、山南はみたび笑った。他の人間には面白みがないと評される山崎の、
ひたすらに一定の返答も、彼はまったく気にした様子がなかった。
そのことは、山南にとって相手の反応などどうでもいいということでは決してない。
「ただ、次元移動についてはまだまだ課題が多い、と」
「そうです」
「こればっかりは、実際に動かしてみないと分からないからねえ」
「はい」
「山崎くんは……」
ちょっと何かを考え込むように、山南は言葉を切った。
そして山崎の無表情な顔を、異様に鋭い目がなぞっていく。
この視線にさらされるたびに山崎は、
山南という人が自分の心を確かに見抜いていることを実感する。
土方副長には、「いかにもあいつの本性を表す目だ」と忌み嫌われていたが、
彼は上司のこの視線こそが好きだった。
「この船のオペレーションをするための、勉強をする気はあるかい?」
わずかの視線のやり取りの後、山南は優しい顔で笑いながら、そう聞いた。
「はい」
間髪を入れずに山崎は答える。
相変わらず言葉も表情も変わることはなかったが、決して表に表れることのない心の底では、
確かにその提案を嬉しいと感じる衝動が巻き起こっていた。さらに、喜びだけではない何かが。
この人のために働くということを特別だと感じる、何かが。
また心が、刺されたようにチクリと痛んだ。
「じゃあそのための資料を渡しておこう」
山南は立ち上がり、どたどたと部屋にある戸棚をひっくり返し始める。
戸棚の中身自体は自身の頭の中身と同じようにきちんと整頓してあるくせに、
それを扱う手は不器用そのものというのが、山南という人物だった。
山崎は手伝おうとすることもなく、ただ静かに畳の上に正座をして、その様子をじっと眺めていた。
どこに何が入っているかなど、山南以外に把握できるはずもない。
そのことを自分も相手も分かり切っていることも知っている。だからでもあり、
焦っている山南の様子が純粋に面白いからでもあった。こちらは心を安らがせる種類の感情だ。
「ああっ、まだこんなにやることがあるのか。大変だ」
「山南さんがご自分で増やされるからです」
「う、うん、確かにそれはそうなんだけどね……山崎くん。
せっかく作るなら、最高の船にしたいじゃないか」
「そうですね」
「次元を飛び越え敵を一気に急襲して、圧倒的な火力で殲滅する! それのどこが悪いのかねえ。
あいつらときたら、計画段階で散々邪魔をしたくせに、やっと作り始めても
未だに予算がどうとか横やりばかり入れてくるんだよッ」
「予算は大切なことだと思いますが」
「そうかな? 最高の船のためなら、当初の三割増しくらい安いものじゃないか。
……それをあいつらときたらッ!!」
「どっちもどっちですね」
このどうにも浮世離れした上司も、この人に物を作らせたら予算超過は当然だと分かっていながら、
予算自体よりも横やりを入れることが目的で、文句を言い続ける人々も。
山崎にとっては、本当はどうでもいいはずのことなのだが。
山南はやっと取り出した資料を、握り潰さんばかりの勢いで握りしめて、宙を見つめ、
わなわなと拳を振るわせている。
「落ち着いて下さい」
山崎は無表情のまま言った。
「……フウ。そうだね、私としたことが、つい」
山南は眉間に手をやり、眼鏡を直しながら息を吐く。
まったくもって不安定な人だと思う。あんなに頭脳は優秀なのに。
落ち着きがない。優柔不断で、詰めが甘すぎる。そしてたぶん、本質的にとても脆い人間なのだろう。
あれだけ理解されないことにこだわるというのは、本当は理解して欲しいという気持ちの表れだ。
山崎はそう考えていた。また心がチクリと痛んだ。
「ではこれを渡しておくね」
照れくさそうに笑いながら、くしゃくしゃになってしまった資料を差し出される。
山崎は腕を伸ばしてそれを受け取った。
その時、山南の指にも少し手が触れる。柔らかくて冷たく、しっとりとした指先だった。
「……はい。確かに」
その驚きから一瞬返答が遅れると、山南の目がわずかに細めらた。
ああこの人はやはり、見落とさない人なのだと思う。
「ではこれで失礼します」
山崎は立ち上がり、一礼した。
「本当に助かるよ、山崎くん」
山南は笑う。
無言のまま再び礼をして、山崎は部屋から退出した。
そうして廊下で少し息を吐いた。
手渡された資料の束を見つめ、わずかに口元を緩める。
とはいえ、他の人間が見たら、やはり無表情のままだと思っただろう。
それほどにかすかな、だが彼なりの情感のこもった動作だった。
つまらない単調な日々。請負仕事を確実にこなし、組織内での立場も群れず離れず。
動揺することもなく表情を変えることもなく、望みはあっても切実さはない。
そんな山崎が出会った、心を刺す相手。
寒椿のように他者とは違う季節に咲き、そしてたぶん、一度に花全体が落ちる椿のように脆い。
あの人に付いていきたいと、柄にもなく思ってしまった。
山崎ススムにもそんな部分があったのだ。
寒椿を愛するような心が。
2004.8.30
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