例えば愛だとか 後編


次にアクセスしたのはいつのことだっただろう。
いろいろなことがあったので、そんなに近い時間ではなかった。
その間にも、ジャンだかマスターJだか知らない男は、何度も何度もそこにアクセスしては
はねつけられていた。
まったく、どんな名前を入力したのやら。
その中に自分の――高松の名前もあったのだろうかと思うと、また笑みがこぼれる。
あってもなくてもいい。あったとしたら自分の勝ちだし、
ないとしたら、入力すら出来なかったとしたら、それもまた自分の勝ちだ。

「JAN」ではないのかと、高松も最初はそう考えた。
しかし、もしも違うとしたら、残る答えは一つだ。どうしてジャンはそれに気がつかなかったのか。
ひどく簡単なことではないか。彼は――サービスはいつだってそう言っていたではないか。

――私が一番愛しているのは……

指はフォルダを探し当てる。いつものように、入り口ではパスを聞かれる。
高松の指はなめらかに、それを入力する。
そうしてサービスのデータベースは開かれる。

一番上の階層に、無造作に突っ込まれた財産目録と遺言書。
まったく彼らしい無造作で。しかし内容だけはきちんと遺漏なく。
あるべきものをあるべきところへ。
例えば所有している美術品は、それを貸して展示している美術館にそのまま寄贈するだとか。
実行するのは簡単だった。

あとは消去してやろうかと思ったが――別にサービスの個人記録など見たくもないし――、
けれどそれを止めたのは、「私の大切なもの(mes favoris)」と書かれたフォルダを見たからだった。
どうしてフランス語なのかは、まあ、たぶん、ただの気まぐれだったのだろう。

そこでまた、パスを聞かれた。やれやれと思いながら入力した。
そうして広がった世界に、高松は目を奪われた。
……ああ、陳腐で、よくあることで、だけど……これは消せなかった。

だからこのデータは、丸ごとこちらに持ち出した。
パスコードさえ入力すれば、それも可能だったので。
オリジナルはまだ、ジャンの手元に残っているはずだ。
ただし、彼がそのことを最早覚えているかは不明だが。

――ねえ、ジャン。忘却こそ一番の罪なんですよ。
高松の指はスクリーン上に映し出されたフォルダをなぞる。
軽く触ることで、それは次々と広がっていく。中身が展開され、スクリーン上にぶちまけられる。
いくつもいくつも、広げていく。そうして次々となぞっていく。――写真を。
そんなに多い枚数ではない。でも、だからこそ分かる。その一つ一つに彼がどんな思いを込めたのか。
どうしてそれを選んだのかを。サービスの、大切なもの。
それは写真。人々の記録だった。笑顔の人々の。

家族、友人、彼は実に多くの人を愛していた。
確かに選んだ伴侶は一人、ジャンという男。けれども、それ以外にも……愛した人は数知れない。
彼はすべてを愛していた。兄弟も家族も友人も。
サービスの大切なもの。大切な人々。様々な愛の形。様々な形の愛。その記録。……そして記憶。

どうして高松がそれに辿り着けたのか。
簡単なことだ。――私が一番愛しているのは……

――SERVICE

いつだって彼は言っていたではないか。「私は自分が一番大事」だと。
あれは何かの冗談だとでも思っていたのだろうか。だとしたら、おめでたい話だ。

一番なんて選ぶことは出来なかったのかもしれないし、
あるいは本当に彼は自分のことだけを愛していた男だったのかもしれない。
どちらでもいいではないか。

このパスコードはとても、彼らしい。
いつでもささやいて欲しかったのだろう。自分の記録に――記憶にアクセスする時は。その名を。
――私の名前をささやいて……
――私のことを思い出して……
――私を、忘れないで……

もう少しだけ、想像してみてもいい。
例えばジャンが、自分の名前を入力してサービスの記憶にアクセスする。
それはとても……寂しいことではないだろうか。
それよりは、相手の名前を入力したほうが、ずっといい……。
――「これでも精一杯考えたんだけどな」
サービスは、そう言っていた。

――ええ、まったくあなたらしいですよ、サービス。
高松はそう呟く。
――邪気がなく、気を配って、そのくせとんでもない猛毒で。
ジャンは……目を背けた。マスターJはきっと忘れてしまった。その名前。
過去を想起し、未来へとつなぐ名前。「私が一番愛している者」の名前。

アクセスする度にいつだって聞かれる。何度だって聞かれる。愛のささやきを要求される。
けれど、それこそが、忘却からの救い。入力していれば、いつまでも忘れないでいられる。
――サービス……
その名を。懐かしい記憶を。あの輝ける時間を。忘れずに。

本当はパスコードを変えることも出来たのだけど。今からでも出来るのだけど。
そうしないのは何故だろうか。……実のところ、分からない。
分からないから、これはたぶん、愛だ。

――私はあなたを愛していますよ、サービス。
――今でもね。

心の中で呟いて、高松は席を立った。
忘れることで繰り返す愛があるのなら、忘れないことでつなぐ愛もあっていいだろう。
どちらが正しいかなど、どうでもいい。
ただ哀れに思うだけだ。一番ささやいて欲しい人にささやいてもらえなかった、その名前を。

――サービス……

スクリーンの上では、一枚の写真がくるくると回っている。
その中では、黒髪の青年と、金髪の青年と、もう一人の黒髪の青年が笑っている。
暖かな日差しの中で。自然の太陽光にそれぞれ違う色の髪を輝かせながら。
遺された記録と、記憶の中で。


2007.1.28

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