ルーザーは最後のキーを押した。
出来上がったファイルをガンマ団の中央サーバに転送しておく。
大したことではない。これを見て、また大勢の人間が長い時間をかけて、
一つのプロジェクトを完成させるために動いていくだろうが、結末はもう決まっている。
きちんと完成する。そのために必要な指示は、全て与えて――書いておいた。
これを見て人がどう動くか、彼はその全てをシミュレートすることが出来る。
彼らの動きは箱庭の中の蟻のようなものだ、もちろんいくつもの不確定要素はあるが、
一番外側の箱は変わらない。よってその中で何が最善の形であるのかも変わらない。
だから彼らは最後はその形に到達する。ルーザーが描いたとおりに。
これまでもそうだった、これからもそうだろう。何も変わらない。世は全て、こともなし。
彼は椅子を30度回転させて、横にある別のキーボードに手を伸ばす。
そしてコンピューターをシャットダウンさせるコマンドを打ち込む。
前にある5つのスクリーンが次々とブルーに変わっては、やがて動作を終了していく。
ルーザーの机には、キーボードが3つ、スクリーンが5つあった。
それくらいを同時進行しなければ、彼の動作にコンピューターが追いついてくれないのだ。
スクリーンは4つでもよかったが……5にした。それが奇数だからではなく……素数だから。
4という数も決して嫌いではなかったが――それは自分たち兄弟の数だ――、5にした。
そういうものだ。世の中は、その程度の気まぐれで出来ている。
彼は部屋を出る。
◆
最初に会ったのは、すぐ下の弟、ハーレムだった。
「やあ」
ルーザーはいつもと変わらず、にこやかに笑顔を浮かべて声をかける。
返ってきたのは忌々しげな視線だった。前から、ずっと前から、
ハーレムはルーザーのことを憎んでいたが、ようやく最近それを隠さなくなった。
いい傾向だと思う。憎しみは人を強くする。彼は、これからもっと強くなるだろう。
強くなるというのは、いいことだ。強くなれば、嫌なヤツの言うことを聞かなくて済む。
別に返答が欲しかったわけでもないので、そのまま通り過ぎようとする。
二歩ほど通り過ぎたところで、呼び止められた。早すぎて、あるいは遅すぎて、
ルーザーのタイミングや好みからはまったく外れていたが、それがハーレムという存在なのだから
仕方ない。
「どこに行くんだ、アンタ」
その質問はなかなかに興味深かった。どう応えようかなと考える。
笑顔を浮かべながら振り返った、右足だけに体重を乗せてなめらかに。
見つけたのは憎しみの視線。しかしルーザーはそれを平然と受け止める。
彼には憎むだけの理由がある。
「戦いに」
「殺し尽くすつもりかよ?」
「そうだよ」
その通りだった、殺し尽くし、消し去る。すべてを。
ハーレムは顔を歪めた。憎しみ、悲しみ、怒り、恐怖、いくつもの感情がないまぜになった、
素敵な顔だった。思わずキスしそうになるが、止めておいた。
さすがに少し危険だろう、そこまで不用意に接近すると殴られる。いかにルーザーでも。
それはちょっと、ごめんだった。最後まで、彼相手には勝ち逃げをするつもりだった。
卑怯だとかそういう感覚は、ルーザーには存在しない。
◆
次に会ったのは、サービスだった。
弟は、泣いていた。顔を歪めて、苦しそうに、悲しそうに。
それを見ていると、こちらの胸まで苦しくなる。痛くなる。それは、そうないことだった。
他の人間にはよくあることらしいが、ルーザーは知らなかった。つい最近まで。
でもサービスが教えてくれた。
「泣かないで」
だからそう言いながら、両手で彼の頬を挟む。顔を覗き込む。
「兄さん……」
サービスは涙を流しながら、兄の顔を見つめてくる。瞳には万感の思いを込めて。
この弟がいつもそうであったように。
ああ、綺麗だなと思う。この弟はいつだって――泣いている時だって――綺麗で、美しい。
優しくて、愛らしい。ルーザーが愛したすべてのものが、この弟の中にはあった。
「愛しているよ」
――いつだって、おまえを。
何度となく、数えきれなく繰り返してきた愛の言葉を、ささやく。けれど、そこには痛みがあった。
胸を刺す痛み。決して消えない痛み。
サービスの瞳から、涙がぽろぽろとこぼれる。ルーザーはそれを唇で吸い取る。
この子もまた、強かった。ルーザーが愛した美しさは強さでもあった。
サービスはこの世の色々なことをルーザーに教えてくれたし、
それらは皆、ルーザーの優秀な頭脳が及ばない範囲のことだった。美だとか、夢だとか。
この胸を刺す痛みもそう。サービスが教えてくれた愛――そして罪。
知らなければよかったなんて、ルーザーは思っていなかった。
「兄さん……行かないで」
弟は言う。子供の時のように。でも兄はそんな彼を置いていく。……子供の時も、そうだった。
「またね」
軽く、それだけを言いながら。
◆
最後に会ったのは、唯一の兄であるマジックだった。
兄であるというだけではなく、この人の存在はルーザーにとって唯一だった。
彼が唯一、自分より上位者であると認めた存在。生まれたときから、ずっと。
「兄さん、行ってきます」
だからルーザーは背筋を伸ばして、そう報告する。
「ああ……」
マジックは何か言いたげに、けれども何も言えずにそう返答する。
そんな兄の姿を見て、弟は軽く笑った。
疑う余地もなく強い兄。けれどこの人は、多くの分厚い衣をまとっている。
兄であること、総帥であること、青の一族の長であること、そして父であること。
それらを脱ぎ捨てた裸のこの人は――本当に強いのか。考えることは、無意味だろう。
彼が強くても、弱くても、ルーザーの気持ちは何も変わらない。
この人が成してきた、そしてこれからも成していくであろう事柄の偉大さは、何も変わりはしない。
皆は――太陽が空にあることを、当たり前すぎてよく忘れてしまうのだけど、
光が届かないところで生きてきたルーザーには、その輝きの価値がよく分かった。ずっと憧れていた。
彼にそんな感情を与えたのもまた、マジックだけだった。
だからルーザーはきびすを返す。そうしてまっすぐに歩いていく。
太陽に背を向けて。いつもそうであったように。けれども確かに、兄の視線を背中に感じながら。
それを自らを照らす日の光のように、暖かいと感じながら。僕は幸せだと、そう思いながら。
◆
ルーザーが最後に考えたのは――ミツヤのことだった。
これからルーザーは彼に会いに行く。
殺し尽くし――自らを殺して、この胸の中の痛みを消して、永遠に太陽の届かない闇の中へと。
――あいつに会ったら、一発殴ってやろう。
そう考えた。昔は何度も思いながら、結局実行できなかったことだ。
しかし今の自分には、それを実行する力も権利もあるだろうと思った。
それが彼が去ってから、ルーザーが成してきたことの結果、あるいは成果。
成長なのか退化なのかは知らないが――とにかく一発、殴ってやる。
それだけを思って、あとは忘れ去った。彼のことなど、兄弟たちに比べればずっとずっと、軽い。
ハーレム、サービス、そしてマジック。
この世で誰よりも愛した人たちのことを思いながら、ルーザーは歩いていった。
いつものように背筋を伸ばし、一定の歩幅と速度で、前だけを見つめて。
この世は綺麗で素敵だった。汚いものも醜いものも下らないものもたくさんあったが、
それでも綺麗で素敵だった。そのことを教えてくれたのは、兄弟達だった。
素敵な――人生だった。
ルーザーは微笑む。それは優しく、穏やかで、世界の全てを見渡すかのように。
――強いて言えばまるで天使のようだった。
それは美しく、危険で、世界の全てに挑むかのように。
――強いて言えばまるで悪魔のようだった。
光の下に金の髪を風になびかせ、彼は飛行艦へと通じるタラップを登っていく。
足取りに迷いはない。いつだって、そうであったように。
――さようなら。
心の中で別れを告げる。愛した人すべてに。
後悔など欠片もなく、未練などみじんもなく。彼は旅立つ。
軽やかに人生を駆け抜けて。
Eブロックへと。
2007.4.8
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