旅立ちの時


ルーザーは最後のキーを押した。
出来上がったファイルをガンマ団の中央サーバに転送しておく。
大したことではない。これを見て、また大勢の人間が長い時間をかけて、
一つのプロジェクトを完成させるために動いていくだろうが、結末はもう決まっている。
きちんと完成する。そのために必要な指示は、全て与えて――書いておいた。
これを見て人がどう動くか、彼はその全てをシミュレートすることが出来る。
彼らの動きは箱庭の中の蟻のようなものだ、もちろんいくつもの不確定要素はあるが、
一番外側の箱は変わらない。よってその中で何が最善の形であるのかも変わらない。
だから彼らは最後はその形に到達する。ルーザーが描いたとおりに。
これまでもそうだった、これからもそうだろう。何も変わらない。世は全て、こともなし。

彼は椅子を30度回転させて、横にある別のキーボードに手を伸ばす。
そしてコンピューターをシャットダウンさせるコマンドを打ち込む。
前にある5つのスクリーンが次々とブルーに変わっては、やがて動作を終了していく。
ルーザーの机には、キーボードが3つ、スクリーンが5つあった。
それくらいを同時進行しなければ、彼の動作にコンピューターが追いついてくれないのだ。
スクリーンは4つでもよかったが……5にした。それが奇数だからではなく……素数だから。
4という数も決して嫌いではなかったが――それは自分たち兄弟の数だ――、5にした。
そういうものだ。世の中は、その程度の気まぐれで出来ている。

彼は部屋を出る。

最初に会ったのは、すぐ下の弟、ハーレムだった。
「やあ」
ルーザーはいつもと変わらず、にこやかに笑顔を浮かべて声をかける。
返ってきたのは忌々しげな視線だった。前から、ずっと前から、
ハーレムはルーザーのことを憎んでいたが、ようやく最近それを隠さなくなった。
いい傾向だと思う。憎しみは人を強くする。彼は、これからもっと強くなるだろう。
強くなるというのは、いいことだ。強くなれば、嫌なヤツの言うことを聞かなくて済む。

別に返答が欲しかったわけでもないので、そのまま通り過ぎようとする。
二歩ほど通り過ぎたところで、呼び止められた。早すぎて、あるいは遅すぎて、
ルーザーのタイミングや好みからはまったく外れていたが、それがハーレムという存在なのだから
仕方ない。
「どこに行くんだ、アンタ」
その質問はなかなかに興味深かった。どう応えようかなと考える。
笑顔を浮かべながら振り返った、右足だけに体重を乗せてなめらかに。
見つけたのは憎しみの視線。しかしルーザーはそれを平然と受け止める。
彼には憎むだけの理由がある。
「戦いに」
「殺し尽くすつもりかよ?」
「そうだよ」
その通りだった、殺し尽くし、消し去る。すべてを。

ハーレムは顔を歪めた。憎しみ、悲しみ、怒り、恐怖、いくつもの感情がないまぜになった、
素敵な顔だった。思わずキスしそうになるが、止めておいた。
さすがに少し危険だろう、そこまで不用意に接近すると殴られる。いかにルーザーでも。
それはちょっと、ごめんだった。最後まで、彼相手には勝ち逃げをするつもりだった。
卑怯だとかそういう感覚は、ルーザーには存在しない。

次に会ったのは、サービスだった。
弟は、泣いていた。顔を歪めて、苦しそうに、悲しそうに。
それを見ていると、こちらの胸まで苦しくなる。痛くなる。それは、そうないことだった。
他の人間にはよくあることらしいが、ルーザーは知らなかった。つい最近まで。
でもサービスが教えてくれた。
「泣かないで」
だからそう言いながら、両手で彼の頬を挟む。顔を覗き込む。
「兄さん……」
サービスは涙を流しながら、兄の顔を見つめてくる。瞳には万感の思いを込めて。
この弟がいつもそうであったように。

ああ、綺麗だなと思う。この弟はいつだって――泣いている時だって――綺麗で、美しい。
優しくて、愛らしい。ルーザーが愛したすべてのものが、この弟の中にはあった。
「愛しているよ」
――いつだって、おまえを。
何度となく、数えきれなく繰り返してきた愛の言葉を、ささやく。けれど、そこには痛みがあった。
胸を刺す痛み。決して消えない痛み。
サービスの瞳から、涙がぽろぽろとこぼれる。ルーザーはそれを唇で吸い取る。

この子もまた、強かった。ルーザーが愛した美しさは強さでもあった。
サービスはこの世の色々なことをルーザーに教えてくれたし、
それらは皆、ルーザーの優秀な頭脳が及ばない範囲のことだった。美だとか、夢だとか。
この胸を刺す痛みもそう。サービスが教えてくれた愛――そして罪。
知らなければよかったなんて、ルーザーは思っていなかった。

「兄さん……行かないで」
弟は言う。子供の時のように。でも兄はそんな彼を置いていく。……子供の時も、そうだった。
「またね」
軽く、それだけを言いながら。

最後に会ったのは、唯一の兄であるマジックだった。
兄であるというだけではなく、この人の存在はルーザーにとって唯一だった。
彼が唯一、自分より上位者であると認めた存在。生まれたときから、ずっと。

「兄さん、行ってきます」
だからルーザーは背筋を伸ばして、そう報告する。
「ああ……」
マジックは何か言いたげに、けれども何も言えずにそう返答する。
そんな兄の姿を見て、弟は軽く笑った。

疑う余地もなく強い兄。けれどこの人は、多くの分厚い衣をまとっている。
兄であること、総帥であること、青の一族の長であること、そして父であること。
それらを脱ぎ捨てた裸のこの人は――本当に強いのか。考えることは、無意味だろう。
彼が強くても、弱くても、ルーザーの気持ちは何も変わらない。
この人が成してきた、そしてこれからも成していくであろう事柄の偉大さは、何も変わりはしない。

皆は――太陽が空にあることを、当たり前すぎてよく忘れてしまうのだけど、
光が届かないところで生きてきたルーザーには、その輝きの価値がよく分かった。ずっと憧れていた。
彼にそんな感情を与えたのもまた、マジックだけだった。

だからルーザーはきびすを返す。そうしてまっすぐに歩いていく。
太陽に背を向けて。いつもそうであったように。けれども確かに、兄の視線を背中に感じながら。
それを自らを照らす日の光のように、暖かいと感じながら。僕は幸せだと、そう思いながら。

ルーザーが最後に考えたのは――ミツヤのことだった。
これからルーザーは彼に会いに行く。
殺し尽くし――自らを殺して、この胸の中の痛みを消して、永遠に太陽の届かない闇の中へと。

――あいつに会ったら、一発殴ってやろう。
そう考えた。昔は何度も思いながら、結局実行できなかったことだ。
しかし今の自分には、それを実行する力も権利もあるだろうと思った。
それが彼が去ってから、ルーザーが成してきたことの結果、あるいは成果。
成長なのか退化なのかは知らないが――とにかく一発、殴ってやる。
それだけを思って、あとは忘れ去った。彼のことなど、兄弟たちに比べればずっとずっと、軽い。

ハーレム、サービス、そしてマジック。
この世で誰よりも愛した人たちのことを思いながら、ルーザーは歩いていった。
いつものように背筋を伸ばし、一定の歩幅と速度で、前だけを見つめて。
この世は綺麗で素敵だった。汚いものも醜いものも下らないものもたくさんあったが、
それでも綺麗で素敵だった。そのことを教えてくれたのは、兄弟達だった。

素敵な――人生だった。
ルーザーは微笑む。それは優しく、穏やかで、世界の全てを見渡すかのように。
――強いて言えばまるで天使のようだった。
それは美しく、危険で、世界の全てに挑むかのように。
――強いて言えばまるで悪魔のようだった。
光の下に金の髪を風になびかせ、彼は飛行艦へと通じるタラップを登っていく。
足取りに迷いはない。いつだって、そうであったように。

――さようなら。
心の中で別れを告げる。愛した人すべてに。
後悔など欠片もなく、未練などみじんもなく。彼は旅立つ。
軽やかに人生を駆け抜けて。

Eブロックへと。


2007.4.8

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