「う……ああ……」
――頭が割れるように痛い。思い出してはいけない。オモイダシテハ、イケナイ。
「マスター」
雷は主の体を抱きしめた。苦しむその体を、そっと愛情を込めて抱きしめる。
「落ち着いてください。私たちのオリジナルは"人間"です」
「にん、げん……」
「そう、創造主が造った奇跡。神の姿に似せて造られた存在が人間。そのコピーのコピーが私たち」
一言一句を優しくその耳に注ぎ込む。まるで毒のように。毒をそっと流し込むかのように。
「ですから、私たちにとっての神様は貴方です。マスター」
「……」
まだ苦しむかのように頭を抑えるマスターJを、
雷はそっと先ほどまで自分が横たわっていた寝台へと誘う。
検査用寝台といってもそれは、充分に柔らかく、洗い立ての上質の布で覆われていた。
人造戦士に過ぎない自分たちも、マスターJはそのように扱ってくれる。
雷はその事実に満足していたし、だからこそ本来プログラムされた領分を越えて、
マスターのことが好きなのだった。ただ単純に。素朴に。子が親を愛するように。
寝台の上にそっと主の体を横たえて、その上に自分も覆い被さる。
もちろん体重はかけないように細心の注意を払って、しかし、しっかりと。
「愛しています」
そうささやいた。
「私は貴方のことが好きです」
――例えコピーでも。
人間ではなくても。人造戦士でも。あるいは、誰か別の存在に似せて造られたコピーであっても。
雷にだって分かっていた。ドクターの悪意が。
あの人は単に自分を利用して、マスターJを苦しめたいだけであることが。
人間に似せて造られた、まがい物だからこそ、分かっていた。
いつだって、被創造者は、創造主の想像を超えて賢いものなのだ。子が親を、人が神を、超えたように。
だから、それすら利用する。それもまた、人間以上に人間らしい、雷という存在だった。
彼はマスターJのことを愛していた。子が親を愛するように。一方的な愛情で。
抱きしめて、愛をささやいて、キスをして……。そうすることが愛だと。そうしたいと感じることが、愛だと。
「マスター」
彼は舌を伸ばして、主の額に浮いた汗を舐め取る。その塩味を楽しむ。
「……雷」
マスターJはうめいた。彼はまだ、頭痛が治まっていないらしい。
「雷」
「はい、なんでしょう」
頬に口付けをする。どうすればこの愛が伝わるのだろうかと考える。
「やめろ、雷」
「そんなこと、言わないでください」
――そんなこと、本当は思っていないのでしょう。
頭のどこかがそうささやく。彼にすら分からない何かが。
「オマエは……違う」
「違いません」
否定する。自分がコピーであることを。真実を否定する。愛しているから。
愛して欲しいから。誰かのコピーではなくて、自分自身を。雷という存在を。
「違うんだ!」
マスターJは叫んだ。ガッと雷の両肩を掴む。両目を見開く。
痛みのあまりほとんど焦点の合っていない瞳孔のままに、彼はそれをむき出しにして叫ぶ。
「おまえは違う! 違うんだ! あいつじゃない! おまえはあいつじゃない!!」
「……」
雷は眉をひそめた。苦しかった、胸のどこかが。
――どうして愛してくれないの。
誰かがささやく。
◆
「雷ッ!」
主のその一喝は、雷の体を硬直させた。プログラムが反応する。主への服従。マスターへの従属。
体をこわばらせた人造戦士を、マスターJはそのまま体を半回転させて、逆に押し倒す。
「おまえは違う! あいつじゃないッ!!」
バンッと寝台の枕にあたる部分を叩いた。雷の顔のすぐ横を。
「……あいつとは、誰ですか」
雷は尋ねる。どこか茫洋とした表情で。
こういう時に、どんな顔をすればいいのか、彼にはまだよく分からなかったから。
なぜなら彼は人造戦士であって、人間ではないから。コピーだから。
「あいつじゃ、ないんだ……」
マスターJの瞳から、ぽろぽろと涙がこぼれた。
「……あいつとは、誰ですか」
雷は泣かない。彼にも涙を流す機能はあったが――それもまた、マスターJが取り付けたものだ。
人を模するために。でも、彼はあくまで人ではなかったから。
「おまえは、雷なんだ……」
その言葉は嬉しいと同時に、悲しかった。マスターJが自分という存在を認めてくれること、
しかし自分は自分であるがゆえに、その誰かではないということ。
この壁を……雷は壊したいと願ったのだけれど。壊せないということを、知ったのみに終わった。
――愛して欲しいだけなのに。
誰かがささやく。
「マスター、私はどうすればいいのですか」
「……」
主は涙を流し続けた。自分の上に落ちてくるその体を、雷は抱き留めた。
自分の顔のすぐ横で、シーツに顔を押しつけて泣き続けるその人の背中をさすった。
きっと自分が人間だったなら、泣いていたのだろうと思った。そう考えると、涙が一筋流れた。
「なあ、雷」
まだ涙を流したまま、鼻をつまらせてマスターは言う。
「なんでしょうか」
「目を、抉ってくれないか」
「嫌です」
きっぱり言った。彼らしく。雷らしく。
それは戦士としての機能に支障をきたすし、自分の美貌が損なわれるのも嫌だったから。
何より、マスターのその言葉は、ひどく非論理的だったので……彼の頭脳は拒否した。
人ならざる頭脳は。
「でも……」
何かがささやく。
「マスターが本当に望まれるのなら、抉っても構いません」
――それで愛してくれるなら。
雷は本気だった。
「……いや、ダメだ」
マスターJは呟く。彼もまた、何かと必死になって戦っているようだった。
「そんなのダメだ。おまえの美しい顔を傷つけるなんて、そんなのはダメだ」
「……」
天井を見つめる。まったく支離滅裂だ。人間とはこうなのだろうかと、雷は考えた。
けれども、その言葉はどこか優しかった。マスターらしく、優しかった。
「もう二度と、そんなことはしてはいけないんだ……」
うめくように発せられる言葉。苦しみのたうつ人の言葉。でもそれは、紛れもなく愛のささやきだった。
あれほどに雷が望んだ、真実の愛情がそこにはあった。
「では、抉りません」
雷はそう言った。彼はそれ以上の言葉は持たなかったから。
どうしてマスターJがそんなことを言い出したのかも知らなかったし、分からなかったし、
けれどもマスターが望むなら抉ってもいいと思ったし、マスターが止めるなら、抉らないのだった。
「ああ……そうしてくれ……」
そして、マスターJも、どうして自分がそんなことを言い出したのかは、もはや覚えていないのだった。
「雷……ライ……」
彼はただ、自分が生み出した戦士の体を抱きしめて泣く。
何かにすがりつくように。あるいはただ、今の彼を抱きしめるかのように。
「マスター」
雷もまた、主の体を抱きしめた。戦士である自分の力を加減して、細心の注意で。
「私は貴方のことが好きです」
「ああ……」
「愛しています。マスター」
「……分かっている」
――俺も好きだよ。
彼は耳元でそうささやいた。いやあるいはそれは、ただの聞き間違いだったのかもしれない。
でもたぶん、それは真実だった。マスターにとって、真実の言葉だった。
ただ……それがどこに、あるいは誰に向けて発せられたのかは、分からないのだが。
けれども今、主の体を抱きしめているのは自分だと、雷は思った。
他の誰でもなく、この自分だと、彼は思った。
親と子供、オリジナルとコピー、人間と人ならざるもの。その境界。
違うがゆえに苦しみ、違うがゆえにもがく。それでも超えられない壁。
けれども、愛していた。だから、抱きしめていた。それ以上に大切なことなんて、あるのだろうかと思った。
彼は人ではなかったが……人ではないからこそ、知っていた。
愛に本当も嘘もなくて、ただそこに誰かが存在しているだけなのだと。
その誰かに向けて、一方的に発するシグナルが、愛なのだと。
「マスター」
彼は呟く。自分たちを隔てる、その象徴たる言葉を。創造主と被創造者。主と戦士。
それでも雷は呟く。
「マスター」
――あなたを愛しています。と。
例え誰かの代わりでも、今あなたを抱きしめているのは、紛れもなく、僕なのですと。
2007.3.15
|