「んん……」
急に横で声がして、はっと目を開き振り返ると、
ちょうどベッドで眠っていた幼子の瞳が、大きくぱちりと開いた所だった。
眠さからか、あるいは常にその身体を蝕む気だるさゆえか、
潤んだ、それでも透明な湖のように澄み切った瞳で、不思議そうにあたりを見回して。
自然と部屋の中の唯一の光に向かって、グンマは顔を向けた。
そしてその下に座っている、見知った黒髪の医師に気が付くと――笑った。
「あー」
グンマはまだ言葉をそんなに喋れない。
子供が言葉を覚える速度は、基本的に周りからどれだけ話しかけられるかという要素が大きい。
この子の周りには、絶対的に他者が少なかった。
親族であるマジックもハーレムもサービスも、時々はここを訪れるけれど、
本当ならば両親が四六時中そばに付いて愛情を注ぐべき時期なのだからやはり少ない。
高松自身も、そうするべきだと知識としては分かっていたのだが、
どうしても実行するのは難しかった。
今のところ、グンマに対して一番投げかけられている言葉は、
看護士が読み聞かせる絵本の中身だろう。
それでも、この子は高松に向かって手を伸ばしてきた。
「たー、たー」
高松という名前の一部を呼んでいるらしい。
汚れを知らない天使のような顔に浮かぶのは、やはり満面の笑み。
……それは暗闇の中に差し込んだ光。
ふいに高松は心がくしゃりと歪むのを感じた。
先ほどまで自分が沈み込んでいた暗黒に比べて、この子の微笑みはなんと明るいのだろう。
光の輝き、それは高松が希求する一方で、決して手に入れられないと分かっている属性。
ああ、これが罪への罰なのだと思う。
サービスがマジックの息子としてすり替えた子供は、
成長するに従って一族にはあり得ない黒目黒髪を、あの男と同じ特徴をはっきりと示し。
高松がルーザーの息子として捕らえるつもりだった子供は、こんなにも無垢で。
本当は違うはずなのに……。間違いなくルーザー様に似ていると思った。
この穢れ無き白さは、ルーザー様に似ている。
あの方は決して汚れを許さない純白で、この子は決して汚れを知らない潔白だけど。
結局、自分たちがしたことは、自分たちに跳ね返ってきた。
あのどこまでも覇道を歩む、挫折を知らないマジック総帥に傷を付けてやりたくてしたことは、
何よりもまずサービスと高松自身を、今こうして苦しめている。
「たー、たー」
グンマは相変わらず高松に向かって手を差し伸べてくる。
騒がれても困りますからと誰にともなく釈明して、恐る恐るその手を取った。
グンマはますます嬉しそうな顔をして、その手を引っ張りそっと自分の頬に当てる。
そして満ち足りた表情で目を閉じた。
――どうしてですかッ!
高松は叫びたかった。私のこの手は、汚れているのですよ。
あなたの運命を根底から狂わせてしまった手なのですよ。
そんな心の叫びが聞こえたかのように、グンマはびくっと目を開ける。
「ないてるの?」
意外とはっきりした言葉に、再び虚をつかれた。
そう、年齢から考えればそれくらい喋れてもおかしくはない。
「いたいの?」
痛いのは、苦しいのはあなたでしょう! 高松は心の中で叫ぶ。
もはや気持ちは完全に乱されていた。
「……なかないで」
発音はしっかりしており、明晰だった。
この子の知能は私が考えている以上に高いのかもしれない、
職業意識の悲しさで反射的に分析してしまってから、
ふとある事実に気が付いて愕然とする。
今、自分の頬を流れている液体はなんだろう?
「たー?」
グンマは自分も泣きそうな顔で、一心に高松の顔を見つめている。
「大丈夫ですよ。グンマ様」
笑ってみせた。するとますます目尻から水滴がこぼれた。
「私は、大丈夫ですから……」
直後、高松はグンマの身体を抱きしめていた。
その身体は柔らかくて暖かかった。高松の胸の中で、小さな心臓がトクトクと波打っていた。
ああ……守りたいと思った。この子を守りたい。
贖罪ではなく、父性なんてものでもなく、私は私であるためにグンマ様を守りたい。
「あなたこそ、ルーザー様のご子息なのです。グンマ様」
抱きしめた命に向かって、高松は語りかける。
そう決めた。真実が何かなど、もはやどうでもいい。
すでに一つ嘘を付いたなら、その上にさらに嘘を積み重ねたとして何が悪いのだろう。
ましてそれがこの幼子にとって必要な嘘であるのなら。
さらに罪を重ねることなどなんでもない。……いつか償う時は来るだろうけれど。
私の狂気は、こうして昇華された。
そうして前に進もう。この光溢れた命と共に。私は、どこまでいっても影だから。
でもこの方の影であるならば、それは幸福なことだから。
「間違いなくあなたは天才です。私などにはないものを持っていらっしゃる」
さすがにそんな言葉が理解できるはずはなく、グンマはきょとんとした目で彼を見上げる。
言葉でなく伝えるために、高松は笑顔を作って見せた。
普段なら、全てを斜に見るこの男の顔には決して表れるはずのない、
心の底からの微笑みを。
グンマもそれを見て、にっこりと笑う。優しい、優しい、どこまでも優しい笑顔で。
溶けていく。心の中の何かが溶けていく。涙の本質とは、きっとこれなのだと思う。
高松はもう一度グンマの身体をしっかりと抱きしめて、その耳元にささやいた。
「あなたが生まれてきてくれたことに、その命に、感謝します。グンマ様」
2004.5.13
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