それだけが真実 後編


「苛立つのはやめろ」
言ってから分かった。どうやらハーレムは気が立っていたらしいと。
彼が噴水に腰掛けてタバコを吸っていた理由について、ようやくルーザーは考えが至った。
あまりそれは、ハーレムらしくない行動だ。久しぶりに帰ってきて庭を散策するような男ではないし、
噴水に腰掛けてぼうっとしているような男でもなかった。
暇つぶしといえば、サンドバッグを殴っていたり、ベンチプレスをしていたり。
つまりトレーニングルームにいることが多い。やはり庭というのは、珍しい。

「……戦場はそんなに、疲れたのか」
ルーザーは言った。
「そうだよッ」
ハーレムは叫ぶ。年相応の幼さで。
「おかしいかよッ? あ!?」
「別におかしくなはい」
静かに言う。しかし、ルーザーはいたって真面目だった。別にハーレムを落ち着かせるつもりもなければ、
彼のために何かしてやろうという訳でもなかった。ただルーザーはルーザーらしく、言うだけだった。
「普通の人間は人を殺すことが平気ではない。この場合の普通とは平凡という意味ではない」
言葉を重ねる。
「むしろ正常という意味合いに近い。精神医学的にも、脳生理学的にも。……そして社会的にも」
まあ、ハーレムにはあまり関係ないことかもしれないが。医学も社会性も。
いやそんなことはないなと、頭の中で修正する。ハーレムは、これでも健康で正常で社会性はある。
タバコは吸うが。

「そしておまえは、僕に当たることでそれを解消しようとしている。それも至って、健常なことだ」
「むかつくッ」
「いくらでも八つ当たりすればいい。僕は、兄だから」
「……」
黙ったので、落ち着いたのかと思った。しかし、違った。

「あんたは悪魔だ」
ハーレムはそんなことを言い出した。
「なぜ?」
ルーザーは尋ねる。別にその言葉自体については、なんとも思わなかった。よく言われるから。
「人の心を切り刻んで、そんなに楽しいかよッ?」
「僕は、なにかおまえを傷つけたかい」
「傷つけたんじゃねえ。バラバラに分解しようとしたんだッ!」
「まあ、それは正しいだろうね」
「なんでアンタはそうなんだッ!?」
「……」
――おかしいのだろうか。
ルーザーにはそれが分からない。
これは彼なりの精一杯の優しさだったのだが、こんな風に取られるとは思わなかった。
ハーレムは……まだ冷静ではないし、八つ当たりを止めてもいないが、でもこれは彼の本心だろう。
そんな気がする。

「ひでえよアンタはッ」
「何がだろう?」
「人間を、物かなんかだと思っているんじゃねえのかッ?」
「人間は、物だよ」
物体だし、ただの有機体に過ぎない。ハーレムが言いたいのはそういうことではないのだろうが、
それでもやはり、ルーザーにはその言葉は正しいように思えた。
――おかしいかな、僕は。
そう考える。しかしやっぱり、おかしいのはハーレムの方だと思う。
けれどもう、眼魔砲を撃とうとは思わなかった。そういう自分にも、ルーザーは気付いていた。
それはたぶん……ハーレムのことが、哀れだったからだ。そう考えて、悲しかった。
ルーザーは、ハーレムにも、自分を理解して欲しかった。
しかし同時に、ルーザーを理解しないハーレムは、きっと正常で健常なのだ。"普通"の人間なのだ。
それでもルーザーは、ハーレムが哀れだった。
ハーレムが哀れでないとすれば、哀れなのは自分で、そのことはルーザーには受け入れ難かったから。

「……」
眉を寄せて考える。
ルーザーがこうして座っていることも、ハーレムを追い詰めていたのかなと。
ハーレムはルーザーのことが嫌いだ。ましてやこんな時――戦場から疲労して帰ってきたとき――、
一緒にいたくはなかったのだろう。サービスや、マジック兄さんならともかく。
けれどもそうして考えることすら……きっと、ハーレムにとっては、
自分を切り刻まれるような気持ちになるのだろう。
「悪かったね」
心から、そう言った。そして立ち上がる。
「ハンカチは、返さなくていい」
吸い殻を包んだハンカチなど、もちろん使えるはずもないが、そういう意味ではなく、
ハンカチを提供した分も――つまり代わりに人を殺した感想を聞かせろと言ったことも、
もう取り消すつもりだった。
「あんたは偽善者だ」
ハーレムはそう言う。タバコを手にしたまま。うつむいて。
「そう」
ルーザーは否定しない。彼はそもそも、善悪など、興味はなかった。

この場から去ろうとする。それがハーレムの――弟のためだと思ったから。
「なあ」
けれど、その背後から声がした。
「なに?」
ルーザーは半歩振り向いて、尋ねる。
「論理的整合性についてだけどな」
「ああ」
――「あんたが言うならそうだろうな」と言った矢先に、「あんたがまともなことを言うなんて意外だ」と、
言ったことについてか。
「俺は兄貴の正しさは分かる。あんたはすんげー論理的だし頭がいい」
「うん」
「でもあんたは異常だ」
「そのことは矛盾しないね」
正常から外れた物を異常と呼ぶならば、平凡でないことを異常と呼ぶこともあるだろう。
「その異常なあんたが、人を殺すむなしさを『大切だ』と言ったことは、……気持ち悪かった」
「そう」
言葉に傷つかなかったといえば、嘘になる。
けれどそれ以上に、ルーザーにはハーレムが真実を話したことの方が大切だった。
ルーザーが求めるのは、いつだって真実だ。優しい嘘などいらない、残酷な真実のほうがずっといい。

「どうして『大切』なんだ? 兄貴」
「……」
それは答えるのが難しい問いだった。
「正常だからだよ」
ルーザーはそう言った。自分の異常さを認めながら。
「そうか」
弟はふっと笑う。そんな彼は、少し大人に思えた。まだ、16歳だが。

「悪かったよ、兄貴」
「いや、謝ることは何もない」
きっぱりと言う。
そうしてルーザーを拒絶する人間が――兄弟が、いてもいい。一人くらいは。
だからルーザーは黙る。黙って立ち去る。
傷ついたハーレムをその場に残して。自分は決して、傷つくことなく。

それは敗北ではなく……。彼は敗北者――"ルーザー"――ではなく、
一人の人間だったから。たとえどんなに異常な人間でも。

ハーレムは優しいのだ。彼はたぶん、優しい嘘を愛する人間なのだ。
それもまた、間違ってはいない。きっと。
嘘を嘘だと知りつつ愛する。矛盾をも許容する。相手のためを思って黙っている。
それはとても高度な――人間らしい、ことだ。ルーザーには、できないけれど。
彼はちらりと後ろを確認し、まだこちらを見ているハーレムを見て、微笑んだ。
この笑顔もまた、届かないのだとは知りながら。

それでもルーザーはハーレムを愛する。
兄弟だから、兄だから。いや、兄でなくても。
正常なハーレムのことを、異常なルーザーは愛していた。
お互いを傷つけあい、切り刻むような愛でも、愛していた。

この2年後。ルーザーが裏切り者の赤の人間を殺し、そのためにサービスが自らの片眼を抉ったとき。
ハーレムは泣きながら兄にすがって、「ジャンを殺したことをサービスには言うな」と言った。
優しい嘘を愛するハーレム。

なぜルーザーはそれを受け入れたのだろう。
……愛していたからだろうか。ハーレムのことを。
そして自分の方が異常だと、知っていたからだろうか。

分からない。
だが、ルーザーはその死の寸前、初めて自分のことを敗北者――"ルーザー"――だと思った。
そうして彼は死んでいった。

それだけが、真実。


2007.3.9

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