「苛立つのはやめろ」
言ってから分かった。どうやらハーレムは気が立っていたらしいと。
彼が噴水に腰掛けてタバコを吸っていた理由について、ようやくルーザーは考えが至った。
あまりそれは、ハーレムらしくない行動だ。久しぶりに帰ってきて庭を散策するような男ではないし、
噴水に腰掛けてぼうっとしているような男でもなかった。
暇つぶしといえば、サンドバッグを殴っていたり、ベンチプレスをしていたり。
つまりトレーニングルームにいることが多い。やはり庭というのは、珍しい。
◆
「……戦場はそんなに、疲れたのか」
ルーザーは言った。
「そうだよッ」
ハーレムは叫ぶ。年相応の幼さで。
「おかしいかよッ? あ!?」
「別におかしくなはい」
静かに言う。しかし、ルーザーはいたって真面目だった。別にハーレムを落ち着かせるつもりもなければ、
彼のために何かしてやろうという訳でもなかった。ただルーザーはルーザーらしく、言うだけだった。
「普通の人間は人を殺すことが平気ではない。この場合の普通とは平凡という意味ではない」
言葉を重ねる。
「むしろ正常という意味合いに近い。精神医学的にも、脳生理学的にも。……そして社会的にも」
まあ、ハーレムにはあまり関係ないことかもしれないが。医学も社会性も。
いやそんなことはないなと、頭の中で修正する。ハーレムは、これでも健康で正常で社会性はある。
タバコは吸うが。
「そしておまえは、僕に当たることでそれを解消しようとしている。それも至って、健常なことだ」
「むかつくッ」
「いくらでも八つ当たりすればいい。僕は、兄だから」
「……」
黙ったので、落ち着いたのかと思った。しかし、違った。
「あんたは悪魔だ」
ハーレムはそんなことを言い出した。
「なぜ?」
ルーザーは尋ねる。別にその言葉自体については、なんとも思わなかった。よく言われるから。
「人の心を切り刻んで、そんなに楽しいかよッ?」
「僕は、なにかおまえを傷つけたかい」
「傷つけたんじゃねえ。バラバラに分解しようとしたんだッ!」
「まあ、それは正しいだろうね」
「なんでアンタはそうなんだッ!?」
「……」
――おかしいのだろうか。
ルーザーにはそれが分からない。
これは彼なりの精一杯の優しさだったのだが、こんな風に取られるとは思わなかった。
ハーレムは……まだ冷静ではないし、八つ当たりを止めてもいないが、でもこれは彼の本心だろう。
そんな気がする。
「ひでえよアンタはッ」
「何がだろう?」
「人間を、物かなんかだと思っているんじゃねえのかッ?」
「人間は、物だよ」
物体だし、ただの有機体に過ぎない。ハーレムが言いたいのはそういうことではないのだろうが、
それでもやはり、ルーザーにはその言葉は正しいように思えた。
――おかしいかな、僕は。
そう考える。しかしやっぱり、おかしいのはハーレムの方だと思う。
けれどもう、眼魔砲を撃とうとは思わなかった。そういう自分にも、ルーザーは気付いていた。
それはたぶん……ハーレムのことが、哀れだったからだ。そう考えて、悲しかった。
ルーザーは、ハーレムにも、自分を理解して欲しかった。
しかし同時に、ルーザーを理解しないハーレムは、きっと正常で健常なのだ。"普通"の人間なのだ。
それでもルーザーは、ハーレムが哀れだった。
ハーレムが哀れでないとすれば、哀れなのは自分で、そのことはルーザーには受け入れ難かったから。
「……」
眉を寄せて考える。
ルーザーがこうして座っていることも、ハーレムを追い詰めていたのかなと。
ハーレムはルーザーのことが嫌いだ。ましてやこんな時――戦場から疲労して帰ってきたとき――、
一緒にいたくはなかったのだろう。サービスや、マジック兄さんならともかく。
けれどもそうして考えることすら……きっと、ハーレムにとっては、
自分を切り刻まれるような気持ちになるのだろう。
「悪かったね」
心から、そう言った。そして立ち上がる。
「ハンカチは、返さなくていい」
吸い殻を包んだハンカチなど、もちろん使えるはずもないが、そういう意味ではなく、
ハンカチを提供した分も――つまり代わりに人を殺した感想を聞かせろと言ったことも、
もう取り消すつもりだった。
「あんたは偽善者だ」
ハーレムはそう言う。タバコを手にしたまま。うつむいて。
「そう」
ルーザーは否定しない。彼はそもそも、善悪など、興味はなかった。
◆
この場から去ろうとする。それがハーレムの――弟のためだと思ったから。
「なあ」
けれど、その背後から声がした。
「なに?」
ルーザーは半歩振り向いて、尋ねる。
「論理的整合性についてだけどな」
「ああ」
――「あんたが言うならそうだろうな」と言った矢先に、「あんたがまともなことを言うなんて意外だ」と、
言ったことについてか。
「俺は兄貴の正しさは分かる。あんたはすんげー論理的だし頭がいい」
「うん」
「でもあんたは異常だ」
「そのことは矛盾しないね」
正常から外れた物を異常と呼ぶならば、平凡でないことを異常と呼ぶこともあるだろう。
「その異常なあんたが、人を殺すむなしさを『大切だ』と言ったことは、……気持ち悪かった」
「そう」
言葉に傷つかなかったといえば、嘘になる。
けれどそれ以上に、ルーザーにはハーレムが真実を話したことの方が大切だった。
ルーザーが求めるのは、いつだって真実だ。優しい嘘などいらない、残酷な真実のほうがずっといい。
「どうして『大切』なんだ? 兄貴」
「……」
それは答えるのが難しい問いだった。
「正常だからだよ」
ルーザーはそう言った。自分の異常さを認めながら。
「そうか」
弟はふっと笑う。そんな彼は、少し大人に思えた。まだ、16歳だが。
「悪かったよ、兄貴」
「いや、謝ることは何もない」
きっぱりと言う。
そうしてルーザーを拒絶する人間が――兄弟が、いてもいい。一人くらいは。
だからルーザーは黙る。黙って立ち去る。
傷ついたハーレムをその場に残して。自分は決して、傷つくことなく。
それは敗北ではなく……。彼は敗北者――"ルーザー"――ではなく、
一人の人間だったから。たとえどんなに異常な人間でも。
ハーレムは優しいのだ。彼はたぶん、優しい嘘を愛する人間なのだ。
それもまた、間違ってはいない。きっと。
嘘を嘘だと知りつつ愛する。矛盾をも許容する。相手のためを思って黙っている。
それはとても高度な――人間らしい、ことだ。ルーザーには、できないけれど。
彼はちらりと後ろを確認し、まだこちらを見ているハーレムを見て、微笑んだ。
この笑顔もまた、届かないのだとは知りながら。
それでもルーザーはハーレムを愛する。
兄弟だから、兄だから。いや、兄でなくても。
正常なハーレムのことを、異常なルーザーは愛していた。
お互いを傷つけあい、切り刻むような愛でも、愛していた。
◆
この2年後。ルーザーが裏切り者の赤の人間を殺し、そのためにサービスが自らの片眼を抉ったとき。
ハーレムは泣きながら兄にすがって、「ジャンを殺したことをサービスには言うな」と言った。
優しい嘘を愛するハーレム。
なぜルーザーはそれを受け入れたのだろう。
……愛していたからだろうか。ハーレムのことを。
そして自分の方が異常だと、知っていたからだろうか。
分からない。
だが、ルーザーはその死の寸前、初めて自分のことを敗北者――"ルーザー"――だと思った。
そうして彼は死んでいった。
それだけが、真実。
2007.3.9
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