愛の痕跡 後編


「……」
何を沈黙しているのだろうと横目でうかがうと、ミツヤと目が合った。
彼は……ニッコリと微笑んだ。

「君は、時々優しいね」
「やめてくれ」
おぞましかった。寒気がする。こんなに暑い夏の日なのに。
「羨ましいよ。僕は、君が」
ミツヤはぽつりと言った。寂しそうに。……なぜだろう。その理由は今でも分からない。

ターンッ

射撃音が響く。数百メートル向こうでは、標的が額を撃ち抜かれて倒れた。
どうして彼は窓に近寄ったのか。おそらく理由はない。強いて言えば、気がゆるんだのだろう。
バスローブを身にまとい、その前をだらしなくはだけた姿。風呂上がりの気のゆるみ。
どうして風呂に入ったのか。ベッドでまぐわっていたからだ。連れ込んだ男と。吐き気がする。
でもだからこそ狙った。彼の行動パターン。ルーザーは調べ上げた。
ホテル暮らしのストレスを解消するかのように、男娼を毎日買って呼び寄せることも、
それが決まってこの時間だということも。午後3時。それが彼が一番気をゆるめる時間。
隙が生まれチャンスが生まれる。暗殺において最も重要なことだ。相手を油断させ、こちらは油断しない。
不条理な現実。現実はいつだって不条理で、汚くて、醜くて……最悪だ。

「お見事」
ミツヤは楽しそうに笑った。
「君はいい狙撃手だよ。ルーザー」
「やめてくれ」
素早くライフルを取り上げ、スタンドを外して、ケースに収納する。排出された薬莢も拾う。
横目で忌々しく、ミツヤがアスファルトに付けた黒いシミをにらむ。
「まあ、気にすることじゃないだろう」
ミツヤはそう言った。彼はそうだろう。でもルーザーは気にする。完璧でないことなんて、我慢がならない。
銃身にかぶせていた断熱シートを拾ってたたみ、体の下に敷いていたシートを丸め、紐で縛る。
体の節々が痛かった。
横になっていた時間はどれくらいか。1時間程度だろう。この暑さの下ではそれが限界だ。
残念ながらルーザーは機械ではないから。日射病なり熱射病なりを起こしてしまう。
そして、それより重要なことは、銃自体も熱膨張で照準が狂うということだ。
ああ、まったくもって最悪だ。現実はいつだって最悪だ。

二人は屋上のドアをあけ、退出した。時間にしておよそ2分。
用心棒たちはようやく、雇い主の死を確認し、その理由を知った頃だろう。

くだらない、本当にくだらない。現実はいつだって、最悪だ。

ルーザーはタバコの箱を見つめる。
そして、その主の不在をいぶかしむ。

彼はどうして死んだのだろう。分からない。

ミツヤのデスクから抜き出してきたタバコ。
自分がどうしてそんな行動を取ったのかも、理解不可能だった。
――マジック兄さんに知られたくなかったのだろうか。
――ミツヤがタバコを吸っていたことを。

箱を揺らし、タバコを一本取り出す。ミツヤがいつもしていたように。
火を点けようとして、ライターがないことに気がついた。あたりを見回す。

――どうして彼は死んだのだろう。
たしかにミツヤはルーザーを殺そうとしていた。けれど、マジック兄さんはミツヤのことが好きだった。
マジック兄さんはミツヤよりルーザーを選んだ……そんな下らない理由ではないだろう。
愛に順位なんか付けられない。どちらをより愛していたかなんて、そんな理由ではないだろう。

視界の隅に、安物のライターが落ちていることを見つける。
そうだろうなと思った。みんな、ここでタバコを吸うだろう。屋内は禁煙の場所が多いから。
それなら、ライターくらい落ちているだろうと、そう思ったからこそ、自分は目で探したのだ。
いつだって、ルーザーの取る行動には理由がある。

歩いていって、それを拾い上げた。火を点ける。タバコの先に火をともし、それを見つめた。
それが一筋の白い煙を上げながら燃えるところを見つめた。
――分からない。どうして彼は死んだのだろう。
タバコをくわえて、息を吸い込む。いやな煙が喉に入ってきて、思わずむせた。
ああ、やっぱり最悪だ。タバコなんて最悪だ。
ミツヤのように、最悪だ。

――なぜ、兄さんはミツヤを殺したのだろう。
――僕が、殺したのに。
兄さんが殺さなくても。ミツヤのことを愛していた兄さんが殺さなくても、僕が彼を殺したのに。
ルーザーはミツヤなんて大嫌いだったし、幾度も殺したいと思っていた。
ルーザーにはミツヤのことを殺す理由があった。……でも、兄さんには。
マジック兄さんには、ミツヤのことを殺す理由なんてなかったはずなのに。

タバコを吸う。煙を喉に吸い込む。無理矢理。そうすれば、何か分かるかもしれないと思ったのだ。
この不条理な現実の理由が。
でもやっぱり、分からない。

――いつか、僕も殺されるのだろうか。
そう思った。
――マジック兄さんは、いつか僕も殺すのだろうか。
そう考えた。
――それは別に構わないけど。

理由なんかなくても。不条理でも。マジック兄さんに殺されるなら、それは全然構わないけれども。
ただ……、あんなに悲しまなくてもと思うのだ。あんなに泣くなら、殺すことなんてないのに。
僕が、殺したのに。それで兄さんに叱られるとしても、ルーザーがこの手を汚したのに。
これまでずっとやってきたように。

――分からない。

それが答えだった。やっぱり現実はいつだって不条理だ。
ルーザーはタバコの煙を吸い込み、吐き出し続けた。
これを吸い終わったら、忘れようと思った。ミツヤのことも。彼が死んだ理由も。

ただ――ふと思った。
自分はミツヤのことが、決して嫌いではなかったなと。
それは矛盾しているけれども、確かにルーザーの中のある一部分は、ミツヤのことを愛していたなと。
自分たちは似ていたし……。ミツヤはルーザーのことを、優しいと言った。
そういう人間は、あまり多くない。大抵の人間はルーザーのことを怖がる。
でも、ミツヤは決して、ルーザーを怖がりはしなかった。そのような方法で、拒んだりはしなかった。
もちろん、嫌いだっただろうけど。憎んでいただろうし、妬んでもいたんだろうけど。
幾度も殺したいと思っていたんだろうけど。
最後の瞬間も、まるでゴミのようにあっさり始末されかかったけれども。

でも別にそれだって。自分たちは何度も繰り返してきたことだし。
ゴミのように、人間を始末してきたのだし。
ならば自分たちだって、いつかゴミのように死ぬとは思っていたし。

――いや。
ミツヤはゴミのように死んだりはしなかった。
兄さんは泣きながらミツヤを殺した。慟哭しながらミツヤを殺し、その後もずっと泣き続けた。

――そうか。愛していたから、殺したんだ。

それだけは分かった。数学の正解を得るように、自分は真理をつかんだなと思った。
タバコがぽとりと地面に落ちる。ルーザーはそれを見つめ、そして足でそれを踏み消した。
もうこれは必要ない。分かったから。ミツヤが死んだ理由も。

現実はいつだって不条理だけど、時々はこうして良いこともある。
ミツヤは愛している人の手によって、愛しているという理由で殺された。
じゃあ、それでいいじゃないかと思った。
空は青い。口の中にはまだタバコの苦味が残っている。最悪な味だ。まるでミツヤのように最悪だ。
でも……、ルーザーは決してミツヤのことが嫌いではなかった。

――さようなら、ミツヤ。

いつかルーザーも死ぬ。きっとろくでもない死に方だろう。
現実はいつだって不条理で、最悪なのだから。
けれども、愛のために死ぬことが出来るなら、それはきっと幸せなことだ。

帰ったらすぐにうがいをしよう。手を洗い、着ている服も洗濯に出そう。
タバコの痕跡なんて、完全に消し去ってしまおう。ミツヤのように。忘れ去ってしまおう。
でも、僕は確かにミツヤのことが嫌いではなかった。そのことは覚えておこう。

ルーザーは身をひるがえす。完璧な挙動で、まっすぐに出口に向かって歩いていく。
背後に残されたのは、踏み消されたタバコの吸い殻。
まるでミツヤのように。

残らなかった死体の代わりに、残された愛の痕跡。


2007.2.14

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