「……」
何を沈黙しているのだろうと横目でうかがうと、ミツヤと目が合った。
彼は……ニッコリと微笑んだ。
「君は、時々優しいね」
「やめてくれ」
おぞましかった。寒気がする。こんなに暑い夏の日なのに。
「羨ましいよ。僕は、君が」
ミツヤはぽつりと言った。寂しそうに。……なぜだろう。その理由は今でも分からない。
ターンッ
射撃音が響く。数百メートル向こうでは、標的が額を撃ち抜かれて倒れた。
どうして彼は窓に近寄ったのか。おそらく理由はない。強いて言えば、気がゆるんだのだろう。
バスローブを身にまとい、その前をだらしなくはだけた姿。風呂上がりの気のゆるみ。
どうして風呂に入ったのか。ベッドでまぐわっていたからだ。連れ込んだ男と。吐き気がする。
でもだからこそ狙った。彼の行動パターン。ルーザーは調べ上げた。
ホテル暮らしのストレスを解消するかのように、男娼を毎日買って呼び寄せることも、
それが決まってこの時間だということも。午後3時。それが彼が一番気をゆるめる時間。
隙が生まれチャンスが生まれる。暗殺において最も重要なことだ。相手を油断させ、こちらは油断しない。
不条理な現実。現実はいつだって不条理で、汚くて、醜くて……最悪だ。
「お見事」
ミツヤは楽しそうに笑った。
「君はいい狙撃手だよ。ルーザー」
「やめてくれ」
素早くライフルを取り上げ、スタンドを外して、ケースに収納する。排出された薬莢も拾う。
横目で忌々しく、ミツヤがアスファルトに付けた黒いシミをにらむ。
「まあ、気にすることじゃないだろう」
ミツヤはそう言った。彼はそうだろう。でもルーザーは気にする。完璧でないことなんて、我慢がならない。
銃身にかぶせていた断熱シートを拾ってたたみ、体の下に敷いていたシートを丸め、紐で縛る。
体の節々が痛かった。
横になっていた時間はどれくらいか。1時間程度だろう。この暑さの下ではそれが限界だ。
残念ながらルーザーは機械ではないから。日射病なり熱射病なりを起こしてしまう。
そして、それより重要なことは、銃自体も熱膨張で照準が狂うということだ。
ああ、まったくもって最悪だ。現実はいつだって最悪だ。
二人は屋上のドアをあけ、退出した。時間にしておよそ2分。
用心棒たちはようやく、雇い主の死を確認し、その理由を知った頃だろう。
くだらない、本当にくだらない。現実はいつだって、最悪だ。
◆
ルーザーはタバコの箱を見つめる。
そして、その主の不在をいぶかしむ。
彼はどうして死んだのだろう。分からない。
ミツヤのデスクから抜き出してきたタバコ。
自分がどうしてそんな行動を取ったのかも、理解不可能だった。
――マジック兄さんに知られたくなかったのだろうか。
――ミツヤがタバコを吸っていたことを。
箱を揺らし、タバコを一本取り出す。ミツヤがいつもしていたように。
火を点けようとして、ライターがないことに気がついた。あたりを見回す。
――どうして彼は死んだのだろう。
たしかにミツヤはルーザーを殺そうとしていた。けれど、マジック兄さんはミツヤのことが好きだった。
マジック兄さんはミツヤよりルーザーを選んだ……そんな下らない理由ではないだろう。
愛に順位なんか付けられない。どちらをより愛していたかなんて、そんな理由ではないだろう。
視界の隅に、安物のライターが落ちていることを見つける。
そうだろうなと思った。みんな、ここでタバコを吸うだろう。屋内は禁煙の場所が多いから。
それなら、ライターくらい落ちているだろうと、そう思ったからこそ、自分は目で探したのだ。
いつだって、ルーザーの取る行動には理由がある。
歩いていって、それを拾い上げた。火を点ける。タバコの先に火をともし、それを見つめた。
それが一筋の白い煙を上げながら燃えるところを見つめた。
――分からない。どうして彼は死んだのだろう。
タバコをくわえて、息を吸い込む。いやな煙が喉に入ってきて、思わずむせた。
ああ、やっぱり最悪だ。タバコなんて最悪だ。
ミツヤのように、最悪だ。
――なぜ、兄さんはミツヤを殺したのだろう。
――僕が、殺したのに。
兄さんが殺さなくても。ミツヤのことを愛していた兄さんが殺さなくても、僕が彼を殺したのに。
ルーザーはミツヤなんて大嫌いだったし、幾度も殺したいと思っていた。
ルーザーにはミツヤのことを殺す理由があった。……でも、兄さんには。
マジック兄さんには、ミツヤのことを殺す理由なんてなかったはずなのに。
タバコを吸う。煙を喉に吸い込む。無理矢理。そうすれば、何か分かるかもしれないと思ったのだ。
この不条理な現実の理由が。
でもやっぱり、分からない。
――いつか、僕も殺されるのだろうか。
そう思った。
――マジック兄さんは、いつか僕も殺すのだろうか。
そう考えた。
――それは別に構わないけど。
理由なんかなくても。不条理でも。マジック兄さんに殺されるなら、それは全然構わないけれども。
ただ……、あんなに悲しまなくてもと思うのだ。あんなに泣くなら、殺すことなんてないのに。
僕が、殺したのに。それで兄さんに叱られるとしても、ルーザーがこの手を汚したのに。
これまでずっとやってきたように。
――分からない。
それが答えだった。やっぱり現実はいつだって不条理だ。
ルーザーはタバコの煙を吸い込み、吐き出し続けた。
これを吸い終わったら、忘れようと思った。ミツヤのことも。彼が死んだ理由も。
ただ――ふと思った。
自分はミツヤのことが、決して嫌いではなかったなと。
それは矛盾しているけれども、確かにルーザーの中のある一部分は、ミツヤのことを愛していたなと。
自分たちは似ていたし……。ミツヤはルーザーのことを、優しいと言った。
そういう人間は、あまり多くない。大抵の人間はルーザーのことを怖がる。
でも、ミツヤは決して、ルーザーを怖がりはしなかった。そのような方法で、拒んだりはしなかった。
もちろん、嫌いだっただろうけど。憎んでいただろうし、妬んでもいたんだろうけど。
幾度も殺したいと思っていたんだろうけど。
最後の瞬間も、まるでゴミのようにあっさり始末されかかったけれども。
でも別にそれだって。自分たちは何度も繰り返してきたことだし。
ゴミのように、人間を始末してきたのだし。
ならば自分たちだって、いつかゴミのように死ぬとは思っていたし。
――いや。
ミツヤはゴミのように死んだりはしなかった。
兄さんは泣きながらミツヤを殺した。慟哭しながらミツヤを殺し、その後もずっと泣き続けた。
――そうか。愛していたから、殺したんだ。
それだけは分かった。数学の正解を得るように、自分は真理をつかんだなと思った。
タバコがぽとりと地面に落ちる。ルーザーはそれを見つめ、そして足でそれを踏み消した。
もうこれは必要ない。分かったから。ミツヤが死んだ理由も。
現実はいつだって不条理だけど、時々はこうして良いこともある。
ミツヤは愛している人の手によって、愛しているという理由で殺された。
じゃあ、それでいいじゃないかと思った。
空は青い。口の中にはまだタバコの苦味が残っている。最悪な味だ。まるでミツヤのように最悪だ。
でも……、ルーザーは決してミツヤのことが嫌いではなかった。
――さようなら、ミツヤ。
いつかルーザーも死ぬ。きっとろくでもない死に方だろう。
現実はいつだって不条理で、最悪なのだから。
けれども、愛のために死ぬことが出来るなら、それはきっと幸せなことだ。
帰ったらすぐにうがいをしよう。手を洗い、着ている服も洗濯に出そう。
タバコの痕跡なんて、完全に消し去ってしまおう。ミツヤのように。忘れ去ってしまおう。
でも、僕は確かにミツヤのことが嫌いではなかった。そのことは覚えておこう。
ルーザーは身をひるがえす。完璧な挙動で、まっすぐに出口に向かって歩いていく。
背後に残されたのは、踏み消されたタバコの吸い殻。
まるでミツヤのように。
残らなかった死体の代わりに、残された愛の痕跡。
2007.2.14
|