小さな脳


これは、僕の人生がまだ始まったばかりの頃の記憶だ。
――小さな男の子が扉の影に隠れて、部屋の中で机に向かう兄の姿を見つめている。

幼い子供にとって彼はまるで大人のように思えたけれど、
実際のところルーザーはまだ、ジュニアハイスクールに入ったばかりの学生に過ぎなかった。
それでも彼は、すでに科学者の卵としての頭角を現し始めていて、
いくつかの教科では飛び級で上のクラスに入っては、すぐに年上の同級生達を追い抜き、
さらに上へと飛翔を続けていた。後の天才ルーザーは、発達のごく初期においては数学を好み、
やがては自然科学全般へとその興味を移していったらしい。
もっとも、幼いサービスはまだそんな未来のことも、現在のことすらよく分かってはいなかった。
ただ、一心不乱に机に向かう兄の横顔を眺めているのが好きだった。

机に向かってうつむいていることが多いルーザーの髪は、無意識に耳にかけたり
頭の後ろへとなでつけることが多いので、いつの間にか癖毛になっている。
少し外側に跳ねながら、頭の形をなぞって後ろへと流れるその形を真似したくて、
幼い弟はよく兄のように自分の髪をなでつけるのだけど、
細すぎる彼の髪の毛はちっとも言うことを聞いてくれない。
唯一風呂から上がった時にだけ手ですいた形に固まってくれるので、サービスはそれが楽しみで
双子の兄ハーレムが大騒ぎする洗髪の時間も、大人しく兄が髪を洗ってくれるのを待っていた。

それから、ルーザーはいつも襟付きのシャツを、一番上までちゃんとボタンを留めて着ている。
対するもう一人の兄マジックは、家の中では一番上のボタンは外していることが多かった。
どうしてそんなことを覚えているのかというと、兄たちは腕白な双子の弟たちを
よく腕の中に抱き上げて世話をしていたからで、サービスを抱くのはいつもルーザーだった。
だから彼は、抱き上げられた時に目の前にある兄の首筋のことを、誰よりも近くで知っている。
それで、ハーレムが「女の子みたいだ」と言って嫌がるブラウスもサービスは喜んで着て、
もちろん一番上までボタンを留めて、出来るだけ汚したりはしないように気をつけるのだった。
ルーザーのシャツには、いつだってシミ一つなかったので。

単にそれだけのことだった。サービスは別に特段聞き分けがよかったわけではなく、
他の子供たちと同じように利己的で分別のない、狭い世界しか知らない無邪気な子供だった。
少しばかり、兄が特別だったかもしれない。また彼は兄の特別さに、少しばかり
他者とは違う観点から気付いていたかもしれない。だけど、本当にそれだけだったのだ。

紙の上を万年筆が滑っていく。金属のペン先がほんのわずかに紙をひっかく音だけがする。
小さくて繊細な子供の耳に、まるで糸のように音は絡まった。
サービスもあの一度書いたら消えない鉛筆を使いたかったのだけど、彼はまだ
字を書く時も計算をする時も沢山失敗するから、マジック兄さんに許してもらえていない。
「じゃあルーザーおにいちゃんは失敗しないの?」と後でこっそり聞くと、
万年筆の持ち主は微笑んで、「そうだよ、僕は失敗しないんだ」ときっぱりうなずいた。
そうかそれなら仕方ないと小さなサービスは納得して、早く自分も失敗しない人間になりたいと
純粋に考えて、勉強を頑張ることにしたのだった。

他にルーザーは、いつも何か考え込むように眉を寄せていることが多い。
だけどそれは人と一緒にいる時のことで、こうやって一人で何か難しいことを考えている時、
兄の顔はむしろどんどん静かに、表情が無くなっていく。天使様みたいだと、サービスは思う。
絵の中の天使様は綺麗な姿と顔をしているけれど、人間みたいには笑わないのだ。
張り詰めた表情は、どちらかというと怖く感じる。でも天使様は優しくて賢くて強い存在で、
それはサービスにとってのルーザーという存在に、とても近い。

小さな子供は大きな目の奥でそんなことを考えながら、ぼんやりと兄を見つめ続けていた。
分かっていた。ルーザーはきっと人間があんまり好きではない。
分かっていた。それはルーザーが特別な存在だからだ。
兄は、もしかしたら人間じゃないのかもしれない。だけどサービスは人間なのだ。

自分が悲しいとは、あまり思わなかった。他の兄弟、マジックもハーレムも同じ人間だし、
なによりルーザーはサービスのことを愛してくれている。
だけどどこか悲しい気持ちがするとしたら、それは兄が悲しいのだ。
ルーザーのような人は、他にはいない。それはとても寂しいことのような気がする。
そうか、兄さんは寂しいんだと、サービスは思った。それが子供の小さな脳が出した答えだった。
すると無性に悲しくなった。寂しいことは、悲しい。
気が付くと、ぽろぽろと瞳から涙があふれ出していた。兄の姿がにじんでいく。
慌ててまばたきをすると涙はいっそう溢れて、小さな子供は自然としゃくり上げていた。

カタンと消えない鉛筆を置く音がする。ざっと椅子を引く音も。
それから絨毯の上を歩いてくる気配。
「どうしたんだい、サービス?」
目の前に、天使様の顔があった。表情に乏しい静かな顔。でも兄は優しい人なのだ。
「おに、い、ちゃん……」
ひっくひっくとしゃくりあげながら、兄の時間を邪魔してしまったことを謝らないとと考える。
「ハーレムとまた喧嘩したのかな。それとも、マジック兄さんに叱られでもしたのかい?」
違うと首を振りながら、じゃあどうして泣いているのかというと自分でもよく分からないので
泣きやむことも出来ず、お気に入りのブラウスに涙の跡が付いていくのがなお悲しかった。

「困ったな……」
やがて、一向に泣きやむ様子のない弟にルーザーは眉をしかめ、
それを見たサービスはハッとする。
「兄さんはどこに居るんだろう。この時間だと……」
すっとシャツの袖から腕時計を出して、時間を確認したルーザーは、
弟がいつの間にか泣くのを止めて、自分と同じように時計を見つめていることに気が付いた。
「……今度は僕の時計に興味があるのかい? サービス」
兄は笑う。するとほっとした。やっぱり笑顔の方が好きだと思った。
さっきまで考えていたことは小さな頭から飛び去って、サービスはいつものように
抱き上げて欲しくて、兄に向かって手を伸ばす。ルーザーはポケットからハンカチを出して、
弟の顔を丁寧に拭い、それからその身体を抱き上げた。

「面白いね」
耳元でささやく声がする。糊のきいた三角の襟が、ぴったりと首筋をおおっていた。
「すぐに泣いたり笑ったり、この頭の中にはどんな仕掛けがあるんだろうね」
兄はゆっくりと屋敷の廊下を歩く。もうとっくに卒業したはずの、揺りかごのようだった。
「ねえ、サービス。子供は小さな大人ではなく、子供という別の生き物だという説があるんだよ」
大好きな後ろに流れる金の髪に手を伸ばしながら、泣き疲れた子供は瞳を閉じる。
「神経回路の発達……、一が百になることと、百が万になることはどう違うのかな」
意味は分からないけれど、透き通る声は心地よく耳に響いた。

サービスはゆっくりと眠りに落ちる。ただ手だけは兄の肩をしっかりと掴んでいた。
その小さな頭の中にどんな思いがあったのかは、もう誰にも分からない。
――本人である僕にも分からない。

今ではもう、ルーザー兄さんのことも分からない。
ジャンを殺した兄さんは、天使だったのか悪魔だったのか、それとも人間だったのか。
全ては不確かで曖昧な世界になってしまって、知識は増えても肝心なことだけは分からない。
あの頃は何も知らなかったけれど、とても大切なものだけは
この手に握りしめていた気がするのに。

やっぱり子供は大人とは違う、別の生き物だったのかもしれないな。


2004.7.20

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