優しい毒 後編


「大丈夫だよ」
ルーザーはそう言って、弟の髪を撫でる。別に中毒を起こしたわけでもない。
ただちょっと酔っただけだ。慣れない酒を飲んで。
「うん……。ルーザー兄さん」
サービスも兄の腕を抱きしめる。まるで子供のように。子供だけれど。もっと小さな子供のように。
彼がまだ、幼かった頃のことを思い出す。その頃もサービスはこうしてルーザーの腕の中にいた。
けれども確かに、一緒にいる時間はどんどん減っていっている。これからも、きっと減り続ける。
それはとても寂しいことだなとルーザーは思った。あまり深く考えず、弟をからかうために言った言葉が、
今になって突き刺さってくる。それもまた……サービスといると、よくあることだったが。
鏡のような子供。……彼自身の幸せはどこにあるのかと考えた。

「僕は兄さんに謝らないと」
「まだ何かあるのかい?」
もう黙っていればいいのにと思った。散々しゃべらせた自分が思うのは勝手だと知りつつも。
「実は……嘘をついたんです」
「……へえ」
それは珍しいと感心する。嘘をついたこともそうだが、ルーザーに悟らせなかったことも。
「……」
サービスはそんな自分自身を悔いるかのように、黙った。
ルーザーもまた、何も言わずに相手の言葉を待った。それは少し苦痛なことだったが、彼は甘受した。
甘んじてその苦痛を受け入れた。優しい苦味を。

「……本当は、分かりません」
「何がだい?」
髪を撫でる。優しく。言いたくないなら、このまま眠ってしまえばいいのにと思いながら。
それが嘘の寝入りでも、ルーザーは黙って受け入れるだろう。
「思い込みじゃないって」
「うん……、それが正しいね」
相手の姿を本当に理解しているかなど、誰が分かるというのだろう。
だからそれは……、聞いたルーザーの方が間違っていた。無意味な問いかけをした。
それでも聞きたかったのは……たぶん、ただの甘えだった。弱さだった。サービスが否定したはずの。
だから強くなどないのだ。ルーザーという人間は。それもまた、苦い現実だった。

「でも、僕はおまえの言葉が嬉しかったよ」
耳元でそうささやく。真実の言葉を。貴重なもの……真実はいつだって貴重だ。
「だから、何も気にしなくていいんだよ、サービス」
そっと力を込めて抱きしめる。大好きな弟を。
「でも兄さん……」
「なんだい」
「信じてください」
「うん」
「兄さんは素敵な人だって」
……また何らかの感情がこみ上げる。苦くて甘い、何か。

確かにそれが本当ならばよかったけれど。ルーザーはサービスを、ずっと騙してきた。
何故だろう。彼には、綺麗なものだけを見て欲しかった。世界も、自分のことも。
それはきっと彼――サービスのためではなく、ルーザー自身のためで。つまりは、エゴで。
だけど、それが、愛だった。やっぱり愛は、いつだって一方的な押しつけだ。
そしてこのように……自分自身にはねかえってくる。その代償は。

――素敵なんかじゃない。そう否定したかった。けれども、言えない。
酒が人を酔わせるように、真綿で首を絞めるかのように、言葉は喉で窒息する。
ルーザーはその苦さを、受け入れた。言葉を飲み込み、無意識に手を伸ばした酒のグラスも、
引き寄せるのではなく逆に遠ざけた。その代わりに弟の髪に口付けをした。
――やっぱりこの子は毒だ。ルーザーの頭脳はそう告げる。
真実を映す鏡、それは人にとってあまりにもまぶしい。強すぎる日の光のように、害になる。
けれども毒は薬でもある。酒もまた、毒であり薬でもある。
だからそれをどう用いるかが大切なのだが、たぶん、ルーザーは失敗している。
愛しているがゆえに。愛しすぎたがゆえに。薬は、そして酒は……多量に摂取すれば、毒なのだ。

――ならばその毒杯をあおろう。
彼はそう決めた。この毒で死ぬことがあっても、僕はサービスを愛そうと。

「ふふ……」
ルーザーは笑う。彼は自分の予測というものは、外れたことがないことを知っていた。
それは予測ではなく直観だったから。真実を見つめる目。これだけは多分、ルーザーの唯一の才能。
ただ思うのは……サービスの幸せだった。
鏡のように相手を映すこの子の、彼自身の幸せを、ルーザーは願った。
自分に与えられるものは何でも与えたいけれども、幸せは本人が願わなければやってこない。
サービスはそれを――幸せになろうとする努力を、知っているのだろうかと考えた。

――たぶん、知らないだろうなと思う。そのように育ててしまったから。
けれども、これから覚えていくことは出来るはずだった。幸せを求める――それは人の本能だから。
雛鳥がいつか巣から羽ばたくように。

「ねえ、ルーザー兄さん」
サービスはささやく。甘く、優しく。毒のように。
「僕は兄さんのことが好きです」
「うん。ありがとう」
「愛しています」
「僕もサービスのことが好きだよ」
他の誰よりも。ずっと。

「理由はいっぱいあるんです」
「ああ。聞かせてもらったよ」
「もっともっと、たくさんあるんです」
「うん……」
窓の外の暗い庭。テーブルの上のキャンドル。遠ざけた酒杯。頭上で輝く星々。手の届かないもの。
サービスのぬくもり。その熱。腕の中にあるもの。
泣きそうな気持ち。心の中にあるもの。
切なくて甘くて優しい、毒。

「ずっとずっと大好きです」
「そうだね。ありがとう」
髪を撫でる。そうしているうちに、この子はきっと眠るだろうと思ったから。
そうしたら、抱き上げて寝室に運ぼう。壊れものを扱うかのように、そっと。
でもその前に……しばらくの間、抱きしめさせて欲しい。ルーザーはそう願った。

いつか失うものだから、せめて今だけはと。
クリスマスも終わろうとするこの時間に、彼はしばし願った。
せめて今だけは、全ての時が止まりますようにと。

「好きです……」
その言葉は、優しい毒。


2007.3.19

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