どこまでも静かな世界で


サービスは墓の前に立っていた。
ルーザー兄さんの墓の前に。そこは緑の墓地で、白い墓石が光に淡く照らされていた。
綺麗に掃き清められた表面は、込められた想いを物語る。
ここにはもう何度も、何年も足を運び続けたけれども、いつも寂しい場所だと思っていた。
でも今は違う。ほんのわずかな違い。だけど、とても大きな違い。

今ではここに、多くの人が足を運ぶ。
子供たち――グンマ、シンタロー、そしてキンタロー。
それから、ハーレム、高松、マジック兄さん。
――ルーザー兄さんはもう寂しくないんだな。
と思った。

サービスは知っている。あの二十数年間、ここは寂しい場所だった。
高松は時々来ていたみたいだけど、彼はグンマをここに連れてくることには消極的で、
ハーレムはここには近づかず、マジック兄さんも……たぶん、来ていなかった。
ここには、遺体がなかったから。それが墓地だとは、マジック兄さんは認められなかったのだろう。
あの人は、そういう人だ。……サービスは知っていた。

墓地の手入れは管理人がやっていたけれども、やっぱりそれはどこか寂しく。
ここはずっと孤独なところだった。サービスはよく、その寂しい場所に立って、物思いにふけっていた。
自分もまた、ここにルーザー兄さんの遺体がないことは知っていたけれども、
その空白こそが喪失感につながって、深く……ルーザー兄さんを感じられたから。
サービスは、そういう人間だ。そういう人間だった……。

今では、ここにはルーザー兄さんの遺体が納められている。あの南国の島から、連れ帰られた遺体が。
若く美しいままの兄さんの骸。それはやがて土の中で朽ちていくだろうけれど、
それもまた、ルーザー兄さんならばきっと……優しい眠りだろう。
兄さんは植物が好きだった。物言わぬ植物のことを愛していた。
だから、自分が土と同化していくことを、その上に草が茂り、花が咲き、木が育つことを、
きっと嫌だとは思わないんじゃないだろうか。……そんな、気がする。

サービスはそっと、手にした花束を供えた。
白い薔薇。それから、庭に咲いていた白木蓮。他にも、いくつか白い花々を。
白――崇敬、自然な愛情、恩恵、自然への愛、高潔な心。
それらはきっと、ルーザー兄さんにはふさわしいように思えたから。

今ではサービスも知っている。ルーザー兄さんがジャンを殺したことを。
他にもたくさんの人を殺していたことを。その手が血に濡れていたことを。
あの人が優しいだけの人ではなくて、……ひどく残酷でもあったことを。
でもそれも。
――苦しかったんですね。
そう思った。
――悲しかったんですね。
そう呟いていた。

――それでも僕は、兄さんのことが好きですよ。
そんなことを想いながら、笑っていた。涙を一筋、こぼしながら。
ここに兄さんがいたのなら、その体を抱きしめたかった。

愛していた。大好きだった。尊敬していたし、憧れてもいた。
ルーザーの弟として生まれることが出来て、サービスは幸せだった。
一緒に過ごした時間。共にやった多くの事。交わした数えきれない言葉の数々。
自然と笑みはこぼれる。
サービスは空を見上げた。風が吹き、コートの裾がはためいた。
髪の毛が流れて、傷痕があらわになる。
空は青く、澄んでいた。いくつかの雲が流れていた。
この雲の彼方に、今、子供たちは出かけている。ガンマ団の飛行艦に乗って。
新しい時代を――創るために。

今日は兄さんの命日ではなく、月命日でもなくて、ただ何でもない日だったけど、
サービスは別にかまわなかった。
この何年か前の今日には、サービスは兄さんに抱きしめられていた。
何年か前の今日には、兄さんに世界の真理を教えてもらっていた。
何年か前の今日には、兄さんと優しいキスを交わしていた。
いつだって特別な日だったのだと、今なら分かる。人はいつだって、失ってから気づくのだ。
18年間、一緒に過ごした。それは毎日、かけがえのない時間だった。

そうして18年の最後には、ルーザー兄さんはジャンを殺し、サービスは目を抉り、
それによって兄さんは死地へと赴いた。そうして、死んでしまった。
――僕が、殺したのだろうか。
サービスは静かに問う。それは痛みを伴っていたけれども、目をそらすことは出来ずに。
――あるいは、そうなのかもしれない。
深く肯定する。憐憫でも自己満足でもなく、ただ数えきれない想いを込めて。
――でも兄さん。
サービスは問いかける。
――それでも僕は、兄さんのことが好きですよ。

……許してくれるかは分からないけれども。
いつか生きるだけ精一杯生きたら、兄さんのところに言って謝りたい。
兄さんのいる天国に行けるかどうかは分からないけれど、精一杯手を伸ばそう。
もちろん、ルーザー兄さんは多くの人を殺した、そのことは分かっている。
だけど――兄さんがいるところなら、そこが天国だと思うから。

ちゃんと、今度こそ話し合わないと。
サービスは思う。深く思う。

――話して欲しかった。

ジャンを殺したことを。兄さんが、ジャンを殺したことを。
憎んだかもしれない、嘆いたかもしれない、狂ったかもしれない、
何をしたかは分からない。きっときっと苦しんだだろう。叫び悲しんだだろう。
やり場のない怒りをぶつけたかもしれない。もしかしたら、それだけでは済まなかったかもしれない。
それでも、それでも、なお。――話して欲しかった。
そうしてルーザー兄さんと、ちゃんと話し合いたかった。
分かり合うことは出来なかったかもしれない。結局、最後は変わらなかったのかもしれない。
そう、どちらかが命を落とすことになっていたのかもしれない。あるいは、双方ともが。

――ルーザー兄さん……。

分かっている。分かっている。分かっている。
確かに自分は未熟だった。無力で考えなしで世間知らずで無知だった。
それでも……話して欲しかった。

――兄さん。兄さん。兄さん……。
――僕は、永遠に貴方と話すことは出来なくなってしまいました。
――そうして真実を知りました。
――でも兄さん……。僕は、それでも、貴方のことが……。

「うっ、ああっ……」
嗚咽が漏れる。止まらない。涙の流れが止まらない。
右目の傷がたまらなく痛い。その中からも、まるで血の涙があふれ出してくるようで。
サービスはたまらずそこに膝をついた。
しゃくり上げる。左手で目をこする。しかしその間にも、次から次へと涙は溢れて。
まるで子供のように。

――兄さん、兄さん、兄さん……。
想いは溢れて止まらない。二十数年間溜め込んだ想い。
偽りの上に築かれたものが崩れ去った今、自分はあまりにも無力で無防備で。
大好きだった。本当に好きだったのだ。

もしかしたら、そのせいで自分はちゃんと見ていなかったのかもしれない。
ルーザー兄さんがどんな人なのかを。
何も分かってはいなかったのかもしれない。虚像を愛していたのかもしれない。
――いや、違う。
あれは決して嘘なんかじゃない。
兄さんの優しさ。兄さんの愛。兄さんの手のぬくもり。兄さんの言葉の鋭さ。兄さんのキス。
重ねた想いは決して嘘なんかではない。
ただ――自分は、分かっていなかっただけなのだ。
本当に大切なことを。

――ごめんなさい。
言葉は無力だ。
――ごめんなさい。
それでも謝らずにはいられない。
――ごめんなさい。
僕は、あなたのことが……。

しゃくり上げる想いが止められない。こんな姿、誰にも見せられない。
だけど、止められない。

悔しい。悲しい。それでも、愛している。許して欲しい。大好きだ。今でも、本当に、兄さんのことが……。
もう四十代も半ばになって、なおこんなにも弱くて甘ったれた自分は、本当に情けないと思うけれども。
だって、兄さんの前ではサービスはいつでも小さな弟で。

ジャンと高松は研究室にこもっている。ハーレムはどこかに出かけたままだし、
マジック兄さんも外遊に出ている。その時をちゃんと選んだのだ。
――兄さんと、話し合いたかったから。ちゃんと、向き合いたかったから。
それが、たとえ、物言わぬ墓石でも。

――兄さん。
サービスは呟いた。
「兄さん……」
声を絞り出すように。
墓石に手をつく。その冷たい手触りが、まるで兄さんの手のように優しく感じられた。
「兄さん。ルーザー兄さん……」
握りしめる。もう握り返してはもらえない手を。空を掴むだけの手を。
それでも握る。何かにすがるかのように。
「それでも……僕は……兄さんのことが……、好き……です……よ……」
罪人が懺悔するように、絞り出すようにそれだけを呟いて、サービスは両手をついた。
涙はまだ止まらない。けれども、もうしゃくり上げたりはしない。

頭を垂れる。金の髪が落ちて、墓石にかかった。
静かだった。世界は静かにたたずんでいた。
もういない人。喪われた人。それでも決して……。
――あの想いは嘘ではなかった。

風が吹き抜ける。そこに乗せられた言葉はない。世界はただ静かにたたずんでいる。
頬に流れた涙は冷ややかに風に溶けていく。髪が流れる。傷痕があらわになる。コートがはためく。
――それでも僕は、兄さんのことが好きですよ。
許してもらえるかは分からないけど。この想いはずっと抱きしめ続けよう。
二十数年罪を背負ったように、これからはさらにこの真実も共に背負い続けよう。
それくらいは、自分にだって出来るから。……やっと掴めた、真実だから。
――大好きです。愛しています。今でも。いつまでも。
サービスは心の中でつぶやいた。

しばらくの間、そのままの姿勢でいた。

そうして、立ち上がった。
風にコートの裾がはためく。涙に濡れた髪が、もつれながら風に溶けて流れる。傷痕はかすかに痛む。
空は青く、世界はどこまでも静かで。

もういない人。喪われた人。けれど、決して忘れない。
いつかそこに逝く日まで。

「僕は兄さんのことが好きですよ」
白い花に彩られた白い墓石の前で、黒いコートに身を包んだ金髪の弟はそう呟いた。
涙をぬぐった手を下ろし、背筋を伸ばして。
「今でも、いつまでも。ずっと」
その涙でくしゃくしゃになった顔に精一杯の微笑みをうかべて。

「愛しています」
そう呟いた。


2007.1.26

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