サービスは墓の前に立っていた。
ルーザー兄さんの墓の前に。そこは緑の墓地で、白い墓石が光に淡く照らされていた。
綺麗に掃き清められた表面は、込められた想いを物語る。
ここにはもう何度も、何年も足を運び続けたけれども、いつも寂しい場所だと思っていた。
でも今は違う。ほんのわずかな違い。だけど、とても大きな違い。
今ではここに、多くの人が足を運ぶ。
子供たち――グンマ、シンタロー、そしてキンタロー。
それから、ハーレム、高松、マジック兄さん。
――ルーザー兄さんはもう寂しくないんだな。
と思った。
サービスは知っている。あの二十数年間、ここは寂しい場所だった。
高松は時々来ていたみたいだけど、彼はグンマをここに連れてくることには消極的で、
ハーレムはここには近づかず、マジック兄さんも……たぶん、来ていなかった。
ここには、遺体がなかったから。それが墓地だとは、マジック兄さんは認められなかったのだろう。
あの人は、そういう人だ。……サービスは知っていた。
墓地の手入れは管理人がやっていたけれども、やっぱりそれはどこか寂しく。
ここはずっと孤独なところだった。サービスはよく、その寂しい場所に立って、物思いにふけっていた。
自分もまた、ここにルーザー兄さんの遺体がないことは知っていたけれども、
その空白こそが喪失感につながって、深く……ルーザー兄さんを感じられたから。
サービスは、そういう人間だ。そういう人間だった……。
◆
今では、ここにはルーザー兄さんの遺体が納められている。あの南国の島から、連れ帰られた遺体が。
若く美しいままの兄さんの骸。それはやがて土の中で朽ちていくだろうけれど、
それもまた、ルーザー兄さんならばきっと……優しい眠りだろう。
兄さんは植物が好きだった。物言わぬ植物のことを愛していた。
だから、自分が土と同化していくことを、その上に草が茂り、花が咲き、木が育つことを、
きっと嫌だとは思わないんじゃないだろうか。……そんな、気がする。
サービスはそっと、手にした花束を供えた。
白い薔薇。それから、庭に咲いていた白木蓮。他にも、いくつか白い花々を。
白――崇敬、自然な愛情、恩恵、自然への愛、高潔な心。
それらはきっと、ルーザー兄さんにはふさわしいように思えたから。
今ではサービスも知っている。ルーザー兄さんがジャンを殺したことを。
他にもたくさんの人を殺していたことを。その手が血に濡れていたことを。
あの人が優しいだけの人ではなくて、……ひどく残酷でもあったことを。
でもそれも。
――苦しかったんですね。
そう思った。
――悲しかったんですね。
そう呟いていた。
――それでも僕は、兄さんのことが好きですよ。
そんなことを想いながら、笑っていた。涙を一筋、こぼしながら。
ここに兄さんがいたのなら、その体を抱きしめたかった。
愛していた。大好きだった。尊敬していたし、憧れてもいた。
ルーザーの弟として生まれることが出来て、サービスは幸せだった。
一緒に過ごした時間。共にやった多くの事。交わした数えきれない言葉の数々。
自然と笑みはこぼれる。
サービスは空を見上げた。風が吹き、コートの裾がはためいた。
髪の毛が流れて、傷痕があらわになる。
空は青く、澄んでいた。いくつかの雲が流れていた。
この雲の彼方に、今、子供たちは出かけている。ガンマ団の飛行艦に乗って。
新しい時代を――創るために。
◆
今日は兄さんの命日ではなく、月命日でもなくて、ただ何でもない日だったけど、
サービスは別にかまわなかった。
この何年か前の今日には、サービスは兄さんに抱きしめられていた。
何年か前の今日には、兄さんに世界の真理を教えてもらっていた。
何年か前の今日には、兄さんと優しいキスを交わしていた。
いつだって特別な日だったのだと、今なら分かる。人はいつだって、失ってから気づくのだ。
18年間、一緒に過ごした。それは毎日、かけがえのない時間だった。
そうして18年の最後には、ルーザー兄さんはジャンを殺し、サービスは目を抉り、
それによって兄さんは死地へと赴いた。そうして、死んでしまった。
――僕が、殺したのだろうか。
サービスは静かに問う。それは痛みを伴っていたけれども、目をそらすことは出来ずに。
――あるいは、そうなのかもしれない。
深く肯定する。憐憫でも自己満足でもなく、ただ数えきれない想いを込めて。
――でも兄さん。
サービスは問いかける。
――それでも僕は、兄さんのことが好きですよ。
……許してくれるかは分からないけれども。
いつか生きるだけ精一杯生きたら、兄さんのところに言って謝りたい。
兄さんのいる天国に行けるかどうかは分からないけれど、精一杯手を伸ばそう。
もちろん、ルーザー兄さんは多くの人を殺した、そのことは分かっている。
だけど――兄さんがいるところなら、そこが天国だと思うから。
ちゃんと、今度こそ話し合わないと。
サービスは思う。深く思う。
◆
――話して欲しかった。
ジャンを殺したことを。兄さんが、ジャンを殺したことを。
憎んだかもしれない、嘆いたかもしれない、狂ったかもしれない、
何をしたかは分からない。きっときっと苦しんだだろう。叫び悲しんだだろう。
やり場のない怒りをぶつけたかもしれない。もしかしたら、それだけでは済まなかったかもしれない。
それでも、それでも、なお。――話して欲しかった。
そうしてルーザー兄さんと、ちゃんと話し合いたかった。
分かり合うことは出来なかったかもしれない。結局、最後は変わらなかったのかもしれない。
そう、どちらかが命を落とすことになっていたのかもしれない。あるいは、双方ともが。
――ルーザー兄さん……。
分かっている。分かっている。分かっている。
確かに自分は未熟だった。無力で考えなしで世間知らずで無知だった。
それでも……話して欲しかった。
――兄さん。兄さん。兄さん……。
――僕は、永遠に貴方と話すことは出来なくなってしまいました。
――そうして真実を知りました。
――でも兄さん……。僕は、それでも、貴方のことが……。
「うっ、ああっ……」
嗚咽が漏れる。止まらない。涙の流れが止まらない。
右目の傷がたまらなく痛い。その中からも、まるで血の涙があふれ出してくるようで。
サービスはたまらずそこに膝をついた。
しゃくり上げる。左手で目をこする。しかしその間にも、次から次へと涙は溢れて。
まるで子供のように。
――兄さん、兄さん、兄さん……。
想いは溢れて止まらない。二十数年間溜め込んだ想い。
偽りの上に築かれたものが崩れ去った今、自分はあまりにも無力で無防備で。
大好きだった。本当に好きだったのだ。
もしかしたら、そのせいで自分はちゃんと見ていなかったのかもしれない。
ルーザー兄さんがどんな人なのかを。
何も分かってはいなかったのかもしれない。虚像を愛していたのかもしれない。
――いや、違う。
あれは決して嘘なんかじゃない。
兄さんの優しさ。兄さんの愛。兄さんの手のぬくもり。兄さんの言葉の鋭さ。兄さんのキス。
重ねた想いは決して嘘なんかではない。
ただ――自分は、分かっていなかっただけなのだ。
本当に大切なことを。
――ごめんなさい。
言葉は無力だ。
――ごめんなさい。
それでも謝らずにはいられない。
――ごめんなさい。
僕は、あなたのことが……。
しゃくり上げる想いが止められない。こんな姿、誰にも見せられない。
だけど、止められない。
悔しい。悲しい。それでも、愛している。許して欲しい。大好きだ。今でも、本当に、兄さんのことが……。
もう四十代も半ばになって、なおこんなにも弱くて甘ったれた自分は、本当に情けないと思うけれども。
だって、兄さんの前ではサービスはいつでも小さな弟で。
ジャンと高松は研究室にこもっている。ハーレムはどこかに出かけたままだし、
マジック兄さんも外遊に出ている。その時をちゃんと選んだのだ。
――兄さんと、話し合いたかったから。ちゃんと、向き合いたかったから。
それが、たとえ、物言わぬ墓石でも。
――兄さん。
サービスは呟いた。
「兄さん……」
声を絞り出すように。
墓石に手をつく。その冷たい手触りが、まるで兄さんの手のように優しく感じられた。
「兄さん。ルーザー兄さん……」
握りしめる。もう握り返してはもらえない手を。空を掴むだけの手を。
それでも握る。何かにすがるかのように。
「それでも……僕は……兄さんのことが……、好き……です……よ……」
罪人が懺悔するように、絞り出すようにそれだけを呟いて、サービスは両手をついた。
涙はまだ止まらない。けれども、もうしゃくり上げたりはしない。
頭を垂れる。金の髪が落ちて、墓石にかかった。
静かだった。世界は静かにたたずんでいた。
もういない人。喪われた人。それでも決して……。
――あの想いは嘘ではなかった。
風が吹き抜ける。そこに乗せられた言葉はない。世界はただ静かにたたずんでいる。
頬に流れた涙は冷ややかに風に溶けていく。髪が流れる。傷痕があらわになる。コートがはためく。
――それでも僕は、兄さんのことが好きですよ。
許してもらえるかは分からないけど。この想いはずっと抱きしめ続けよう。
二十数年罪を背負ったように、これからはさらにこの真実も共に背負い続けよう。
それくらいは、自分にだって出来るから。……やっと掴めた、真実だから。
――大好きです。愛しています。今でも。いつまでも。
サービスは心の中でつぶやいた。
しばらくの間、そのままの姿勢でいた。
そうして、立ち上がった。
風にコートの裾がはためく。涙に濡れた髪が、もつれながら風に溶けて流れる。傷痕はかすかに痛む。
空は青く、世界はどこまでも静かで。
もういない人。喪われた人。けれど、決して忘れない。
いつかそこに逝く日まで。
「僕は兄さんのことが好きですよ」
白い花に彩られた白い墓石の前で、黒いコートに身を包んだ金髪の弟はそう呟いた。
涙をぬぐった手を下ろし、背筋を伸ばして。
「今でも、いつまでも。ずっと」
その涙でくしゃくしゃになった顔に精一杯の微笑みをうかべて。
「愛しています」
そう呟いた。
2007.1.26
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