紫煙の彼方


自分の部屋で、慣れ親しんだものに囲まれて、ソファーに寝そべって本を読む。
こうしている時間が好きだった。ずっとずっと以前から。
これだけの人生を生きてきて、趣味も嗜好も生活習慣も
変わったものより変わらずにいたもののほうが少ないけれど、
サービスにとってこれはその貴重な変わらないものの一つだった。

ところがその平穏に、今日も後ろから何かが覆い被さってくる。
「ねー、サービス」
視界の左端に黒い髪がちらつく。
「……ジャン、おまえの手が邪魔で本が読めない」
後ろから抱きついてきた両腕を、本を持ったままもう片方の手で振りほどこうとしたが、
意外と力強くて無理だった。仕方なく頭を後ろに仰け反らせ、
肩越しに覗き込んでくる彼の顔に自分の顔を近づけて言う。
「あまりベタベタしないでくれ」
「もー離さないの」
言葉と共にサービスの体に回した腕にぎゅっと力を込め、ジャンは幸せそうに笑っていた。

溜息をつきながら、開いていたページにしおりを挟んで本を閉じ、傍らに置く。
「私は人に触れられるのは苦手なんだよ」
「パプワ島ではサービスの方から抱きついてきたじゃないか」
「あれは特別」
彼が言っているのは、兄ルーザーの姿をしたアスから
ジャンの死の真相を知らされた時のことだろう。
サービスにとっては今でも辛すぎる記憶だが、ジャンにとっては受け取り方が違うらしい。
彼はそれ以前から真相を知っていたものなと思った。
ついでにいえば、他の兄達だって知っていた……。

物思いに沈みそうになるサービスの心を、ジャンのどこまでも明るい声が邪魔をする。
「昔はどれだけ触ったって、何も言わなかったのにさー」
「そうだったかな……」
「そーだよ。それどころか、挨拶だとかいって先に抱きついてきたのはそっちだぜ。
 俺、すっげー驚いたもん」
確かにそうだった。あの頃の自分は、それが普通だと思っていた。
ハグをして頬にキスをして、そんな挨拶をごく自然にやっていた。
相手があまりに驚くものだから、すぐに一般的ではないのだと知ってやめたけれど。

「今は嫌いなんだ」
「えー。俺はあれが嬉しかったのに」
「ふぅん」
内心、ジャンがそれを覚えていたことに驚いたが、感情をうまく表せなかった。
「冷たい……」
案の定、まだ後ろから抱きついたままの彼は、がっくりとサービスの肩に顔を落としてスネる。
が、次の瞬間には頭を上げ、パッと笑顔を取り戻して話を続けた。
まったく今も昔も変わらぬ打たれ強さには感心する。

「今だから言えるけど、あの頃の俺って人と触れあえるってことが新鮮でさー。
 本当に、ものすっごく嬉しかったのよ」
だからといって、頬ずりまで始めるのはやめてくれと思いつつも、
彼の正体を知った今となってはその言葉は重かった。
当時のサービスは世間も何も知らなくて、ジャンは逆に色んな秘密を抱えていて、
それでも二人は出会った瞬間からお互い離れられない関係になっていた。
本当にあの出会いは奇跡的ったんだなと振り返る。
それでまあ、本の続きは諦めて、少しだけ付き合ってあげることにした。ただし。

「ジャン。このままだと私の首が痛くなるから、こっちにきて座って話してくれ」
ソファーから体を起こして普通に腰掛け、空いた横を指し示す。
「はいはい」
元気よく返事して、素早く隣に座ったジャンは今度は肩に手を回して体を寄せてきた。
それでは座り直した意味がないじゃないかと言いたかったが、……諦めた。

もちろんジャンは気付かない――というか気にしないまま、
サービスの肩に回していない方の手を振りながら、ひたすら楽しそうに話し続ける。
「人間って面白いじゃん。こう、顔の作りとかさ。
 目も鼻なんかのパーツは同じで、配置もほとんど同じなのに、似ているようで全然違ってさ。
 当時の俺にはすっごく面白かったんだぜ」
そしてふと真面目な表情になって、顔を寄せてくる。
「例えばサービスはどうしてこんなに美人なんだろうとか」
「そう」
「……他に何か言ってッ!」
「ありがとう」
頬にキスをしてみた。懐かしさのままに。ジャンはひどく驚いて、今度は逆方向に仰け反る。
オーバーな反応が面白くてつい笑った。それで少し、自分も話してみようかと思った。

「私もあの頃は、人と触れあうのが楽しかった気がするよ」
「なんで嫌になったんだ?」
「さあ。どうしてかな」
自分の基準は少々人とはズレていたらしいと気付いたから、それだけではなかった気がする。
「もしかして、俺がいなくなったからー?」
「……ルーザー兄さんがいなくなったからかもしれないな」
片目を失った時、唯一抱きしめて泣いてくれた人が死んで、他の兄弟二人はあくまで冷淡で、
信じてきたものが崩れ去ったショックから、触れられることが逆にひどく嫌いになった。
そう、そもそも幼いサービスにとって触れ合うことが当たり前だったのは、
兄達との関係が元だった。……本当に、狭い世界で生きていた。

「……それ、俺を殺した人ですか」
「ああ、ごめん……」
つい思いふけるあまりに、言うべきでないことを口にしてしまったと後悔する。
自分は本当に口下手になってしまった。その理由もやはり……、
いや、過去ばかり振り返っても悪循環におちいるだけだ、あの25年間のように。と思いなおす。
こんな時、ジャンの前向きさが少しだけ羨ましいと感じたりもするのだが、
自分には無理だと頭は冷静に告げていた。
性格が違いすぎる。まったく、どうして惹かれ合ってしまったのやら。

それでも反省から少し落ち込んで、気分を取り直そうとテーブルの上から煙草を取り上げた。
その手をぱっとジャンが止める。目が合うと、彼は今がチャンスといわんばかりの顔をしていた。
本当に前向き、かつ分かりやすい。
「煙草は止めようぜ、サービス。その綺麗な肌に悪い」
ここのところ、何度も言われている台詞だ。
「今更変わらないよ」
もう何年吸っていると思っているんだとは言わないでおいた。
「とにかく駄目なのっ」
彼はサービスの手から煙草をひったくる。
「……ジャン」
じっと顔を見つめ返した。
笑うわけでもなく甘えるわけでもなく怒るわけでもなく悲しむわけでもない、
なにもない無表情で、ひたすらにじっと。

数分後。
「分かりました。吸ってもいいです……」
「ありがとう」
返された煙草を受け取り、にっこり笑って火を付けた。
その姿をうらめしそうに見つめながら、ジャンは叫ぶ。
「ちくしょー、じゃあ俺は汚染された空気をキレイにする機械を作ってやるッ」
「それ、もうあるよ」
サービスは部屋の片隅に置いてある、淡いグリーンの光を放つ物体を指さした。
「私も部屋が煙草臭くなるのは嫌だからね」
「……」

数秒後。
「いや、ずっと大自然の中で暮らしてきた俺の鼻は誤魔化せないぞ!
 まだこの部屋から煙草の匂いは一掃されていない。もっと完璧な、世界中が汚染されようとも
 ここだけは清らかな空気が流れるようなフィルターを作る!!」
「……ああ、そう。頑張って」
今この部屋に煙草の匂いがするのは、
現在進行形でサービスが吸っているからだろうと思ったが、口に出すのは止めておいた。

高松の言葉を思い出す。
――嫌なことに、ジャンには科学者になるだけの充分な知能も素養もあるんですよ。
――ただし、彼の意欲には方向性がない。
――何かを知りたい・成したいという思い、それこそが発明の源です。
――でも彼は守ることだけを使命としてきた立場だったから、本質的に現状維持なんですよ。
――つまり科学者向きの性質ではありません。まったく、幸いなことです。
――ま、その鎖から解き放たれた彼が、これからどうなるのかは分かりませんけどね……。

結局過去を振り返ってばかりのサービスにとって、
どこまでも前向きで明るいジャンと、彼の可能性を見守るのは楽しいことだった。
それにしても発想は飛躍しすぎだとは思わなくもないが、面白いので放っておくことにする。
ずっと閉じこめられていたものが解放された、そのエネルギーのほとばしりが、
今のサービスにはとてもまぶしい。学生時代の自分もこんなだったのだろうか。
そういえば、あの頃とは違って目が一つしかないから、尚更まぶしいのかもしれない。
……また過去に囚われているなと首を振った。
逆にジャンは今でも若者のままだ。外見だけでなく心も。実年齢とは関係なく。

さっそく部屋に置いてある空気清浄機の前に座り込んで、いそいそとパネルを取り外し
中を覗き込んでいるジャンの後ろ姿を眺めながら、サービスは紫煙をくゆらせ続ける。
そして考える。
ジャンはいつまで若いままでいるのだろう。自分は彼に若者のままでいて欲しいのだろうか。

いつの間にか肉体的な距離も精神的な距離も遠く離れてしまった。
触れられることも、話すことも。思っても口に出さないことも、増えてしまった。
サービスはジャンがいない間に、いろんな怖さを知ってしまった。
それが歳をとったということならば、
自分は間違えた道を歩いてきたのかもしれないが――きっとそうに違いないが、
もう戻ることはできない。一度汚れた肺が元には戻らないように。
子供は大人になるけれど、大人は子供には戻れないから。

ああ、そうだなと目を閉じる。一度大人になってしまえば、もう子供には戻れない。
だから、ジャンは若者のままでいい。そこが彼が戻ってきた場所であるなら。
そのままでいい。彼は彼の時間の中で生きていてくれれば、それでいい。
彼がいない間、ずっと願ってきたことは一つだけ。
生きていて欲しかった、それだけだから。

……ジャンもいつかは煙草を吸うようになるのだろうか。


2004.5.22

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