まだ尻はじくじくと痛む。体の芯には、あの快感が残っている。認めたくないことだが。
「でもおまえは正しいよ」
ルーザーは言う、淡々と。
「自分の心に素直だ」
その後の言葉は聞き間違ったかと思った。
「……そして僕は、そんなおまえが羨ましい」
ベッドに腰掛けたまま、兄はうつぶせになった弟の頬をなでる。たぶん、精一杯の優しさで。
「ハーレム、おまえは多分、僕たち兄弟の中で一番自由だ。どこへだって飛んでいける」
白い指がそっと、小鳥の瓶をつかみあげる。
……兄は、そのようにこの小鳥を見つめていたのかと思った。
ハーレムはこの鳥を、飛び立てない小鳥だと思った。しかしルーザーはこの鳥を、自由だと思った。
飛び立てる、小鳥だと。
「兄貴は……」
ハーレムは呆然と、兄の白い背中を見上げる。細いが、筋肉が付き引き締まった体。
常には首まで覆うシャツと、白衣に包まれて見えない肉体。
その下にこの人は、このような強さを隠している。その強さにもまた、秘密がある。どこまでも。
相手に悟らせない、見えさせない。その奥に……この人はどんな悲しみを秘めているのだろう。
ハーレムはそのようなことを思った。ただ、呆然と。
「なんだい?」
ルーザーは振り返って微笑む。儚く、美しく。
「自由になりたいのか?」
その鳥のように。飛び立っていきたいのだろうか。どこかへ。たぶん、雲の彼方へと。
「まさか」
兄は笑った。
「僕はいいんだよ。僕のことは……どうでもいいんだ」
それは静かな言葉だった。そして笑みだった。どこにも自嘲はなく、憐憫はなく、
この人は常にそうであるように、弱さとは無縁で。それでもこの言葉は、この人の本心だと思った。
普段は見せない手の内を、今だけはさらしているのだと。
だからハーレムはそれに手を伸ばす。懸命に。知りたかったから。兄のことが。
「じゃあ、誰を」
「言わないと分からないのかい?」
静かな微笑み。そう、ハーレムはいつだって知りたがる。確認したがる。例え傷ついても。
そしてルーザーは隠したがる。いつだって、本心を。そのためにどれだけ誤解されても。
本来は逆なのだが。常日頃は彼らは、それとは逆の行動を取っているのだが。
ハーレムは己を縛るくびきからどこまでも逃亡しようとし、
一方のルーザーは真理の探究者たることを自らに課し、日々を送っている。
だから彼らは似ていて……真逆なのだ。
「……」
ハーレムは黙った。だが沈黙のうちに確認した。この場にいない、残りの二人の兄弟。
マジックとサービスのことを。
愛している。このすぐ上の兄とは違って。ただ真っ直ぐに純粋に愛している。
そしてたぶん、その気持ちはルーザーも同じで。
だけど、飛べない小鳥。
悲しみが胸を覆う。人は同じ物を見て、違うことを考える。
ルーザーとハーレムは、同じ香水瓶を見て、まったく逆のことを考えた。
それでも彼らが最終的に願ったのは、同じことだった。
――青の呪縛から逃れること。
自由な逃亡者と、あえてその渦中に身を置いたもの。彼らの生き方は逆でも、
最終的に願うことはたぶん同じ。他の二人は考えていない、まだ意識してもいないことに、
彼らだけは気がついていた。
「まあ、いいさ」
ルーザーは軽くそう言って、床に落ちた服を拾い上げる。
「いつかは辿り着くだろう」
予言者のように言いながら。でもどこか人ごとのように。
――アンタはその場にいないつもりなのか。
問いかけは言葉にならなかった。全身があまりにけだるかったからかもしれない。
小鳥がそっとつまみあげられる。指先にまで細心の注意を払って。
優しくルーザーはそれに口付けをした。
「なあ、兄貴」
ハーレムは言う。
「俺はいつかあんたを殺すぜ」
そんな気がしたから。目指す場所は同じでも、方法が真逆なら、いつかはぶつかるだろうから。
そしてその時、相性が最悪の自分たちは、きっとどちらかの破滅を招く。
ハーレムはその時、自分が死ぬとは考えなかった。それが彼の強さであり、弱さでもあった。
たぶんそれは、彼の方が弟であったから。より遅く生まれたから。ただそれだけの理由なのだが。
「ふうん。楽しみにしているよ、ハーレム」
兄は笑って応じる。
もっともそれが事実になるなど、二人とも思ってはいなかったが。この時はまだ。
指は金のキャップを回し、蓋から放たれた芳香はあたりに淡く、ただよった。
それは二人の汗と精の残り香と混ざり合って、複雑に香る。だが決して、不快な匂いではなかった。
「最後の罰だ」
そう言いながら、ルーザーは指の上に一滴を垂らして、ハーレムの頬にそれを塗りつけた。
「この匂いが薄れるまでは、忘れるんじゃないよ」
――僕のことを。
聞こえるか聞こえないかの細さで、そう言われる。
言われなくても、忘れられるとは思わなかったが。この芳香も、まだ芯に残る痛みも。
そして何より、あの完璧な性の快楽を。
ルーザーは立ち上がって服をまとい、部屋を出て行った。手には紅い小鳥を連れて。
そしてハーレムの元には、香りだけが残った。
……その香りは今も、彼の心に残っている。
忘れることはない。
ルーザーという人のことを。
ハーレムはいつまでも、覚えていた。いつまでも、いつまでも。
青の呪縛から逃れた、その後も。
2007.4.4
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