「まあいい」
伊東は乱暴に紙を折りたたみ、それを自分の懐にしまった。
彼はこうして山南の指示でいくつかの暗殺を繰り返していた。
そのほとんどが、壬生の近郊に逃れた逃亡者たちの始末だ。
山南の他の部下たち――山崎、斎藤、永倉は、それぞれ幹部としての仕事も持ち、
そうそう壬生を留守にすることもできない。だから伊東に頼るのだと、山南は説明していた。
伊東としても……何かとわずらわしい彼らから離れ、一人の時間を持てることは、嫌ではなかった。
だからこうして仕事を引き受けている――引き受けてやっているのだと、そう言い聞かせながら。
ただ目的もあてもなく、放浪することはあまりにも……寂しいからだとは、彼は気付いていないが。
山南は伊東に、着るものを与え肩書きを与え、居場所を与え任務を与えている。
ただ彼はそのことに気付いてはいない。別に気付いて欲しいなど、相手は思う人間ではなかったが。
「気をつけてね」
山南ケースケは、ただそういって微笑む。
「そんな必要など、どこにもない」
伊東カシタローは胸を張って答える。
懐の中にはしっかりと任務――自分の役目、すべきこと、存在する理由を収めながら。
「あと……その前に、もうちょっとだけ付き合ってくれるかな」
心戦組副長はそう言った。
◆
「ねえ、伊東くん」
「なんだ」
川の上に架かる橋、渡月橋を渡りながら彼らは言葉をかわす。
「故郷は懐かしいかい?」
「……」
思わず絶句したのは、彼の言葉が伊東の深い部分を突いたからだ。
故郷――あの島、追い出された場所。
「当たり前だろう」
不機嫌さをにじませて答えてから、言い直す。
「懐かしいなどという甘ったれた感情は持っていないが、俺は絶対にあそこに戻ってやる」
「なんのために?」
「復讐だ」
「それを執着って言うんだよ」
山南はまた、眼鏡にそっと手をやった。
「何が言いたい、キサマ」
口調に殺気をみなぎらせる。辺りの人目も、知ったことではなかった。
おまえらなどいつでも殺せるのだぞと、伊東は思っていたから。もちろん、山南のことも。
「いや僕はただ……故郷に戻って、その故郷を破壊しちゃったら、君はどうするのかと思ってね」
「そんなこと、おまえの知ったことではない」
――愚民どもが。心の中でそう吐き捨てる。
「伊東くん。『ふるさとは遠きにありて思うもの』って言葉を知っているかい?」
「知らん」
知りたくもない、そう言外に言ったつもりだった。けれども山南は分かった上で、投げ返す。
「ふふ……。でも僕は、それは帰る故郷がある人間だけが言える言葉だと思うんだ」
「……どういうことだ」
山南はぴたりと足を止め――ちょうと橋の中程だった――欄干に両手を乗せる。
そこからは蛇行して流れてくる川の上流と、それが消えていく先の山を見ることが出来る。
「故郷に帰ることもできない人間は、『遠きにありて思うもの』なんて感傷すら抱けないんだよ」
「……それはおまえのことなのか」
どこか心の奥深くで、共鳴する何かがあった。橋の上に静かにたたずむその後ろ姿には、
言いしれぬ孤独がにじんでいた。孤独――それは、伊東にとっても、とても身近な感情だ。
あの島を出るまでは……決して抱くことなどなかった。
「さあね。ただ、君は少なくともそうじゃないってことだよ」
「おまえは故郷を失ったのか?」
どうしてもそれが気にかかった。だから伊東は食い下がった。珍しく。
彼が自分以外の人間について興味を抱くことなど、まずないことなのだが。
「いや、僕の故郷はまだ存在するよ。少なくとも物理的にはね」
山南は言う。淡々と、寂しげに。
「でも二度と帰れない。それもまた、確か、だね」
彼は静かにたたずんでいた。顔を上げ、視線を遠くの山に向けて。美しい自然を愛でながら。
しかしこの自然は決して、彼にとっての故郷ではない。伊東にとってもまた、そうであるように。
「存在するのなら、帰ることは出来るだろう」
伊東には分からない。異次元に去ったあの島に帰る手段を求めて、とうとうそれを掴んだ彼には。
山南ケースケ。異次元を渡る船すら作れる男。その彼が帰れないとは。
「いや僕が生きている限り、戻ることはできない」
「なんだ、それは」
「……いろいろと、事情はあるんだよ」
「聞かせろ」
ふふと相手は笑った。
「いい傾向だね、伊東くん。……でも、話せないな。それは僕が決めていることだ。
帰らないと決めたから、僕は帰れない。一生、帰ることはない。……だから、『思う』こともない」
静かにたたずむ後ろ姿、それに思わず手を伸ばしそうになる。肩を掴み、振り向かせたくなる。
……何故か。分からないが。顔を見たいのかもしれない、問い詰めたいのかもしれない。
だが……何故それをしないのかも、また、分からない。
「まあ、それは僕の事情だ。ともあれ、君はまだ帰ることが出来る。でも、本当に帰るべきなのかな」
「俺は戻るぞ」
伊東は言った。それを言わないと、自らのアイデンティティが崩壊しそうだったから。
山南という一人の人間の前に、敗北してしまいそうだったから。
「うん……戻ればいいよ。それは僕たちの目的にも叶う。ただ、そこで何をするのかは……」
彼はそこでくるりと振り返った。眼鏡の奥の瞳が静かに、伊東を見据える。
「考慮の余地があるだろうね」
「……」
言葉に詰まる。頭の中が割れそうに痛い。
「何が言いたい……」
それだけを口にした。この男が――山南ケースケが、純粋に自分のことを心配しているのだなどとは、
考えなかった。こいつはそんなに甘い男ではない。伊東はいつの間にか、それを認めていた。
「伊東くん、僕たちは理想と大義のために戦っている。それはあるいは甘いことなのかもしれない。
……ともあれ、僕には部下がいる。その大義のために付いてきてくれる人たちが」
口元が笑みを形作る。瞳は笑ってはいない。むしろ挑戦的に輝いている。
「彼らを捨て石にすることは許さない。利用するのは構わないけれどね。
ただ何もかも破壊して終わりなんて、そんな簡単なものじゃないんだよ」
山南ケースケは、微笑んだ。
「……」
伊東は黙り込む。怒りでもなく、苛立ちでもなく、沈黙が彼を包んでいた。
分からない……と思うことすらない。むしろ、山南の言うことはとてもよく分かった。
そしてだからこそ、許し難いのだった。
彼が――山南が、自分の支配者の地位に収まろうとしていることが。
「俺は……」
伊東は言葉をしぼりだす。いや、元・青の番人であるアスは。
「おまえは……俺の主にでもなるつもりか」
「まさか」
ハッと山南は笑った。どこか影をにじませて、やけっぱちに。
「僕はそんな大人物じゃない。全ては君の選択に過ぎない。君が僕たちを利用するように、
僕たちは君を利用する。それで……いいじゃないか」
「……」
――これがこの男の本性かと思った。
どこか捨て鉢で、暗く、情念を燃やし、誰も寄せつけない孤独の中にいる。
……まるで自分のようで、しかし自分ではない。
「『遠きにありて思うもの』にあえて近づく。それは危険なことなんだよ」
また歩き出しながら、山南は言った。
「気をつけてね、伊東くん」
ちらりとこちらを振り返りながら。
「どこへ行く?」
「いや、この先の松尾大社にお参りしてから帰ろうと思って。……来るかい?」
「……」
しばし迷った。懐の中にはすでに地図がある。路銀もある。
だが……それもまた、山南が与えたものだ。かといって、それらを捨て去って、ではどこに行くのか。
自分は……どこに行けばいいのか。
「おいでよ」
山南は軽くそう言った。
「……」
だから伊東は付いていく。何故そうするのかも分からないままに。
いつか、分かる日は来るのだろうか。
自分が存在している理由――番人の任を解かれてなお、生きながらえている理由も、
故郷に戻ってそこで何をするべきなのかも。そして迎えるべき未来についても。
いつか……分かる日は来るのだろうか。
『遠きにありて思うもの』、その言葉の意味も。
この孤独の行く末も。
そして、いつか……救われる日は来るのだろうか。
2007.3.29
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