遠きにありて 後編


「まあいい」
伊東は乱暴に紙を折りたたみ、それを自分の懐にしまった。
彼はこうして山南の指示でいくつかの暗殺を繰り返していた。
そのほとんどが、壬生の近郊に逃れた逃亡者たちの始末だ。
山南の他の部下たち――山崎、斎藤、永倉は、それぞれ幹部としての仕事も持ち、
そうそう壬生を留守にすることもできない。だから伊東に頼るのだと、山南は説明していた。
伊東としても……何かとわずらわしい彼らから離れ、一人の時間を持てることは、嫌ではなかった。
だからこうして仕事を引き受けている――引き受けてやっているのだと、そう言い聞かせながら。
ただ目的もあてもなく、放浪することはあまりにも……寂しいからだとは、彼は気付いていないが。

山南は伊東に、着るものを与え肩書きを与え、居場所を与え任務を与えている。
ただ彼はそのことに気付いてはいない。別に気付いて欲しいなど、相手は思う人間ではなかったが。

「気をつけてね」
山南ケースケは、ただそういって微笑む。
「そんな必要など、どこにもない」
伊東カシタローは胸を張って答える。
懐の中にはしっかりと任務――自分の役目、すべきこと、存在する理由を収めながら。

「あと……その前に、もうちょっとだけ付き合ってくれるかな」
心戦組副長はそう言った。

「ねえ、伊東くん」
「なんだ」
川の上に架かる橋、渡月橋を渡りながら彼らは言葉をかわす。
「故郷は懐かしいかい?」
「……」
思わず絶句したのは、彼の言葉が伊東の深い部分を突いたからだ。
故郷――あの島、追い出された場所。

「当たり前だろう」
不機嫌さをにじませて答えてから、言い直す。
「懐かしいなどという甘ったれた感情は持っていないが、俺は絶対にあそこに戻ってやる」
「なんのために?」
「復讐だ」
「それを執着って言うんだよ」
山南はまた、眼鏡にそっと手をやった。
「何が言いたい、キサマ」
口調に殺気をみなぎらせる。辺りの人目も、知ったことではなかった。
おまえらなどいつでも殺せるのだぞと、伊東は思っていたから。もちろん、山南のことも。

「いや僕はただ……故郷に戻って、その故郷を破壊しちゃったら、君はどうするのかと思ってね」
「そんなこと、おまえの知ったことではない」
――愚民どもが。心の中でそう吐き捨てる。
「伊東くん。『ふるさとは遠きにありて思うもの』って言葉を知っているかい?」
「知らん」
知りたくもない、そう言外に言ったつもりだった。けれども山南は分かった上で、投げ返す。
「ふふ……。でも僕は、それは帰る故郷がある人間だけが言える言葉だと思うんだ」
「……どういうことだ」
山南はぴたりと足を止め――ちょうと橋の中程だった――欄干に両手を乗せる。
そこからは蛇行して流れてくる川の上流と、それが消えていく先の山を見ることが出来る。

「故郷に帰ることもできない人間は、『遠きにありて思うもの』なんて感傷すら抱けないんだよ」
「……それはおまえのことなのか」
どこか心の奥深くで、共鳴する何かがあった。橋の上に静かにたたずむその後ろ姿には、
言いしれぬ孤独がにじんでいた。孤独――それは、伊東にとっても、とても身近な感情だ。
あの島を出るまでは……決して抱くことなどなかった。
「さあね。ただ、君は少なくともそうじゃないってことだよ」
「おまえは故郷を失ったのか?」
どうしてもそれが気にかかった。だから伊東は食い下がった。珍しく。
彼が自分以外の人間について興味を抱くことなど、まずないことなのだが。

「いや、僕の故郷はまだ存在するよ。少なくとも物理的にはね」
山南は言う。淡々と、寂しげに。
「でも二度と帰れない。それもまた、確か、だね」
彼は静かにたたずんでいた。顔を上げ、視線を遠くの山に向けて。美しい自然を愛でながら。
しかしこの自然は決して、彼にとっての故郷ではない。伊東にとってもまた、そうであるように。
「存在するのなら、帰ることは出来るだろう」
伊東には分からない。異次元に去ったあの島に帰る手段を求めて、とうとうそれを掴んだ彼には。
山南ケースケ。異次元を渡る船すら作れる男。その彼が帰れないとは。
「いや僕が生きている限り、戻ることはできない」
「なんだ、それは」
「……いろいろと、事情はあるんだよ」
「聞かせろ」
ふふと相手は笑った。
「いい傾向だね、伊東くん。……でも、話せないな。それは僕が決めていることだ。
 帰らないと決めたから、僕は帰れない。一生、帰ることはない。……だから、『思う』こともない」
静かにたたずむ後ろ姿、それに思わず手を伸ばしそうになる。肩を掴み、振り向かせたくなる。
……何故か。分からないが。顔を見たいのかもしれない、問い詰めたいのかもしれない。
だが……何故それをしないのかも、また、分からない。

「まあ、それは僕の事情だ。ともあれ、君はまだ帰ることが出来る。でも、本当に帰るべきなのかな」
「俺は戻るぞ」
伊東は言った。それを言わないと、自らのアイデンティティが崩壊しそうだったから。
山南という一人の人間の前に、敗北してしまいそうだったから。
「うん……戻ればいいよ。それは僕たちの目的にも叶う。ただ、そこで何をするのかは……」
彼はそこでくるりと振り返った。眼鏡の奥の瞳が静かに、伊東を見据える。
「考慮の余地があるだろうね」
「……」
言葉に詰まる。頭の中が割れそうに痛い。

「何が言いたい……」
それだけを口にした。この男が――山南ケースケが、純粋に自分のことを心配しているのだなどとは、
考えなかった。こいつはそんなに甘い男ではない。伊東はいつの間にか、それを認めていた。
「伊東くん、僕たちは理想と大義のために戦っている。それはあるいは甘いことなのかもしれない。
 ……ともあれ、僕には部下がいる。その大義のために付いてきてくれる人たちが」
口元が笑みを形作る。瞳は笑ってはいない。むしろ挑戦的に輝いている。
「彼らを捨て石にすることは許さない。利用するのは構わないけれどね。
 ただ何もかも破壊して終わりなんて、そんな簡単なものじゃないんだよ」
山南ケースケは、微笑んだ。

「……」
伊東は黙り込む。怒りでもなく、苛立ちでもなく、沈黙が彼を包んでいた。
分からない……と思うことすらない。むしろ、山南の言うことはとてもよく分かった。
そしてだからこそ、許し難いのだった。
彼が――山南が、自分の支配者の地位に収まろうとしていることが。
「俺は……」
伊東は言葉をしぼりだす。いや、元・青の番人であるアスは。

「おまえは……俺の主にでもなるつもりか」
「まさか」
ハッと山南は笑った。どこか影をにじませて、やけっぱちに。
「僕はそんな大人物じゃない。全ては君の選択に過ぎない。君が僕たちを利用するように、
 僕たちは君を利用する。それで……いいじゃないか」
「……」
――これがこの男の本性かと思った。
どこか捨て鉢で、暗く、情念を燃やし、誰も寄せつけない孤独の中にいる。
……まるで自分のようで、しかし自分ではない。

「『遠きにありて思うもの』にあえて近づく。それは危険なことなんだよ」
また歩き出しながら、山南は言った。
「気をつけてね、伊東くん」
ちらりとこちらを振り返りながら。
「どこへ行く?」
「いや、この先の松尾大社にお参りしてから帰ろうと思って。……来るかい?」
「……」
しばし迷った。懐の中にはすでに地図がある。路銀もある。
だが……それもまた、山南が与えたものだ。かといって、それらを捨て去って、ではどこに行くのか。
自分は……どこに行けばいいのか。
「おいでよ」
山南は軽くそう言った。
「……」
だから伊東は付いていく。何故そうするのかも分からないままに。

いつか、分かる日は来るのだろうか。
自分が存在している理由――番人の任を解かれてなお、生きながらえている理由も、
故郷に戻ってそこで何をするべきなのかも。そして迎えるべき未来についても。

いつか……分かる日は来るのだろうか。
『遠きにありて思うもの』、その言葉の意味も。
この孤独の行く末も。

そして、いつか……救われる日は来るのだろうか。


2007.3.29

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