そいつは、習慣のように、爽やかな笑顔をたたえて言う。 「やあ、キノさん」 何の嫌味も含みもない、自然な笑顔。キノの顔が、一瞬こわばったのが、彼女の背中越しから伝わった。 最近だと三つの国に一つは、この男と遭遇している。いや、遭遇なんかじゃない。絶対に、必然的だ。決まって、ホテルの中で会うことを考えると。きっと、ホテルの帳簿を聞き出してるに違いないんだ。キノという名前と、モトラドがあるかどうかをヒット条件にして。 「今、時間とれる?」 最近だと、さっきの挨拶とこの台詞だけで、やりとりがなされている。何のやりとりかは…考えたくもない。 「ええ、大丈夫ですよ」 嘘つき。全然、大丈夫じゃないくせに。 もちろん、時間のことを言っているんじゃない。キノ自身のことだ。 何で、そんな自然な笑顔で本心を隠すの? さあ、その右腿のパースエイダーを抜いて、今すぐぼくの目の前で、そいつの頭を破裂させてよ。 もちろん、叶うわけがない。 犬とモトラド ―You Are Blue, So Am I― キノは、ぼくのタンクを一撫ですると、何も言わずにチェックインしたての部屋を出た。それでドアが閉まるかと思っていたら、何やら白い塊が侵入してきた。こんな嫌な状況でも、へらへらとした顔をしている。 「それじゃあ陸、エルメス君と仲良くな」 今日一番の気の障る台詞を吐いて、そいつはドアを閉めた。何やら、がちゃがちゃっと音がする。キノが、鍵をかけたのだろう。 ああ、そうですか。 ようするに、アレ? ハイビスカスは一つにまとめて、って? 「……もしかして、味噌っかすと言いたいのか?」 「そうそれ」 すかさずそう言った途端に、急に忌々しさが沸いてでてきた。どうやら、気づかないうちに、思考を外に出していたらしい。 「…何でお前につっこまれなきゃならないんだよ」 この犬、大嫌いだ。どうして今日はこいつと、 「知るか。お前のイカれた言語中枢に聞け」 一緒なんだよ。 って、ほら、すごくむかつく! 「何だと!」 「何だよ、やるかポンコツ!」 そのときだった。 ……ゃッ、あ―― 掠れた声と、軋む壁の音が漏れてきたのは。 「……」「……」 微妙な沈黙が部屋を包む。 その間も、『物音』は断続的に続く。くすくすと立てる笑い声と、対照的に苦しそうな喘ぎ声。 今日は声が大きいね、とか、エルメス君たちに聞こえちゃうよ、とか、それともわざとなのかな、とか、何ともいやらしい囁き声が立て続けに、パーツの一つ一つに粘りつくように浸透していくようで、錆び付くような嫌悪感を感じる。 …また隣の部屋なのか、あの刀変態男。 「何だと!!」 あー、また外に漏れちゃった。 「シズ様のことを侮辱するのは許さんぞ!!」 やかましいよ、この犬。 「何が許さんぞだよ。お前のご主人様のしてること、充分すぎるくらい侮辱に値するだろ」 「……それはッ」 その言葉に続いて、またきゃんきゃんうるさい反論が返ってくるんだと思ってたら、不意に白い塊は黙り込んだ。 「『それは』、何だよ?」 光のないぼくのヘッドライトが、ちょうど犬を見下ろす位置にある。 「へえ? ご主人様のしてること"否定"していいの? 忠実なる僕なのに?」 ここで黙り込むということは、主人の行動に、少なからず疑問を抱いているということだ。 そして、それは忠実なる僕として、失格に値する行為なのだろう。 「……」 犬は、ぼくのヘッドライトの下で、どんどん小さくなっていくようだった。小さくなって、チビ犬になってしまうような。いや、それ以上に消えてなくなりそうな。 「…………悪かったよ」 …わかっている、本当は。 この犬だって、辛い立場にあること。 いや、ぼくよりも辛い立場なのかもしれない。 ぼくは、どう足掻いても自分で動くことができないし、あの男を止めるすべも持っていない。 だから、何もできない。 この犬は、別に足掻かなくても自分で動くことができるし、あの男を止めるすべもも持っている。 それでも、何もできない。 主人を止める権利など、微塵もないのだから。 主人の命令がなければ、動くことすら許されないのだから。 「逃げようか?」 ごくごく自然に紡がれたその言葉に、一番驚いたのはぼく自身だった。 「お前と…一台と一匹で、か?」 犬が真剣な声で聞き返してくる。 「そうだよ。お前がぼくを運転するんだ」 何を馬鹿げた事を、ぼくは言っているのだろう。 不可能なことは、モトラドは言わない。考えもしない。 そう思っていたのは、ぼく自身なのに。 「……」 犬は無言で、床を蹴り、宙に浮いた。そして、反対側の床にぎゃん、っと声をあげて転倒した。 「…………なにやってんの?」 少し呆れた音声で発音する。 「……」 犬はふてているようだった。 「……なんだよ?」 しばらくして、犬がブツブツと言い出した。 「……お前が、運転しろっていうから…」 なるほど。 どうやらこの犬は、ぼくの座席に座ろうと、飛び乗ったらしい。 だが、そのバカでかい図体で座るには、あまりにも座席の許容量が狭すぎたのだろう。つうか、明らかに狭い。 「……わ、笑うな!」 白い毛が真っ赤に染まりそうな勢いで犬が怒鳴った。 ぼくは大声で、壊れたように笑った。 隣から聞こえてきた、一回目の長く甲高い掠れた声には、聞かない振りをした。 君もブルーなんだね。 ぼくもそうだよ。 つらかったら、逃げようよ。 つらいことすら忘れられるくらい、遠く、とおく、トオクヘ。 その足なら、ぼくが持っている。 君が、ぼくの足を動かすんだ。 遠く、とおく、トオク―――――。 ぼくたちに、用意された場所はないけれど。 end. Bonnie Pinkの「You Are Blue,So Am I」を聞いてて、書きたくなった話。 買ったのは大分前なのですが、久々に聞いてあまりに私の中のエルメスと陸にぴったりすぎて、涙が出そうでした。 が、これを打ち終わった後にタイトルの意味を履き違えてた事が判明。 「君もブルーなんだね。私もそうだよ」と勝手に解釈してたら、どうも「君がブルーだから、私もブルーになる」らしい。つうか、歌詞にそう日本訳かいてあるやん。恥ずかしくて死にそうになりました。 いかに、自分が似非英語なのかを思い知らされた…。 でも、イメージはまさにこの歌なんで、このままでいきます。(おい) 陸は、キノもシズも大好きで、だからキノがシズに抱かれるのも辛いし(それは自分も抱かれたいとかそういうのではなく、ただ単にかまってほしさで)、シズがキノをいじめるのも辛いんだって気持ちをこめて。 ヒロインは、もちろん陸です。オスですが。 →back← |