レッドソーダ ―All may leave―



 そこは、闇とは言いがたい空間だった。
 闇というには明るく、そして温かい。
 広すぎず、狭すぎず。
 空間を震わせる、キン、カン、コト、とガラスがぶつかる音。それは決して、効果音として形容するほど喧しいものではなく、むしろ心地良い。
 時折、液体の水音がたぱたぱと流れる。その中にはしゅわっと音をあげるものもある。
 そんな音だけが背景音楽として流れているバーに、キノとシズはいた。

「レッドアイ」

 シズがよく通る声で店主に言った。店主は無言で頷く。

「キノさんは…ミルクとかがいいかな?」
「カシスソーダ」

 キノがよく通る声で店主に言った。店主は無言で頷く。

「…子供なのに、お酒を飲むのかい? あまり関心しないな」
「誘ったのは、貴方のほうでしょう」

 からかうようなシズの言葉に、キノは淡々と答えた。
 しばらく、共鳴しあうように、グラスたちが合奏を奏でる。

「どうして、ボクを?」
「…酒は独りで飲むのもいいんだけれどね。通りかかったところにたまたま君がいた。だから、君と一緒にいたいと思った。…それが理由じゃいけないのかな?」
「関心しませんね。寝ているティーちゃんを、一人置いていくなんて」
「…それを言われると、心が痛いな」

 シズは、苦笑いをした。

「…一緒に旅をしているとね、やはり一人の時間がほしくなるんだよ」
「連れて来るんじゃなかった、と?」
「そうじゃない。あの子は私にとって、かけがえのない子だよ。…ただ」
「ただ?」
「二人旅というのは、慣れてなくてね。途方にくれるときもあるんだ」
「はあ…」
「君のほうが、あの子をわかってあげられる気がするな。年も近いし」
「…年頃の女の子の気持ちがわからない、父親みたいなことをいうんですね」
「実際そうだったら、いいんだけれどな」

 レッドアイと、カシスソーダです、と低い声が空間に響いた。

「……」
「…どうしたんだい?」
「・・・…嫌な色ですね」
「レッドアイかい?」
「両方です。血をみているみたいだ」
「繊細なんだね、キノさんは」
「からかわないでください」
「からかってないよ。…そういうところを含めて、愛している」
「…まだ飲んでないのに、酔っ払ってるんですか?」
「辛辣だな。…まあ、とりあえず」
「ええ」
「乾杯」「乾杯」

 カン、と乾いた音が、生ぬるい温度の闇の中で響いた。



「キノさん」
「何ですか?」
「酔っ払っているね」
「酔っていませんよ」
「保護者として失格だな。やっぱり子供に飲ませるんじゃなかった」
「ボクは子供じゃありません。…大人でもありませんが」
「キノさん」
「何ですか?」
「可愛い」
「…からかわないでください」
「からかってないよ。赤らんでる顔がとても可愛い。それとも、照れているのかな?」
「セクハラはやめてください」
「……セクハラなのかい?」
「ボクには、そう思えます」
「ははは!」
「…シズさんそんな笑い方するんですね」
「うん」
「…シズさん」
「うん」
「…貴方の方が、よっぽど酔っ払っているように見えるのですが」
「ばれたか」
「……」
「久々に飲んでみたけれど、あまり俺の身体に合うものじゃないのかもしれないな」
「…あきれました」
「ははは! でも悪い気分じゃないよ」

 そう笑うシズの顔は、酔っ払いの顔ではなかった。

「キノさん」
「はい」
「結婚しよう」

 キノは、思わずアルコールを噴き出しそうになった。
 落ち着いて、シズを見る。その眼はとてつもなく、真摯なものだった。闇の中に光る、闇。

「ここは、いい国だ。人はとても温かく、優しく、互いに助け合って生きている。環境も治安もいい。ティーが育つには、とてもいいところだと思う。…もちろん、君と生涯を共にするのにも」
 その眼は揺るぎない。キノは一度も逸らすことなく、その瞳を見つめた。

「どうかな?」

 少し沈黙があって。そして、言った

「お断りします。ボクは旅人ですので」

 その言葉に、一辺の曇りも迷いもなかった。

「…はは、だろうな」

 シズは特に驚きも悲嘆もせず、晴れわたる空のように清々しく、笑った。

「…シズさんは、この国に定住なさるおつもりなのですか?」
「ティーさえ異存がなければ、ね」
「……ください」
「え?」
「住まないでください」
「…キノさん?」
「ボクと一緒に、旅人でいてください」
「……」
「……」
「……」
「…ごめんなさい。変なこと、言いました」
「そんなことないよ」
「やっぱり、貴方の言うとおり酔っぱ」

 唐突に、唇が唇を塞いだ。
 闇に流れる水音は、アルコールのものではない。

「んっ…は、ぁん、つ」

 アルコールのせいか、発声する声は、どこか熱っぽく、艶があった。

「んっ…つう………はぁあぁ」

 ようやく唇が解放される。キノの小さな唇から漏れる唾液が、つう、っと顎を伝った。シズはそれを優しくキスで拭う。

「……酔っ払い」
「酔っ払ってるから、じゃないよ」

 その微笑みは、確かに酔っ払いが浮かべる微笑みではなかった。
 キノが何かを言おうとした。そのときだった。
 ぐらっ、と何か大きな力に、世界は揺さぶられた。

「!」「!」

 二人は同時にカウンターの下にしゃがみこむ。

「地震だ…それも、かなり大きい!」

 シズが、キノをかばうように抱きしめながら、言った。

「酔ってぐらぐらしてるわけではないみたいですね」

 キノは抱きしめられながら、暢気なことを言った。

「なんて強さだ…こんなのは、初めてだよ…しかも長い」
「怖いですか?」
「君といるから、怖くなんかないよ」
「この揺れでも、酔いが醒めないんですか。重症ですね」
 ガシャン! ガシャン!! とグラスたちが、巨大な不協和音をたてて崩れるのが聞こえる。






「静まったか…」
「そのようですね」
「非常灯が眩しいな…こんなことは、しょっちゅうなのだろうか」
「かもしれませんね」
「グラスとかの、破片があるかもしれない。気をつけて」
「ええ」

 ゆっくりと、二人はカウンターの下から這い出た。
 バーは先ほどの暗さは最早ない。緊急のためか、真昼のように眩しい光が灯っていた。
 それで分かる惨状。ガラスでできたものというというものはことごとくこなごなに砕け散り、椅子やテーブルも見るも無残な状態で転がっていた。というより、まだ転がっている。

「怪我とかはないかい?」
「おかげさまで。…それより」
「ああ。ティーたちが心配だ」
「お客さん」

 一瞬誰の声かわからなかった。声の主を探せば、先ほど酒を出してくれた男だった。

「早く高台の方へ行くようにしたほうがいい。あと一時間もしたら津波がくる。それも大きいのが」
「え」「え」
「見ての通りこの国は湾岸地帯でね。そして、地震なんてしょっちゅう、日常的なものだ。さすがにこれだけ大きいのは珍しいが、そのための対策もこの国は十分してある。国民たちも重々承知してる」
「つまり」「つまり」
「とっとと逃げろ」






「ティーちゃんたちが冷静で助かりましたね」
「ああ。…まさか、あのまま部屋にいたときはびっくりしたけれど」
「散々だよ! ぼくのヘッドライトヒビはいるし他にもあちこち持病があったのがトランキライザーでポカスカホタだよ!」
「……相当混乱してるみたいだね、エルメス」
「呆れたものだな、ポンコツ」

 国で一番高いところにある高台のような建物。
 それは国民全員が入るに十分な広さを所有しており、どんな津波が来ても負けないと誇れるだけの頑丈さをもっているという。
 そして、それはやってきた。
「あれが津波ですか」
「はい! 私もあんな大きなものを見るのは、初めてです!」
 何故か妙に興奮した様子で、たまたま近くにいた自称観光案内人が言った。

「あれが今から、全てを飲み込んでしまうんですよ! たまらないですね!」
「……ここの国の人たちは、津波が来るのを随分喜んでいるように見えるが、気のせいか?」
「そりゃそうですよ! 津波はこの国にとって、縁起物、神さまですから!」
「神様?」「え?」
「津波は、この国にはこびるありとあらゆる悪霊たちや悪いものを浄化してくれる聖なる波なんです! ありとあらゆるものを流してくれますよ!」
「…まあ、ありとあらゆるものを流しそうですが…家とかはどうするんです? 築き上げてきた財産もあるでしょう?」
「それら全部含めて浄化なんですよ! また一からみんなで築き上げていけばいいんですから! 私はその年に立ち会えて心から嬉しいです!」
「……」「……」

 ちょうどそのとき、高台の下で波が、国全体を飲みつくした。






 眩しい太陽が、国全体を照らし始めた。
 元国を成していたものたち、といった方が正しいのかもしれない。

「見事だな」
「見事ですね」
「これで、私はまた旅人にならなければならなくなった」
「住みやすい国というのを見つけるのも、大変ですね」
「ああ。とても大変だよ。でも付き合ってくれるかい、ティー、陸」
「……」「シズ様の意向のままに」
「キノさんはもう行くのかい?」
「ええ。もうこの国で見るものは…昨日、十分見ましたから」
「そうだね。私たちも行くよ。途中まで一緒に行かないかい?」
「そうですね。たまにはいいかもしれませんね」
「……」
「あ、シーラカンスが大砲を喰らったような顔してる」
「……まだ混乱してるんだね、エルメス」
「…いいのかい、キノさん?」
「どうしてですか?」
「いつもなら、そんなこと言わないから。少し、いや、かなりびっくりしている」
「そうですね。ひょっとしてたら、ボクもまだ津波で動揺しているのかもしれません」
「……」
「さあ、行きましょう」



「世界は、待ってはくれませんからね」






end.






 いつぞやかのイベントで、無料配布したものです。
 何かこう、お酒ネタがやりたかったんです…本当はもっと、エロスっぽさ満開の話にしたかったのですが、なんとなく、こんなカタチになりました。
 …まあ、これはこれでありかな、と。


 
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