[ゼロ]

「邪魔になりますよ、デスマスク」
風呂上がりの身体を冷ますついでに煙草をふかしていたデスマスクは、断り無しに突き進んで来たムウの形相に、灰の残るそれを思わず落とした。慌てて灰皿にかき集め、少し焦げた絨毯を叩いて盛大な溜息をつく。月は空高く上り、時計の針も中心から右にズレた時間帯に、アポなし訪問は流石に辛い。
「風呂上がり…ですか」
腰にタオルを巻いた状態の彼を見下ろし、ムウはにっこりと微笑む。帰るものだろうと釣られて笑ったデスマスクの前で、ムウは上着に手をかける。
「ちょうど良かった。浴室とタオル借りますよ」
「ああ…って、ちょっと待て」
先に火を点したばかりの煙草を灰皿に押し付け、お構い無しに脱ぎ続ける彼の腕を掴む。面倒臭そうに振り返ったムウの瞳に浮かぶ冷めた熱に、デスマスクは呆れたように目を反らす。
「テメェの宮で浴びればいいだろ」
無理ですよ、視線を落としてそう呟くように返すと、力の緩んだ手を振り払って浴室へ向かう。扉に遮られた背中に小さな舌打ちを弾きだし、デスマスクは脱ぎ落とされた衣類を拾うために腰を曲げた。体温の残る白い布地が、室内灯の光りを反射して僅かながら煌めく。大方スターダストサンドでも付いたのだろうと手で叩けば、キラキラと残滓を残して床に降り注いだ。

六年。言葉にすれば短い時間も、人の心から記憶を風化させるには充分な年月だった。サガを許し切れなかったアイオリアが、その犠牲者であった兄と再会し、真実の意味でサガを認める。アイオロスの願いであったにしろ、年月の担った割合は重い。
それはほんの一例ではあるが、少しずつ、聖域はかつての光り溢れる姿に戻りつつある。宮の守護者が揃い、教皇が代行者として治める真の姿。時が来れば、その宮守護の座も新しい世代が受け継いでいくだろう。現に牡羊座は、聖戦時に十も数えなかった貴鬼が継いでいる。
「還る場所がねぇって…口に出すような奴じゃねーしな」
言葉の通り、六年の空白をもって甦ったムウに牡羊座の聖闘士という居場所は残されていなかった。聖戦のまま時を止めていた彼にとって、それがどれほどの打撃となったかは計り知れない。ソファの背もたれに衣類を掛け、デスマスクの六年前に遡っていた思考は、聖域に遅れて戻ったムウがサガと対面した時に浮かべた、憎しみを覆った不自然な笑みを思い出した。あれに気付いたのは恐らく、ムウを幼い時分からよく知っていたシオンと童虎、視線を向けられたサガ本人、そして、偶然隣に居合わせた自分の四人だけだろうと額に手を当てる。もう一人、現場を見ずとも不穏な空気に気付いているかもしれない人物はいたが、デスマスクは今度こそ彼を巻き込みたくはなかった。


鏡に映った自分と向き合い、ムウは長い髪を結っていた紐を外した。首を振ると動きに合わせ、薄紫の髪が左右に波打つ。何一つ変わっていない自分の姿を見る度、彼は拭えぬ疎外感を覚えた。年を近づけた貴鬼、同じ年になったアイオロス、年上になった同期、更に年を離した四人。そして何より、誰もがサガと和解していることに、彼は埋めようのない年月を感じた。一番恋しいアイオロスを奪い、一番親しいシオンを奪った男が、幸せに過ごすことを、どうしても許すことが出来ない。戻ってきた自分には、背中を預ける相手も、自分の居場所も残されていなかったのに、サガはそのどちらをも手にしているように見えて、堪えようのない憎しみを感じた。
だからこそ、六年の隔たりに迷うことなく飛びついてきた貴鬼に、自分の醜い感情を見せたくはなかった。
幼い頃自分を慕っていた心のまま、牡羊座として申し分なく成長した彼の腕に、ムウは心地よさすら感じる。けれども、心地よく感じるからこそ、自分の心の内を読まれまいと逃げるように貴鬼の笑顔から顔を背けた。彼の理想とする、今や幻想となってしまった師としての姿に、落胆されるのが何よりも恐ろしい。
見つめた鏡の、己の瞳の奥が濁る。確かに、心の内を見抜かれぬよう、ムウは逃げていた。けれども、一番隠したい気持ちは、貴鬼に触れる度に沸き起こる浅ましい色欲だった。好きの意味を、愛しているの意味を履き違えたまま無邪気に抱きしめる貴鬼を、自分の欲で汚したくはない。あの闇知らぬ光りの目に、歪んだ己の姿を映したくはない。ムウは、たった一つ残された居場所を、波打ち際の砂城のように崩してしまいたくはなかった。


緩く乾かした髪を束ねながら、バスタオルを腰に巻いたまま床に横たわる影を見下ろし、ムウは眉一つ動かさずにその塊を跨いだ。地についた足が再び床を離れるより早く、その影に後ろから捕まれ、漸く不機嫌そうに振り返る。
「おいおい、無視かよ」
虫の居所が悪かったムウは、茶化すような言い方に、いかにも作りましたと言わんばかりの微笑みを浮かべた。掴まれていない足が上げられたと思った瞬間、横になる男の腹の上に容赦なく下ろされる。間髪入れずに薄い唇からは蛙を潰したようなうめき声が漏れ、苦痛に歪んだ眉に力が込められた。
「気付かずに踏み付けてしまいました」
腹を抱えて軽い痙攣を起こしている年上の同僚に、謝る気など毛頭ない。男は、再び歩き出そうとしたムウの背に、踏まれた辺りを摩りながら、手を延ばした。背にした燭台の明かりに染められ、茜を含んだ藤色の髪に指を絡める。
「随分と機嫌が悪いじゃねぇか」
振り返った顔の無表情さが、反って怒りを顕著にしていた。下手に突けば存在を抹消されそうな雰囲気に、デスマスクは呆れたように溜息をつく。彼は立ち上がって一歩進むと、ムウの頭部に手を回して身体を引き寄せた。
「離しなさい、貴方なんて嫌いです」
抑揚なく、淡々とした物言いにめげることなく、彼は降ろしていた左腕を相手の腰に回す。その気になれば、彼が逃れられない筈などなかった。面倒なのか、そもそも逃れる気がないのか、デスマスクは判断しかねる。
「バスまで借りといて随分な物言いだな。嫌いなのは俺だけじゃないだろ」
かける言葉に詰まって呟くと、小さくムウが反応を示す。
「シオンもアイオロスも…サガも嫌いです。満足ですか、これで」
サガの名で浮かんだ憎しみの焔は、すぐに瞳の奥に消えた。沸き起こる感情を押さえるように、唇をきつく噛み締める。
「サガが師を殺した、サガの所為でアイオロスが死んだ。なのに奴らはサガを許す…か」
囁かれた言葉に、ムウは腕を振りほどくことで拒絶の意思を表した。蓋をして、綺麗に取り繕った傷口をえぐる相手に、優しさなど持てなかった。
「分かったような口を効かれる筋合いはありません」
語気を荒げて睨み付けた翡翠の目に、怒りではない別の感情が滲むのを、デスマスクは見据えることが出来ない。直に触れる肌の下で脈打つ音が、高ぶった心を切々と伝えている。
「肩肘張ってんじゃねーよ。取り繕うから離れてくんだよ、馬鹿」
力を込めて抱き締めた身体が身じろぎ、初めて逃れようともがいた。彼はムウの髪を束ねていた細い紐を引き千切り、深いえんじを基調とした絨毯にその身体を押し付ける。倒されて広がった髪が放射状に乱れ、顔を背けることの出来ない体勢に、ムウは瞳を閉じる。
「言葉で勝てないから力技に出る…貴方の方が馬鹿の典型じゃありませんか」
らしくなく挑発する彼の声は、その言葉と裏腹に酷く悲しげだった。反って何かをするのを躊躇うほどに力を抜いた肢体は、次第に脈を落ち着かせていく。
「…抵抗しないのか」
間抜けな響きだと、デスマスクは自分で思った。どんな返事が返ったところでこれから自分が行う行動に選択肢が現れるわけではない。意味のない、無駄な質問でしかなかった。
「黄金聖闘士の貴方が望めば、綺麗な女性はいくらでも手に入」
最後まで聞かずに、デスマスクは軽く唇を重ねた。抑止効果を持たない口付けが言葉を奪ったのは、その唐突さ故だった。開かれた翡翠の目から逃れるように立ち上がると、下ろした手に爪を食い込ませる。
「帰れ。これ以上巨蟹宮に留まるなら……喰らうぞ」
自分の理性が、翡翠に滲んだ色欲から一晩逃げられないことを悟って、デスマスクは背を向けて祈るように呟いた。その場凌ぎのごまかしが、相手も自分も傷付けることなど、嘘の13年間で嫌というほど目にしている。もう、誰かを傷つけるのも、誰かが傷つくのも、見たくはなかった。

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