白百合の女(ひと)/5-7さん
最初は、いわゆる小遣い稼ぎで始めたバイトだった。
付属とはいってもエスカレーターでは無い、祖父の理念どおりちゃんと
実のある生徒のみが進学するよう設けられた内部試験を軽々通過して、
あとは残り授業を消化するのみとなった高校三年の冬休みのことであった。
もう小遣いを貰う歳でもないし、兄の負担を軽くしようとする思いもある。
兄のまだ働かなくてもいいのにという思いやりの言葉については
「使い道を聞かれたくない出費というのもある歳ごろになりましたので」
そう言って謝絶しておいた。
どうせ稼ぐなら効率良くやりたいものだ、と思って選んでいくと夜の世界になる。
しかし己を良く知る身には女性が働く場所では男性客を非常に不快にさせることは
分かりきっていたので、女性客が多くやって来る店、ただし自分は未成年なので
ホストは端から除外、居酒屋はバイト同士の人間関係がややこしいと聞く。
ならば、食事も出すが喧騒とは遠く離れたバー、それも自分の美的センスに合う店、
そうやって絞った先のうちの一軒が、続の勤めているバー“Roost”である。
その女性は続もたまに見かけていた。他の客が猫背でカウンターに肘付くなか
まっすぐに背筋を伸ばした姿勢が続の目を引いた。客の事情であるからどんなに
店で飲んだくれようと続は気にも留めなかったが、その女性が酔いつぶれるのは
一度もみたことは無かった。毎度ショートカクテルを一つ、シングルが一杯で
来店時より険の取れた顔をして綺麗に席を立って静かに帰っていく。
常連の客の中には続からオーダーを取りたがる者が幾人もいたが、それ込みで
オーナーも自分を採用したのだと分かっているので愛想良く応じていたが、
自分からすすんで注文を受けにいくのはその女性一人だけである。
一目惚れではないし、向こうから好意を寄せられていたわけでもない。
オーダー時に交す彼女との会話は、たとえば一段と冷えた日には柚子酒のお湯割りを
勧めたりとか、おまかせであったりとか、一言二言程度のささやかなものだったが
ベッタリとした雰囲気を作りたがる他の客との応接の合間には特に清涼に感ぜられた。
その時はジン・ラム・キュラソーを1・1・1でシェイク、ペルノー一振りしたもの。
「あら、私ってそうかしら?」
「バーテンダーが貴女の印象で作ったそうですよ。私もぴったりだと思いますが」
可憐な名前を持ちながら、ベース酒が二つも入った意外に手強いそのカクテルは
確かに彼女に相応しいと続は思ったのだ。
「ありがとう」
気持ちよくそう言って彼女はグラスを軽く上げ、バーテンダーと続に目礼した。
すいと飲みほした後はいつものようにシングルを頼み、支払いを済ませたのだが
預かったコートをクロークから出して着せ掛けようとして、いまだ彼女の顔が
暗いことに続は気がついた。あのカクテルがキツかったのだろうか。
「水をお持ちしましょうか」
「いいえ、大丈夫よ。仕事上の悩みがなかなか消えてくれなくって」
冗談めかしたように笑って見せるが、かなり深刻そうな気配が伺える。
だがこれ以上立ち入るのは客のプライバシーであるし、実は恋愛の悩みかも知れず、
だから続は彼女をそのまま店の出口まで送るだけにした。
そのことがあって間も空けず、再び彼女は来店してきた。いつも週に一度来るかこないか
のペースなのに、今週はすでに二度になる。彼女が抱える悩みは深いらしい。
その証拠といってはなんだが、次に来たときにはシングルが二杯になり
さらにシングルはダブルになり、その杯は確実に数を増していっている。
彼女のことを意識の端にかけつつも、続はすべての客に平等を心がけた接客を続けた。
姿が見えなくなり、帰ったのだろうと思うが見送れなかったのがいささか心残りである。
グラスを磨くリネンのクロスを切らしたのに気がつき、表に一声かけてストックしてある
それを取りに行く途中、化粧室への通路でうずくまる彼女を発見した。
「帰ったのではなかったんですか?」
「…ん」
慌てて駆け寄り肩を軽く揺すると、彼女はうっすらと目を開けたがその焦点は定まらず、
再び瞼を閉じようとする。狭い通路なのにこれでは他の客の邪魔になる。
そう思って彼女の両足を掬い上げ、従業員部屋にそのまま運んでいった。
マスターに事情を話すと、そのまま面倒を見るように言われ、ライムを搾った冷水と
おしぼりをいくつか用意して彼女が眠るソファーの脇についた。
意識が無いように眠る彼女の息は規則正しく、アルコール中毒では無い様で安心する。
薄暗い照明のバーでも目立っていたその美貌は蛍光灯の下でも色あせることなく
むしろその細部まではっきりと目に映った。化粧っけの薄い肌の色はあくまで白く
眉毛は優美な曲線を持ち、閉じられた目を縁取る睫毛はつややかに長い。
鼻梁はすんなりと高く唇はやや薄いが形はまことに上品で、まるで昔読んだ御伽噺の
眠る森の美女が目の前にいるといった風情である。だが、このお姫様は挿絵にあった
ブロンドではなく腰まで届く碧成す黒髪であったが。
このまま口付ければ目を覚ますだろうか、と思いかけて慌てて頭を振ってその空想を
追い出した。あれは御伽話であって、目の前の人は現代社会の普通の日本女性である。
それも悪い魔法にかかっているのではなく、酒に酔って寝ているだけの。
それでもかなりの至近距離に迫っていたので、彼女が目を覚ました気配に続は慌てて
身を引いた。自分がいる場所がどこなのかを問われ、ここが休憩室であると告げると
彼女は自分の失態を詫びて起き上がった。靴を履くのに続は肩を貸してやったが
酒精がまだかなり残る彼女の体はふらついており、タクシーを呼ぶことを提案した。
「そうね、そうさせていただくわ。今日は本当にご迷惑おかけしてお恥ずかしい限りです」
「こちらこそ、倒れるまでお飲ませしてしまったのはこちらの配慮不足でした」
いつもなら酔う人の自業自得だと冷めた目で見る続であるが、彼女に限っては
相当の事情があってのことなのだろうとなぜか素直に思えたのだ。
コートを着た彼女を待たせ、タクシー会社の電話番号を押していると今日はもう上がれと
マスターに指示された。彼女を自宅まで送って、そのまま帰宅して良いとのことだが、
一度は遠慮した。
「俺も彼女のきれいな飲み方が気に入っているんだよ。また通ってもらいたいからな」
それにお前の働きぶりを見て信用してるから。そう付け加えて財布から一枚お札を
抜くと「釣りは返せよ」そう温厚に笑って差し出した。手に押し込まれてしまっては
それ以上固辞するのもおかしいので、マスターの言葉に甘えて今日は帰ることにした。
後部座席に先に彼女を乗り込ませ、その隣に座る。彼女が告げた先の住所は中野区に
行く途中の場所であった。なんとかマスターから渡された金額の範囲内で済みそうだと
ほっと息をついていると交差点で曲がる遠心力で彼女の頭が自分に凭れ掛かってきた。
鼻に匂いやかな香りが忍び込んでくる。澄んだ甘い香りは薔薇とは違う、スズランか、
いやそれよりもっと華やかな…花の香りなのは判別できるのだが。
触れる肩は細いが骨ぎすではなく女性らしい丸みを感じさせる。このほっそりとした
身体にどれだけの重圧がかかっていたのだろう。
――自らの酒のペースが極端に乱れるほどの、なにかが。
タクシーが速度を落とし停車し、思考は中途で止まった。彼女が中に入るのを見届ける
まではと思って、タクシーはそこで帰させた。自分はどこかで拾えばいいだろう。
彼女が暗証番号を押すが、まだふらつく様子が伺えるので肩を貸し自動ドアをくぐって
玄関まで付き合うことにする。上昇する箱の中、増えていく数字を見ながら彼女が突然
口を開いた。
「以前お世話になった女性が、ビルから飛び降りたの。即死。助からなかったわ」
衝撃の告白に、続は上を見上げたままの姿勢で硬直した。
「私が気付いていれば助けられたかもしれなかったのに、私自分の事ばっかりで…」
あとは堰が切れたように泣きじゃくるばかりの彼女に続はかける言葉も無い。
ややもすると崩れそうになる彼女を立たせて、部屋の鍵を貰ってドアを開けると
彼女の性格そのままのような整然とした、シンプルで趣味の良い空間が現れた。
ただ、今の彼女の内面のように部屋はいくぶん乱れ、荒涼とした気配が漂っている。
コートを脱がせてハンガーにかけていると、シンクから水の音がして、ふちに手をついた
彼女がコップの水を飲んでいるところであった。
「悪いけれど、コーヒーも出せそうに無いわ。冷蔵庫から好きに出してくれていいわ」
そう言われたので、その通りにミネラルウォーターを引き出し氷を取り出し
なみなみとグラスに満たしたそれを彼女の目の前に差し出した。
「こちらの方が冷たいし、おいしいですよ」
「ありがとう。でもお水はもういいの」
「スポーツドリンクでも買ってきましょうか」
「ごめんなさい、いらないわ。それよりも弔い酒つきあってちょうだい」
一時泣いて気が落ち着いたのだろうか、しっかりした口調ではあったが続は制止した。
さきほど店で寝入るほど飲んでいたでしょう、と。
「その代わりといってはなんですが」
台所をお借りします、と続はマスターから教わったカクテルを器用な手つきで作り出した。
冷蔵庫を見ると、自炊しているのか食材は揃っている。だが目当ては冷凍庫の中身。
あった。アイスクリームは何味でも良かったがそこにあったのはバニラアイス。
家でも飲むだろうと思われて軽く探すとウォッカの瓶が見つかった。これでいい。
大振りのグラスにアイスを放り込み、ウォッカをそこに半分ほど満たす。
「ナイトキャップに良いですよ。アイスの乳性分が胃の荒れを防ぎますし」
スプーンで混ぜながら飲んでくださいと渡したそれを一口飲んだ彼女は、泣き笑いの顔を
続に向けて「おいしい」とひっそり微笑んだ。
もうこれで安心して帰れる、と続は思った。だが積極的に帰る気にはなれなかった。
一人がけのソファーに深く座って、冷たいグラスをまるでカイロのように両手で包んで
傷心に耐えている気高くて孤独なこの女性を、ひとり置いて帰るのはいけないことだと
理性ではなく感情が強く続に訴えつづけている。
場数を踏んだ大人の男なら上手く乗り切ることもできるのだろうが、続はまだ17歳だし
女性というものを未だ知らない身だからして、気持ちは彼女に向いているものの
それをどうやって表したらいいものだか皆目見等がつかないでいる。
「ありがとう。たんなる客の一人にここまで親切にしていただいて感謝しきりです。
タクシーなら、ここからすぐ先の大通りに流しが走っているでしょうから」
礼儀正しい言葉には、彼女と続との距離がそのまま表われていた。
ひどく後ろ髪を引かれつつも、続は帰ることに同意した。
短い廊下を見送られ、彼女が板の継ぎ目のわずかな段差に躓いてガタリと音がした。
「おっと!」
身長約180センチの続が彼女を抱きとめると玄関の段差含めて彼女と身長は同じくらい。
お互いの顔を同じ高さで見つめあって、視線を先に伏せたのは彼女の方であった。
「ごめんなさい…あとは私一人で立ち直れますから。優しくしてくれて、ありがとう」
けれど、続は見逃さなかった。彼女の細い肩がまた泣き出す気配に震えているのを。
「帰れません。いいえ、帰りたくありません」
「なぜ…?」
彼女を納得させる、それ以上に自分のこの胸苦しい衝動を説明する言葉が見つからず
続にできるのは、ひたすらに彼女を抱きしめることだけだった。
「何を言ってるのか、自分で分かってるの?」
「…はい」
彼女の言い方は詰問ではなくて、こちらの真剣さを確かめるものなのが分かったから
続は真剣な顔で彼女に頷いて見せた。
「いいわ。靴を脱いで上がって」
部屋に掛かる時計を見ると、まだ深夜零時を過ぎてもいない。
今夜はどうやら長い夜になるだろう、寝室のドアに手をかけながら続はちらと思った。
いったい、どうしてあんなことを言ったのだろう。
彼女のベッドに腰掛け、膝に肘を付いて続はかたちのいい顎に手をついて考えていた。
あれは彼女と身体を分け合うつもりで言ったのではなかった。どこからくるのか
わからない、胸が締め付けられる思いに押された勢いで言った言葉だった。
心を静め、淡くとらえがたい心の揺らめきを追おうとしたが、水音がそれの邪魔をする。
水音?勢いのいい音は、台所の蛇口からでるそれではありえない…風呂場か!
そういえば彼女は寝室を出たまま、ずいぶんとこの部屋に戻ってきていない。
不吉な映像が続の頭に浮かんだ。酔ったまま湯船に浸かって沈んでやしないか。
続にしてはめずらしく焦って寝室から飛び出しドアを片端から開けていった。
二つ目のドアが洗面所で、バスタオルが畳んで置いてある。浴室には明かりがつき
水音はやはりそこからのものだった。声かけもしたが返事がない。
「大丈夫ですか?」
続の手が曇りガラスが嵌まったドアを横に引き開けた。
「どうしちゃったのかしら私…」
浴室に響く声が耳に入って、無意識に呟いていたことに気付いて一人苦笑した。
贔屓にしているバーに勤めている、女性と見まごうばかりの超がつく美形なウェイター。
だから家に上げたわけではない。今夜は一人でいるのが辛かったからというのもあるし、
それに、あの目を合わせた者の心に熱さを感じさせるほどの強烈な視線。色なら真紅。
私はそれに惹きこまれ、彼のひた向きな思いを受け入れたのだ、それは正直な思い。
彼はいま私の寝室で待っているのだろう。その光景を思った頬はやや赤く染まる。
私がこうしている間に寝てくれてしまえばいい。そんなことも考えていた。
湯船に溜めた湯はもう充分な量だろう。蛇口を締め、冷え防止に肩にかけたタオルを
脇に置いて湯船に足を入れかけたとき、浴室のドアがいきなり横に開かれた。
続の眼前にあったのは、生まれたままの姿の女神像。
女性としては長身の身体はすらりとしたプロポーションで、細い足首から続く脚線美は
見事というしかない。胸のふくらみは大きくは無いが小さくも無い。
そこまで見て取ったところで盛大な水音としぶきが上がった。
いきなりの続の出現にバランスを崩した彼女が湯船に足を滑らせたのだった。
「ほら、だから酔ったまま風呂に入るなんて無茶をするから!」
「だ、だ、大丈夫よ!」
「こういうときはせめてシャワーだけにしておくべきでしょう」
「湯船に入らないと、疲労ってのは取れないものなのよ」
「融通が利かない人ですね!酔ってて溺れでもしたら、どうするんですか?」
滑り込んだ勢いで頭までお湯に沈んだ彼女を急いで引き上げるが、入浴剤が入った湯は
なめらかで掴んだ腕がするりと抜けそうになる。ひと悶着あったあとようやく彼女は
姿勢を立て直して、洗い場に立つ続を下から見上げていた。白い湯で身体は隠れている。
「あの、心配してくれたのはありがたいけれど…いきなりこれはないんじゃないの?」
「気をつけてくださいよ。浴室事故で死亡するお年寄りも多いんですから」
「私はまだ23よ!」
「意外にお若かったんですね」
「…失礼な人ね」
さっきの騒ぎのせいでいつもは入浴時に纏めている髪が身体にまとわり付いている。
一つに束ねながら、彼女は湯面に顔を伏せて笑い出した。
「どうしました?」
「私もたいがいだけど、あなたもずいぶんとずぶ濡れよ」
「この場合仕方ないでしょう」
「案外、あわてんぼうさんなのね」
「誰のせいでこうなったと」
いいさして続もフッと笑い出した。前髪から雫は垂れているし、シャツもすっかり濡れて
下に着たTシャツの色まで分かる。パンツは言うまでもなく、下着も濡れている感覚がある。
「うちには乾燥機があるから入れておいてくれればいいわ」
「着替えがありませんよ」
「だったら身体が冷えるのも良くないし、温まっていく?」
あまりにさりげなく言われたので、そのまま頷いてしまうところだった。
まだ酔っているのかこのひとは。軽く睨むが、すでに全裸を見られている向こうは平然と
その視線をうけながしている。一つ溜息をついて、小さな意地で一言付け加えた。
「酔っ払いを湯船に残していくほど無責任じゃないですからね、僕は」
洗濯機の上に取り付けられた乾燥機に濡れた服を放り込んでスイッチを押した。
モーターがうなり始めドラムが回転し、温風が吹き出す音がする。
もういちど浴室のドアを開けると彼女は髪の毛をピンで上に纏め上げたところだった。
「横向いているから、終ったら声かけてね」
竜堂家で使っている市販のものには無いなんとも高級な泡の香りに包まれ、その趣味の良さに
続は感心していた。シャワーで身体を流して出て行こうとして、彼女のうなじに目がいった。
「終りましたよ」
「そう、じゃあバスタオルが吊り戸棚に重ねて置いてあるから、それを使って」
彼女の口調は落ち着いていて、その落ち着きぶりが続のなにかに引っかかった。
全裸の男女が狭い中にいて、この人は何も感じていないというのか。背中からは何も伺えない。
こっちはその綺麗な襟足に不覚にも鼓動が速くなっているというのに。
無言で足を上げ、湯船に乗り込んだ。いきなり湯面が上昇し、勢いよく溢れ出る湯に驚いた
彼女が再び湯に沈みそうになるのを続は後ろから引き上げた。
一人暮らしのマンションにしてはやや広めの浴槽だが、足を折り曲げねば体が入りきらない。
「な、んで」
「身体の疲れを癒そうと思いまして」
よくまあぬけぬけと、と首だけ振り向いた彼女の目が言っているが気にしないことにした。
少し熱めの湯が知らず冷えていた身体にじんわりと染みていきまことに心地いい。
「名前も知らないうちから一緒にお風呂に入っているだなんて、可笑しいわね」
「僕の名前は続。竜堂続といいます」
「つづく…?変わったお名前ね。私は室町由紀子。よろしく」
なんとも珍妙な場所での自己紹介にしばらく二人で押し黙った。肩が揺れはじめる。
それもじきに治まり、彼女の白かった肌がやけに赤くなっているのに気がついた。
「のぼせたんじゃないですか!?」
立ち上がりかけるのと、由紀子が振り向くのが同時だった。空気が凍りつく。
「き、ゃあああああぁ!」
「…あの、のぼせてそうなんじゃないのが分かって安心しました」
「いったい私をどういう女だと思っているのか聞かせてもらいたいものだわ」
湯船の中で足を抱えて体育座りをして、顔を半分湯に沈めてぶくぶくと文句をつける様子は
眼鏡を外してやや幼くなった顔とあいまって大人の女性というより少女のような雰囲気である。
「あなたのような男性と裸で一緒にいて、何も感じないはずがないでしょう?」
ほう、続はどこか報われた思いでいた。由紀子の肌はあいかわらず赤いままである。
「本当にのぼせてしまう前に上がりましょう」
そうして由紀子を湯船から軽々抱え上げると浴室のドアを開け、バスタオルを由紀子の上に
ふわりとかけて寝室へそのまま運んでいった。
「ずいぶんと力持ちなのね、細身でとてもそんな風には見えないのに」
「意外性があるっていうことで良いでしょう」
「…よく言うわ」
部屋に入ってまだ一時間ぐらいだというのに、風呂の効能か二人の間の無駄な警戒心は解けて
すっかり洗い流されていた。
ガウンを羽織った彼女を化粧台の前のスツールに腰掛けさせ、濡れた髪を乾かすのを手伝う。
室内に暖房が入っているとはいえ、着替えもまだ乾いてない続は腰にバスタオルを巻いて
肩に乾いたタオルをかけただけの姿である。間接照明の柔らかい光だけが寝室を照らす中、
由紀子の話す、自殺した女性との思い出話に続は耳を傾けていた。
「新人のとき配属された先で担当してくれた人なの。私は八人姉妹の末っ子で、父にずいぶんと
期待されていたからそのせいもあって、のんびり市民対応している場合じゃないのになんて
ずいぶんと思い上がっていた私を正してくれたのも、その人よ」
ミス警視庁の候補にもなったぐらい綺麗な人だったわ。思い出したのか懐かしむ口調だった。
「そこまでの人がなんで、自殺なんてっ…!」
続は無言で由紀子をみおろした。由紀子は下ろした手のひらを握り締め、白皙の頬を紅潮させて
目の前の鏡をにらんでいる。自分を必死に抑えているのだと知れた。
由紀子の喉の奥に押し込められた憤りの叫びを聞いた、と続は思った。彼女を自殺へと
追いやった何者かへの怒りが由紀子の瞳に燃え立つのを鏡越しに見ることもできた。
そして、由紀子がそうした感情をほかの誰にも見せないだろうということも。
しっとりとしたつややかな黒髪が続の眼の下で細かく震えている。
続は、無意識の自分にも説明できない衝動にかられ、そっとその髪をなでた。
髪がゆれ、由紀子が顔を仰向けた。生真面目な口調で続に問う。
「私は、いったいどうしたらいい?どうすればいいのかしら」
「ご自分で考えてください。先ほどの話を聞くに、あなたは警察官なのでしょう。
彼女が自殺された原因を突き止めるのも、そいつを逮捕するのがあなたの仕事だし
僕は、あなたを慰められても彼女の無念をはらすことは出来ませんから」
突き放すような言い方だと思うが、これに激昂するような人ではないと信用しているからだ。
はたして、由紀子は顔を赤らめたものの、それは自身を恥じる気持ちからであったようで
続へは「ありがとう」と短く礼を言っただけであった。
そしてふっと黙り込んだ。喉が詰まったようで、唇を動かすもそれは音として聞こえなかった。
鏡越しに二人の視線が合う。秀麗な顔が照明に照らされきらめく瞳が由紀子の顔をまさぐった。
瞬間、心がつながった。顔が火照るように熱くなる。
触れたい。相手に触れたい、肌に、手に、視線でなく直接に触れてもらいたい。
息をするのも苦しくなったころ、続の手が由紀子の肩を抱いていた。立ち上がり、二人の足は
ベッドへと向かった。倒れこみながら目を閉じた由紀子の視界は赤く燃えるようだった。
暖色のほのかな明かりに二人の身体は隠すところもなくさらされている。
双方、細身ではあるが出るところは出て締まるところは締まっている、目を惹くに値する裸身に
どちらのものともしれない溜息が洩れた。
由紀子は無言のまま、続の手を自分の胸へと導いた。これが女性の裸の胸か…言葉が止まり、
手を動かしてもいいのだろうかと軽く戸惑う。そんなところに続の緊張ごと包み込むような
小さな笑い声が耳にそっと届いた。
「大丈夫?」
返事の代わりに、軽くキスをした。
そのお返しか由紀子の唇が続の額に押し当てられる。瞼、鼻、頬とすべって再び唇に戻る。
細い腕に深く抱きこまれ、続は直接肌に感じる柔らかさに身震いがした。
気にせず、由紀子は続に深いキスをし始めた。
「ん、ふぅ……」
キスは唇を重ね合わせるものだけではないと知ってはいたが、実際に自分の口に他人の舌が
入ってくるのには軽い抵抗があった。
「あ…んう…」
だがその違和感はすでに通り越して、今は彼女の舌が自分のそれと絡まる感覚がひどく
甘美で心地よかった。互いに感じる舌は熱くぬめっていて、探るように動かすと
身体の中心に熱が急速に集まり、そそり勃っていくのが分かった。
由紀子の開いた目が合い、火花が散る。続の首にしなやかな指を絡めながら濡れた唇が光って
さっきよりも強い刺激が欲しいと合図を送ってくる。
顔を下げ、先ほどは手のひらで触れていた双乳に唇で触れていく。いつも見る端正なスーツの
下にはこんなにもあえかな肌が隠されていたのか。心臓が風のような速さで拍を刻んでいる。
ほっそりとした指が頭をおさえ、さらに胸へと押し付ける。匂い立つ甘い肌の香りに
頭の芯が溶けそうになりながら由紀子の望みにこたえようと頂点を唇で挟んだ。
はじけるように黒髪が揺れた。声があがる。
「っあ、ふ……あぁっ」
眉根を寄せ、悶え苦しんでいる表情のようにも見えるが声は甘く、その顔を見た続の心の内は
驚きより喜びの成分がおおかた占めていた。ついばむようにしていたのを舐め上げる動きに変え
由紀子の反応をうかがうと、身体も連動して跳ね、小さく肌が震えはじめた。
この先は、やはりそこなのだろうか。とは思うものの初めてだから手は由紀子の腰から下に
進まず周辺をさ迷っている。その動きに気付いて、髪に指を差し入れて撫でながら言う。
「大丈夫だから、ここにきて。もっと…触って」
少し大胆かと思うが、これは本心だからかまわないとも思う。
それでもゆっくりとしか動かない手を由紀子は握ると、やや開いた脚の間に導いていった。
湿った音がして続の指はぬるりとした液体に呑み込まれた。切ない響きを帯びた由紀子の声が
「触ってみて」とその先をうながす。指を這わせるとどこも頼りないほどの柔らかさで
ゆっくりと慎重に探っていくと硬い部分に指の腹が触れていた。
「あ!」
小さな悲鳴があがった。知識として知っていたその部分は爪の部分ほどの大きさで、幾度か
そっと往復させると堰を切ったように温かい粘液が溢れ、他の指にまで絡み付いてきた。
「あぁっ!!はっ、あんっ!」
熱に浮かされたような頭でその動きを続けていると
「くぅっ……ああぁっ!」
悲鳴に近い声が響き、由紀子はぐったりと天井を仰いで呼吸を荒げていた。
「すごく、よかった」
消え入りそうな声で告げられた感想に、続は顔に熱が集まるのを感じていた。
いつも余裕綽綽という態度は続を置いてどこかに走り去ってしまったらしく、がらにもなく
照れている自分を持て余していた。
その表情を見ていた由紀子は身体を起こすと、続のほうへ身体を寄せて身を伏せた。
息が掛かるほどの距離になって続は腰を引こうとしたが、あまりにも遅すぎる反応だった。
由紀子の唇がかたちをなぞり、敏感な場所をゆっくりと舐め上げていく。
「う、あっ」
やめてくれとも言えないまま、今度は舌がなめらかに幾度も往復する。
「はっ、あ……く……」
背を伝い、頭まで駆け上がってくる快感に支配されそうになって理性を急いで引き止めた。
「いいのよ…このまま、感じていて」
由紀子が囁き、先端の亀裂をゆるゆると舌が這う。
「だ、だめで…す」
頭を左右に力なく振った。これ以上なにかされたら、本当に限界が来てしまう。
「ゆ、由紀子……さん……」
かろうじてそれだけ言うと、淫靡な唇が股間から離れた。さらさらとした髪の毛の感触が
裸の胸をすべりおりるのを感じていると耳に熱い息が吹き込まれた。
「じゃあ、私の中で…きて」
起き上がった由紀子に両手を引かれ、ベッドに仰向けになった彼女の身体の上に被さった。
「…わかる?」
「ええ、まあ」
広げられた脚の間の淡い陰りの内側に見えるのは傷の裂け目のように赤く、濡れた……
入り口に押し当てるがぬめりで滑り、手を添えて探っているといきなり呑み込まれた。
優しくしないといけなかったのにとほんの少し強ばった顔を、下からのびた手がそっと包んだ。
「…ん。気持ちいいからそのまま、ね」
続に貫かれたままで、由紀子は恥ずかしそうに微笑んだ。…この人はこんなに可愛いひとだったか?
どちらかといえば白皙の美貌とあいまって冷たい印象を受ける由紀子なのだが、微笑むと素顔の
せいもあるのか、奥深い山中の木々から差し込む光の中に凛と咲く一輪の白百合のような、澄んでいて
それでいて可憐な風情がある。
もっと深く身体を沈めていくと「あぁ…」とため息のような声が漏れ、由紀子の腕が続の背中に伸びた。
自分を抱き締める身体は熱くて力強くて、その熱に今夜はそのまま流されたいと思う。
折り重なる二人は手のひらをつなぎ合わせ、視線を絡め、ゆっくりと身体を揺すり始めた。
ぎこちない動きはしだいに馴染んだものになっていき、続の顎から汗がしたたって白い肌に落ちた。
まだ、まだ重なり足りない。由紀子の脚が高く上がって、続の手がそれを抱き上げて両肩に乗せた。
深く身体を沈めると、奥まで貫かれる強烈な感覚に由紀子は悲鳴を上げた。
「ひ、あ、っああ!!つ、つづくくん、ぃやぁっ!」
一段と高くなった声に続は腰を止め、ゆるやかに揺すり始めた。最奥で波打つように揺さぶられ、
由紀子の声は蕩けるほどに甘くなる。
初めてきく、女性の切なく乱れる声に続の理性のたがが外れた。
荒々しく腰を躍らせて由紀子を攻め立てる。充分に燃え上がった由紀子の身体はその動きに堪えた。
欲情で擦れた声で由紀子の名前を幾度も呼ぶ。やがて二人は快楽の頂上へと駆け上がっていった。
ぎゅっと閉じられた由紀子の瞼の裏が真紅の炎に灼かれ、切れ切れの声を上げて意識が飛翔していった。
目に差し込む陽の光に起き上がると、由紀子は二日酔いの気配も無く、いつも見るように
端正なスーツ姿に身を包みコーヒーを手際よく淹れていた。
「どうぞ」
一口飲むまでもなく、嗅ぐだけで軽い疲労が消えていくような香りにハッキリと目が覚める。
サイドテーブルにマグカップを置いて、乾いて畳んである服に気がついた。
洗面所で顔を洗い身支度をしてキッチンに行くと、テーブルにはすでに朝食が用意されていた。
パンとサラダとスクランブルエッグ。味は従妹殿と肩を並べてもいいような出来栄えだった。
「私は先に出るわ。オートロックだからそのままで構わないから」
てきぱき立ち動くさまには、昨夜あれだけ乱れていた形跡はみじんも見当たらない。
同級生の女子との格段の違いを見せ付けられて、さすが働く女性は違うと思ったりする。
あまりにじっと見ていたので、それに気付いた由紀子の頬が染まり、諌める様に睨んだ。
「良かった。僕だけが夢中になったのかと思いましたよ」
「年上をからかうものじゃありません」
そう言って、思い出したように続に年齢を尋ねてきた。
「昨夜、18になりました」
「うそっ!その落ち着きでまだ18?じゃあ昨日まで17だったってことよね…」
「ええ、条例には引っかかっていませんから安心してください」
しらっと言ってのけた続に由紀子の肩がぶるぶると震えている。手が上がりかけて、下りた。
その代わりに続に向けられたのは、威厳を保とうとしてそれに失敗した風の笑顔だった。
「それぐらいの方がいいですよ。昨日のあなたは痛々しくて、見ていられなかった」
「もう大丈夫よ。あなたに助けてもらったことだしね」
それに、と知性のきらめく瞳を続にひたと合わせて生気にあふれた声が耳に飛び込んできた。
「彼女の仇を取るまでは、なにがなんでもやり抜いてみせるわ!」
「頑張って下さい。応援しています」
「ええ、頑張るわ!」
軽く片手を上げて続の声援に応え、由紀子は玄関の扉をあけて朝の光へ歩き出していった。
朝日だけではないまぶしさに目をほそめて、続は食器を軽く片付けてマンションを後にした。
その晩、マスターにタクシー代の釣りを返したのだが、かなり多めのそれにマスターは
目を細めたほかは何も言わなかった。
「まあいい、それでこそ若者だ」
知らぬ顔をする続にマスターは金文字で書かれた店の看板を軽く叩いてこう言った。
「彼女の心を安らげられたんなら、お前も立派なここの店員だ」
宿り木、か。
どちらかといえば彼女にずいぶんと甘えさせてもらったような気がする。けれども
最後に向けられたあの微笑みを思うと、それで良かったのだとやっと心が落ち着いた。
そしてあれから彼女、室町由紀子はこの店にめっきり姿を見せなくなった。
恩人の死因を突き止めるために忙しく立ち回っているのだろう。それは結構なことだが
それにしても残念だ。彼女にいつか披露しようと思ってあのカクテルを作れるように
ひそかに練習していたのに。
いつしかオーナーが替わり、店の雰囲気が変わったのを見て続もそこのバイトを辞めた。
もう彼女と会うあても無くなった。
時おり一人で作って飲むそれは、やはりあの女(ひと)としか思えない味わいである。