始×茉理/(4-600さん)
わんわん!と弾丸のごとく松永が竜堂兄弟の元に飛び出してきた。
茉理にあてがわれた寝室の扉が少し、開いている。
松永を見下ろしながら兄弟のうちに緊張が走った。茉理は仲間だとはいえ
やはり女性であるからボディーガードとして茉理の寝室に入れるのは松永だけ。
その松永が――人間なら血相を変えてというところだろうが犬なので顔色は不明だが
ともかく慌てたようにわんわんと怒ったように吠え立てる。
すわ、牛族の異形の部下達が茉理を襲いに来たのかと踵を浮かせかけたが
それにしても静かである。茉理は勇敢な女の子だから大人しく攫われるままじゃない。
事実、根城にしているホテルの寝室からは静寂しか伝わってこない。
「なんだ?お前怖い夢でも見たのか?夢遊病にしては元気だしなあ」
床から抱き上げ、終が松永の顔を覗き込む。
「松永君は犬だよ、終兄さん」
「犬も夢を見るんだそうですよ」
「のんきに動物豆知識披露している場合じゃないだろう」
溜息をついた始の顔を見て、松永がワン!と鋭く吠えた。低く唸りもう一声吠える。
「なにか松永君に叱られるようなことでもしましたか?兄さん」
「いや、そんなことはないと思うが…?」
「あれ?なんだお前。口になんかつけてるぞ…んむ。バターだ、これ!」
松永の口元を指ですくい、躊躇もなく口に突っ込んだ終が驚きの声を上げた。
続がなんとも言えない顔をしたが、瞬時の判断でそれを押さえ込んだ。
年少組をソファーの方に押し出しながら、始にそっと囁く。
「どうにも、ここは始兄さんが様子を見に行った方がいいでしょう」
「なんでだ?」
「いいから!こういうときは始兄さんであるべきです」
いやに説得力のある続の言葉に押し出されるように始は半信半疑のまま
茉理の寝室に向かった。いちおうレディであるから扉をノックして……
部屋の中からくぐもった声が聞こえる。
「は、始さん?!やだ!ちょっと待って、来ないで!」
「どうした、茉理ちゃん!!」
茉理の制止の声も聞かずに扉を開けてずかずかと部屋に押し入る。
普段の始ならそんなことはしないのだが、先ほどの松永の様子と続の強要、
さらには茉理の焦った声が、始の礼儀作法を空に吹き飛ばしているらしい。
茉理はベッドの上にいた。羽根布団が盛り上がり、茉理の剥き出しの肩が
そこから覗けている。近寄ろうとして、さすがに茉理の顔を見て立ち止まった。
「どうしたんだい?松永君が君の部屋から飛び出してきたんだが…」
「なんでもないの!ちょっとした意見の相違ってだけなの」
「茉理ちゃんらしくないな。いったい何をそんなに」
言いさして、茉理の顔が熟したように真っ赤なのを始は見た。
いやに恥ずかしがる茉理、そしてなぜか松永に叱られたわけ……バター。
ありえない妄想が始の脳内に広がる。足元が溶けて崩れるような平衡感覚。
(い、いやまて仮にも茉理ちゃんはお嬢様大学通学のしかも箱入り娘で)
始の思考能力もすっかり溶けてしまったようで埒もない言葉だけが渦巻いている。
「ま」の形に口を開いたまま始の言葉は喉から出てこなかった。
相変わらず茉理は顔が真っ赤に染まったままである。
その茉理が意を決したように始の顔を見上げ、この固まった空気に切り込んだ。
「あの、いつもこういうことしているわけじゃないから」
「ああ分かってるさ」
本当は分かってもないのに、ついそのまま返事をしてしまった。
茉理も動転しているのだろう、そんな始の様子にも気付かずさらに続けた。
「本当に、たまによ」
「たまにある!?」
「…そんなに驚かなくってもいいじゃない…」
「ごめん!その…悪かったよ」
たまにある、たまにある…その言葉が始の脳内に何百回もリフレインする。
「それってどういう時にあるんだい?」
馬鹿な質問をしたものだと始は激しく後悔した。茉理の表面温度はさらに上昇したようだ。
「聞きたいの?」
正直言うとものすごく葛藤した。だが、だがしかし自分の気持ちに嘘は付けない。
ましてこの気持ちを向けている相手は茉理なのだ。ここは後学のため?聞いておくべきだろう。
「知りたい」
始の短い、けれども決意がこもった一言に、茉理の顔が恥ずかしげに俯いた。
だがそれも短い間のことで、決心したようにくっと上向きになり始の目を見つめてきた。
「どうしても、我慢できないときとかな」
始はなにも言えなかった。俺はそんなにも茉理ちゃんに我慢をさせてきたのか!!
って、何をだ?という疑問は始の中には浮かばなかった。家長意識が強すぎるせいなのか。
ともかく自分に責任があるらしいということだけが始の意識に強く刻印されたのだ。
「ごめん、茉理ちゃん」
「なんで始さんが謝るの?だって…これは、始さんには何の関係もないことだもの」
関係ない。
自分の責任じゃないと言われて気が軽くなりそうなものなのに、始は深い穴に落ちた気分だった。
「そんな関係ないなんて言わないでくれよ、仮にも長い付き合いだろ。関係ないだなんて」
「だって始さんは、男の人だし」
始から視線を外して茉理はどこか冷めた口調で言い切った。完全に冷える前に始が言いつのる。
「そんなことない!男にだって、その、そういう気持ちはあるさ」
今度は茉理が驚く番だった。
「嘘!」
「嘘じゃないよ。俺だって、そのそういう時も………ある、かな。いやあるさ」
始自身とても気恥ずかしかったが、茉理との間に誤解を生じさせたくなかったのだ。
いや、今だって茉理ちゃんを誤解したままなのかもしれないが、せめて二人の心の誤差は埋めたい。
「そっか、始さんにもそういうときってあるものなのね」
ようやくほっとしたように茉理の顔がゆるんだ。良い頃合かと見て始がベッドに近づいた。
「なんか、嬉しいな」
もともと美形である従妹の顔に、さらに魔法の結晶が降りかかったような煌めきが加わって
始はとうとう今もそうだとか口走りそうになってしまったが、強い理性がそれを押しとどめた。
「でも、こんな牛種との決戦の前に考えるべきことじゃなかったわね」
「まあその、もとは人間じゃないけど今は生身の姿なんだし、仕方ないんじゃないかな」
始の下手な慰めにもかかわらず、それでも茉理は充分にその言葉が嬉しかった。
「そういってもらえて、すっかり気が楽になったな」
のびのびと背伸びをした茉理から羽根布団が滑り落ち、部屋義にしているチューブトップと
ショートパンツからしなやかに伸びた脚が現れた。
「??!!」
「どうしたの?始さん。あ…見つかっちゃったわね。昼間買っておいたバターケーキ。
真夜中に甘いもの食べちゃダメっていうけど、やっぱり手が伸びちゃって」
茉理は照れたように微笑むが、始の全身は硬直したままだ。
「口止めに松永君にも一口食べさせたんだけど、お気に召さなかったみたいだわ」
そして始の顔がオカシイのに気がつく。
「なんだなんだそうだったのかいや、なに、そうならいいんだ」
「もう、始さんったらどうし」
たの、という言葉は聡明な従妹の口の中に飲み込まれてしまった。
「あ!やだ!!始さん、いったい何を考えていたのよ!!!!ちょっと怒るわよ!」
すぐ横の羽枕を引っつかんで、茉理は遠慮なく始の頭を叩きのめす。
その間にも先ほどまでの会話が茉理の脳内で再生されていき、一時ストップした。
「俺だって、そのそういう時も………ある、かな。いやあるさ」
茉理の手が止まる。反省しきりの実に済まなそうな始の顔を見ながら茉理は微笑んだ。
「あのね、始さん」
「なんだい?」
ベッドの上に屈みこんだ始の顔が柔らかい両手にそっと包まれ、引き寄せられた。
「…これは、今回のことが終ったらという予約ということで」
すべてを了解した始の顔が照れが半分、嬉しさが八割といったように輝いた。
「それまで、ちょっとの間の我慢だな」
「そうよ。頑張ろうね」
頑張るのは牛種を倒すほうだよな、と一応落ち着いて考えた後、茉理に耳打ちをした。
「これなら堂々と夜食が食べられるわね」
そして今度は始のほうからさっきより少し長めのキスをして、二人で寝室を出た。
「…今回は特別だぞ」
一応重々しく言ってみたのだが、年少組二人の歓声がそれをすっかり打ち消してしまった。
始はそれを後ろに聞きながらルームサービスの番号をプッシュしている。
続はそっと茉理の横に立ち非常に失礼な誤解について謝罪したが、茉理はもちろん快く許した。
これが最後の平和な食事になるかもしれなかったが、とりあえず五人と一匹は幸福だった。
ドアベルの音が賑やかに部屋に響き渡る。
終わり〜ノシ