始×茉理/(4-39さん)



バレンタイン。
それは男がどうにも気にせざるを得ない一日。
義理でもなんでも肉親以外からのチョコをゲットできるか否かで
2/14を境とする一年が幸先の良いように思えるかどうかの分かれ道。
女神が微笑まなかった男たちがお菓子会社の陰謀なだけだと声を張り上げようが
「そんなのキャラ宛てに来てるってだけでお前の人気じゃねーぞ勘違いすな!
 早よ(お好きな題名を)の続きを書けい!」
と実に正しい抗議を髪と共に筆が退化しまくっている作者に申し立てようがなんだろうが
竜堂兄弟にとって、バレンタインはごく普通に通過していく年中行事である。

ピンポーン♪
「みんな、お早う」
「おはよう、茉理ちゃん」
「チョコレートありがとう茉理ちゃーん!」
「いきなりなんですか終君、恥ずかしいですよ」
扉を開けた茉理の目に飛び込んできたのは、終の満面の笑みと差し出された手。
そして背後で天を仰ぐ続に、笑顔の余。
「…始さんは?」
「職員会議とかで、もう出かけてますよ」
そう、となぜか緊張が解けたように息をついた後、茉理は紙袋を掲げて見せた。
「もちろん持ってきているわよ。はい、どうぞ」
「い〜やっほう!!」
「毎年毎年、ありがとうございます」
小躍りして弟の手を取り珍妙なダンスを繰り広げている終をあきれて見つつ、
茉理から紙袋を受け取った続は丁重にお礼の言葉を述べた。
「美味しいんだよね、茉理ちゃんのチョコクッキー」
いつのまにやら余が続の横に立ち、袋の中身を嬉しげに確かめていた。
終はいまだ一人舞い踊っている。
「これはずっと変わりませんね。味は格段に向上していますが」
含みのない続の穏やかな笑みと言葉に、茉理の記憶のページが捲られていく。




―茉理がまだまだおぼつかない手つきで、それでも母親の冴子と一緒に作った
最初のバレンタインは、多少焦げたクッキーに溶かしたチョコをかけたもの。
「年の数だけあげたらいいんだって」
バレンタインと日付の近い行事と勘違いしてるんじゃないかなあと思いつつも
始は従妹が初めて手がけたお菓子をお礼を言って受け取ったのであった。
実際は、始の年齢よりずっと多い枚数のチョコクッキーが入っていたのだが。

小さな指にいくつかの絆創膏を巻いた女の子の期待に満ちた目で見つめられて
始は少々面映く感じながら幾枚かクッキーを口に運んだ。今一歩という味ではあったが
それよりも従妹の気持ちが有難くて可愛くて、始の心に春の空気が一足先に訪れた。
そして可愛らしく眉根をキュッと緊張させて見守る茉理を安心させるためでもなく
「おいしいよ。ありがとう」
と始は正直に言ったのだった。お世辞など毛頭なく、本心からそう感じられたのであった。

で…あったのだが、バレンタインが一週間も続くことになるとは思わなかった。
周囲の大人たちの微苦笑の中、茉理はせっせとクッキーを作り始はそれを食べきった。
それでも、その数日のうちで顕著に味の向上が見られたのはさすがというべきか。
始も用心したのだが、それでもしばらくしてのち歯医者の門をくぐったのは
今でも茉理には内緒である。

授業があるから、と茉理が竜堂家を辞した後、早速袋の検分を始めた終が声を上げた。
「あれ?始兄貴の分は?」
「袋にはちゃんと名前あるものね。続兄さんと終兄さんと、僕」
「きっと後で二人で約束でもしてるんじゃないですか?」
「そーだよなー。茉理ちゃんが始兄貴をとうとう見捨てたんじゃないかと思って
 俺心配しちゃったよ」
「終君が心配してるのは自分の食糧事情でしょう。あの二人に限ってそんなことは
 ありませんよ。まったくもう」
「それより、もう学校に行く時間だよ」
「よし、余。紙袋は持ったな?重かったら俺に遠慮なく言えよ、持ってやるからな」
「食べ物のことになると本当に手回しがいいんですね、終君は」
「「いってきまーす!!」」
足取りも軽く、兄弟はそれぞれの学校に登校していったのであった。



さて、その日の夕食。
四兄弟は夕方茉理が届けてくれたビーフシチューをメインに、手でちぎって盛り付けるだけで
できるレタスサラダと、これまた切ったリンゴとヨーグルトを和えたものを食していた。
話題はやはり今日の戦果のそれぞれの報告であったり中身の感想であったりなのだが
いつもなら軽快に回転する会話も今日は微妙な空気に足が止まりがちである。
原因は分かっている。だが、それを明確に指摘するにはいかな勇敢な兄弟であろうと躊躇われた。
「結局、本来の意味でチョコを一番多く貰ったのは余君ということですね」
「俺だって数では負けてないぞ」
「今回のような場合は量より質です。見なさい、この凝ったラッピングの数々」
「終兄さんは男の人からも貰ってたねえ」
「…終君、宗旨替えでもしたんですか?!」
「だから!あれは〜つまり戦略的投資ってワケでえ、愛情じゃなくだなあ、人徳って」
終の言葉にかぶせるように
「なんでも、五月まででいいからうちの部に籍を置いてくれとか頼まれてたよ」
「ありていに言えば買収されたってことですね」
「いや、だってチョコに罪はないし捨てるなんて家訓に反するし」
「ま。いいですけどね」
「そういう続兄貴はどうだったんだよ」
「聞きますか?可愛い弟を無駄に落ち込ませるようなことはしたくないんですが」
「もういい。分かったからさ」
などと心温まる会話の最中にも食卓からは迅速に夕食が消えうせていった。
ご馳走様のあと年少二人が皿洗い、そして続は立ち上がり今だ寡黙な始にコーヒーをすすめた。

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淹れ立ての匂いに気が引き立ったのか、始の方から続に話しかけてきた。
「で、続はどうだったんだ?」
「まあ色々ですね。チョコがメインというよりは添え物というかんじでしたか」
「ほう」
「どれもこれも手に負えそうにないのでそっちはお返ししました。まあ察してください」
「高級時計とかか?」
「それもありましたが…ああ、これもそうでした」
「ホテルの食事券?」
「バイトから帰るときにロッカーに差し込まれていたもので返しようもなくって」
「食事くらいなら、と思うが」
「純情な女の子ならそうも考えますが、僕の職場が職場ですのでぞっとしませんね」
「なるほどね…」
流麗な書体で印刷された券を裏返してみると“宿泊付き”とある。
「本人の懐から出たお金じゃないでしょうから無視して構わないでしょう。
 どうもこっちから誘ってもらいたかったらしいですけどね。僕にも選ぶ権利がありますし」
始としては苦笑するしかない。
そのままさりげなさを装って続は核心に触れてみた。
「そういえば、茉理ちゃんとは会えましたか?」
「いや、会ってないが…きっと忙しいんだろう」

それだけ聞けば十分だった。コーヒーカップを下げ年少二人のもとへ運んでいく。
「始兄さんどうだった?」
続は軽く両手を上げて見せた。
「俺、あんな始兄貴初めてみるよ」
「僕のまだ残っているからあげようかしら」
「余君は優しいですね。まあ二人の問題ですから、まあ大丈夫でしょうけど」
「なんだって続兄貴には分かるんだよ」
「人生経験の差、と申しておきましょうか。それより宿題は済んでるんですか?」
そうやって終の納得いかなそうな顔を封じた続であったが確信があるわけではない。
あの恋愛ごとにはまったく不得手な兄を知っているだけに、まさかの場合を
ちらりと考えなくもなかったが、あとは二人の気持ちを信じるしか術がなかった。



翌日、受け持ちの授業が無い始は一人家に居た。
「平日に休めるなんていいなぁ」と誰かのぼやきが聞こえる気がするがとんでもない。
学生の休日と違ってこっちには次回の授業の下準備というものがあるのだ。
それに論文のタネになりそうな資料にも幾つかあたらねばならない。
とはいえ、書庫に篭って古書まみれというのは普段の休みと寸分変わりなく、
そのことに思い至った始は一人憮然とした。既に夕刻なのか、書庫は薄暗い。
もう目ぼしい資料にはあらかた付箋を付け終わったということもあり
書庫から出るとコーヒーを淹れ、カップ片手にソファーに腰をかけた。

しばらくは先刻までの活字世界に思考をさまよわせていたのだが、やはりというか
結局、昨日から気にかかっているあのことに始の意識は向かってしまう。
(…お手上げだな…)
正直な心情におとなしく従うことにした始は、脳内の記憶を巻き戻していく。

そう、あれは叔父の靖一郎と学院の廊下で顔を合わせたときのことだった。
普段から始を前にすると浮き足立ったどうにも不自然な態度をとる叔父であったが
昨日はそれにさらに輪をかけた具合だった。始を見つけるなり話しかけてきたのだから。
「娘にね、チョコをもらったのだよ。なんでも超高級店のものだとかで、いや嬉しかったね」
「それは良かったですね」



茉理のことをわざわざ娘と言い換える、それは親戚でも学校ではけじめをつけなければ、という
殊勝な心がけからではもちろんない。その分かり易すぎる空気に始はうんざりしながらも、
礼を失しないようには相槌を打った。
「親や親戚ばかりでなしに、他にチョコをあげる相手ぐらい居てもいいだろうにねえ」
あまりに露骨な始への牽制であるが、反応するのも馬鹿らしい。
始は最小限の労力で口を笑みの形にもっていったのだが
「な…そんな顔されたって怖くな、ないからな?」
どうやら肉食獣の笑顔と映ったか。だがそう見えたとして、始には些かの不都合もない。
そそくさと理事長室の扉に逃げ込んだ叔父を冷ややかに見やり、始は学院を後にした。

叔父の言動に左右されたわけでもないが、茉理の通う青蘭女子大に向かうことにする。
長身で目立つ始は茉理の友人にはよく知られており、向こうから声をかけてきた。
「あのー、茉理ならさっきすごい急いで帰っていきましたよ」
「すれ違いになっちゃったわね、茉理ったら」
おそらく二人が待ち合わせをしていたのだと彼女らは思ったのだろう。
「あ。ああ、ありがとう…じゃあ」
それなら家かな、と気軽に考えて始は自宅に戻ったのだが、夕食のシチューを届けて
そのまま茉理はすぐ帰ってしまったのだという。他に言付けは無い、という。
すでに時間は午後七時。そして夜が更けても電話も何も竜堂家に掛かってこなかった…



なにも、たまたま、今年が無かったというだけではないか、そう思おうとして
そっちのほうがよほど不自然であることに気づく。他の三人には来ているのだから。
やはり…これがまずかったのだろうか、正面から茉理に対する気持ちをきかれると困る、
などと真剣に考えることを棚上げにし続けていたこと、それが今回の事態を招いたのか。
そうなのかもしれない。だが、茉理と縁が切れたのだとはまったく考えられなかった。
なんといっても茉理が生まれたときからの付き合いであるし、自分が一番彼女に近い男だと
思っていたし、そして茉理も、そう思ってくれていたのではなかったのか。
仮定ばかりの自問自答に行き詰まって、始は天を仰ぎ目を閉じた。

沈む始の意識を引き揚げるかのように玄関のベルが鳴る。
ドアを開けると竜堂家の文明生活を維持する司令官、もとい、茉理が立っていた。
「こんにちは、始さん。今、忙しい?」
「いや、茉理ちゃんならいつでも歓迎だよ」
「ああそうだ、はい、これ」
内で飛び跳ねた心臓を押さえながら紙袋を開けてみると、美味しそうなサンドイッチ。
「始さん好きだったわよね?カツサンド」
「…さっき軽く食べたばっかりだから後で頂くよ」
それより、と言いかけて言葉が詰まった。
待て、これがいけなかったのではないか?さきほどの自問が起き上がって始の肩を叩く。
茉理をそのまま居間に通し、今度は二人分のコーヒーを用意する。




だが、茉理と並んで座った始の第一声はこんなものだった。
「今年も皆にチョコクッキーありがとう」
どんな凶悪な悪党がダース単位で襲撃を掛けようがまったく動じない豪胆さを持つ家長も
この可憐な従妹の前には形無しである。
そんな始の忸怩たる内心も知らずに、茉理は手を振って恐縮してみせた。
「毎年代わり映えしないんだけどね、喜んでもらえたならなにより」

次こそ、と口を開きかけた始より半瞬先に、茉理が溜息とともに切り出した。
「チョコといえば、本当に今回のバレンタインは失敗しちゃったわ」
聞き捨てならない内容に、始はその先を促す。
「今までとは違うことをしてみようかなって思ったの」
「…それで?」
「友達の間で評判で、すごく人気あるし、私もあげたくなっちゃって」
何気ない口調で話す茉理に対して、始の緊張は危険水域にまで急上昇する。
「でも、それも無駄になっちゃった」
「どうして、茉理ちゃんがあげたっていうなら無駄なんてことないさ。 
 相手は絶対、嬉しかったと思うよ。俺が保証する」
すでに針はレッドゾーンに振り切っていたが、茉理があんまりにもしょげた顔をするので
なにをおいても大事にしてやりたい女の子のため、始は心を尽くして言葉を並べた。


「…確かに嬉しそうだったけど」
「じゃ、良かったじゃないか」
自分は今普通の顔が出来ているのだろうかと、始の意識の遠いところが呟く。
「でも、実の親にねえ」
「……」
「そんなに喜ばれても、ね。確かに泣き出さんばかりであったけど。
 でもあれは父にあげる予定で買ったものじゃなかったのにな。…始さん?」
しばし絶句していた始であったが、さらと髪を揺らしてこっちを真剣に見つめる茉理に
今度は別の箇所が跳ね上がる。それも数秒のうちになんとか押さえつけるのに成功し、
始は深く息を吸って本題へと踏み切った。

「で、俺へのチョコはあるのかな?」
「もちろん!」
昨日から張り詰めていた糸が切れたのか、始はソファーに深く凭れかかった。
「なんとか昨日一晩で急いで作ったものなんだけど、はい、始さん」
「ありがとう」
「嬉しい?」
「そりゃあ好きな子からチョコ貰えたら嬉しいさ」
「あ、ありがとう」
茉理の頬が染まっているのを見て、今自分が何を言ったのかに始もようやく気づくが
なに構うことはない、事実、そうなのだし今さら隠し通すものでもない。
「始さん、めったにそういうこと言わないから…」
「…そんなに、かな?」



無言は有言に勝る。
「では、これから改めることにしようかな」
「そういうことは宣言してするものじゃないと思うし、慣れない事はしないほうがいいと思うし
 ガリ勉になるっていいだす終君みたいというか、」
自分のことを理解しての言だというのは分かるが、それにしても例えが悪すぎると始は思う。
二人が思ったことを本人が知ったら「ぐれてやるぐれてやる」ときっと吠えるに違いない。

沈黙の天使がゆるりと通り抜けた後、意外なセリフが茉理の鼓膜をノックした。
「茉理ちゃん、食べさせて」
一瞬自分の聴覚を疑った茉理だったが、始の方は人の悪い笑みを浮かべている。
先ほどの喩えへの始なりのお返しなのかもしれない。
(そういうことなら…)
チョコレートの包装紙を取り去り、自作のトリュフを一つ摘まみ出すと
「どうぞ」
口紅も塗っていないのにつややかな唇にチョコを咥えた茉理に、今度は始が固まる番だった。
まさかこう来るとは、けれどもいまさら引っ込みもつかない始は、慎重に茉理に顔を近づけ
端を遠慮がちに齧る。極近距離に近づいて、茉理の睫毛が鳥の羽のように長いことに気付く。
そして、なんとも柔らかい感触が唇に一瞬残って茉理の顔が始から離れていった。
今の感触がなにを意味するか直感したものの、脳裏に染み通るにはしばらく時間を要した。

「美味しかった?」
きらめく生気が結晶化されたらかくやと思える、茉理の笑顔。
「…わからなかった」
チョコを一息で飲んでしまったのである。
「じゃあ、はい。」
今度はスティックにチョコを刺して始にすすめる。
「どう?」
味わっているのか始は無言のままで、気になった茉理が始の表情を伺うように顔を近づけると
始は茉理の後頭部を引き寄せ、チョコのかけらを茉理の口に放り込んでやった。
「美味しいよ、だろ?」
照れて恥ずかしいのか、ちょっと睨む茉理が始にはとても可愛く見える。




トリュフは洋酒が多く使ってあるのか香り高く、口に残る甘さは熱く溶けていく。
そういえばカカオは南国の木、コロンブスが持ち帰ってヨーロッパで流行を巻き起こした、
薬用とか興奮作用があるとかで―けれど、その所為だけじゃない。
一つ食べるたびに進んでいくキス、それの深さが二人を酔わせていく。

茉理は始の膝の上に横抱きにされ、茉理の腕は始の胴に回されている。
最後の一粒が二人の口の中で溶けるころにはすっかり茉理の目は潤んでいた。
始の熱も充分高まり、茉理は始の腕の中で身じろぎした。

―けれど
「今日は、ここまで」
不思議そうに見上げる茉理の目尻に紅が差した表情は極上の艶っぽさだが。
「タイムアップだ」
シンとした居間に夕刻を告げるメロディが静かに降って来る。
もうじきお腹を空かせた弟達が帰ってくる時間である。
身体は離れたが、まだお互いの熱が自分のそこここに感じられる。
それは実に心地よい余韻で、二人肩を持たせ掛け合ってしばし過ごした。

「今日はかき揚げを作るからね」
そういってエプロンをつけた茉理は、有能なハウスキーパーの顔に戻っていた。
ふと思い出して、どこのチョコレートを買ったのか茉理に尋ねてみた。
「ジャンポール・エヴァン。フランスのチョコよ」
答えながらも茉理は手際よく夕食の支度をしていく。
「天国、ね」

思いついたのだがさらりとは言えない。
「俺もまだまだ、だな」
「何か言った?始さん」

―俺にとっては君こそが天国の味だよ、なんて。




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