始×茉理/2-834さん
「いい天気〜」
すらりと窓を開け、パジャマ姿のまま茉理は軽く微笑んだ。
「やっぱり、常日頃いいことはしておくものね」
彼女が言ういいこと、とは竜堂兄弟と悪を成敗した事だったりするのだが。
そんな反社会的な行為をするとは露とも思えない容姿の持ち主でありながら
過去には戦車ハイジャックの実績はあるわ、悪の一味の栄養補給の要であるとか
まあ色々ある。「美女ほど謎を多く持ってるものなのよ」とうそぶくものの
実際には「このままお転婆で始さんにお嫁にもらえなくなったらどうしよう」と
ふと真面目に考え込んだりする、どこにでもいる普通の女性なんである。
で、今日は普通の女性なら誰でも心浮き立つデート当日。
ここ最近、立て続けの事件で暢気にデート提案できない空気が流れていたのだが
「こちらから出ることもなかろう、来たならその時相手を叩けばいいだけだ」
との家長の宣言により、巨悪との対決は満場一致で一時保留となった。
下の兄弟はさっそく遊びに行く計画を立て、続はバイトに戻り、残るは長兄、始。
「俺らは好きにやるから、兄貴達も好きにやっていいよ」
「つまり、自分らの行動の制限をしてくれるな、と。そういうことですね」
あっさり真意を見抜かれた終はそのままくるりと始に向きかえり
「それよりもさ、茉理ちゃん!ここんところ迷惑かけっぱなしだったろ?
お詫びがてらそのお返ししなくっちゃ。始兄貴に任せる!」
「や、お前に言われるまでも無く考えてはいるよ」
「本当?今俺に言われて気づいたんじゃなくて?っ痛!」
「茉理ちゃん、どこが喜ぶかな。今の季節なら横浜とか、どうかしら」
傍での騒々しさはどこ吹く風、とばかりにおっとりと口にする末の弟。
結局、余の提案に乗り始と茉理は横浜へお出かけすることとなった。
お茶の用意をしながら茉理はこの一部始終を聞いていたのだが、それでも
「横浜に行かないか、茉理ちゃん」と改めて始から申し出てくれたときは
とても嬉しかった。が、始が言い終わる前から「よろしくお願いするわね」と
言ってしまったのは、さすがにちょっと恥ずかしかったかもしれない。
けれども、デートはデート。
茉理は前夜に吟味して選んだワンピースを着、手早くリボンを結び鏡の前で姿を整えた。
素材はシルクで形はホルターネック。前でクロスした生地を首の後ろで
リボン結びにするスタイル。胸の空きはそれほどでもないが、背中は大きく空き
普通の下着では見えてしまうデザインだ。もちろん胸部にはパットが入っているのだが
普段のジーンズ姿に比べたら、かなりの思い切った格好といえる。
だが、クリーム色の生地に可愛らしい花柄が水彩画のようなタッチで大柄に
描かれているので、女っぽいというより可愛らしい雰囲気である。
さすがに昼間から肩は出せないので色落ちしたGジャンを羽織りさらにカジュアルダウン。
クローゼットから服と同色のつま先があいたハイヒール、ハンドバッグを取り出したが
「革じゃかしこまり過ぎちゃうかな…」と思い直し、蓋付きの籐バスケットを選びなおした。
マニキュアもペディキュアも完璧なのを確認して、ピーチピンクの口紅を塗り支度は完了。
時計を見ると駅での待ち合わせにはまだ大分ある。茉理はしばし思案した後
駅ではなく竜堂家へとまっすぐ足を向けた。
茉理が玄関に立つと、始はもう出かける準備が整っており靴を履いている所だった。
始の格好はというとチノパンにボタンダウンのシャツ、モカシンの靴に麻のブレザー。
平凡なセンスではあるが、着ている人が長身の美丈夫なのでまったく不足はない。
残りの兄弟は今日は皆で留守番らしく、ラフな家着でくつろいでいた。
いつものジーンズ姿以上に似合っている茉理のワンピース姿に約一名を除き
兄弟は色めきたった。
「今日はすっごく女らしいね、素敵だよ、似合ってる。」
「今日も、でしょ余君」
「なんかそれに比べて変わりないなあ始兄貴は、それじゃお姫様と従者だよ。」
「いっそのこと着替えていきませんか、兄さん。服ならお貸ししますよ。」
やいのやいの言う兄弟に苦笑いしながら
「土産買ってくるよ、家のことよろしくな」
「ええ、それはご心配なく。それより兄さんがドレスアップしたレディを“最後まで”
上手にエスコートできるのか、そちらの方がよほど心配ですよ。」
続にしてみれば、堅物を通り越して鈍いのでは?と疑いたくなるほどな長兄のため、
それでも精一杯可憐に装った茉理の健気さを応援したセリフなのであるが、始には
続の常の容赦ない批評ととったようである。
「痛いとこ突くな、まあ期待に添えるよう頑張ってくるよ」などと微苦笑している。
茉理には、そんな言葉の裏側にあるさりげない茉理へのエールと長兄の野暮さをなんとか
フォローしたいという兄弟達の想いが伝わってきたので、それに応えるつもりで
留守番する兄弟達へ、レディらしく優雅にお辞儀をしてみせた。
「じゃあ終くん余くん、お土産たくさん持ってくるから待っててね。行って来ます」
「車があれば良かったんだがな、申し訳ない」
高身長には吊り革になっていない吊り革に手をかけながら始は茉理に軽く頭を下げた。
いかんせん、家の車が廃車となってしまったので電車移動もいたしかたない。
茉理はまったく気にしてないのだが(むしろ会話に専念できるし)始の真面目さに笑みがこぼれる。
が口では「そうね、せっかく隣に乗せて絵になる美少女がいるっていうのに残念ね」と軽口を叩いてみせる。
高慢に聞こえないのは彼女の特質というのかなんというのか、始は精彩に富んだ従妹の表情に
少々見とれていた。「それが惚れてるって状態ですよ」と続がその場にいたら突っ込みいれてる事だろう。
まずは中華街でも、ということで最寄り駅で下車し、観光客で賑わう通りを二人並んで歩く。
すっかり観光地化して料理はねー、とか言いながらも屋台は別の楽しさ、と肉まんや
小籠包などあちこちでつまみながら通りを気ままに散歩する。
「下の二人を連れて来たりなんかしたら、ここいらの屋台は昼過ぎには一斉に店じまいだな」
「ふふ、そうね」
前に近所の祭りで大量に買い込んだ屋台の味をアクロバットな持ち方をして落とさず
しっかと器用に抱え込んでいた二人を思い出し、茉理はクスクス笑った。
タピオカ入りのミルクティーをすすりつつ、二人は山下公園へ足を向けた。
五月も半ばの風は、バラの匂いをまとい軽やかに二人の周囲を舞い踊っている。
大道芸人や見事に咲いたバラ園を囲む人だかりのほかに、にぎわっている一角がある。
どうやら旅行会社のブースらしくアンケートに答えると景品がもらえるらしい。
避けて通る理由は特に無い、むしろ格好の暇つぶしとそこへ立ち寄ることにした。
「『ハネムーンはどちらに行かれましたか?未だならばどこを希望されますか?』だってさ」
「大英博物館・大英図書館巡りコース、って選択肢は無いのね」
「このリゾートコースってのに丸をつけておくか」
「以外〜てっきり遺跡コースかなって、始さん好きでしょ?」
「いや、それはハネムーンということならさ」
アンケートも終わり、小さい包みを茉理が受け取ろうとしたとき叫び声がした。
隣に腰掛けていた老夫婦のカバンを男が引ったくり、まさに走り出したところだった。
あまりの事に驚き、バランスを崩してパイプ椅子から転げ落ちた婦人を助けながら
「始さん!」
茉理が呼ぶより前に始は男の後を猛然と追っていた。週末の賑わいがあだとなり
男に少々遅れをとった始は、とっさに皮靴を脱いで男の後頭部に投げつけた。
身長190の男が履いてるサイズの靴を超人の力で正確にピッチングしたら結果は明白。
昏倒した男からカバンを取り返し、夫に肩を抱かれ助け起こされた婦人に手渡した。
倒れた男に警官が走りよるのが見えたので、ご婦人は夫にまかせることにして
騒ぎが広まる前に二人は山下公園を出、タクシーを拾いみなとみらいへ向かった。
ショッピングモールを冷やかしたり海べりを散策したりと一般的なデートコースを順当にこなし
夕飯は中華街に戻らずビル内のイタリアンレストランにて食事することにした。
テーブルに蝋燭の灯が揺れる店内で、茉理のドレス姿は非常にサマになっており始は素直に賞賛した。
まあ「似合ってるよ」というセリフたった一言であったが。
それでも茉理はその一言でお洒落した甲斐が十分報われた思いであった。
食事のあと、ワインにほてった茉理のために始がお茶を買いにいってくれることになった。
夜中までライトアップしている観覧車を眺めながら茉理が家来?が帰ってくるのを待っていると
「ねえ、ねえ君。すーっごい可愛いね。いま暇?」
無視し続けたが、かなりしつこい。
「ねえ、大学生でしょ?どこの大学?」
「○○女子大ですけれども?それが、何か?」
「俺、W大学でパーティサークルの顔やってるんだけど、女子大なら有名大学に興味あるだろう?」
「あ・り・ま・せ・ん。有名大学なんて興味全然無いですし、それに籍だけ残ってる学生に声かけられてもね」
セリフの前半か後半かどっちが急所を突いたのか茉理は興味ないが、男には違ったようで
「何、生意気な女だな!有名大学の学生と、知り合えるチャンスなんだぞ、チャンス!惜しくないのか!」
半端にパーマが取れたドレッドヘアが迫ってきたため、ピンヒールに全体重を掛けて無礼な男の足の甲を踏んでやる
(ん、もう!!こんなことのためのお洒落じゃないっていうのに!)
これにこりずにさらに茉理に襲い掛かろうとした籍だけ男に、カーンと小気味良い音。
「始さん!」
「ごめん、遅くなって。また買いにいくハメになりそうだけど」
「本当、遅いわよ。でも自販機じゃないフレッシュハーブティーで手を打ってあげる。行きましょ」
頭を抱える男に背を向け、始の方へ足を踏み出したその時、背後から肘がいきなり引かれ
ひさびさのヒールのためにバランスを崩した茉理は運河沿いの柵から危うく転落しかけた。
とっさに手を逃した始が茉理の手を引き遊歩道に引き戻したが、その反動で始が柵を飛び越える事となった。
「大丈夫?!」
一瞬水に頭が沈んだもの始はすぐ岸に手をかけ、海水を滴らせながら軽々と身体を引き上げて
「ん、いや茉理ちゃんが無事なのがなにより。事故に合わせたりなんかしたらご両親に面目が立たないよ」
「面目なんてすでに布団で横になってる両親よ。それより始さん、本当にありがとう…助かったわ」
「おい、お前ら!俺を引き上げろ!」
ほうほうの体で岸の柵にしがみついた男を見、始は見捨てることを提案し茉理も賛成した。
あの強引さでは“有名大学生に紹介”どころではなかったろう、助ける方が罪になる。
「これじゃ、電車に乗れないなあ」
「もうショッピングモールも閉まっている時間だしね…よし、ホテルに行きましょう」
「ああ。…え?」
「目の前にあるそこよ、歩いてほんの2、3分も掛からないわね。…どうかした?」
「え、何で、」
「ホテルにはクリーニングのサービスがあるのよ。麻のジャケットも、ちゃんと元通りになるわ」
「あ、ああ。そうか…そ、そうそれは助かるな」
ずぶぬれの始をロビーに待たし、チェックインをした茉理はホテルマンに事情を話し
部屋に着くと始をバスルームに放り込み、ランドリー袋をホテルマンに渡しとテキパキ立ち回った。
一息ついて振り返ると、少々寸足らずなバスローブ姿で所在無げに始がベッドに腰掛けていた。
茉理はホームバーからバドワイザーを二本取り出し、始の隣に腰掛けた。
「どうぞ。ハーブティーどころじゃなくなっちゃったわね」
「家に電話はした?」
「もうしたわ、大丈夫。始さんこそどうなの?」
「ん。もう遅いしなあ。続もいることだし…いや。やっぱり連絡入れておこう」
どうやら続が出たようだ。合間合間に「え」「とんでもない」やら始の焦った声が聞こえてくる。
明日帰るとの連絡も終え、バドワイザーを片手に始はくつろいだ様子である。
それを見て茉理はようやく先ほど始が戸惑った原因に思い至った。
言葉だけ見れば、かなり大胆すぎる誘いである。とっさの思いつきと判断だったのだが
まったくその気が無いってわけじゃないんだけど、それでも、いや、だけど、でも、
と今度は茉理があわあわと落ち着かない状態になってしまった。それを見て何を思ったか
「あ、その、俺を信用してくれていいよ茉理ちゃん。ここツインだし、まだ未婚のお嬢さんだし」
「ううん、そうじゃないの。あの、いきなり泊まりにさせちゃってごめんなさい」
「茉理ちゃんが謝ることなんて何もないさ。クリーニング、提案してくれて助かったし」
「でも…」
「本当なら俺が自宅まで送り届けなくっちゃいけなかったのに、面目ない」
「始さん…」
「本当なら女子大生らしく華やかな学生生活だったろうに、自衛隊演習場に拉致やら戦車でドライブやら他にも」
本気で反省し始めた始を見て、茉理は落ち込んでいたのを忘れて
「始さんには1ミリグラムの責任だってないわ!もし私が怒るのならば竜堂家に手を出す輩に対してよ!
私が、この状況を選んでいるの。退屈なお嬢様生活よりも今のほうがよっぽど充実しているわ」
始が茉理を危険にあわせたくないという思いは、茉理にとっては水臭いとうつるようである。
「それに、今からそんな律儀にいちいち謝ってたんじゃこれから大変よ。この様子じゃまだまだ
黒幕は手を引く様子じゃなさそうだし」
きっぱり言い放つ様は爽快であるものの、やはり茉理をあまり危険な目には遭わせたくない。
これも彼女が特別な存在であるから、大事な女性であるからなんだろうなと始は思わぬところで
自分の気持ちを再確認することとなった。
「俺に正面きって説教できるのは、全世界で茉理ちゃんだけだな」
「なあに?それってもしかして、口説き文句?」
腰に当ててた手を下ろし、始の目を見つめたまま茉理は花開くように微笑んだ。
やっぱり素敵な女の子だな、と頭の片隅で思いながら、始は今の自分の気持ちを正直に言った。
「約束する、茉理ちゃんを一人置いてきぼりにさせやしないよ。俺と一緒に、行こう」
直接の愛の告白じゃないけれど限りなくそれに近い始のセリフを聞いて、茉理は自分が泣いてしまうかと思った。
でもここで泣いたら始さんはきっと誤解しちゃうから、頑張って笑おうとした瞬間、胸が自由になる感覚がして
とっさに身をかがめ胸元を押さえた。間一髪間に合ったが…始の胸に飛び込む格好となってしまった。
「!…茉理ちゃん?」
始は一瞬うろたえたが、それ以上に茉理の頭の中は混乱しまくっていた。
(リボンどうしよう…じゃなくって、間に合ってよかった!…って、私、まだ覚悟できてないって事?!)
顔を伏せたまま茉理がどうしようもなくうろたえていると、つと頬に手をかけられ上を向かされた。
緊張で少々強張った始の顔が斜めに傾きながら近づいてきたかと思うと
(!)
衝撃の連続に目を白黒させてる茉理を愛しげに見つめながら
「自分から遠ざけたいようなこと言っておいて、結局手放せないなんて、我ながらワガママだな」
目元をほんのり赤らませながらそんなことを言うものだから、逆に茉理の混乱の波は引いていった。
「こんな始さんを見られるのって、全宇宙では私だけかもね」
「かもね、ってことはないよ。茉理ちゃんだけさ」
「始さん…」茉理は身を起こし今度は自分から始の両頬に手を伸ばし
「じゃあ、こうできるのも私だけなのね」
「…ああ。」
さっきのは、よく分からなかったから今度こそ、と茉理は目を閉じ始の口づけを待っていたが…
パタタッ
何か胸元に当たる感覚がして目を開けた茉理の目に飛び込んできたのは、これも茉理以外は
決して目にしないであろう光景であった。
「は、始さん!?」
「いやなんでもない!大丈夫!それより茉理ちゃん、あの」
「?」
「胸!じゃないそうじゃなかった、服が!」
「!〜〜〜〜っ!!」
手元のタオルを水で濡らしてこようとしてドレスがそのまま落ちそうになったり
茉理の手当てを耳まで真っ赤になって遠慮する始やら、茉理も服をクリーニングに出したりと
少々?バタバタしたものの、ようやく高級ホテルに相応しい落ち着きを二人とも取り戻した。
茉理もシャワーを浴び、始と茉理二人ともバスローブ姿でベッドの上に居るのだが
ちっとも色っぽい雰囲気でない。なにが原因なのだろうと始も思ったが一時保留、とした。
手持ちの缶を握りつぶし、二本目いくかどうかそんなことを考えていると
「もう、平気?」
「ああ」
「こんな青竜王の姿を見られるのは、本当私だけよね」
さっきの気まずさをフォローしようと軽口を叩く茉理の優しさが伝わってくる。
柔らかい湯上りの匂いの美少女が目前、と思うとまた血圧が上がりそうになるので
「そうだよ、茉理ちゃんに期待されるほど剛健な男じゃないんだよ、実は」
「知ってるわ。でも、終君余君には内緒。ね」
「頼むよ。もう何を言われるか分かったモンじゃない」
ベッドに寝転んだ始の顔を覗き込み、茉理はクスリと笑い
「そうね、とりあえず二人には特大の月餅を買って帰ることにしましょう」
「ん。」
二人の視線がかち合う。ベッドの上。こちらに顔を寄せる可愛い素敵な女の子。
「そうだ。昼間貰った景品何かしら?」茉理がライティングデスクに向かう。
始は思わずホッとした。どうやら緊張していたらしい、緊張って?俺が?
「ペアの携帯ストラップね。皮製で子供っぽくない感じよ、うん素敵かも」
そのままバッグに仕舞い茉理がベッドに戻ってきた。
「そういえば、博物館ツアーを組むハネムーンパックってないのね。
もしあったとしても、日本式詰め込み型じゃ誰かさんは物足りないだろうし」
誰かさんって俺のことだろうとさすがに始も気づくが、ちっとも不愉快に感じない。
「茉理ちゃんの望むところなら、俺はどこでも構わないよ」
「私は、始さんが行きたいところならどこでも楽しみだわ」
「…」「…」
春先の猫でさえ尻尾を巻いて逃げ出すほどの空気が二人の間に流れる。
「始さんはアンケートにリゾート系選んでたけど、そうなると旅行先に持っていく本
トランクじゃなくってコンテナを発注しなくっちゃね。でしょ?」
「いや、本は別に必要じゃないよ。観光地を選ばなかったのは本の虫で篭るためじゃない
本よりずっと傍に置いておきたくて仕方がないものがあるから」
今度は茉理が耳まで真っ赤になる番だった。
(口説くのは得意分野じゃない、続に譲るとか言う割りに…!)
目が合った。始は無言で手を伸ばし、茉理はそのまま始の上に身を乗せた。
しっとりとしたキス。
斜めに身を乗り出したものだから、茉理は身体を支える手をずらそうとした。
暖かく滑らかな感触が指先に伝わり、バスローブの合わせ目から肌に触れたのだと気づいた。
つまりバスローブの下は素肌…それを意識したとたん茉理の身体には力が入ってしまった。
茉理の動揺は始にも伝わり、いまさらながら二人してこのシチュエーションにたじろぐ。
膠着した空気を破ったのは茉理の方だった。
「っと、…じゃあまだ嫁入り前だしお肌のためだし、私はもう寝るね」
正にとってつけた言い訳の不自然さにも上の空で
「ああ、うん、そうしよう」
と始もぎくしゃくとうなずく。
「タオル、洗ってくる」
バスルームからはカランの音ではなくシャワーを使ってる音が聞こえる。
始は参っていた。
「こんなのってな、まいった」
女性と色っぽい意味でホテルの一室に居るのは、実はコレが初めてではない
地方で催された学会でホテルに泊まったとき、二十後半程の女性の誘いを断固として断らなかったら
彼女が部屋の中までやってきたのだった。女性は止める間もなくさっさとシャワーを浴び、
それはそれは扇情的な下着を身に着けて始の前に自信満々な態度で立ったのだが
顔は化粧で満艦飾、極限にまで小さい生地の下着の色は蛍光色、肌はオイルだろうか艶々光っている。
「すごい…。これで羽飾りをつけたらカーニバルだね」
前半を聞いて半月を描くかと見えた女性の真紅の口は、一気にへの字に曲げられた
さすがに不穏な気配を感じた始がフォローのつもりで
「あなたならクイーンの称号間違いなしだよ」
沈黙の天使が液体窒素を振りまきながら、部屋を一周したようである。
彼女はそのまま自分の部屋に帰り、翌日始は違う男性にしなだれかかる彼女を朝食の席で目にした。
それが全てだった。それ以上でもそれ以下でもない。
始は男女のことについて「そういうこともあるらしい、憶測は野暮というもの」という知識はあったので
落ち込むことはなく、かといってチャンスを惜しむこともなく、あれからそのままで来たのである。
だから茉理のこともそうかというと、これがまったく平常心では流せない。
あのときの女性は魅力的だったのだろうが、すっぴんできっちり着込んだバスローブ姿の茉理の方が…
麝香の香りよりも、やわらかい湯上りの匂いの方がよほど…
冷水シャワーを浴びてようやく落ち着いた始は、健康的に寝乱れた茉理をみて
そのままバスルームに即座にUターンしたくなったがこらえて毛布をかけてやった
「こんな素敵な女の子に好かれて、何も急ぐことなんか何も無い。守ってやるさ、命にかけて」
ツインのベッドにそれぞれ行儀良く寝て、翌朝二人は同じ服で家路についた。
〜三兄弟の勝手話〜
「わかんねえな」
「でも仲良しだよね」
「…まだですね」
「なんで分かるんだよ!」
「君らには理解するのは、まだまだ出来ないでしょうね」
咳払いする始はあさっての方角なんて向いている。ちょっと照れる茉理。
「さあ。この月餅でお茶にしましょう。終君、やかんに水汲んで、余君は菓子皿を出してきてね。
続さんと始さんはそっちで座って待ってて」
…まだ、この空気でいたいと思う。ドレスが脱げたときに焦った自分を振りかえり茉理は一人微笑む。
そう、これからもまだ悪との戦いの日が続くのだろうし、茉理もまだまだやることがある。
(せめてトランク一杯が三冊程度になるぐらいまでは女を磨かなくっちゃね!)
「茉理ちゃーん、お湯の用意ができたよ」
「はーい」
数年先のことより、今は頼もしい兄弟達にお茶の用意。茉理の笑顔は晴れやかだった。
茉理が始と運命でつながれているのを知るのは、まだまだ先のことである。