始×茉理/2-806さん




【起】


「え? それはちょっと…危ないんじゃありませんか」
「…?」聴こえた弟の声に不穏なものを感じて廊下に出た。
弟は電話で従妹と話しているはずだったが、と思いつつ様子を窺うと、彼はまだ
電話の前にいる。こちらに気付いて送話口を掌で覆った。
「兄さん、ちょっとお説教してあげて下さい」
「何だ、どうしたんだ」
「どうも僕にはストーカーとしか思えませんよ」
形の良い眉をひそめて物騒に切り出した続は、近頃茉理に言い寄っていると云う
男の話をする。こう云う場合の常で、彼女にとっては単なる知り合いの域を出ない
のだが、相手にとっては違うらしい。
無理矢理駆り出された合コンで一目惚れされてしまったらしく、とうとう大学に
までやって来て待ち伏せされるようになったと云う。一足先に帰るところだった
友人が気付いて知らせてくれたので事無きを得た。因みに、その友人もその合コンに
駆り出されていたので相手の顔を知っていたわけなのだが、目の前を通っても全く
気付かれなかったと云う。あんな奴に言い寄られたところで嬉しくもないけど、と
言いつつも、その友人はちょつとお冠だったらしい。
何はともあれ、これはエスカレートしているのではないかと弟は言っているわけで
ある。確かに、と始も思った。

「もしもし」
『えっ、代わっちゃったの? あ…ひどいな、内緒にしてねって言ったのに』
その台詞に思わず苦笑する。しかし直接は応えず、
「相変わらずもててるらしいじゃないか」
わざと茶化すように言ってみると、溜息が返ってきた。
『最初にちゃんと断ったのよ。だから、って言うのはおかしいかも知れないけど、
向こうもその内飽きてくれるかなって思ったの。でも…どうもそう云うわけにも
いかないみたい。まさか待ち伏せまでされるなんて思ってなくて』
案外参っているらしい、と思いながら、こんな言葉が口を突いて出た。
「何で俺には内緒なんだい」
言ってから、弟に妬いているようだとこっそり苦笑する。
『本当は誰にも言わないつもりだったの。でも続さんに気付かれちゃったから…』
「なるほど」
苦笑しながら、弟の鋭さに感謝する。自分ではきっと、そうはいかない。
「でも、そう云うのはエスカレートしてったらやっぱりまずいだろう。話してくれて
正解だったんだよ」
『うん。でも…心配、かけたくなかったし…』
その、彼女らしくもない歯切れの悪い返事に、しかし実に彼女らしいと思い、唇が綻ぶ
のを自覚する。

微笑ましく思いながら、しかし声だけは厳しく。
「何かあってからじゃ遅いんだ。万が一、取り返しの付かないことにでもなったら
どうするんだい」
『…はい』しゅんとした声が返ってくる。
「こんなこと言いたくないけど、最近は嫌な事件が多いしね。気を付けるに越した
ことはないよ」
『うん、そうよね…ごめんなさい』
「謝ることはないさ。…ところで明日の予定は?」『え?』
「明日もそいつが来るとも限らないけど…念の為だ。明日は俺が迎えに行くよ」
『本当?』彼女の声は一気に弾んだ。
「ああ。もっとも、高級外車でお出迎えってわけにはいかないけどね」
『嬉しい、ありがとう! ええとね、明日は…』
打ち合わせをして電話を切ると、
「兄さん、顔が緩んでますよ」
弟に笑われた。少なからず狼狽えつつ顔に手をやると、心なしか熱い、ような気が
する。赤くなっているのだろうか。
笑いながら廊下を行く弟の背を見送りつつ思った。
(悪童どもがいなくて良かった…)
それはもう心の底から。







【承】


次の日。女子大の前なぞと云う場所で人待ち顔で立っていると云うのはさぞ悪目立ち
して恥ずかしかろうと覚悟して行った始は、底に案外"お仲間"が多いことに何となく
安堵していた。
とは云え彼の長身はその中でも更に目立つ。本当は身長だけの所為でもないのだが、
如何せん自覚は無いので、通り過ぎる女の子達が軒並み自分に無遠慮な視線を向けて
ゆくのに居心地の悪さを感じながら、それでも表情だけはクールに突っ立っていると、
女の子達の群れの中からひとり、ずば抜けた美人が駆けて来るのに気付いた。間違え
ようも無い。従妹どのである。
「ごめんなさい、遅くなって」
目の前まで来ると、ほっとしたように息をついて言った。が、ふと何かに視線を留め、
綺麗な眉を微かに寄せて、彼の陰に隠れる。
「…来てるのかい、例の」
そっと問うと、緊張を滲ませた表情で肯いた。安心させるようにその細い背中に手を
添えて、さりげなく周りをぐるりと一瞥する。視線がぶつかって、怯んだように動きを
止めた男が一人。それが例の男であるにしろそうでないにしろ、取り敢えず今は寄って
くることは無さそうだと思い、彼女を促す。
「それじゃ行こうか」「うん」
答えて茉理は、しなやかな腕で始の腕にしっかり掴まる。歩き出して暫く彼は後方に
注意していたが、どうやら尾けて来る者も無い。そう言うと、彼女は深く息をついてから、
「もう、どんなに頼まれても、合コンなんて二度と行かないんだから。絶対に」
ぽつりとそう呟いた。その様子に、やはり随分参っていたらしいと思い、殊更明るく
言ってみる。
「取り敢えず今日はこれからどうしようか。ご希望はおありですかお嬢さん」
「うーん、今特に観たい映画もやってないし…そうだ、ねえ、久し振りに中華街に
行きたいな。今からでもまだ見て歩く時間はあるわよね。前より行き易くなってるし」
ぱっと明るくなったその表情に、自然とこちらの表情も緩む。どうせ彼女の為ならば、
どんな無理難題にだって、自分は何としてでも応えようとするのだろう。この程度の
可愛らしい提案に、勿論否やは無い。笑って肯いた。




「兄貴、女の子から電話だぜ。何か急ぎみたいだけど」
三男坊のそんな台詞で取り次がれた電話を始が受けたのは、数日後のことだった。
電話の向こうのその相手は茉理の友人と名乗り、焦りを露にした声音で、前置き
無しに切り出した。
拉致されたらしいと言われ、瞬間的に悟る。
別の友人が、車に乗り込む彼女を目撃したと云う。正確には、引きずり込まれたよう
に見えたと言ったらしい。声だけを聴くとパニックを起こしているように思えたが、
電話の向こうの相手はそれでも冷静な行動を取っていた。彼女の携帯電話が繋がら
ないことを確かめてから、合コンの出席者から例の男の情報を集め、そちらの電話も
繋がらないことが判ると、警察に通報してしまって良いものかどうか迷いながら
こちらに掛けてきたらしい。
こうなってしまうと下手に通報するのも危険な気がしてしまって、と云うその気持ち
は解った。警察沙汰にされたと知っての逆上を考えると恐ろしい。タイミングによっ
ては何処までも危険だ。
調べてくれた住所などをメモして、例を言って電話を切った。そして立ち尽くした。
焦りが込み上げてくる。自分が行ったことが、まずかったのだろうか。


「兄さん、どうしたの?」
心配そうな末弟の声にはっとする。振り向くと、三人の弟達が集まって来ていた。
厳しい表情の次男坊。わくわくしているらしい三男坊。心配そうな末っ子。
そして自分は? 今、どんな顔をしているのだろう。
事情を話すと、驚愕と非難の声が挙がった。
「それで兄さん、どうするの。助けに行くんでしょう?」
末っ子は黒瞳に決意を込めて見上げてくる。
「決まってる、住所が判ってるんなら殴り込もうぜ」
打って変わって表情も険しく、三男坊も続ける。しかし次男坊は首を横に振った。
「いえ、ここは兄さんと僕で行きましょう」
たちまち抗議の声が挙がる。しかし長兄は次男坊に賛同した。
「そうだな。よし、お前達はここで待機。俺達二人で行く」
きっぱり言い切ると、不服そうながらも二人は従った。
「心配は要りませんよ。それとも、兄さんと僕が信用出来ませんか」
次男坊がにこりと笑むと、二人は恐ろしげに首を振る。その必死な様子に苦笑して
から、家長は早速、参謀長を従えて家を出た。
「…万が一、と云うことだな」暫く続いた沈黙の後、低く呟くと弟は肯いた。
「考えたくもありませんが、考えないわけにもいきませんから」
言葉は少なくとも、お互い言わんとすることは明白だった。
年少組には特に見せたくない光景が広がっていないと、どうして言い切れるだろうか。
楽観的には、どうしてもなれなかった。



正面玄関がオートロックでも侵入経路はあるもので、二人はごくあっさりとマンション
内に忍び込んでいた。親の脛を齧って一人暮らしをしていると云うような輩にはそぐわ
ないのではなかろうかと思えてしまう、立派な建物である。いや、そう云う輩だからこそ、
だったりするのかも知れないが。
何はともあれ、途中で一人の人間にも出くわさずに問題の部屋の前まで辿り着いた。
「…何と言って開けさせたものかな」
「宅配便、にはやっぱり遅いですよね…」
結局、宅配便を騙ったらあっさりと玄関の扉は開かれた。ちゃんとドアスコープの死角
を狙って立ち、不審に思われたら配達時間の指定も持ち出してみるつもりだったのだが。
見覚えのある顔だった。その首に弟が問答無用で腕を伸ばして頚動脈を押さえると、男は
声も挙げずにあっけなく昏倒した。本人のベルトで後ろ手に手首を縛り上げて玄関ホール
に転がす。女物の靴があるのを確かめてから上がろうとすると、後ろから声が掛かった。
「ここから先は兄さんにお任せします。僕は非常階段のところで見張ってますから、
何かあったら呼んで下さい」
「…解った」肯いてそっと扉を閉め、念の為施錠した。
口では任せると言ったが、もしかしたら弟は遠慮したのだろうかと何となく思う。だが
深く考える余裕も無く、部屋の主が完全に伸びているのを確かめて歩を進めた。
家の中は静かで、人の声も物音も聴こえなかった。いや、廊下を進むにつれて、微かに物音
が耳に届く。その音を辿って着いたのはだだっ広く薄暗いリヴィング。立派なソファの
上でもがいていたらしい影がぴたりと動きを止めた。そして、こちらの姿を捕らえるや、
茉理は見て判るほどに身体の力を抜いた。声を掛けるのももどかしく駆け寄り、唇を塞ぐ
ガムテープを剥がし、手首と足首を縛るビニル紐を千切った。








【転】


「怪我は?」
着衣の乱れも外傷も無いように見えたが念の為訊いてみる。茉理は首を振り、微笑んで
みせた。「大丈夫」「良かった…」
安堵の息をついて、乱れた髪を直そうと手を寄せ、薄明かりの中、ふと彼女の頬がほのか
に紅く、そして少し熱いのに気付いた。
「…熱があるのか?」問うと彼女は力なく首を傾げる。
「さっき、無理矢理お酒を呑まされて…それから身体が熱いの」「酒を?」
「うん…結構強くて。それに味も何だか…」そこで彼女は絶句して、苦しげに眉を歪ませた。
「…気分が悪いのか?」半ば慌てて背をさする。
しかし茉理はびくりと身体を竦ませた。その反応に、今度は慌てて手を離す。そして彼女は
上体を揺るがせ、掠れ声で喘いだ。「な…なに、これ…」「…え?」
ぐらりと揺れる身体を支えようと手を伸ばして、触れた部分から伝わってくる熱が更に上が
っていることに気付く。首筋に触れると、脈が恐ろしく速い。白い肌が薔薇色に染まり、息が
上がり、瞳が潤みを帯びてくる。
酒に酔っているにしても様子がおかしい気がして、立ち上がり、玄関に駆け戻った。呑気に
伸びている男を叩き起こし、状況を飲み込めず眼を白黒させるのにも構わず、その首を掴んだ。
「彼女に何を呑ませた?! 首の骨を握り潰されたくなかったらさっさと答えろ」
男は泡を喰って喚き出した。品の無い言葉の奔流に耳を塞ぎたい心持ちになったが、要するに、
所謂媚薬の類であるらしい。ネット通販で買ったと云うそれを、ウイスキーに入れて呑ませた
と、自棄っぱちのように白状した。
眩暈がした。
比喩などでも何でもなく。



再び相手を昏倒させて茉理の処に戻ると、潤んだ瞳が見上げてくる。
「どうしたら、いいの…?」聴こえていたらしい。答えられなかった。
流石にこの展開は想定外だった。自分が甘かったのか、それともあの男の下劣さが群を
抜いていたのか。
背中を、嫌な汗が流れた。そして、その場にも嫌な沈黙が流れる。続を呼んで良いものな
のだろうか。思考はまとまらない。そのさなかにも、彼女の"症状"は進んでいるのだろう。
「…たすけて…おねがい…」
切なげに言われて、汗は一気に冷汗へと変わった。何と答えて良いものか判らず何も言
えずにいると、潤んで光の揺らめく瞳に、何か、決意のようなものを視た気がした。
「…さん…」
名を呼ばれたのだと思い、反射的に視線を合わせる。しかし言葉は続いた。
「じゃなきゃ、やだ…」
爆弾は静かに落とされた。
掠れて、声になり切れずに殆ど息だけで発せられたそのことばを、彼の耳は違わず捕ら
えていた。余りのことに、既に殆ど滞っていた思考が、完全にストップする。
気付くと、思い詰めた瞳が驚くほど近くにあって、しかし驚く間も無く、言葉は紡がれた。
茫然と聴く。
「軽蔑、されるのかもしれない、けど…こんなこと、言ったら。…でも」
そして、唇を塞がれた。



どちらからともなく、舌先が触れ合った。始めはお互いぎこちなく、けれどその内に深く。
時折、どちらのものとも云えない吐息を喘がせながら、くちづけは続いた。心臓が、壊れる
のではないかと思えるほどに早鐘を打っている。
縋りつくように、彼女は身体を預けてきていた。そのからだをかき抱きながら、その細さ
を改めて実感する。
簡単に壊れてしまいそうだ、と、遠い意識の中でふと思った。そして、はっと壊してしまう
のではないかと不安に襲われて。
急激に理性が、正気が戻ってきた。

出来るだけそっと、彼女のからだを解放する。ふたりとも息が上がっていた。暫く沈黙が
あって、始は何とか口を開く。自分の声が、えらく情けなく響いて聴こえた。
「…やめよう。絶対に後悔する。…こんなかたちで、なんて」
今の彼女の状態からすればもしかしたら酷なのかも知れないと思いつつ、それでも言わ
ずにいられなかった。そしてそれは、間違いなく、本音だった。こんな、不自然なかたちで。

自分はまだしも、彼女が普通の状態に戻った時にどう思うか。それを考えると、遂げては
いけない、と思った。だが。
彼女はかぶりを振る。泣き出しそうな顔で、言う。
「後で、軽蔑してくれても、嫌いになってくれてもいいから…」その台詞に驚いた。
「まさか」信じられない思いで続ける。「そんなことは有り得ない」
彼女を軽蔑することも、嫌いになることも。ある筈がなかった。
だが彼女は続ける。半ばうわごとのように。
「今だけでいいの…だって」とうとう、涙が零れた。
「ほかの誰でも、嫌なんだもの。だから…お願い」
濡れた瞳が、必死の面持ちで見上げる。ほんのりと、紅く染まった目元。
「………して。」
そのことばは消え入りそうに儚く響いて。始はそこで、遅まきながら自分の馬鹿さ加減
を呪った。女の子の口からここまで言わせてしまったことを悔やんだ。自分はただ単に
逃げようとしていただけだった。それに今更気付かされた。
もう何も言うまい。覚悟は決まった。
彼は無言のまま、震える彼女のからだをそっと、ソファに横たえた。




そこから先は、ただ夢中だった。
逸る気持ちを押さえ付け、そっと、壊してしまわないようにと自分に言い聞かせていられた
のは途中までで、服を脱ぐ間も脱がせる間も惜しみながら、瑕疵ひとつ無い肌に所有の証を
紅く刻み付けながら、目の前の愛しい存在を、その初々しくも美しいからだを、狂気のように
愛撫した。
必死で声を噛み殺していた彼女の細い咽喉から、か細くも甘やかな響きが零れ出す。敏感な
箇所を探り当てるとそれは更に高まり、掠れ、鳴き声へと変わった。その声は何処までも甘く
響き渡り、こちらの背筋を震わせ、理性を叩きのめす。
とうとう、指先が彼女の中心へ到達した。恐れすら抱きながら、指を進める。既に溢れていた
充分過ぎるほどの潤みに助けられて、指は想像していたよりもあっさりと呑み込まれた。し
かし、やはりと云うべきか、その中は当然ながら、狭い。奥まで入り込んだ指をそっと動かす
と、苦しげな吐息が聴こえた。しかし抵抗はせずに、彼女はしがみついてくる。細い腕が背に
回り、指先が、爪が喰い込んだ。その微かな痛みに煽られるかのように、抱き返しながら更に
指を蠢かせ。
ふと顔を上げた彼女とそこで眼が合った。うっすらと汗の滲んだ肌に貼り付く髪が艶かしい。
お互い言葉は出ず、それでも濡れた瞳が何か言いたそうに揺らめいて、顔をこちらの胸に埋
めるようにして、更に強くしがみついてきた。今更言葉にして訊くのもさすがに野暮な気が
して、細い背を強く抱き締め、額に、頬にくちづけを落としながら、出来るだけゆっくりと腰
を進める。

奥まで進むのには、結構時間が掛かった。
余りの締め付けに、入っただけで果ててしまいそうになるのを何とか堪え、お互いに落ち着く
のを待ってから、ゆっくり動き出す。
暫くは苦しげに喘いでいた彼女の声に甘い響きが混じり出したのは、どのくらい経ってから
だっただろうか。切なげに名を呼ばれ、その鳴くような声に背筋がぞくりと震える。応えるよ
うにくちづけを落としながら、どんどん制御が効かなくなってきていることを、何処か冷静に
自覚していた。
これはもう止まらないだろう、と冷静に呟く自分がいる。
これはまずい、とにかくまずい、とひたすらに焦っている自分もいる。
ここまで来たら仕方が無いだろう、と自棄気味に笑う自分がいる。
もうなるようになれ。諦観の境地にいる自分も。
焦りはいつしか意識の隅に追いやられ、彼はただただ彼女を求めた。
夢中だった。まるで狂気のように。



薬の所為もあるのだろう、彼女も彼を求め続け、何度、どのくらいの時間抱き合ったか、
とうとう彼女が失神した。
そこで漸く、はっと我に返る。人並み以上の体力を誇る彼も、さすがに肩で息をしていた。
腕の中で彼女はぐったりと脱力している。
冷汗が流れた。幾ら相手が普通の状態でなかったとは云え、もう少し自分を抑えられな
かったものかと思う。だが、後の祭りである。
その半面、自分がこれほどまでに女性と云うものに溺れられるとは思わなかった。もっ
とも、と独りごちる。彼女が相手だからこそ、なのだろうが、と。






【結】


茉理を抱いて玄関に向かう。幸いこの部屋の主はまだ気絶していた。
外に出る。廊下にも人の姿は無く、声も、物音も聴こえて来なかった。非常階段への鉄扉
を開けると、続はほっとしたように笑みを浮かべた。
「…待たせた」少なからず気まずい心持ちで言うと、「いえ」
答えながら弟は、意識の無い従妹の顔を気遣わしげに覗き込み、視線で問うてきた。
「ああ…幸い無事だった。いや、無事は無事だったんだが」
歯切れの悪い返事になってしまい、弟が表情を曇らせる。
「…何があったんです?」「…帰ってから話すよ」「…解りました」
何かを感じ取ったか、続はそれから、家に着くまで何も言わずにいてくれた。


家に着くと、三男坊と末っ子がそれぞれ安堵の表情で出迎えた。
長男が従妹を和室に寝かせている間に次男が下の二人を半ば無理矢理寝かし付け、兄の
為に紅茶の用意をしてくれる。居間に腰を落ち着け、話すと言ったからには話さねばなる
まいと、始は弟に全てを打ち明けた。
「助けて、と泣かれて…拒めずに抱いた」そう呟いた声が、とてつもなく苦いのを自覚する。
「俺じゃなきゃ嫌だと言ってくれたけど…でも、これで良かったんだろうか。結局、俺は…」
彼女が普通でなかった、そこに付け込んで、これ幸いと、弄んでしまっただけではなかった
か。最後まで拒むべきではなかったか。薬の効果など、きっとそう長いこと続くわけではな
いのだから。
その想いは言葉にはならなかった。何を言っても言い訳にしかならないと思った。
あの、この上ない、最上の悦びを甘受してしまった後では。
「…兄さん」ずっと何も言わずに聴いていた弟が、そっと口を開いた。
「兄さんじゃなければ嫌だと云うのはきっと、茉理ちゃんの本当の本音なんでしょう。
だからこそ、そんな状況下でそう云うことばが出たんじゃないでしょうか。その場にいた
のが兄さんで、幸いだったんですよ。きっと誰よりも、茉理ちゃんにとって。僕は、そう
思います」
続が、何とか自分の心を軽くしようとしてくれているのが充分に解った。有難いとは思った
が、だがどうしても、心は重かった。



茉理の様子を見にそっと和室に入る。彼女は静かに眠っていた。額に載せたタオルを絞り
直そうとしてそっと持ち上げたところで彼女が身動ぎした。
「だれ…?」うわごとのようなその声は掠れている。「ごめん、起こしたかな」
タオルを絞りながら答えた。そっと額に載せる。彼女は眼を開いていた。
「気分はどうだい」表面上だけは出来るだけ穏やかに訊く。
「だいぶ楽になった…」彼女は気持ち良さそうに眼を細めながら答えた。
「そうか…良かった」しかし、額に掌を寄せると、まだ少し熱い。
「暫くゆっくり休めばいいよ。…お休み」「ありがとう。…でも、その前に」
不意に手を掴まれる。「これだけは言っておかないとって、思ってたの」
まだ潤んだ瞳は、真剣な光を湛えていた。
「…何だい」そっと、細い手を握り返した。そして、次のことばに瞠目する。
「私…後悔なんて、してないからね」「…!」
「私がワガママ言いたいひとは、他にいないんだから」
絶句した。彼女は続ける。はにかむように、しかしきっぱりと。
「他の人じゃ、いや」
暫く沈黙が続いた。
「………ありがとう」やっとのことで、それだけ返す。
そして、どちらからともなく、唇が触れ合った。そっと触れるだけの、優しいくちづけ。
離れた後で始は、彼にしては上出来な台詞を吐いていた。
「…その。また、その内…今度は、あんな不自然なかたちじゃなくて。もっと、普通に…
自然なかたちで」
顔が赤くなっているのを自覚しながら。そして彼女も、熱でうっすらと上気した頬を更に
紅くして、零れんばかりに瞠目した。そして続くのは、華のような笑顔。
春はもう、すぐ目の前まで来ている。


  

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