One night stand/




「勝負ありね」
 涼子が誇らしげに笑いながら手札をばらまくと、テーブルの上が赤と黒と白で派手に彩られた。
「…予想通りですけどね」
 溜息とともに、私も手持ちのカードを放り出した。
この女王陛下は勝敗が分かりきっている戦いでも手を抜くつもりはないようで、
ここまでコテンパンに負けるといっそすがすがしい気さえしてくる。
「…で、私はどうすればいいんですか?」
 負けたら私が涼子の言う事を聞く、という約束である。これではいつもと大して変わら
ないかと思いつつ問いかけると意外な答えが返ってきた。
「プールで泳ぐから付き合いなさい」
「…こんな時間からですか?」
「寝る前の運動よ。夕食遅かったから少しはカロリー消費しないとね」 
 確かに寝る時間にはまだ早く、バンクーバー最後の夜をもう少し楽しみたいという気もする。
どのみち明日には日本への帰途につくから、せいぜい一時間も付き合えば
解放して頂けるだろうと踏んで返事を返した。
「わかりました…ただ」
「なに?」
「屋上のプールはまだ寒くないですか?それに水着を持って来てないんですが」
「ここ屋内プールもあるの。マリアンヌかリュシエンヌに案内させるわ。必要なものはあの娘たちに渡しと

くから、君は手ぶらでおいで」
 私の返事を待たず、じゃあ後でねと言い残して奥の部屋に消えた。


 エレベーターから降りると、プール特有の塩素の匂いがかすかに鼻を刺した。
誰もいない廊下をマリアンヌが先に立って進み、次いで私、そしてバスローブを抱えたリュシエンヌが従う。
いつもは溌剌としたメイド達が、なぜか二人してこれまで見た事がないほど硬い表情を浮かべている。
突き当たりのガラス扉の手前で二人が歩みを止め、無言で私の方を見た。
「ムッシュ…」
 バスローブを私に手渡しながら、リュシエンヌがためらいがちに口を開き、
いつになく不安げな表情でマリアンヌが後を受ける。
「…ミレディ、オネガイシマス」
 私のフランス語能力では彼女達の表情の理由を訊けないのが気がかりだが、プールで泳ぐだけなのだから

心配するような事は何も起こらないだろう。
「ダイジョーブ」
片言の日本語に引きずられたせいか、アヤシゲになまった返事をすると、
二人ともほっとしたように微笑んで私を見送ってくれた。




 プール室に入ると視界がにわかに翳った。小さなスポットライトが観葉植物の根元を
ライトアップしているだけで薄暗く、一瞬誰もいないのではと思ってしまうほど静まり返っていた。
「…警視?」
プールのへりに立つと、涼しげな水音とともに白い影が足元に泳ぎ寄った。
縁に頬杖をつき、こちらを見上げてあでやかに笑ったが、形のよい肩がむきだしになっている事に気付いて
慌てて視線をそらせた。
「水着はどうなさったんです?」
「スキニー・ディッピングだけど?たまにやるって言ったでしょ」
「し、失礼しました」
 とびきり魅惑的で美しい眺めだが、それを帳消しにしてなお余りある危険な光景でもある事を
熟知している身としては、この場から一刻も早く立ち去りたいところである。
 踵を返しかけた次の瞬間、足首を強く引かれ足元から地面が消失した。派手な水音とともに周囲の温度が
一気に低下し、酸素を求めて体中の細胞が悲鳴を上げる。水面に顔を出し、深呼吸して目を開けるより先に
叫び声をあげた。
「何するんですか!」
 予告なしにプール引きずり込まれたのだから、これ位の抗議は許されるはずだ。
 だが目を開けて涼子の姿を見るのとほぼ同時に、勢いを削がれて思い切り顔をそらす羽目になった。
殆ど水中に隠れているとはいえ、白い胸元を至近距離で正視するのはあまり心臓に良いとはいえない。



「付き合う約束でしょ?誰が出て行っていいって言ったの?」
「裸で泳ぐとは聞いてません!」
「安心なさい。君も脱げなんて言わないわよ」
…安心などできるものか。いくら何でもこれはまずい。危険極まりない相手とはいえ、
全裸の、しかも絶世の美女を前にして平常心を保てるほど私は出来た人間ではない。
「あのですね…」
「いいじゃない貸切りなんだから。大体どんな格好で泳ごうがあたしの勝手でしょ!」
 このままでは埒があかないので涼子から背を向けようとしたが、水の抵抗と濡れた服が
邪魔をして思うように身体が動かない。その間にも柔らかく、適度な弾力のあるものが
つかず離れずまとわり付き、時折シャツの袖や襟が軽く引っ張られる。
それが何であるかについては努めて考えないようにしながら水を掻き、少しでもこの危険な上司と距離を
取れるように無様な水中ウォーキングを始めたが、詰問する涼子の声は止まない。

「こっち向きなさい!人の目見て話なさいよ!」
「仰る事は正論ですが、この状況ではお断りします!」
「だから、あたしの勝手でこの格好なんだから気にしなくてもいいじゃない」
「気にします!あなたの勝手なのはその通りですけど、その格好で私と泳ぐ気ですか?」
「あたしはそのつもりだけど?何か問題ある?」
「大ありです!!小学生同士じゃないんですから、誤解されたらどうするんですか!?」
「どういう誤解よ!」
「具体的に言わせる気ですか?それセクハラですよ?」
「仕事の時間はもう終わり!って、君セクハラになるような事考えてたの?」
「考えてませ…うわっ!」

抗議しようとした瞬間、不意に背中に固いものが触れた。プールの端に追い詰められた事に
動揺してつい目を開けると、水深が浅くなっていたため涼子のあられもない姿が
ストレートに視界に入ってきた。
すぐに顔を背けて目を閉じたが、優美な曲線を描く白い残像が瞼の裏に焼きついて
なかなか消えてくれない。




 慌てる私をよそに、ほんの少し笑いを含んだ声が室内に反響した。
「そこまで期待されてて引き下がったら女がすたるわね」
 期待してませんってば。そう言いかえそうとした時、おもむろに右手に温かくしなやかなものが絡みついた。
──涼子が私の手を握り、高らかに言い放った。
「よし泉田!今夜はあたしの事好きにしていいわよ!」
「へ?」
思わず間の抜けた声が口をついて出てしまった。
曲解もはなはだしい。私の言葉のどこをどう読みとったらそうなるのだ。
 これを言ったのが涼子じゃなかったならなあ、などと一瞬でも思ってしまった事はひとまず置いて、
慌てて右手を振りほどいた。

「何でそうなるんですか!期待なんかしてません!」
だが、抗議など全く意に介さないとでも言うかのようにネクタイがくっと引き寄せられ、
柔らかいものがしなだれかかってきた。
「いけません!」
「いけなくない!あたしが赦す!」
「気の毒な部下をからかわないで下さい!!」
ネクタイを解こうとする指を振り払い、まとわりついてくるものを闇雲に突き飛ばすとごく短い小さな悲鳴があがった。
声に気を取られ、うっかり目を開けてしまったのが運の尽きだった──身もフタも無い言い方をすると
至近距離で視界に飛び込んできた涼子の裸に、目が釘付けになってしまった。




 真珠を思わせる傷一つない白く滑らかな肌は水滴を珠のように弾き、
繊細かつ優美な曲線を描く身体の線からは、触れずともその柔らかさが容易に想像できる。
かたちはまぎれもなく大人の女性の身体でありながら
無垢でみずみずしい、どこか少女めいた雰囲気があり、
男ならば惑わされずにはいられない色香を漂わせるくせに
邪な気持ちを抱く事が後ろめたく思えるような、芸術的な美しさをたたえた身体。
これほどまでに見るものを魅了する裸体を、私は他に知らない。

 その身体の主が無防備な表情を私に見せたのはほんの一瞬の事で、
すぐに眉を吊り上げ、見慣れた表情でこちらを睨み付けてきた。
「違うわ!」
噛み付くような声と同時に、このまま縊り殺されるのではないだろうかと思うほど
強い力でネクタイを引っ張られた。顔を近づけられて、一瞬心臓が跳ねる。
「からかってなんかないわよ!」
叫ばれても事態の急な変化に身体がついて行けず、ただ涼子を見ることしかできない。
凍りついた空気に耐えかねたかのように、見るものを灼くような涼子の視線が不意に鋭さを失った。
「……そんなに、嫌?」
力なく手が下ろされて絞殺は免れたが、それを喜ぶ気にはなれなかった。
大きく目を見開いて、唇をきゅっと結んだ表情───彼女らしくない緊張をはらみ、
泣き出しそうなのを必死で堪えているようにさえ見える顔から目が離せなかった。
 言葉が途切れると辺りは不意にしんと静まり返り、濡れた髪から水面に落ちる雫の音だけが
やけに大きく響く。
見たこともない表情のまま、所在なげに佇む姿は童話の人魚そのままの風情で、
ここでこの人を拒絶したら次の瞬間には泡になってしまうのでは、
などと馬鹿げた想像がふと脳裏をよぎる。

 こんな理不尽かつ危険な要求などきっぱり断ればいいはずだ。既に意思を訊かれているのだから
「嫌です」の一言だけで簡単に決着がつく。余計な波風を立てたくないのなら、たちの悪い冗談と
片付けて笑って流す事も出来るはず。
 だが、私にはどちらの途も選べなかった。
 ストレートか遠まわしかの違いこそあれ結果的には涼子を拒む事に変わりない以上、どちらを選んでも
何か大切なものが壊れてしまうような気がしたのだ。



 これからどうするべきなのだろうか。混乱した思考をまとめるべく、目を閉じて深呼吸すると
湿った空気が肺を満たした。
 ──なぜ私が、とはこの際考えても仕方ないだろう。愛だの恋だのといった感情を涼子が私に
抱いているわけではなく、この人にも人肌が恋しくなる夜があって、手近にいた男がたまたま私だった。
多分それだけの事だ。
 この人は誰のものでもないし誰のものにもならない。今回の戦いにおいて涼子自身がそう明言している。
例えるなら、高嶺どころか地獄に咲き誇る妖しくも美しい毒花。たかだか一晩ベッドを共にしただけで
ものに出来ると勘違いする奴など、一笑のもと瞬殺されるのが落ちだ。
 私は涼子をものにできる器などではないから、そもそも勘違いなどしようがない。
大体一度かそこら寝た位で涼子の彼氏面をするなんて、命は要りませんと言っているに等しい行動だ。
 それ以前に、この人の事だから一度私を今夜の相手と思い定めたなら、
私の意志などおかまいなしに縛ってでも事に及ぼうとする可能性も否定できない。



─どちらにせよ逃れられそうにないのなら、受け入れるしかないのではないか。
 生命の危険があるような状況であっても、涼子が行きたい所に従い、やりたい事に付き合うのが
当然であり自然な事に思えたのだから、これからしようとしている事についても、きっと同じ。
 それに、絶世の美女と一夜を共にできると考えれば滅多に無いチャンスと言えなくもない。
容姿以外の部分に問題があり過ぎるのには目を瞑って、今夜ただ一度きりの事と割り切れば
決して悪い話ではないのではないか。
 あくまでも涼子からの誘いに乗るだけであって、こちらが押し倒したワケではないから
少なくとも命まで取られる事は無いはず。
 それでもなお躊躇する気持ちを無理やりねじ伏せ、覚悟を固めて目を開けた。



 返事をすべき相手は硬い表情のまま、石づくりの彫像のように私の前に立ち尽くしていた。
恐る恐る手を伸ばし、指先で頬の輪郭をそっとなぞると微かに身じろぎしたが、私の手が
跳ねつけられる事はなかった。かたちの良い顎に指をかけ、少し上を向かせて
光が揺らぐ瞳を覗き込み、噛んで含めるようにゆっくりと語りかけた。
「私なんかが相手で、よろしいんですか?…後悔、しませんか?」

 その瞬間、彫像が生命を吹き込まれたかのように涼子の肩からふっと力が抜けた。
こわばった表情は一変して、正体を知り尽くしていてもなお魅了されずにはいられない
咲き誇る薔薇を思わせる笑顔が向けられた。
「後悔は先にするものじゃないでしょ。それに…」
「それに?」
 涼子は即答せず、私の首にしなやかな腕を廻して抱きついてきた。
柔らかく、それでいて弾力に富んだ素晴らしい感触が押し付けられているものの危険さを一瞬忘れさせる。
次いで耳元に温かいものが触れ、熱い吐息がそっと耳を撫でた。
「…泉田クンにしか、預けるつもりはないの」


 何を、と訊こうとした瞬間唇を柔らかなものに塞がれた。それが涼子の唇であると気付くには、
時間がかからなかった。
 素肌と唇から与えられる熱が頭の奥にまで染み渡るようで、一瞬眩暈を覚えたが
唇が離れる頃には魅惑的な感触が消えてしまうのを名残惜しいとさえ思ってしまったあたり
すっかりこの人の術中に嵌っているのかも知れない。
 涼子が抱擁を解き、しなやかな手がそっと私の頬に触れそのままゆっくりと撫で下ろされた。
微笑みと穏やかな眼差しは慈愛溢れる女神の表情そのもので、一皮剥いたら魔女なのだと
判っていてもつい魅入られてしまう。
「…泉田クン」
「何でしょう?」
 返答の代わりに再び抱きしめられ、次いで口内に遠慮がちに侵入してきた柔らかいものに
舌で触れると私を抱く腕の力がひときわ強まる。飽きるほど舌を絡めあい、さすがに息苦しさを
感じて唇を解放すると、互いの舌の間で唾液が細く糸を引いた。
「んっ…」
 涼子を抱きしめて背中に手を廻すと身体が小さく震え、うっすらと開いた唇からかすかな声が漏れた。
私の腕の中にいるのは男どもを蹴散らし、ドラキュラさえ避けて通る美しくも恐ろしい最終兵器。
その筈なのに、触れた掌にはその危険さからは程遠い柔らかさとぬくもりが伝わってくる。
 つややかな朱唇を軽くついばむだけのキスから舌を深く絡めあうものまで、一体何度くちづけを
交わしたのか数えるのも億劫になってきた頃には、この人と本当に一線を越えてもいいのだろうか、
という躊躇はまるで日向の雪のようにどこかへ消えていた。



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