小話/4-548さん



暦ではすでに春半ばだというのに、今日の雨は季節が逆行したのかひどく冷たかった。
不味くてもなんでもパステルのコーヒーでもいいから、暖かい飲み物が欲しかったが
今に限ってはそれさえも叶えられそうにない。早くこいつを持っていかないと…

「あら、ずいぶんとずぶ濡れじゃないの?泉田警部補」
スーツをきちんと着こなした秀麗な美女に気遣われたというのに、私の返事はそっけなかった。
「これくらい、なんともありませんよ」
早足で歩きながら、そそくさと逃げ去るようにエレベーターホールに急いだのだが、
間の悪いときはあるもので、無常にも目の前で扉は閉じられてしまった。
(頼むからおとなしくしててくれよ…)
コートの下、胸元で柔らかく動くそれをコートの上からそっと押さえジリジリと待つ。
いつも魔女にこき使われている気の毒な男を哀れんでくれたのか、天の神は救いの手を
この場合はエレベーターを、私の前にすみやかに降ろしてくれた。
真っ先に乗り込みボタンを押し一息ついて、香しい空気が横に立っているのに気がついた。
「同じ階でいいのかしら?」
上昇するエレベーターの中には室町警視と私と二人きり。いや、正確にはもう一人…
「にゃーん」
「!」
「あら、なにかしら」
「な、なんでしょうねえ?」
「猫の鳴き声のような…?」
「気圧変化による耳鳴りじゃないでしょうか?にゃーんって、ほら。良くありますよ」
「…そうかしら?」
潔癖な風紀委員、いやいや端正な美女に見つめられたせいで胸が大きく鳴る。
だが胸を強く抑えすぎたのか、コート越しに柔らかいものがゴソゴソ動いたかと思うと
ポロリとエレベーターの床にそいつが転げ落ちた。

由紀子の眉が跳ね上がった。次には叱責の声が飛んでくるかと思われたのだが
「やだ、かわいい!」
華やいだ声にあっけに取られ、そして視線を下にやると由紀子が子猫を抱き上げる所だった。
スーツのポケットからハンカチを出し、優しく子猫の濡れた毛を拭いてやっている。
とても絵になるというか、なんとも心温かくなるような光景でしばし惚けてしまったが
言いつけられた使命を思い出し、由紀子に正面から正直に申し出た。
「あの、署内にこんなの持ち込んじゃって誠にすみません!ちょっとの間だけですから
 どうか見逃していただけませんか?」
「いいわよ」
「わりにあっさりしていますね」
「朝、あそこにいた仔でしょう?」
「ご存知だったんですか」
「そうか、泉田警部補が拾ったのね。よかったわねえお前」
「拾ったのは確かに私ですが…」
繊手にそっと優しく抱えられ、胸元に抱きかかえられた子猫は満足げに一声鳴いた。
羨ましいとか思ってなんかないんだからな、と子猫の様子を伺っているうちに
目的の階に到着した。私が扉を押さえ由紀子と子猫を先に降ろさせた。
なぜか、由紀子の顔が気のせいか赤くなっているように見える。目の錯覚だろうか?

「遅い!こっちはもう準備が出来ているっていうのにさ」
私の上司であり、子猫の真の拾い主である薬師寺涼子が私たち三人の元にやってきた。
つまり、雨の外出をしぶった涼子に命じられて私が子猫を拾ってきたという事情なのだ。
「もう大丈夫よ。私に拾われたからにはバラ色の未来が待ってるわよ」
由紀子の胸元から子猫の襟首を掴んで自慢の胸に突っ込み、こちらに向き直った。
「なにさ、ポーッとか顔赤くしちゃって。ははーん、わかったアレね」
「な、なによ」
「あまりにベタで却ってイジラシクなっちゃう。雨の日に猫を拾う男の人って素敵〜とか、
 考えてたんでしょ!」
「それを見抜くってことは、あなたもそうだって白状してるのも同じじゃない!」
どっちも急所を突かれたのかグッと口を噤み黙り込んでしまった。
沈黙の時間が長引くほど、後の噴火時が危険なものとなると危惧した私は子猫の処遇について
さっさと話を進めることにした。

「まずはこの仔を保護するのが先決です。体力が回復した後にパリに送るんでしたよね?」
「そうよ、パリのアパルトマンの天井裏でコードを噛み破るネズミを退治するという名誉ある職に、
 私が採用してあげたんだから。リュシエンヌもきっと喜んでくれるわ」
「こんな可愛い仔を、あなたの世界征服の手先にしようっての?!」
「ふん。だって最初スカウトしたとき、この仔ちゃーんと返事してくれたんだもの」
涼子はああいってるが、なんのことはない。涼子が言う事ににゃーんと鳴いただけなんだが
胸の谷間でぬくぬくと安心して寛ぐ子猫を見るに、双方納得の上の契約であるようだ。

「とにかく、そういうことですから…ハックション!!」
この場を打ち切ったのは私の間抜けなクシャミであった。
雨にぬれ冷えたままだったのがいけなかったようだ。
心配そうな由紀子を安心させるよう頭を下げ、子猫を胸に入れ込んだ女王の後に続いたのだった。

――だがここで弱音を吐くべきではなかった。
机に上半身を寝かせている私の鼻腔になんとも凶悪な臭いが忍び込んできた。
「はい、玉子酒。」
トンと目の前に湯気を立てた湯飲みが置かれ、見上げればはにかんだ表情の絶世の美女。
これならどんな薬湯でも秘伝の漢方薬でも喜んで飲み干そうというのが男の感情だろうが
「なんですか!無理ですってこれ!」
湯飲みを覗き込めばすでに卵色ですらない濁った液体がふつふつと…
「ゆで卵も玉子酒も似たようなモンでしょ。作ったから飲みなさい!さあぐいっと!」

たしかにまずくてもなんでも暖かい飲み物をくれと思ったが、神様これはあんまりです…
神は日に二度も助ける気はないらしく、私は翌日午後からの出勤を余儀なくされたのであった。





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