ラインハルト×ヒルダ/牛男さん




 その日の夜、コンラートはフロイデンの山荘を管理する執事に長期休暇の申請を提出し、アンネローゼ自身にも口頭にて帰省の理由を説明した。
「しばらく実家に帰っていなかったものですから、父や母が心配しているようなのです」
 夕暮れ前に山荘に戻ってきたアンネローゼは、すでに普段の落ち着いた様子を取り戻していた。
 スカートの裾に残る微かな土や草の色がなければ……。あるいは、細くしなやかな黄金色の髪に枯葉の欠片が絡まっていなければ……。
 あの森の中での出来事が、ただの悪夢ではなかったかと思い直していたかもしれない。
「それは、いけませんね。距離が離れれば離れるほど、親は子を心配するものです。ええ、こちらのことは心配いりませんから、
存分にご両親に甘えてらっしゃい」
 慈悲深い女神の微笑み。だが、その表情が偽りの白い仮面であることを、コンラートはすでに知っている。
 本当は――このひとは、人気がないとはいえ、開けた森の中で恥じらいもないあえぎ声を出し、自ら身体を動かして男を求める、
淫乱極まりない女なのだ。
「明日の朝にはここを発ち、オーディンに向かおうと思います。……さしでがましいことかも知れませんが、もし、ラインハルトさまに
ご伝言などございましたら、わたくしから直接お伝えいたしますが」
 そう言ってコンラートは、やや期待の混じった上目遣いの視線を向けた。
 年頃の男の子が、華麗なる英雄に憧れを持つ――それはごく自然なことである。
 だが、ローエングラム朝の若き皇帝に、ただの少年が実際に会える可能性など、皆無に等しい。
 でも、ひょっとしたら……。アンネローゼさまと繋がりがある自分であれば、ひょっとしたら……。
 このあたりの微妙な心理を、コンラートは絶妙な仕草で表現したのだ。



「……そうね」
 アンネローゼはほんの少しの間、首を傾げるような仕草をして、
「弟にはしばらく会っていないし、手紙も書いていない。わるいけど、コンラートには郵便屋さんになってもらおうかしら」
「は、はい!」
 興奮したように顔を紅潮させると、アンネローゼは我がことのように喜んだ。
 もちろん、そのすべてが少年の計算であり、演技であることを、彼女は露とも知らない。疑おうとすらしないだろう。
 コンラートは、覚悟を決めていた。
 アンネローゼとヤン・ウェンリーの関係を、皇帝――ラインハルト・フォン・ローエングラムに知らせるのだ。
 黄金獅子と称せられるラインハルトは、最愛の姉であるアンネローゼを、フリードリヒ四世に奪われたことに対する怒りから、
ゴールデンバウム王朝を倒したとされている。
 華麗極まりない容姿と天才的な頭脳、大胆な行動力に目を奪われがちだが、あの青年をただ言葉で表すならば、
(ただの、シスコンじゃないか)
 賭けてもいい。
 ラインハルトさまは聞いてくる。
 アンネローゼさまの様子を、世話役の自分に必ず聞いてくる。
『……はい。最近のアンネローゼさまは、ヤン・ウェンリー元帥と特に親しい関係にあるようです。先日も、森の中で密かに逢引して
――セックスをしていました』
 怒るだろう。
 きっと怒り狂うだろう。
 これで、ヤン・ウェンリーの運命は決まったも同然だ。
「……ではアンネローゼさま。しばらくの間、おいとまさせていただきます。このお手紙は、必ずわたくしがお届けしますので」
 礼儀正しくお辞儀してから、コンラートは天使のような微笑を返した。




 フェザーンへの遷都が計画されているという噂もあるが、現在の銀河の中心は、惑星オーディンである。
 そして、オーディンの中心となる建物は、旧帝国の遺産であるノイエ・サンスーシー……ではなく、その近くにある質素極まりない建物だった。
 警備は厳重だが、皇帝の居城とはとても思えない。
 門の前で皇帝への取り次ぎをお願いし、しばらく待ったあとにやってきたのは、鬢に一筋の白髪が入った、体格の良い中年の男だった。
 年はよく分からないが、三〇代の半ばから後半といったところだろうか。
「憲兵総監兼帝都防衛司令官を務める、ウルリッヒ・ケスラー上級大将です」
 最悪門前払いをくらうかもしれないと覚悟していただけに、その男の名前と役職を聞いて、コンラートは驚いた。
「陛下は今お食事中ですが、是非とも君に会いたいとおっしゃられています。……コンラート君だったね。さあ、緊張することはない。一緒に来なさい」
 ひょっとすると、アンネローゼが密かに手を回してくれたのかもしれない。それでなくてはあり得ない展開だった。
 機能的とはいえるがいささか華麗さに欠ける廊下を歩き、厳重なセキュリティーロックがかけかれているであろうゲートを幾つか通って、
その扉の前に着いた。
 緊張した様子のコンラートににやりと笑って見せ、ノックをする。
「陛下。お連れいたしました」
「入れ――」
 落ち着いた若者の声だ。
 扉が開かれると、そこは小さな食堂で、二人がけのテーブルがひとつ。正面の窓からはやや眩しいくらいの明かりが差し込んでいる。
 そしてテーブルの席に、豪奢な金色の髪と鋭いアイスブルーの眼を持つ皇帝が、悠然と佇んでいた。
 コンラートはまず、その華麗な容姿に眼を奪われた。
 後方で扉が閉まったが、気づきもしなった。
 黄金色の皇帝は、少々行儀のわるいことに、テーブルの上に肘をつき、手の甲にほっそりとした顎をのせていた。もう一方の手はテーブルの下だ。
 皇帝の隣には、こちらも目を見張るほど美しい女性がいた。
 くすんだ金髪、ブルーグリーンの瞳。誰だろう。
 秀麗な顔立ちだが、少し強張っている、ような気がした。




「コンラート、だったか? 世が、ラインハルトだ」
「――は、はじめまして!」
 緊張のあまり、声が裏返ってしまった。
 ラインハルトは眼を見張り、それからやや苦笑するような、おさない子供を労わるかのような表情になった。
「そう緊張することはない。余はルドルフ・フォン・ゴールデンバウムではないのだから。姉上が君の世話になっていることは知っている。
感謝こそすれ、理由もなく怒るようなことはしない」
 それからラインハルトは、隣の女性に視線をやった。自己紹介を促したのだろう。
 くすんだ金髪の女性は、ラインハルトの視線にしばらく気がつかなかった。
「フロイライン?」
「え……あ、はい」
 女性はぎこちない口調で、ヒルデガルド・フォン・マリーンドルフと名乗った。
 話には聞いたことはあるが、その姿を眼にしたのは初めてだ。
 ラインハルトの主席秘書官という立場にあり、先のバーミリオン星域会戦では、自由惑星同盟の降伏および停戦を強行させて、
間接的に皇帝の命を救ったとされる。
 あの疾風ウォルフをして、「フロイラインの知謀は一個艦隊にも優る」言わしめた、才色兼備の秘書官だった。
「遠いところから、余に会うために、はるばる来てくれたのだ。フロイラインからもねぎらいの言葉をかけてやってくれ」
「は、はい。コ、コンラート……。その……」
 そこでヒルダは眼を閉じ、何かに耐えるように睫毛を震わせた。
「ようこそ……ん……。歓迎、いたしま……す」
 音を立てないように、荒い息をついている。




 様子がおかしいとコンラートは思った。
 二人がけの四角いテーブルなのに、なぜ二人は並んで座っているのだろう。通常は向かい合って座るはずではないだろうか。
 それに、何故?
 この女性は頬を赤らめ、顔を硬直させながらしゃべるのだろう。
 時どき眉根を寄せ、唇を噛むような仕草を見せるのだろう。
 以前のコンラートであれば、体調がわるいのかと見当違いの心配をしたかもしれない。
 だが、こういう表情を見せた女性を、コンラートはすでに知っていた。
(こ、この人たち、何を考えてるんだ!?)
 ラインハルトの片手は、テーブルの下にある。
 ヒルダとは不自然なくらいに接近している。
 もちろん、手を伸ばせばすぐにでも届く距離だ。
「ところでコンラート。姉上からの手紙を届けてくれたそうだな」
「はい。こちらに、ございます」
 用意していた手紙を取り出す。
 座ったまま片手で手紙を受け取ると、そのままラインハルトはヒルダに手渡した。
「フロイライン。すまないが、ここで読んでみてくれ」
「えっ……」
 美人の秘書官は眼を見張った。
「し、しかし陛下……。姉君からの、お手紙……ですよ?」
「構わない」
 ヒルダは震える手で手紙を開き、読み始める。
「し、親愛なる……ラインハルト、へ……。あっ――」
 かさりと、衣擦れの音が聞こえた。
 テーブルクロスが揺れた音だろう。




「ん……へ、陛下……」
「どうしたフロイライン。いつもの貴方らしくない。それでは、手紙の内容がよく分からないぞ」
「は、はい」
 それからヒルダは、ところどころつっかえながら、手紙を読み始めた。
 ラインハルトの片手は、いまだテーブルの下にある。
 アイスブルーの瞳には、どこか悪戯めいた極上の光が揺れていた。
「こちらは……新緑がいよいよ……深まって、ん……まいりま、した。……はぁ、はぁ……。オーディンは今……初夏の、ん――
き、季節……かし、ら――んうぅっ」
 くちゅ。
 空耳ではない。確かにそんな音を、コンラートは耳にした。
 テーブルの下で行われている行為に、すでにコンラートは気づいている。
 あ、姉が姉ならば、弟も弟だ。
 こんな日も高い昼食の時間に。しかも客人の目の前で、何ってことをしている!
 怒りと羞恥心で顔を赤らめたコンラートに、ラインハルトは満足そうな笑みを浮かべた。
 優秀な美人秘書官にそっと耳打ちする。
「まずいな、フロイライン。あの少年に、気づかれそうだぞ」
 囁き声にしては、少々大きすぎた。




 すっと目が合った。
 その瞬間、ヒルダは耳まで真っ赤にして、手にしていた手紙をしわが寄るくらい強く握り締めた。
「へ、陛下……。い、……せん。……か――ごか……んを」
「だめだな。まだ手紙を読み終えていない」
 あえぎとも呼吸ともつかぬ悲しげなと息をつき、ヒルダは唾を飲み込む。
 視線が泳ぐ。
 もはや手紙を読めるような状況ではないようだ。
 テーブルクロスが擦れる音が、少しずつ強くなっていく。
「――あっ。……だ、だ……だ、めぇ……」
 か細い、消え入るような声で、ヒルダが懇願する。
 くちゅ、くちゅ。
「はぁ、はぁ……んっ。ゆる……して」
 ラインハルトは許さない。残酷な微笑を浮かべたままだ。
 そして、
「――っ!」
 次の瞬間、ヒルダの上体が仰け反った。
「はっ……くぅぅぅう――!」
 眼を閉じ、声を殺しながら、しぼるように息を伸ばす。
 コンラートにとっては、あまりにも重苦しい空気。先日の悪夢が鮮烈によみがえり、わなわなと震えながら、立ち尽くす。
 小さな食堂には、呼吸を整える音だけが、静かに響いていた。
「ふっ、コンラート。ご苦労だった」
 若き皇帝は、テーブルの上のナプキンで手を拭きながら、十分すぎるほどに満ち足りた顔で笑った。
「確かに、手紙は受け取ったぞ。姉上にもよろしくお伝えしてくれ」




 食堂から退室すると、コンラートは扉に近づき、聞き耳を立てた。
『ふふ……見たか、あの少年の顔を。完全に、気づかれたようだ』
『へ、陛下! お戯れが、すぎますわ』
『フロイラインは、怒った顔がまた魅力的だな。それよりも……達してしまったのだろう?』
『う……そ、それは』
『どうした、フロイライン? 余の指は、確かに貴方の愛の証を感じていたぞ』
『そ、そんな……』
 げんなりしてしまった。
 自身の華麗極まりない容貌ゆえ、皇帝ラインハルトは、女性に対しては特に厳しい選定眼を持つといわれている。
 これまで浮ついた噂がいっさいなかったことからも、女性に対して興味がないのではないかという憶測まで飛び交っていた。
 年端も行かない少年を侍らせたり、同姓を愛するといったアブノーマルな趣味がないことは、帝国四〇〇億すべての民にとって喜ばしいことだ。
 だが、性的高揚感を得るために、他人が見ている前で自分の秘書を持て遊ぶとは。
(だめだ、皇帝は頼りにならない! こうなったら――)
 コンラートはケスラー上級大将に取り次いで、オーベルシュタイン元帥への面会を求めた。




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