『大丈夫、お前だけは死なせない。何せ……』
『待って、君は……誰?』
彼は呻くようにそう呟くと、急に視界が開けた。身体を起こした先、そこは夜の海だった。広い海は星空や月をその面に映し、静かに波打っている。下半身は水に濡れ、尻尾は波間を浮いたり沈んだりしている。
(あれ、自分には尻尾なんて……)
彼は疑問に思いながら、その尻尾を見た。彼の尻に当たる部分、そこにはやはり尻尾があった。それを見た瞬間、彼の頭の中は真っ白になった。
『う、うわぁあぁああぁあ!?』
「カ、カゲェエェエエェエ!?」
その声、それですらももう人の声ではなく、何かのポケモンが鳴いたような、そんな声だった。彼は自分ではなく、違う生き物の鳴き声だったんだと無理に思い込み、何度も声を出す。だが、結果は同じだった。それが意味するのは、ただ一つ。だが、彼はその事実を受け入れる事が出来ず、放心していた。
夜の浜辺にただ一匹佇み、何もしないままに時が過ぎていく。陸風が佇んでいるポケモンの背を押し、風に紛れ込んだ木の葉が彼の背に当たる。それでも、動く気配もない。
『いてっ』
彼が、不意に声を上げた。その直後、砂浜に何かが落ちる音もした。振り向いた先、そこに落ちていたのは壊れたモンスターボールの欠片だった。視点を砂浜から前に戻すと、そこには人間のときに比べて何倍にも大きそうな森が見える。彼が人間だった時の視点で見るとどのように見えるのか、それはポケモンとなっている今では分からないが。
(行く……かな)
彼はポケモンの身体を不慣れに持ち上げると、不恰好な歩き方で森へと歩いていった。その光景を静かに見守っている者がいるのを、気づかないまま。
『なぁ、本当に大丈夫か? あれじゃ、先が思いやられるが……』
『大丈夫大丈夫、最初は誰だってああでしょうし。しばらくは様子を見ましょ』
海岸以上に闇に包まれた森。今は人間ではない彼にとって、それは何倍も広く大きく、そして不気味に見えた。
それでも、彼は歩き続けていた。何度も慣れない身体でこけ、最初は滑らかだった肌にはいくつもの傷が見えている。
(少し、休むかな)
彼はそう思うとそばにあった木にもたれるようにして座った。無論、浜辺で座っていたときのように尻尾を前に回して。座った直後、情けないような音が彼の腹から響いた。
『そういえば、飛行機に乗る前に食べたきりだったかな。あの時は機内食が来る前だったし……』
彼が軽く腹を押さえていると頭の上から何かが落ちた。今度は大きく硬い何かで、彼はしばらくの間その何かが当たった場所を必死に押さえていた。
『いけねっ、当てちまった』
頭上からしたその声を、彼は聞き逃さなかった。木の上を見上げると、そこには慌てて飛び去ろうとするポケモンの姿があった。そのポケモンはすぐに飛び去ったが、その容姿をしっかりと確認することはできた。
(あれは、確かオオスバメだよな。 自分のポケモンにもいたとは思うけれど)
彼はそのポケモンが落としたものをその小さな手で拾い上げた。だが、拾い上げたものよりも先に人間のものではなくなった、その手が目に入った。
(やっぱり、尻尾だけしかちゃんと見てなかったけど体ももう、ポケモンか)
知れば知るほど、悲しくなる現実。これが、夢であったのならどれだけ楽だろう。彼はそう思いながら、その手でほほを摘んだ。やはりというか、それは彼にとって痛みを感じさせるだけ。その感覚は、今の状態が紛れもない現実であることを余計に自覚させる。
(はぁ、何でこんな事になったのだろう)
彼はため息をつき、空を見上げる。だが、当然ながらもう何も現れず、空は何の返答も返すはずがなかった。彼のほほに何か生暖かい物が流れた。それは、涙。彼は、無意識の内に泣いていた。
(こんな姿になっても、あいつは、皆は自分だと分かってくれるのだろうか)
それを考えると、脳裏には一つの答えしか浮かんでこない。彼は頭を横に振り、その事を考えないようにした。そして、手に持っているものに視点を移した。手に持っていた、あのポケモンが自分に向かって意図的に落としたもの。それは、チーゴの実だった。
(これって、確かやけどになった時にその状態を治す実、だっけな。まぁ、今回は空腹を満たすだけだけど)
彼はそう思いながらも、その実を齧った。ちょっと固いが、なんとか食べることができる。だが、その実の苦味が、妙においしく感じられた。元々は甘党で、苦い味は好みでないはずなのに。その瞬間、トレーナーとしての知識が揺り起こされた。
《これらの性格では、苦い味を好みとするのはおだやか、おとなしい、しんちょう、なまいきの四種。辛い味では……》
彼はちょっと考えながら「自分がおだやかか、おとなしいか、しんちょうか、なまいきか……どれも似合わないような気もするけど」と思いながら、食事を進める。チーゴの実を食べ終え、近くの木の葉の上で、彼は横になった。それが、無用心な事は分かっていたが。
(そういえば、自分はなんと言うポケモンなのだろうか)
寝そべりながら、彼は小さな手のほうに視線を移した。人間のときよりも遥かに小さく、短い手。その手だけを見るならヒトカゲに見える。だが、そう見るにはある事項が欠けていた。ヒトカゲのヒとも言える、尻尾の火がないのだ。事実、彼の尻尾は他の部分よりも熱いが、火はついていない。
(まさか、ヒのないヒトカゲ、という事はないよなぁ……。暗くて、色も分からないけど)
彼は不安を胸に抱えながらも、起き上がってそばに偶然存在した木の根の屋根がある穴のような所に移動し、眠りについた。それが、その姿になって初めての睡眠。ただ、自分の姿をはっきりとは見ていない彼はまだ気づいていなかった。先ほどの鳴き声を計算に入れていなかった彼は、まだ気づいていなかった。それが、的を射ているということは。