美影は翌日はしばらくひとりで集落一帯を歩き回っていた。そうとしたのも誰かを伴っては、それが退魔師ならばともかく、一般人であると何かと都合が悪かったからであり、その後は聞き込みに励んでいる内に夕方となり、またその姿は旅館の一室に収まっていた。
この1日の探索と聞き込みにより、昨晩に抱けた予感はある程度の強い確信に変わっていた。そしてそれは改めて、彼女の足を深夜の集落の中へと進めさせる事につながった。
その身なりは昼間に歩いた時と同じ、退魔師美影としての姿だった。そしてそうして表に出る事は旅館の人間に分からぬ様にと見当をつけていた裏から出て寝静まった路地を抜ければ、そこは集落を一望する高さの岬に至る道の入口。疎らな街頭が照らす軽トラが走れば満杯になってしまう、そんな道を歩いて抜ければ、彼女は手にした錫杖をシャンと鳴らして辺りに響かせる。
途端に風が吹き始めた、それは海からも山からも、どちらから吹いているのか分からぬ不思議で、しかし強い風だった。
「…ほれ、出てこんかい?」
一定の間隔を置いて美影は錫杖を鳴らす、その鳴らす直前に一言二言添える内に風は強い水気を纏い出した。海面からこの集落で最も離れている岬の上でそれは渦巻く潮となっていく、触れている体が途端に濡れ始める、一瞬呼吸が苦しくなったが深く長い息を吐くなり、美影の周りだけ大きな泡の中の様になり、いよいよそれは渦潮へと変わっていく。
今、美影がしている事は喚び出しだった。この集落の港で起きる不可解な出来事を自ら喚び出す、即ち誘き出すのに成功したと言えるだろう。
(矢張り海の精やな…それとも海の神か、さてそこからはこれか…んっ!?)
渦潮に変わった風、それをもたらしている存在を突き止めるのが次の段階だった。今はまだ、美影がその自らの力を利用して喚び出しているに過ぎないからこそ、その出方を探るのが肝要となるが、ふとした事に気づいたことで動揺がそのバランスをかき乱し始める。
「え、待て、これ…!?」
気付かなかったら恐らく均衡は崩れなかったろう。目論見通りに事が進んでいたかは分からないにしても、もしかすればあと一歩であったかもしれないところで美影は自ら手にしている錫杖に生じた変化を見てしまった。それは錫杖が別のものに変わりつつある姿、言うなればそれは鉾、それも三叉矛へと姿を掴んでいる間に変えていたのだ。予期していたものではなかった、少なくとも彼女は錫杖と共に意図的に引き起こす召喚からの流れを御して、あわよくば制するつもりであったから、その鍵となる錫杖が変わってしまうのに、美影はどうにも動揺を抑えられなかった。
正直なところ、高名な退魔師、とされる彼女の得意とするのは既に起きている事態を制圧する事。例えるならば既に燃え盛っている、あるいは燻っている炎を鎮火するものであり、静まっているものを敢えて目覚めさせて操るというのはそこまで得意なものではなかった。
しかし出来ない訳ではない、得意ではないが可能である。そして今回はそれをすべき、と考えるに至った理由があったからこそ踏み切ったものの、どこかでは彼女とて迷いがあり、それが錫杖の変化との鍵をきっかけに一気に動揺となってしまったのである。
「あ、あかん、っと落ち着い…んぐっ!?」
そしてそれは更に崩壊していく、水面に浮かぶ泡立ちは、新たな波によりいとも容易く崩れるもの。美影を包んでいた泡の周りにあったのはなんだろうか、そう風から転じた渦潮である。その強い力の前には、彼女の力にて維持していた泡は瞬く間に破れたばかりか利用していた力すらも奪われていく、そう取り込まれていくのである。
瞬く間に形勢は悪くなる一方だった、泡の薄い膜を失った美影は今は渦潮の中に巻かれていく。そしてその召喚に用いた、自らの力と合わせた存在が今度は渦潮の中へと彼女取り込むのを促進する作用を見せ始める。
それは物体としては珠であった、そしてそれは姿を変えた錫杖と今は一体化していて、金と黒にて構成される三叉矛のへの付け根に収まっているのである。そう美影にとり武器である錫杖を介して、その珠の力を引き出し、かつ自らの力と合わせて召喚術を執り行った、と出来るだろう。
ではその珠は一体どこから出てきたのか?それは先に触れた木箱の中に収まっていた、ではその木箱は?御影が携えてきた鞄の中から出て来た。では鈴華神社の神具か何かだろうか?否、違うのである。そう書いてしまうなら、数日前、美影が神社に持ち込まれていた袋の中に見出した「力」の正体こそ、その珠であったのである。
その時点で美影はその珠が何らかの理由によって本来あるべき場所から取り除かれ、紆余曲折経て鈴華神社納札所に持ち込まれたのだ、とは察していたが、ではどこから来て、一体どういう力を詳しく秘めているのかはまだ調べていなかった。故に、鞄に入れたのも依頼先で休んでいる合間に調べてみようかしら、との軽い気持ちであったから、まさかこうして役に立ち、しかしそれが均衡を崩壊させる原因となるとは、全く予見していなかったと出来るだろう。
「あ、ああ、あかん、ひ、ひん、体変わってまう…っ!」
皮肉にも今、美影はその多くを突き止めていた。正確に言えば珠が、美影の体に書き込んでいると出来よう。錫杖を三叉矛に変えても溢れる力は渦潮の中で、その流れに関わるに相応しい姿へと書き込み、そして変えていく。
それは美影の誇る強い力をしても抵抗しきれない、強い自然の力だった。そしてその強い力に乗れるべく、乗って御するに足る姿は当然人の身では困難なもの。だから人ならざる姿が用意される、まず変わりだしたのは髪の毛だった、元々長いその髪は色が変わる。それは淡い水色だった、より長くなると共に大きな緑色のリボンがどこからか生じてポニーテールとなってその頭を飾り付ける。
髪の色の変化は眉に微細な体毛へと全てに及びだす、その全身が淡い水色を帯びる様になったら、次は手足が変わりだす。特に変わったのは足だろう、それは筋肉のつき方からヒトではない、そう獣たるもの。力強く蹴って駆けるに相応しく、と表するを補強するのは指の消失だった、代わりにそれ等はひとつの白銀の塊、即ち蹄へと変わりて美影という体から「指」との存在が消え去ってしまう。
そして更なる変化は皮膚の一部が鱗に変わったことだろう、それはよりはっきりとした水色よりも濃い藍色。その鱗が陰部や両手足を多くを覆うと、いよいよ大きな変化がその体を、渦潮に巻き込まれている肉体を包み込むのである。
即ちそれは鰭の発現だった、まずは耳。それは藍色の筋に支えられた水色の膜による大きな扇のような形へと変わる。そしてより大きくは不意に広がった股関節、脚、今や馬脚となった間から尻肉全体を巻き込んだ尾鰭という形でより展開される。
それこそ魚だった、魚のエラから舌の胴体部分とも取れる巨大な尾鰭は大小様々な鱗で覆われていて、更に飾る鰭がしばらくは渦に翻弄された後、ある時からキッと形を整えるなり、その波の流れが今度は変わりだす。そう、そこまで経て変わった姿こそ、珠がもたらしたその渦潮を、美影が御せられるであろうと考えて召喚した現象たる異変を統べるに必要なものだった、となるのである。
しばらくその瞳に意思は感じられなかった、どんよりとした群青の瞳を持った顔は紛れもなく美影であったが、ヒトの身に馬と魚を組み合わせた異形たる姿はその意志なぞ知らぬというように勝手に動き回るのみ。最もそれとて意味がなかった訳ではない、むしろあった、と出来るだろう。そうハッと意識覚醒する頃には、完全にそのある場所は海面の中へと移っていたし、今や海の抱ける力はその存在を歓迎するかの様に穏やかに変わっていたのだから。
(こ…これは、一体、でも、はぁ。これが今のあるべき姿やねぇ、くく)
戸惑いすらも一瞬で消えてしまう、それこそ泡をかき消すかの様に今やその姿をシーホース、またの名をヒッポカムポスとされる海馬となった美影。その全ては統べる者を失って求めるが為に、高潮の幻影にて集落の港を襲っていた海を沈める存在たる幻獣として染まっていたのだった。
敢えて言うならば、この集落に面する一体の海を統べていた存在は古くからある鮫であった。実のところ、美影はひとりで歩き、聞き込む中でその鮫が何らかの要因でいなくなったのを突き止めていたのである。同時に鈴華神社にて手に入れた珠が海に関わるものであるのも、その時点で彼女はつなげていたのである。
しかし、海は海であれ、その珠とてまた別の本来あるべき場所から失われて久しいものであるのもまた感じていた。それだけに彼女は余り得意ではない術の為に、その珠の力を行使するとの事に同時に戸惑いを感じてしまって仕方なかったのである。そしてそれはある形で懸念として当たり、そこから狂った展開は今、美影をどうした訳かいなくなった鮫の後釜たる海馬として海に当てはめたのである。
もし、仮に美影の目論見通りに行っていたならどうなっていたのだろう?恐らく鮫の不在は確定的なものとして、退魔師たる彼女は確認し得ただろうし、何らかの方策を打ち出していたに違いない。しかしそれは恐らく、更なる時間を要するものであっただろうから悩まされる集落にしても、統べられるを欲する海にしてもプラスにはなり得なかったに違いない。
正にそれはある種の人身御供、だからこそ美影であった海馬はその水底深くに珠を取り込んだ三叉矛と共に在っては、潮を統べる以外に存在する理由を失っていたのだった。
完
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