「はぁ、なるほどそれでお話を伺いたいと来られた訳ですか」
「ええ、そうなのです。よろしければ、と思いまして…いかがでしょうか?」
いきなり訪ねてきた男の相談に彼女は思わず、目を丸くして、また口元をふっと歪ませて応じざるを得なかった。それはただ驚いたに尽きるだろう、加えて一体どこで私がここにいると知ったのだろう、との二重の意味を持ち合わせている物であり、すっかりラフな格好ではあったが、思わず心地は仕事を成している時の姿勢に、完璧とまでは言わずとも入ってしまう。
ここは冠西から離れた、冠東の一角。お忍びで、と書くのは何とも憚られるところもあるが、要は特に関係のある相手先以外には行先は告げずに久々の休暇と洒落込んできた先での唐突な来訪客があらば、そうした心地となるのも当然となろう。
最も、手渡された名刺を見ればある程度は承知が行くもの、その肩書きの前にある所属先は何事かと関わりのある関係先であったし、役職名も見れば、必要であれば自らの情報なぞ手に入れる事は可能な立場。だからこそ、次第に気持ちの中では仕事の割合が自然と増えつつ、同時にこのタイミングで、と思ってしまえたものだったのだ。
「へぇ、ようやく着いたわー、ここがその温泉街か。良い空気やなぁ」
紫、最も青紫か。そんな色合いの髪を垂らした少女がバスから降りたったのは、ようやくこの温泉街に朝が訪れた時であった。
「えーとバス停からは…こっちの方やね」
空になったバスが折り返し場所へ向けて走り去っていく風もすぐに落ち着いた中で、彼女は手にした地図の図面を目の前にある案内看板と照らし合わせて見当を着けては、一歩前へと踏み出す。すると不意に柔らかい感覚を足の裏に感じて見れば、そこにあったのは大きく盛り上がった霜柱。
時刻としてはもう太陽はずっと上がっていてよい時間、であるのだがこの温泉街は山の中にある窪地の底にたまった湖のほとりにあるものだから、もう里ではすっかり解けているはずの霜柱が、まだ早朝かの様に残っている、との次第なのである。
彼女はそれをしばらくしげしげと眺める、それもそうだろう、何せ彼女はこの土地の人間ではない。ただ人としては様々かつ多様な経験を誰にも勝ってしてはいるであろうけど、こうした霜柱だとかは流石に、この国の中でも多数の「昔」が息づいている、普段住まう宵闇市においてもそうそう、簡単には見る事は出来ない。
その理由としてはこの土地よりずっと西であり、また都市であるから気温が高く、何より地面が露出している箇所がずっと少ない、からとなるだろう。しかし、それ差し引いても、ここまで立派な霜柱は中々見当たらないと言うもの。故にしばらく眺めてから、屈んで軽く突く等した後、彼女は、鈴華美影は改めて歩き始めたのであった。
鈴華様ですね、どうぞ―と通されたのは温泉街の中でも一際変わった立地に立つ宿だった。変わった、と書くからにはそれはそれこそ、なのであるが、一言で言うなら温泉街が囲む湖の中に幾つかある小島、そのひとつに建つ旅館であり、立地柄もあってかやや古びてはいたが、船でなくては行く事が出来ず、その船にしても随時運行ではなく定められた時刻にならないと走らない、との決まりがよりその秘境感を強めるものだろう。
船に揺られているのは大体5分ほど、だからそんなに湖畔から遠い訳ではない。若し、泳げる技量があるならば裕に行ける距離であろうし、彼女ならばそれは恐らく容易い事。しかし、今の時期はすっかり冷え込んだ時期、山奥の、冠西よりもずっと寒さのキツイ冠東、と見れば流石の美影としてもしようとの考えは浮かばなかったが、夏になると水泳場が幾つか開設されて賑わうと聞くと、それはそれで機会を見て、との考えは浮かんでしまいつつの移動であった。
取り敢えずは荷物を置いて、と宛がわれた部屋は和室のこじんまりとした1人部屋。最も、だからと言って彼女がこの旅館、ないしこの島で独りで、との訳はなかった。早速、彼女の到着を知った先に居て、既に泊まる手配を済ませてくれていた相手が訪ねてくる。久しぶり!と、東のイントネーションの強い来訪者の名前は佐和田響子、同業者としての縁で知り合い、彼女が西に来た折に出た話から、今回の機会が得られた、となろう。
「佐和田はんか、久しぶりやねぇ。元気してた?まぁ、そんなん聞く事もないやろうけど」
変わらずの元気さにあふれた気配に美影はふっと笑みを浮かべてしまう。対して響子はより明確に、当然じゃない、と言いつつ美影の肩に手を置いては軽く体を揺らしてくる。
「わわ、もう変わらんなぁ、あんたは。とにかく今日はありがとうね、良いお宿やなぁ」
「でしょう?ここは私のお気に入りの場所なの。そうそう、別に連れてきた人もいるから後で紹介するね?」
体格を比較すると美影に対して響子はずっと体つきがしっかりしている。美影を標準的、とするなら彼女はそれよりも一回りは少なくとも肉着きも良く大きくて、今、肩を掴んでいる手から伝わってくる握力も相応なものがあるところ。だから美影の体を自在にゆらゆらと揺らせる訳であり逆に言うとそれだけの力を以ってするものだから適度な加減もしているので、変に首が振れて気分が悪くなるとかはないものであった。
本当変わらずねぇ、としつつ美影は尋ねる、別に連れてきた子とは誰?と。確かそれは尋ねて当然であった、何せそんな相手がいるとはついぞ聞いた覚えがなかったのだから。不思議に思い神妙な顔に対して響子が向けたのは、あら知らなかったの?との、ほんのり慌てた波の載った言葉。
「おかしいなぁ、えーとあなたの妹さん、えーと名前はほら」
「猫乃か?」
「そうそう、猫乃さん。美影ちゃんへの直接の連絡先を聞くのうっかりしてしまっていたから、分かっていた猫乃ちゃんに伝えといてね、とメッセージをしばらく前に送っておいたのだけど…やっぱり、人を介すのは駄目ね、こういうやり取り違いが起きてしまうもの」
そう言い切って、一拍置いてから響子は伝える。
「実はあなたの事に興味があるって言う子がいてね、それで話が通じていると思っていたから今回連れてきたのだけど…まぁ同業者ではないけど、似た様な事をしている子かな、言ってしまえば」
「似た様な?へぇ、退魔師ではないんやね?」
「そう、そうね。退魔師ではなくて、サポートすると言うか、いや違うわね、研究する、かしら?」
「どっちでもある具合やね、そうなると。へぇ、大神はんみたいなもんか」
少しばかり澱んだ後に響子から出て来た言葉に美影は、自らなりの解釈をして返す。すると半ばうなずく様にして肯定が返され、ただ一言、こう添えられた。
「そうね、ただ半ば公式と言うか、私的な存在ね。大神さんってあの、狼とのハーフの方でしょう?警察の」
「そうそう、あの警察の」
猫乃に続いて大神と、出てくる名前にふっと感覚が戻るのを感じている内に響子は矢張り手早く話を進めていく。
「対して私が連れてきた子は、退魔師に関わるボランティアみたいなものね。ほら、こちらはこちらの事情が色々とあるし、さ」
「せやなぁ、こちらに、冠東に入ってからどうも調子狂うなぁと思ったねんけど」
「でしょうね、大神さんや猫乃ちゃんからも聞いた事があるでしょうけど、やっぱりこちらはしばらく前の異変からようやく直りつつあるところだからね。私達退魔師も、それに関わる全ても、ええ」
加えて冠東は元々地域によって濃淡が濃いからね、余計にそれも絡んで複雑なのよ、と響子はつぶやく。そしてそこまで至ったところでようやくハッとした顔をして、ああごめんなさい、とこんなに立ち話させちゃって、お茶でも交えながら続きはしましょう?との誘いをかける。
ここまで興味深い、あるいは気になる話の内容となってしまっては、無論、そうでなくとも招かれている建前もあるのだが、せやな、と美影は快く返す。そして、宛がわれた部屋に鍵をかけては、ロビー近くに設けられている談話室へ向けて暖房が効いてはいるとは言え、ほんのり寒さもある廊下を、また会話に花を咲かせながら歩んで行ったのだった。