林檎姫乃命・前編 冬風 狐作 鈴華美影の不可思議な日常二次創作
「あぁ、暑い暑い…注文?ああそうだ、しないと、すいませんね、えーと…」
 初夏に至る手前の新緑の季節と言ったらそれはもう、独特な暑さに包まれている。湿気についてはそこまでは高くない、純粋に太陽光により暖められた空気による、との点が強くある。だからこそ、数か月後の猛暑の時期に思い返せば、とても「快適」で「過ごしやすい」となるのだから、見方を変えればそれだけ、人の記憶や感覚が頼りない事を分かりやすく示してくれる、そんな季節なのかもしれない。
「…じゃ、アップルジュースで。少し多めにお願いします」
 最も、それは後から見ての理屈、でしかないのかもしれない。実際のところは単に、数か月前には薄かった湿気が濃さを一気に増した事に体がストレスを感じている、ただそれだけの事かもしれない。また、単にご都合主義的にその場その場で浮かべている断片的、かつ何の脈絡もない、そうした一瞬の過りでしかないのかもしれないだから。
 注文を復唱した店員の影をふっと視線で追いつつ、彼がそう浮かべたかも当然ながら定かではない。とにかく、昨日に比べて明らかに湿気が増して、かつ雲一つない快晴の下では、体の随所に獣の要素を持つ犬人にとり、ただの人間であっても辛さを覚える状況はより、はっきりとした辛さとなってかかってくる、それだけは確かな事で、それを理解しているからこそ、ふと浮かべるのは替えの下着をそろそろ持ち歩くか、との極めて即した考えであった、と触れておかねばならないだろう。
 季節は6月、水無月。幾ら換毛期を迎えたとは言え、何がしかの獣の属性を有する種族に属する者にとっては、じんわりと厳しい季節なのであった。

「ねーさま、美影ねー様!」
 そんな昼間の湿気も夜ともなればすっと引いていく、先の皐月に比べれば幾らかは残るようになったとは言えど、まだまだ清涼な適度に乾いた空気に変わってくれる半月を抱いた夜。夜宵市の一角にある鳥居の奥、鈴華神社と揮毫された神額を掲げるお社の傍らにある住居も兼ねた社務所の中では、人を呼ぶ声が響いていた。
 呼び方からしてそれは親しい相手、それもこの時間のひとつ屋根の下、ホテルだとかでは当然ないものであるから、それは肉親を呼ぶ声であるのには違いなかった。
 まだほんのりとした若さに成り切れぬ幼さを感じさせられる、やや甲高い声を発する体には獣の部位がある。それは、横側にやや先端がその大きさ故に垂れた格好をしている猫耳、背後で垂らした猫尻尾、その2つを有する彼女は霊猫と称されている種族である。
 姓に抱けるは社の社号にもある「鈴華」の二文字。特に種族に結びつくものではないが、その名は猫乃、とそのままに反映している。明るめの茶色に白の混ざった毛並みと頭髪を揺らしつつ、彼女はきれいに掃除された廊下を、大きく言葉を吐く割にはゆったりとした口調で家の中を歩き回っていた。
「もー、ねー様ったらどこに行ったのよー」
 しかし期待しているのに、一向にない返事に次第にその微笑みは失われていく。社務所を兼ねた住宅、あるいは住宅を兼ねた社務所、どちらも合わせている事から比較的大きな建物ではあるのだが、彼女等が時として関わる様なダンジョンめいた複雑な構造物に比べれば、それはとても小さく単純なもの。
 だからこそ、同じ場所をぐるぐる回ってしまうのはどこか奇異であるし、必要性すらまずない。更に、その一角では既に眠りに就いている者もいるだけに、そこまで繰り返しているのもまた難しいもの。例え、彼女が無言になったとしても、床を歩む足音と言うのは思った以上に周囲に伝わっていくものだから、その安らぎのひと時を妨げる事にすらなりかねないし、それはまた面倒な事も承知している。
 故にそれを頭の隅に置きつつ、彼女は探し求める相手はどこかと思い当たるところを巡っていく。そっとのぞいて見る時だけは軽く声を出しつつも、口は原則として噤んだままに居間に始まり、炊事場、物入れ、終いには風呂場まで見て巡る。
 しかしどこにも見当たらぬのに年齢相応と言うべきか、それとも年齢の割には、と出来よう感情を彼女は次第に募らせていったからだろうか、それは見えない呼び声となっていて辺りに伝わっていたのかも知れない。何故ならそれはノイズとなって、向けられている相手の気持ちの中に響いていたのだから。
 どれだけ明確に伝わっていたかはともかく、生じた波は確かに伝わっていて、それが結果として新たなきっかけになっていたのは、どうであれ確かなものだった。

 さて、ここで場面を変えよう。この時、猫乃が探していた相手、美影のいる場所へと変えてみるとしよう。
「あーもう、こんな眠い時にやってられんわぁ」
 小声ながらぼやく美影の声には、幾らかの眠気が含まれていた。最もそれは然るべきもの、時間を見れば時刻はすっかり夜が頂点に達する頃合であって、何もないのであれば彼女自身も今頃は布団の中に入り込んで、涎を垂らして寝ている、そんなはず。
 そしてそれはほんの数時間前まで予期されていた、そうなるはずであった「未来」であった。
「幸い、風呂に入った後だったからよかったけど…これで入れてなかったら最悪やったわ、本当」
 その言葉の通り、それは唐突に起きた変化。風呂に入り、さて、体を覚ましたらひとつ冷たいジュースでも、と体を拭きながら浮かべていた正にその時、脱衣所の扉越しに伝わってきたのは自らを探す、そんな声であった。
「ああ、もうなんや、おかん!今、出るからちょっと待っててや!」
「もー早くなさい!あなたに依頼なんだから、ね!」
「依頼って、もう殺生な…!?」
 のんびりしていた気持ちは一体どこへやら、途端にもたらされた一報に彼女の気持ちは一気に切り替わる。言ってしまえば実戦モードへと変わりつつ、美影は用意しておいた下着を最低限身に着けて、また濡れている長い髪をおさえながら飛び出せば、待ち構えていた声の主、沙雪より詳細を告げられ、そこからはもう駆け足で仕度をして駆けつけた、との具合であった。
「うー…で、どこにおるんや、そんな急に依頼になる様な相手は?ああ、もう…」
 急な依頼が飛び込んでくる。それは時としてある事でつい先週にもあったばかり。その時は、駆けつけたらすぐに相手がいて、さくっと対処したものであったが今回は肝心の現場に来たものの、その相手がどうにも見出せない。
 一瞬だけガセネタ、との考えが浮かんでもそれはまず否定出来る。
 確かに全くない訳ではない、しかし今回は確かな、即ち退魔師協会から飛び込んできたものであるから、その内容はともかく緊急性があり、かつ確実なのはほぼ保障されている。だからこそ、その可能性は無視出来るものだから、沙雪も了承して美影に告げたのであろうのは違いない事なのだった。
「とにかく、うー…ここでもないなぁ、人払いしてあるからええんやけど…」
 送られた場所は大きな倉庫であった。最もそれは過去の話になろうか、としている場所であって、取り壊す直前の倉庫、そこで発生した「異状」に対応してくれ、との内容。
 具体的にどうなのか、との点については聞けたのは概要だけ―とにかく終業間際の時間帯に何等かの事象が起きたらしい、幾人か行方不明になっている―との辺りが精一杯で現場に行ったらまた逐次情報を与える、と言われたものの、肝心の現場には誰もいない有様だからお話にならない限りであった。
 ただ、これも毎度の事とすら言える、とにかくこの退魔師の稼業にとり、そんなのは日常茶飯事であるとしか言えない。何故なら、退魔師の間でも同じ現象に対してどれだけ見えるのか違いが、その個々の経験やレベルによって生じる始末なのだから。よって大抵の場合、第一発見者となり、また通報者となる警察や一般人となれば、それはもうお察しと言うしかない。
 だからこそ、美影を始めとする退魔師の多くがどこかでは嫌っているのは、そうした「ガセネタ」あるいは見当違いを多々に含む事の多い後者からの通報だった。
 一番悪い例として語られるのは次の様なもの―些細な事と言われて行ってみたら、これは特に新人退魔師に多いものだが、1人では、あるいはその能力では対応が完全に不能で、最悪の場合、そのまま逆に倒される。つまり事態を退魔師が酷くしてしまう事すらあるのだ!だから避けねばならない、と。
 避けなくてならない、それはもうその退魔師自身にとっても不幸でしかなく、その跡の後始末をする退魔師の負担はより増える為であった。つまりロクにならない事が余計にロクでもない事に拡大して、そして更に、の悪循環のサイクルにはまってしまうのがどうにも発生してしまう、それを何とかして防がないと、とは美影が退魔師になる遥か前から言われていたものだった。

 その長年の課題とされていたものに対する対策として、退魔師協会は、特に最近になって各所で盛んに、何等かの事象があったら、まずは協会へ通報を、との宣伝を繰り広げた。当然に批判もあり、例えば良く言われたのが対応までに時間が余計にかかりはないか、との主張であって、一定の支持を各所で集めていて、中々に話題となったものだった。
 確かに通報を介す事で直接退魔師に伝えるよりも若干のタイムロスが発生するのは否めず、実際に初期の頃にはそれで被害が拡大した事案も少なからずあった。しかし、少なくとも協会による簡易的ではあっても、判断を下した上で相応と思しき退魔師に出動の依頼がされるのであるから、空振りのリスクも、何よりもその人材が失われる、との事態も避けられる。
 それ故に退魔師の側は歓迎であった。そして、その広報活動も何とか認知されたのか、昨今ではそこまで、そうした更なる事態の悪化、との懸念は聞かれないし、また事実としても少なくなってきたと協会は、最新の広報では大いに広めている。
 成果が喧伝される。それだけに退魔師にしっかりとした対応が、より一層として求められる様になったのもまた事実。つまり、言い換えてみれば責任が増してしまったとも言えよう。だがそれは、少なくとも美影を始めとする鈴華神社の面々にとっては、よりプラスの方向に働いたと出来よう。しっかりと対応して当然、その意識をより強めだけではなく、あの神社にいる面々に頼めばまず間違いはない、との評価がより一層強まったから、とも出来る。
 それでも矢張り眠い時は眠い、だだっ広い倉庫の中を警戒しつつ歩く、その動きすらどこかでは眠りを誘うリズムにすら成り得る中で、ふっと感じた気配に向けば、もう幾つかの気配が彼女を取り囲む。
(いち、にぃ…さん、し、4体か…)
 気配は、複数であった。そしてそれが実態を有するのも分かる、ほんのりとした明かりが疎らに灯る空間にある影を利用して隠れているそれ等は、入る前に得られた情報にあった行方不明者の「人数」と一致したもので、なるほど、と美影はうなずくほかなかった。
「では遠慮なく…ぅ!」
 ひゅんっ、と長い棒の先端が空を切る。それを掴み操っているのは、当然、美影であった。釣られてだろうか、一体が出て来れば他の気配も、また一体、続いて一体と現れてくるのは単純なもの。しかし油断は出来ない、わらわらとした動きには相手の未熟さか感じられる。だからこそ、魔力を込めて棒を振るう美影もどこかでは気が散らされる。
 何故ならそれは動きが読みづらいから、に尽きる。ある程度熟練した、と書くのも妙かも知れないが、戦いなれた妖怪だとかはある程度、動きに規則性があるのでそれを掴みとってしまえば後は意外に難なく対処出来てしまえる。
 しかし、今回の様な未熟な、初心な動きをする生じたばかりであろう「憑神」はそこが読めない。一体ならばともかく、複数いるとなれば、よくこうした緊急の依頼を自ら引き受けがちな新人退魔師では中々に難しい。だから美影に依頼が来たのもうかがえるところで、それだけに奮う棒術も慎重に、しかし数で押されては仕方ないので時に大胆に強く、振るいに振るっては憑神達の力を奪っていく。
 結論として書くならば、それはすっかり太陽が上がりきる頃合にまでは退治出来た、となる。最初に一体倒した後、あとは動揺した憑神達を一挙にまとめて、となるのだがその流れの中に美影はふとした違和感を抱いていたものだった。何と言うべきだろうか、力を振るっている最中にどこからか話しかけられて、ふっと気が散ってしまった。そんな具合。
「お疲れさん、取り敢えず被害者は全員運んだよ」
「ああ、そりゃどうも…はぁもう朝やんかぁ、疲れたわ、大神はん、飯でも食いに行こうや」
 ただそれを彼女が大きく、面として言う事はなかった。その場にいたのはただひとり、憑神達を除けば自らしかいなかったのだから、との心地の中で彼女は人払いの規制線の外で待ち構えていた顔馴染みの刑事の声掛けに、生あくびと共に返しつつ、その丸まった尻尾を掴む。
「あっこら…!」
 ふと上がる、犬人の刑事の声も今や眠気と空腹で思考の大半を埋めた美影にとっては、目覚ましにすらならない、眠気を和らげる為のガムや飴、それ等に等しい効果しかもたらさなかった。満たしていく陽光も、またそれに等しい限りの水無月の朝であった。


 続
林檎姫乃命・後編
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