「あ…っ!?」
その声が僕の声であったのは疑いが無かった。そしてそれに被る形で小さな別の声が、驚きの感情を多分に含んだ声が上がったのは、きっと間違いなかった。
しかしそれが単なる叫びであったのか、それとも意味のある言葉の端であったのか、あるいは単なる幻聴に過ぎないのか、は突き止められない。
より慎重に言葉を付加するならそれは、すぐには、でしかないのだが、現状、得られている視覚的な情報も踏まえてみれば、僕の投げた「モンスターボール」は確かに物陰から出て来た誰かに当たった。そしてその誰かは僕の見知った人であり、かつその人はモンスターボールに当たるなり、その中に呑み込まれてしまった、となろう。
淡々と書くしかないが、正にその通りであろう。現に今、床の上に転がっているモンスターボールはアニメだとかでの描写のままに、今しばらく転がったまま、その継ぎ目にあるボタン様の箇所が幾らか点滅して、そして消えた、との過程を経ていたのだから。
その一連の流れを見ていて、かつ認識して、まず僕が浮かべたのは「恐ろしい」との思いだけだった。一体何が起きたのか、分かるが理解出来ない、有り得ないがあったのだ、との、その相矛盾する感覚が僕の中でこれほどまでにせめぎ合うの僕は動きと言葉をしばし失わざるを得なかった。
故のそんな具合から、僕はまだそのモンスターボールに手を伸ばせないでいた。伸ばす気になれば幾らでも伸ばせるだろう、そしてまた手中に収められるだろう。しかし、それをするとまた、予期せぬ、思わぬ何かに見舞われるのではないか、との思いが脳内を巡り巡って仕方なかったからこそ、僕は一旦伸ばしかけた手を、また引込めては、と繰り返してしまったのは一体どれだけだろう。
結局、僕がそれを手にしたのは時間にするとそこまで長くはない先の事。しかし重ねた迷いの回数たるや、それは時間と反比例した桁違いの多さであって、それだけで僕はどこか消耗してしまっていた。
しかしどこかでここまで至ると気持ちとしては、軽さすら今度は抱き始めていたのもまた事実であった。眠気すら一瞬感じてしまった、その背景には再びモンスターボールを手にしても何も起きていない、との現状は大きく作用していただろう。
だからこそ、今の、誰かに当たって、その見知った誰かがモンスターボールの中に消えた、との記憶すら、一瞬墜ちた眠気の内での「夢」ですらあったのではないかと、僕は思えてしまえる。そしてその思いが確たるものである、と自らに示さんばかりに、手の平の中にあるボールを強く握りしめる。伝わってくる感触は、まるで何かから醒めたかの様に変わっていて、ああこれは玩具だ、と浮かべた刹那、全てから解き放たれたかの様な気持ちの軽さの中に、僕は大きく息を吐いてそのボールをポケットの中へとしまい込んだ。
(ああ、そうだ、うん。ちょっと眠かっただけなんだ、さてとのんびりしていても仕方ない、眠いなら寝てしまうに限る、な)
少しばかりの独り言を、言葉とはせずに脳内で巡らせるなり、僕は歩み始める。ここは自宅、そう自宅の自室のベッドに向かって、夜の暗さに包まれた階段を上って行く足取りは、その方向に見合わない軽快さを合わせ持っていた。
しかし翌日には、夢から醒めて改めて、「夢」と思い込んでいたものが、実は夢ではなく現実であったのを僕は思い知らされる。目を覚ましてふと感じた視線の先にいる異形の存在、そしてそれが何事かとこちらに向けて口走ってくる姿、そしてその傍らに転がっているのは―あの「モンスターボール」。
一体、何がどうなっているのか。僕が明瞭な認識を得られる前に、その「異形」―人と、そのボールの中に収められるべき存在「ポケモン」を混ぜ合わせたかの姿を呈した―は、何かを僕に向かってきてふっと投げてくる。
当然、それから逃れられなかった。逃れるとの判断は出来ないほどまでに短く、どこかではそうなるのが当然、と受け入れていた不思議な心地の内に、僕は捕らわれていた。
モンスターボール。今度は僕がその中に呑み込まれていくのは実感として間違いなかった。その刹那、自らの意識から肉体に至るまでの全てが、確たる物理的な物質から光り輝く、光そのものとも言って良いほどの集合体に変わって、全てを余す事無くボールの中に呑まれていくのを不思議と認識しながら、次の瞬間には全てが暗転した中に僕は収まっていて、どうしようなかった。
「うう、一体何なのよこれぇ…げほっげほっ」
その「僕」の入ったモンスターボールを手にしている異形は、咽ながらそう言葉を漏らしていた。言葉はやや明瞭との所、しかし例えば語尾だとかは聴き取り難さがあり、何より、そこに咽る音が被さるから一応の意味が通じる言葉を吐けるけれども、その形状を見れば、そうで然るべき、と見れてしまえるところであろう。
「異形」との言葉はその者の為にあるべき、と言うが相応しいだろう。その口は嘴、黄色い比較的平たい嘴が唇の代わりにある姿はとてもその時点で人ではない。
しかし、体の形としては人である。二足の脚があり胴体があり、腕については大きな翼、翼腕と称せる形状をしたその存在は、更にそれを印象付けんと示さんばかりに体を様々な色で覆っている。
その多くは毛であった、体のラインに沿って靡く形で、貼りつく形で、とすら表せられる具合の毛並みは翼の通りに鳥そのもの。紺に若干の紫を混ぜてより深みを増せさせた具合の色が最も大きな面積を占め―少なくとも翼の大半はそれであり、人で例えるなら後頭部から頭髪に当たるであろう場所も―ており、続いては白、そして臙脂色との具合であり、黄色は嘴のみ、と出来るだろう。
およそ、その姿をして、人と言うのも、動物と評せるかも疑わしい。そもそも、その姿自体がそれぞれの特徴を混ぜ合わせてしまった感しかないものであるが、奇妙な事にその「異形」は自らについてある程度は知っているかの様であった。
「げほっ、はぁ…喋りづらいけど、何なの、このオオスバメって、何か聞いた事がある気がす…ゲホッ」
異形自身にまず言えるのは混乱している、との事だった。いきなりのこの有様、確か、そう何か別の事をするはずだった、しているはずだったのにそれが思い出せず、そして今、脳裏にはひたすら「オオスバメ」との単語が浮かんでは漂い、忘れる事も出来ないままに姿を見ればどこかで納得してしまう。いや、納得では済まないだろう、姿を、特に腕であったはずの部位が明らかに翼と変わっているのに気付いてからは、意図せずに、ただ視線の片隅に入っただけでもその納得が強くなっていく。
(オオスバメ、オオスバメ…そうね、いや、でもオオスバメって何だっけ…うう、あとこのボール…?)
翼腕の先にはわずかではあるが指の存在があり、そこに何とか掴んでいるボール、モンスターボールにもまた視線と関心を奪われてしまう。
それは思考、ないし心的な部分では疼きと次第に化していった。記憶は今も途切れ途切れである思い返すのも、であるのだが今の認識すら、どこかで途切れてしまう度に脳裏での「オオスバメ」なる単語が占める割合が拡大していき、何時しか、それに対する疑問すら持てなくなっていった事すら「異形」は忘れて、こうした認識だけが定着する。
「ああ、そうよね…ゲホッ」
(うん、オオスバメだもんね。このボールの中が私のおうちだけど…いまは別の子が入っているの)
咽るのだけは相変わらずであったが、一度得られた納得は、更にその認識に対する作用を強めた結果、すっかり「異形」を「オオスバメ」へと変える。
それはこの「ポケモン」がいない、仮想の物に過ぎないはずの世界における「ポケモン」の誕生の瞬間であった。しかしそれを「オオスバメ」が認識する事はなかったし、ただ人にポケモンの姿を混ぜ合わせた異形―ポケモン獣人、ないしポケ人―として形成されたのはその世界の歪みを、如実にその肉体を以って示していた、とだけは言える事だった。