全ての講義より解放されたのは辺りが鮮やかで、しかし淡い陽の色に染まっている頃合だった。
(黄昏時らしいわ…とても)
その中をメリーはのんびりと歩いていた。肩から下げている茶色の、やや使い古した鞄に片手をかけながらのんびりとした足取りで彼女は大学構内を何処かへと向かっていく。
途中ですれ違うまばらな具合の人影の多くは彼女とは逆の方向へ、足取りも軽やかに、中には自転車を漕いでいく姿も見られる中で、メリーの足はややゆっくりとしており少しばかり不具合か何かがある様にも見えてしまう動きに見える。
薄い紫のロングスカート、それは彼女の何時もの姿である。その下から出ている黒い靴を履いていて、白い靴下に包まれている足は一見した限りでは特に何かおかしいとかそう言うのは見受けられない。ただ動きとして見たら、それは前述した通りにどこかおかしい。ぎこちなさ、と書くべきだろうか、どことなく重そうに上がっては着地する度に妙な間を生じさせるのをひたすらに繰返しているのだ。
メリーの表情もそれと連動していると出来よう、足が持ち上がっている時は凄くそれは軽やかで、一息吐いている安堵の色。しかし着地している間は何とも苦虫をつぶしたかの様な歪みを表情に浮かべて、再び足が持ち上がる事で解消される、その繰り返しだった。
「はぁ…やっぱり途中で引き上げるべきだったかな」
溜息混じりに、ちょうど周囲に誰もいない場所に差し掛かった時に彼女は漏らす。実のところ、彼女はずっとしんどさを感じていた。特に意識し始めたのは蓮子と別れてから、だったろう。少なくともその時までにはそこまでの辛さは感じていなかった。違和感は違和感のままあり続けていたし、むずがゆさとして感じ続けていたのは変わらなかった。
しかし蓮子と別れて次の講義の行われる教室の座席に腰を下ろした、その辺りからどうも具合が変わり始めた。
まずあったのは下腹部への違和感。それは重い、何かを飲み込むような鈍痛に近かった。しかし少し何とか気を紛らわせれば無視出来てしまう、そんな気配もあったものだから、メリーが浮かべていたのは「食べ過ぎたかな?」との考えだった。
確かに今日は何時もよりも―蓮子にすすめられたからなのだが―1品か2品、小鉢が多かったと思い返せてしまう。そして違和感を感じているのは、若干曖昧に捉えれば腹部であるのがどこかでその裏付けとなってしまった、そんな具合だった。
だからしばらくはそれで納得して落ち着いている内に講義が始まる。何時も通りにメリーは耳を傾けて、そう、集中してしまうから、すっかり違和感の事など忘れられたのだ。
だが集中が途切れればそうも行かない。そればかりか、集中している間に更に違和感が進行していたら、むしろ辛い事になるものだろう。
違和感は痛みへと変化していた、その腹部の痛みは明らかに下腹部へと集中していた。それもここで言う「下腹部」も前述した「腹部」同様に曖昧な広さで捉えれば、の話。実のところは陰部の付近に違和感がすっかり集まり、同時にそれはとても強い、むず痒さを伴っていた。
耐え難い、との言葉はやや行き過ぎではあるのかもしれない。しかし普段のままに過ごしている内にどうにか片付いてしまう、そんな楽観した予感を抱く気持ちに綻びが生じたのも事実だろう。そしてそう、言い換えればそう信じて保っていた集中力にも陰りが見え出した、との事なのだ。
だがその揺らぎは、すぐさま、これから予定されている、あるいは予定している流れを変えてしまおう、とまで決意出来るほど強くはなかった。とにかくは、まだ完全に潰えた訳ではない、そんな楽観的な見方を強引に浮かべる事で、またしのぎ、しのげていたのは事実であった。
しかし我慢は更なる進展を招いただけだった。ようやく全ての講義が終わった時には痛みだとか違和感と説明出来ない程度に、おかしくなっていた。一言で言えば、在る、である。何かがそこに「ある」感覚、在していて、また有している。そんな感覚が最早下腹部ではなく陰部に明確にあったのだ。
何より足を踏み出す度に、その動きに感覚が重なるのである。右に左にと触れに振れる具合に、具体的な場所を書けば大腿部の、特に付け根に当たってこすれる具合。
それが最もあるのは足を地に着けている時と、振り上げ、また踏み下ろす、その瞬間。だから前述した妙な間のある動きを外に示してしまった訳である。
(とにかく…ちょっとこれおかしい、よね)
色々な思いが去来したが、特に繰返されたのがそのおかしいだった、ならば、そう様子を見なければならない。あそこなら少しは落ち着けて見れる…と目下メリーはある場所へ向けて足を進めていたのだ。
ただその場所がこの広い大学構内でやや外れの場所にあるのが今回は不運であったとしか言えない。普段なら軽く何か考えをまとめたり、考えなしにのんびりと歩くのにちょうど良いその距離は、今の懸念と違和感を抱えた状態ではとても長い距離でしかない。
唯一の救いは今が黄昏時で、大学に人が少なく残っている人の多くが外に向けて動いている時間である事だろう。よってその時の利とも出来る条件だけが何とか味方しているのを噛み締めつつ、彼女はあと少しとなった道を一歩一歩、息を吐きながら前進するのであった。
「ああ、もう…しんど…」
ひたすら息を吐いてていた口から、荒く、また重そうな響きがあるとは言え意味のある言葉が吐き出されたのはそれから数分と経過した頃だった。
そこは箱の様な空間だった。リノリウムで覆われた床、縦長の半開きになる程度しか開かない窓が2つある程度、正方形を少し歪ませた様な具合の部屋は人呼んでトイレと言われる場所だった。トイレと言ってもそこには便器は1つしかない、いわゆる多目的トイレと言われるタイプで、最近この校舎に新設されたばかりの真新しい香りの漂う空間であった。
蓮子はこのトイレ―いわゆる多目的トイレ―に鍵をかけて密室とした後、台の上に手にしていた鞄やら帽子を預けると介護人用に用意されている椅子の上に腰を下ろして、そのまま壁に身を預ける。
季節は夏に近い、今日も気温は高いもので時折ハンカチが手放せないものだった。しかしそんな中で途中から寒気を伴う悪寒を感じていた彼女には、その暑さは夏特有の騒々しさと共に気分や調子を一層滅入らせるものでしかない。故に今、この段々と黄昏時であるのを反映して薄暗さを蓄え始めていく。そんなトイレの静けさは、背中に接するタイルの温さと共に大分それを和らげる効果を有していた。
「はぁ…っ」
前に向かってやや倒していた体を改めて起こしつつ、首を思いっきり後ろへと倒す。ゆっくりと前者は出来ても後者は脳みその重さもあって途中から一気に加速する。それでふとタイルにぶつかった衝撃は、普段であれば痛い、と口にしてしまうものだがこうも意識が定まらない状態ではむしろ、ある程度の覚醒を促すものでありふと我を取り戻した蓮子はある事に気付いた。そう言えばそう―と。
気付くなりその手は胸元に行った。そしてブラウス越しに胸のあたりをしばらく撫で回し、はっとなる。それは軽く上体を震わすほどの驚きとしての反応であって、また撫で回す手が幾度もその場所に走る、そんなもの。
あるべき物が、そこにあって当然と信じている時ほどそうであろう―ないと知れてしまうと驚愕するのは。あったはずなのに、いやあるはずなのに、そんな渦巻く思いの中で探してもなお、見当たらないと分かった時ほど人はおおいに落胆するものでしかない。
蓮子の場合は玉だった。玉と言うよりも珠、と書く、あるいは玉のまま「ぎょく」と読ませた方が響きとしては良いかもしれない、そんな代物を彼女は身に着けていた。
そしてそれは長らくずっと大事に持っていたもの、との訳でもなかった。手に入れたのはほんの数日ともならない今朝の事、今朝と言ってもまだ日の出もある前の時間帯ではあったが、2人で―メリーと共に訪れた先で手に入れたモノなのだから。