「ちょっとあなた。ほらそこの人間、何してるんですか」
不意にかけられたその声は久々に聞いた人の声だった、より正確に言えば久々に自分に向かって向けられた声と言えるだろう。
場所は山の中、としか言えない。どうしてそんな所に駅がある、と評判のいわゆる「秘境駅」で列車を降りて、数時間後の次の列車までの間に辺りを探索してみようと、待合室を出たところから続く未舗装の人が歩くので精一杯な位の道をそのままに歩いていた、程度の認識だった。
ところがどうした訳だろう、ある辺りから不意に感覚がおかしくなった。感覚と言っても大層なものではないのだが、何となく感じていた駅はこちらの方角で、と言うその感覚が不意に消えてしまったのである。それでもその時はまだ余裕があった、時計を見ればまだ列車が来るまで時間は十分にあった。それにあの駅の周りはいまやすっかり無人地帯である、と言うのも予備知識として把握していたものだったら、ある程度こうなるのも織り込み済みであったのもあったろう。
(…まっもう少しぶらぶらしてようか、な)
だから楽観的であったのは言うまでもない。最悪、道に迷ったとしてもこれだけ静かなのだから、ふと耳を澄ませば列車が通過する音でも聞こえてくるだろう。そしたらその方角に行けば良い、そう過去の経験から導いていたほどだった。
しかし当然と言えば当然だろう、そう言う楽観的な見方と言うものは大抵外れるのが世の常である。私にしてもそれは同じくだった、焦りだしたのはあと列車まで30分位になった辺りだろうか。ふと見つけた昔に人が住んでいたと思しき集落の跡、それを観察してもと来たであろう道を戻っているはずの、その最中の事だった。
結局、その後の私は尚もその場でしばらくやり取りをしてから、犬走椛とようやく聞き出せた白狼天狗たる彼女に途中まで導いてもらう事になった。
そこまでの鮮明な記憶に対して、そこから先の記憶は実は余り覚えてなく、断片的である。天狗、つまり椛から秋を司る2人の神へと引き渡された私はとにかく数日を彼女達と共に、ひたすら芋を食べて雑談に興じていたのは確かだった。その中ではかなり気に入られたらしく、最初はどこか物珍しそうに見られていた私も、その内に色々と構われた末に秋になったら「人間の里」なる場所に連れて行く、と言う言葉まで聞かれるほどになっていた。
立ち止まった少し先で森は切れていた。それはあの駅前の光景に似ていたが、やや黒ずんだ駅舎の姿は見られず、むしろもっと開けているそんな印象だった。
なによりも大きな音がしている、それは列車が鉄橋を通過する時の音にも似ていたが、それよりもずっと芯が太い音でかつ止まる気配が無い。何よりふとした水気も漂ってくる、そんな具合に誘われて数歩と歩を進めた私の視界の中に飛び込んできたのは堂々たる大瀑布の姿であった。
大瀑布、と言う言い方はやや過剰であるかもしれない。それでも幅にしたら20メートルはあろう幅をすっかり、分厚い水量にて覆っている姿はそう言うに相応しいと思えた。だからしばし見とれてしまったのは言うまでもないし、更に近付いて崖の端から滝壺を見下ろしての高低差には強い畏怖を感じてしまえたものだった。
そんな時にあたりに響いた、もといかけらたれのが冒頭の言葉だった。声の具合から言うとやや甲高い、最もそこには落ち着いた雰囲気も強かったが強い口調であったのは違いない。
だがその声よりも私が強く反応してしまったのは相手の姿、また立ち位置であったかもしれない。立ち位置と書くのはどこか妙ではあるが、声が飛んできた方向は私よりも上の位置であった。だからそちらへと視線を向けるとそこには地平も何も無い、大瀑布の流れ落ちてくる崖は切り立っていてはるかに高いものであったし、薄っすらとしたもやの様な物がかかっていて見通せないのだ。
だから普通に考えるとその様なところから声が飛んでくる事自体がおかしいものだろう、しかしそこに声の主はいた。あの声をこちらに向けて来た存在がいた、崖など最早関係ない位置からこちらを強い視線で見つめている姿を私は確かに見た。
「…聞こえていますか、そこにいる人」
それは宙に浮かんでいた、そう浮かんでいたのだ。姿は人の様だった、しかし身につけている衣装はどこか古風、スカートとも袴とも見える腰巻は臙脂色とこげ茶色と言った組み合わせで、それ以外は基本は白い。頭にはちょんとした臙脂色の被り物をしているのが見えて、足元を見れば赤い下駄を履いていた。
「…あ…はぁ…」
予想だにしていない物を見て上手い言葉が見出せなくなっていた僕は、生半可な返事をして返す。軽く首を縦に振る具合で、しかし視線は釘付けにしたままで固まっていると、少し表情を緩めたその相手は音もなくこちらへと迫ってきた。
「…あなたは里の人間ではないでしょう、外の世界の人間ね?」
「え…いや、自分は東京から来たもので、地元ではないのです、はい」
目の前に降り立ちながらの問いかけに私は思わず普段のノリで、どこかしらに出かけた時にふと出合った地元の人と話をする、そんな調子で言葉を返す。
だがそれは半分正解で半分誤っていた、確かにこの土地の人間ではないと認める、その点では正しかったと言えよう。しかし同時に首を捻られて、どこか哀れみの様な視線も返させる。視線の源となっている瞳は深い茶色だった、純白の豊か髪の毛がそっと吹いた風になびいた時、頭の両脇にある寝癖にしては妙なでっぱりが耳、犬の様な耳であるのにふと気付かされる。
「…トウキョウ…?とにかくここは妖怪の山、あなたの様な人間が立ち入って良いところではありません。すぐに引き返せば悪い様にはしません」
少しの困惑の顔の後、表情を整えつつ相手はそう続ける。「妖怪」と言う言葉をその口から言うところからして、そしてその服装に始まる井出達は人ならざる存在である事を強く印象付ける。何せその手に持っているものも物騒である、それは左手に盾、右手に剣。正に得物を装備していると言う具合であって、表情を緩めつつもどこかで不穏な動きをこちらが見せたら、たちどころに制圧する。そう言う気配すらあるところに私はどこかで一歩後ずさりしてしまう。
しかしどうすれば良いと言うのだろう、立ち去るのは容易かも知れない。しかし「妖怪の山」等と言う言葉ないし地名を聞いた覚えが無い身からすると、今や不安でしかなかった。そもそも前にいる存在も人とは思えない、いや人ではないのだろう。素直に従うのが大正解であるのは火を見るよりも明らかであった。しかし勝手が飲み込めているようで飲み込めていない身である事、それを改めて口にするとしばらく黙った後、相手は軽い溜息と共に返事を返してくる。
「…あなたは矢張り外の人間ですね、私も長いこと、ここで哨戒の任についていますがこうも話しかけて、更に頼んでくる人なんて初めてです。里の人間であればそもそも来ませんし、来たとしても私達、天狗の姿を見れば立ちどころに逃げてしまいますから」
「天狗…!?」
「ええ、私は天狗ですよ?白狼天狗の…ってもう、何を話させるんですかっ」
「あっ、まぁだって気になりましたから…」
更に気が緩んだ調子で今にも更に話を続けん、そう言う具合であった矢先に相手は、彼女ははっとした様な表情をして自ら取り繕う様に言葉を収めた。そして改めて、とにかく人間であるのだからこの場所、即ち天狗を始めとした妖怪の山からは立ち去ってもらいたいと、やや強い調子で、しかしどこかで慌てた調子で言ってくるその姿にはふとしたかわいさもあったと、振り返れば思えてしまう。
「本当、こんな事は私の役目ではないんですからね…っ、もう見られたらどうしよう…」
そう幾度も繰り返す彼女に礼を繰り返しつつ、私はその滝の場所から再び森の中へと導かれた。とにかく余り滝の近くにいてはいけないのだと言う、どうしてかは分からなかったが恐らく、あの場所が彼女の言う「妖怪の山」の入口に近いのかもしれない。そう勝手ではあるが考えると納得行くもので、時折言葉を交わしつつ先導する彼女に従ってしばらく行った時、不意に彼女の動きが止まった。
「ん…良い香りがしますね」
「良い香り…?ああ、そうですね、何かお腹が空く香りが」
言われて鼻を動かすとかすかにではあるが良い香りが漂ってくる、それは久しく嗅いだ事の無い香りであったが食欲をそそられるもので、椛に続いて立ち止まった私も彼女に倣う様に鼻を動かして大きく吸い込む。
「…そうだ、そうしましょう。私もお腹が空きましたし、彼女達の方があなたにとっても良いと思いますから、さっついて来て下さい」
一応続いていた道の様な場所。そこから外れる形で歩き始めた椛の背中を私は追う、呟きの様なその言葉からそれ以上の詳しい内容は分からないままであったが、誰かがいる、そこに向かって連れて行かれる、と言うのだけはその場で理解出来たと言えよう。
そしてたどり着いた場所は少し森の中で開けた場所だった、そこでは焚き火が焚かれていた。そして囲む様に座る2人の人影があり、こちらの姿に既に気付いているのが見える。
「あら、天狗様が人間をつれて現れるなんて珍しいじゃない?それもあなたが、ね、椛さん?」
「お久し振りです、静葉さん。事情が事情ですから例外ですよ、もう」
声をかけてきたのは臙脂のワンピースの様な衣服を身に纏っている方だった、声から、また椛が返した言葉に含まれる名前と思しき単語からして女性であるのは確かな事だった。軽く改まった態度になって一礼をした椛は、もう一方で座っている白やオレンジの明るい印象の衣服を身に纏った相手にも挨拶をする。特徴的なのは被っている帽子に葡萄の大きな刺繍がされている事かもしれない。
何れにしても少女、と言った趣の2人、秋静葉と秋穣子と言う姉妹と出会った瞬間であった。そして椛曰く、2人は神なのだと言う。静葉は紅葉を、穣子は豊穣を司る秋の神、なるほど言われてみればその姿はその言葉に見合うものであったと言えよう。そして漂う香りが食欲をそそる、それは正に収穫の時期とされる秋に相応しいものであろう。
「ふうん、じゃあ私達があとは面倒見るわよ、ねぇ姉さん?」
「まぁ良いわよ、椛に、天狗様に頼まれたら私達もそうは断れないわ」
漂う香り、それが香ばしい焼き芋の香りと等しい中で私は出された焼き芋を食べつつ、彼女達の会話を聞いているのみだった。
「本当、ありがとうございます。これ以上、持ち場を離れてしまったら大天狗様に叱られるどころではありませんので…」
「ふうん、大変ねぇ…叱られるってどんな具合に叱られるの?」
静葉がふと椛に尋ねる。ちなみに皆の手には出来立ての焼き芋が握られている、だから食べながらのやり取りであると補足出来るだろう。だからやり取りされている言葉の割には緊張感はない、私にしても何だかその場の空気に前々からいる様な、そんな馴染みすら感じてしまっていたほどだった。
「え…それは、他言出来ません」
椛がしまった、と言う様な顔をして少し俯く。だが食欲は相変わらずの様で、俯いた瞬間に開いた口の中に芋を半分くらい飲み込んでいるのだから中々のものだろう。
「…その人間をお土産に連れて行けば少しはマシになったりとかするんじゃない?」
「もうそんな事はないですから、穣子さん…前向きな人間は余り皆さん好みませんし」
「ふうん、意外とあなた達もグルメなのね。お芋もっと食べる?」
火の周りには何時の間にか新たな焼き芋が並べられていた、折りしも椛は食べ終えるところであったのを見計らっての穣子の言葉に椛は軽く首を振って立ち上がる。そしてふっと微笑んで私を見ると、軽く口を開いた。
「さ…では、私とはここでお別れです。無事…トウキョウへ戻れると良いですね。それでは」
「あ、はい、ありがとうございました…」
こらちから返した言葉に椛がまた返してくる事は無かった、改めて神様2人、秋静葉と穣子、この2人に対して礼を言うなり、すっと飛び上がって去っていった。それはついさっき、出会ったばかりの光景をふと想起させられる、そんなものだった。
だが不意に現れた天狗、それは椛ではない別の天狗と出会った事でまたも流れは変わる。その天狗は鴉天狗であった、何でもあの後、当然であろうが天狗の中で私の事が話題になっていたらしく、その確認、取材に来たのだと言う。その後は鴉天狗に山の中へ連れて行かれ…気が付いたら見慣れた場所、そうあの駅の待合室のベンチに横になっていた、と続いている。
その鴉天狗と何をやり取りしたのかはぼやけた記憶の中に埋もれてしまって余計に分からない、だが何かの条件と引き換えにこちらの世界に戻された、と言うのだけは恐らく確かだろう。そして帰宅してから数日後に届いた「新聞」、冒頭で取り上げたたまに届く新聞の存在がそれを示す最大にして確たる証拠なのだから。
「ふう…さてと朝飯にしよう」
寝間着のまま、椅子に腰掛けてしばらくその新聞を半ば辺りまで記憶と共に読みふけった私は、空腹感から脇に畳んで台所へと向かう。
(芋料理を夕飯にでも作ってみるか…休日だし)
簡単な物を冷蔵庫の中から出しながらふと浮かべる、口の中に蘇るあの時の味をかみ締めつつ、まだ私はある事に気付いていなかった。そう、私の姿をそっと見ている者がいる事に、そしてその新聞のまだ読んでいない部分に紙面とは別の紙が挟まっている事に、まだ気付いていなかった。
完
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