黄色い沼地・後編 冬風 狐作
 再び外の光を目にしたのはしばらく、としか言いようがない時間が経過した頃。目を覚ましたばかりと言うのはどこかしらボウッと、誰しもがまどろんでいるものであるが、今回ばかりはそれが普段にもまして強く、何よりもふとした冷たさが意識の中に強く溶け込んでいる。
 だからしばし無言だった。そして見えているとは言えまるで魚眼レンズを通して見ている様な、そう言う世界の中を漂っているかの様な印象すら抱いて、しばしの時間をまた食べていた。
「う・・・ああ冷たい・・・」
 だが目を覚ました以上、次第に意識と言うものはしっかりとしてくる。それは矢張り血が活発に通いだすからだろうか、だが意識が覚醒したと言うのにその体全体の重たさ、何よりもそれを余計に感じさせているとしか思えない冷たさは拭えないまま、ようやくの目に見えた動きと言うのは半身を起こす、ただそれだけ。
 そしてまたしばらくボゥッとしてから、すっと鼻腔で息を意識して吸い、戻す。まるで何かを確かめる様にそれを数度繰返して、軽く安堵とも取れる息を吐いた後に片手を後頭部に伸ばしたその姿は、どこから見ても彼その物。そしてそれが大きな刺激になったのだろう、一気に覚醒した彼は改めて得た認識をはっきりと漏らした。
「あれ・・・服は・・・?」
 そう纏っていた服が見当たらないのだ。あるのは素肌だけで多少の血の通う温もりはあったが、どちらかと言えば冷たい、の一言に尽きるところ。纏っていた筈の上着から下着に至るまでの一切合財のなくなった体は、風呂場等で見慣れているにも関わらず、意外にもふとした新鮮な印象が感じられて仕方がない。だがそれ以上に新鮮に見えたのは、その白さだろうか。そしてどこかしら水気と言うか生気が我ながらに感じられなかった。
 白い、まるで色が抜けてしまったのかと言うほどに白いそれが、新鮮さを感じた大きな主因なのだろう。ふと手を動かし、体をゆっくりと撫でた時、ある物に触れる感触が感じられないのに気が付く。そして二度三度と繰り返してそれが確かな事であるのを知った途端、彼は短い悲鳴に愕然とした表情が表に出るのを止められない。
「な・・・なんで無くなってるのさ・・・えええ・・・?」
 頻りに幾ら撫でても感じられないあの感触、固く細くしなやかな、体毛。それと触れた感触が感じられる筈の場所は他の場所にも増して白くなり、そしてつるっとした瑞々しい素肌が毛穴の後の感覚すらも皆無にしてあるだけ。それは既に前述している通り、幾ら、幾ら求めて撫でてもそうであるだけで、決して幻覚とかそう言う類ではなかろう。
 だから慌ててその手で、頭部に再度触れたのは最早当然。幸いな事に頭髪は変わらずふっさりと生えていて、少しは安堵出来る。しかし、それ以外の全ての体毛、脇から腕、そして下半身とはそれこそつるっつるっと言う表現のままに無毛一色となっていた事が変わる事は、それに対する動揺が落ち着く事と共に、なかった。

 故に鏡の前に場所を移してからと言うもの、その手は必死になって体を探っていた。幸いここは1人暮らしの気楽な我が家、だから素っ裸のままで家の中を歩くのは、自分が良い限り全く問題はない。しかし問題なのはこの体、頭髪以外の全ての毛が纏っていた筈の服と共に跡形もなく消えていると言う、この事態。
 服は別に替えがあるから何とかはなる。しかし体毛はそうではない、幾ら服の下にあるから大抵は外から見えない、とは言え容易に替えが出来るとかそう言う簡単な類ではないのだから。そして何よりも妙にある思いが浮かんで消えず、それに突き動かされていたと言うのもあるだろう。そう、まるで自分が自分でない、そう言う意識が脳裏にあったのだ。
 そしてそれにはふとした、つるつるになった脇を開き、顔を近づけてその様を見ていた時に、偶然答としてもたらされる。そう、不意に鼻で息を吸ってしまった時に記憶の中との違いを感じたのだ。以前にも、確か偶然こう言う姿勢を取った時に思わず顔をしかめさせた、あの鼻腔に伝わってくる、匂い。そう体臭である、その体臭が微塵も感じられない、と言う事に気が付いてしまったのだから。
 これは愕然と言うよりも、最早驚愕であっただろう。そう服が消えた、しかしそれ以上に重要と言える生物として備わっている機能、それが1つはおろか2つも消えていた事にはもうそれ以外のどう言う反応が出来よう?特に体臭は、確かに今の人間の間ではむしろ邪魔者扱いされている節はある。
 しかし生物としてみればあって当然な物で、それをわざわざ消してしまおうと言う方が異質である、と冷静になって純粋な意味で考えれば、これはただ体毛が無くなった、と言うそれだけでは片付けられない大きな出来事であるのは違わなかった。そして異様な寂しさを感じたのだ。
「そ・・・そうか腋毛って・・・体臭を溜めておく機能が・・・」
 だからそこまでの表現となったのである、そして反応だったのである。そして僕は更に、汗を出せば体臭が復活する筈、と咄嗟に関連した知識として浮かんだ内容に藁をもすがる思いで、それこそ腋を激しく擦り始めたのだから。片手を動かし、そして激しく、あれだけ余り出ないのがありがたいと良い、時には痛感すらしていた汗が生じ、匂いが出て来る様に、と欲して。激しく、強く、擦り続ける。
 何時の間にか息は荒くなっていた、正に全身全霊を、と言う表現が似合うほどだっただろう。それだけ注目と集中をした甲斐あってかしばらくするとほんのりと、熱がその場所から感じられる様になった。それは多いな喜びであったとしか言えない。何故なら前述の通り、自分の体であるのにまるで蝋人形の様にただ白いだけではなく青白く、そしてはっきりと冷たくなっている事をその様に体に集中している内に、より深く認識すると共に気になって仕方なくなっていた。
 だから温かみと言うのはそれを弾き飛ばす、との期待を強く抱かせる代物であった。故にますます、普段であれば皮膚が痛みそうだ、と言う思いでも浮かべるほど激しく擦り続けた甲斐あってか、液体特有の感触、あの染みる感触が指先に伝わってきたのは少しばかり経過した頃だった。
「・・・!」
 むしろ驚きと言うよりも大きな感情の発露。喜びとも驚きとも、それら幾種の感情がない交ぜとなった、そう言うもの。それだけに一枚岩、と言う表現が相応しいかは別として全てに通じて同じ波長の感情が継続していたのではなかった、そして終いにあったのは再びの違和感と驚愕であったのだから。

 息を呑む、と言うのに相応しいのはあの瞬間だったかもしれないと彼は振り返る。汗が出たとの、自ら予想して、そしてそうでなくてはならないと言う一種の予言が実現した、と思えたあの瞬間が懐かしくすら思う。若しかすると、あの様な事をしなければこんなことにならなかったのではなかったかとすら思えてならなかった。
 そう思って彼は蛍光灯の下、すっかり色として現れている自らの体を見た。黒にほんのり灰色がかかったように見える指先、それはしばらく続いて途中からVの字をした切れ込みの様な境目を経ると淡い、決して目に優しくない、とは言えない黄色に全てが覆われた腕、そして体。そこでふと立ち上がってみればそれは全身に広がっているのは確かだった、体も心なしか小さくなった、と言えようか。
 地面が近く見え腕も短く見える、そして全体としてゆったりとしたフォルムで骨格とかそう言う体の表面に現れる凹凸と言うものは悉く消えている。
 そう肋骨も何もかも、骨盤の両脇の出っ張りに至っては、ただ消えたどころかそのやや上部の辺りよりふわっと、吊り電灯の傘のような格好をした膨らみがつま先近くまでを覆っているのだから。そして傘の先端から見えているつま先は灰色のかかった黒色をしていて、まるでそれは袴を穿いている女性の様な印象すらある。
 その体と衣服とが一体化してしまったかの様な奇妙な姿に彼は覚えがあった、そうそれはポケモンの・・・と浮かべかけてもう何度、そこで止めた事だろう。はっきりと分かっているのに、その単語を浮かべてしまうと全てが、自らが自らでないと否定されてしまう様な気がして怖かったからこそ、イメージこそすれ単語は決して浮かべられなかった。
 よって完璧さを欠いたイメージは、中途半端に封じられて行き場をなくした勢いの暴走により、今の姿になるまでの過程へと逆戻りを起こす。そう、あの汗がようやく出た、と言う場面のすぐ後からの流れを再び、イメージとして脳裏に投影し始めるのだ。

 故に生じた汗、その透明な液体の妙な冷たさ、何よりも走ったとか、そう言う激しい運動とはとても思えないただ擦るだけ、と言う運動の結果の汗の筈のその液体の様子が、何かおかしいのに気が付いたのは間もなくの事だった。そう出て来る勢いが妙なのである、体毛がなくなった事でどこにあるのかすら見当の付き難くなった、肌理の細かい白さの中に潜んでいた汗腺。その1つ1つからじわりと珠の様な粒となって膨らんで出て来る姿は、明らかに異様な光景だろう。
 当初はただ1つ、そして無数に擦っていた場所全域に生じたその珠、透明な水泡それぞれがむくむくと、生じてもなお拡大し、接触して弾けてどろっと流れ出し皮膚を覆う。その感触は大変な冷たさで、追わず背筋が張ってしまうほどだった。そして明らかに汗ではないと認識し、拭き取らなくては、と咄嗟に片手で拭い強く擦った瞬間、また新たな展開が生じた。
 そうまた噴き出てきたのだ、それも結構な勢いで、冷たさ、何よりもその質量と言うだろうか。それを感じさせるねっとりとした感触の何かが、汗と同様に噴き出てきたのを手の平にて感じる。
 何と言うのだろう、生来的な気持ち悪さ、嫌悪感、それ等に通じる感情を催して咄嗟に手を離す。しかしその感触から解き放たれる事は無かった、むしろそれは付いて来たのだ。黄色く良く長く伸びるものとして、その姿はチューインガムを伸ばした時の姿を浮かべれば良いだろう。その様な具合で、しかしあれよりも水気と質量のあるそれは太さは比較的保ったままで、やや弛んだ形をして弓形になりつつわずかに揺れている。
 彼は信じる事が出来なかった、いや信じたくは無かった。その様な物が、あの感覚の通りであればそう、自らの体の中から噴き出してきた、等とは決して。しかし、それを信じざるを得ない状況に次第に追い詰められていったと言うのも事実なもので、ふと我に返って体を見回せば、もうその時には体の随所からあの透明な水泡、また既に潰れた場所からは黄色の粘液が噴き出て体がほぼ半ば以上、覆われていたのを見、認めざるを得ない。
 そして白い、青白い肌が見えなくなっていくのは止めようが無かった。体の毛穴と言う毛穴から噴き出た2種類の液体は、二重のコーティングとばかりに広がり体を覆う。それは何とかそれを剥がそうと、彼が必死になればなるほど量も増して、粘度も増して、更には覆われた箇所の下にある皮膚とか、とにかく体その物が何か変わっていくのが明白に感じられてしまう。骨格の硬さが解され、その中にあった質感も同様に解されて、全てが一緒くたのゆっくりとした流れに変わりっていくのが、これでもかと言うほど、見方を変えれば奇妙なほどはっきりと分かる。
 要約すればその、緩慢な流れと言う方向の指向は縮む、と言うのに尽きるだろう。その年齢としては平均的な体つきをしていた彼の体が見る見る縮んでいく、それは傍から見ていたら驚きであっただろうが、当人からすると驚きつつも抵抗出来ない緩やかな流れにすっかり身を任せていたと言うのに近いだろう。

 一旦黄色に染まり切った頃に縮小の流れはようやく止まり、成った二頭身程度の体は、爪先、指先、そして頭部を灰色がかった黒に染め上げている。同時に足の黄色い部分は遊離して前述した袴の様な、釣鐘型の形状を成す。黒く染まった頭部からは前方に向けて1つ、跳ね返りの様な細く短い房の様な物が1つ出る。そして頭部には角、と言えるものが生じたかと思えば、その先端が不意に丸く膨らみ、そして次にエンドウマメの様な形になるなり、厚みを生じて長さが極まると共に下に垂れた。
 それは後ろで付根を束ねた黒髪、を思わせる大きな房。そして大きい。体の全身と長さは等しく横幅こそそれを上回る事は内にしろ、厚みと言う点では、最も厚い点では胴体よりも太くはあろう。当然、その色は頭部と同じ色、そしてアクセント的な黄色の楕円模様が1つ付根の近くの房の表側に刻まれている。
「あ・・・あああ・・・」
 それはどちらから出たのだろう、黄色い中でぽかっと丸く開かれた、そしてもう1つは後ろの房が割れて幾らかの牙と長い舌の見える、そう口である。対照的な2つの口を持つ存在、そしてポケモンとなればもう1つしかないのはお分かりだろうか?敢えて書かなくともわかるだろう、そしてそれは彼のつい先ほどの姿なのである。
 そうしてもう幾度目とも知れない投影は再び終わった、終わった所で何かが変わるわけではないと言うのは既に分かっていたが、それでも終わる度に期待してしまう自分に彼は複雑な気持ちを抱いて、またその体を見ていた。

「ん・・・」
 ふと気が付くと目蓋を彼は開くところだった、足を投げ出したままの姿勢で膝から上をベッドに乗せた格好のままで寝ていたらしい。
「今・・・何時だ?」
 長い何かを見ていた思い頭のまま片手で目を擦りつつ、手を伸ばして机の上に置かれた目覚まし時計を掴み、時間を見るなり気が付いた。そう体が黒くも黄色くも無い事に、そしてしっかりとした腕や足が視野の中で捉えられている事に意識が向く。
(人に戻ってる・・・!)
 心の中での叫びはふと、無意識の内に目覚まし時計をもとあった場所に戻すほどの、つまり今は何時かと把握するのに匹敵する反応を引き起こした。だが次の瞬間、やや沈静化する。そう形こそ戻れたとは言え、その体には体毛が、体臭が全く無い事にも。
「夢では・・・ないのか」
 ぽっと漏らしたその言葉が全てを示しているだろう、そして記憶は一気に結び付く。夢は夢ではなく、現実との連続性のある現実なのだと。だから次に生じた行動はそう、軽く皮膚を擦る事だった。
 1度、2度と手は往復し始める。そしてその手を動かす気持ちには迷いと言える物が微塵も無かった、ただ繰返す事にどこかしらの恍惚感を感じながらしている内に気が付けば、そう、じんわりとした液体の感触が蘇っていた。そして呼応する様に手はますます動く、そしてふと手を離した時、そこでは今、正に黄色い粘性の液体が皮膚の中から湧き上がってきた所だった。
(ああ・・・また、なろう)
 言葉を発する必要は最早無かった、もう思うだけ、見ているだけで全ては語られるのだから。
(クチート・・・なんだよ、僕は・・・クチート)
 もう恐怖も驚愕も何も無い満ち足りた瞬間、広がり行く黄色い箇所に触れてその肌に吸い付いていく、蛸の吸盤の様な強い感触にすら今では愛しくて仕方なかった。そして今になって鼻腔にふとした香りが伝わってくる、そう新しい体臭なのだろう、冷たい印象のほんのり据えた様な匂いにますます、心も溶けていく。
 そうそれは底なし沼の一部と成るかの様に、全てが体の黄色さの中に囚われるが如く。その体の中に自らの体を、心を変えて溶かしていく、黄色と黒の、ラバーに限りなく近い冷たく重い粘液を吸収し、秘めた結果なのだから。


 完
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