「久々に良い天気だなぁ・・・気持ち良い。」
森の中へと足を進めつつふと頭を上へと向けて呟くその1人、姿格好から見て彼は、生い茂る比較的背の高い木々の間から零れる木漏れ日とその先にある青い空にふと目を細めた。大学を卒業した後、院へ行き博士課程を修了したものの、博士の就職難にご多分に漏れずに巻き込まれて何とか得た期間の区切られた契約制の研究員の職を転々としつつもう数年が経過していた。
「ん・・・よっと。」
今は数日前に契約が切れてしまい無職となっている状況だった。元々高校の頃から生物が好きだったこともあって大学、更には院こそ希望通りのそちらの方面へと進められ最終的には生物学の博士課程を終える事が出来た。しかし結果として自分の性にあったと考えられる希望通りの職を得ることは難しく、関連として学び興味が無い訳でもなかった分野の方面になんとか活路を見出していたのだが、矢張り幾つか不足するところがあり契約制から常勤へ希望するも叶わないを繰り返す羽目になっていた。
そしてそれは前述の通りに今は無く、数日前まで務めていた大学の研究室での職も今は期限が切れてない。つまりは前職の期間中に次のあてが見つからなかった事もあって、久々の無職として就職活動をしつつそれ以外は家にいる生活を続けている立場と言えよう。しかし矢張り時期的な事もあって中々見つからず、ふとどこかで疲れと限界を感じていた辺りでこうも良い天気がやってきたことから、今日は久々にその沈みかけていた気持ちを変えようと言う考えをして中学の時にこの土地へ引っ越してきてしばらくしてから見つけた以来の、森の中にある気に入っている場所へと足を向けたのだった。
それは先述した幾つかある窪地の中でも常に水がたまっている池、その中でも流れがしっかりとある、常に澄んだ水をたたえているの畔がその場所だった。そしてご丁寧に誰が置いたのかはわからないがそこには最初に彼がそこに立ち入った時には既にベンチが1つあり、腰を落ち着かせるのには格好の場所。流石にその金属製のベンチは長年の風雨によって各所に錆が生じつつあったが、それでも使う分には申し分は無くそうして腰を落ち着かせては、持ってきた本を読むなどして日長1日過ごすのが疲れた時の最高の休息方法であったと言えるだろう。
そんな彼が今日持ってきたのは幾つかの鉛筆と消しゴム、そして鉛筆削りにノートと1冊の本であった。無地の、比較的厚いノートは半ば付近まで使われており使われていないページの次を開くと、彼は持ってきた本の付箋の挿されたページを捲って閉じない様に重しを置くと早速鉛筆を静かに走らせ始める。鉛筆の動く形から文字を書いているのではないだろう、縦に横にそして丸に角、その様にして動く鉛筆等での動きと目線から重しを載せた本のページに載っている絵を模写していると言えよう。
時折眉間にしわを寄せ筆を止めては、不意に走らせ始め顔を緩ませ・・・その繰り返しとは言え、走らせれば走らせるほどその顔に笑みが浮かんでは増えていくのははっきりと認められたもの。そしてページを捲りまた新たな模写をはじめ、鉛筆を取り替え削り・・・ただその繰り返しであったが、いやだからこそ静かで前述の通りの表情の変化は、仮に隣にいる者がいれば安堵とゆとりを与える物に違いなかっただろう。そしてそのすっかり打ち込めば打ち込むほど、時間は彼を忘れもまた時間を忘れて静かに過ぎ去っていく。
ふと気が付くと口元に濡れた強い湿り気を彼は感じていた、手を当てると冷えてはいるがその独特の感触は涎そのものであって、薄目を開けて見回す辺りはすっかり暗い。何よりも体が不自然にベンチに寄りかかっている姿勢から、絵を描いている内にどうやら居眠りをしてしまったと言うのが事実の様だった。
「んんっ、寝てしまったなぁ・・・っ。」
大欠伸をしながら体を体をずらすと途端に膝の上に、バランスと何よりも手で支えられていた事で載っていたノートと鉛筆が落ちていく感触を感じた。何よりも耳にノートが地面に触れて空気を吐き出す音と、鉛筆が転がる時の音が後者は木の床の上に落とした時の様な鮮明さは無いものの聞こえた事から、慌てて背中を曲げて手を伸ばし拾い集める。
とは言え寝起きであるから気持ちでこそ焦っていても、動きと言えばゆっくりとしていてとてもそうは見え辛い。更にはすかり明かりの無い中であるから、音からして感じたこの辺りと見当がつく方向を当てずっぽうとも言える手の動きによって探さねばならないから、速さと言うものとは無縁であったもののまず見つけやすいノート、続いて落ちた鉛筆数本をある程度の合間を追って拾い集めて再び腰を落ち着かせていた。
だが動きをしばらく伴っていたと言うのに意識はどこか完全に覚醒せずにぼんやりとしたまま、視線を動かすも森はすっかり暗闇で分かる感覚と言えば肌に当たるそよ風程度だろうか。
「・・・夜になるとこんなになるんだなぁ・・・。」
そして当たり前の様な言葉をふと漏らす、この森のこの場所との付き合いはもう10年以上のもの。だが今まで夜に立ち入るというのは皆無であったから、この様な森の中の様子は想像した事はあれどそれ以上の闇の深さに思わず圧倒されていたと言えるだろう。
一体どうしようか?その様な考えすら浮かばないほどの圧倒的な闇、そもそも自分は存在しているのかとすら静かに何も特に意識する事無くいると浮かんでしまうのだから。つまりは自分の姿を見る事、更にはふと思い出す事すらも無意識に憚られてしまうほどの闇なのだ。それは停電や人工的に作られた空間での暗闇とは違うと言える物で、言ってしまえば人工物と言う無機質の中には無い、植物から土、土の中に住まう微生物に水、空気の流れ・・・生物無生物ともかく幾多の無言でありながら存在感を強く持ち合わせている自然物の中における、自分のちっぽけさを実感していると言うのがその闇に対して感じた意識の正体とも言える。
そしてそれは再び意識をまどろみの中へと静かに引き戻し始めた、今は夜、休む物であると。ヒトとしてのサイクルの中に人である自分が突き戻されて解されて行く、そんな事をふと浮かべた辺りでまたも彼のまぶたは閉じられた。そして夏虫の声に呼応するかの様な寝息が静かに闇に添えられる彩となっていた。
「暗闇の中・・・色々と濃密でしょう?」
不意にかけられたその言葉、慌てて反応するとそこには黒い縦型の塊。いや正確にはそれは黒いローブを纏っていると言えようか、漆黒に染められた長いローブに身を宿した何物かがわずかに顔の白さのみを見せてこちらを見つめていた。
「え・・・っ。」
唐突過ぎて思わず漏れたのはその一言のみ、だがそれでも満足したかのように見えている顔の口元を軽く歪ませたその相手は更に漏らした。
「ええ、驚いたでしょう。いきなりこうして対面ですから、しかし驚けれども怖がらないその心が気に入りました。」
声のトーンは低めであるからローブの相手もまた男なのだろう、ただ若干の弾み具合から若さがあるのがまた感じられたものだった。
「・・・いきなり何を?」
黒が引き立つその空間、淡い乳白色の中にあるその姿に彼が感じたのはまるで何かへの扉の様だと言う物だった。しかし口には出来ない、そもそもどうしてこんなその黒と黒の中にある白と更には巻かれている赤い帯以外は全てが乳白色なのか、普通疑問に思える物であろうがとにかくはその黒い何者かに対する意識のみが強く、他には全く及ばなかったのがその場における彼なのだった。
「いや、あなたが深く考える事はありません。ここは私の世界、そして私の考えによって支配される世界です。」
「ええ、そうですとも。ですからここにあるのは私だけなのです、そしてあなたは私の一存でどうにもなる存在です。」
「ですから、何も気にしないで下さい。そして何が起きてもその結果を受け入れて染まるのがあなたなのです。」
「ここで起きた事は何時かあなたは忘れるでしょう、何故なら結果があなたの日常になるのですから。しかし私は忘れません、そして機会あればまたお会いする事になりましょう。そして思い出すのです、私が叶えたと言う事を。」
問に対して返ってきた声はそれはエコーがかかった様に脳内で共鳴しあい、何よりもそれ故にその1つ1つに対する強い理解を困難にさせていた。その内容の1つをとっても一体何を?と思えて仕方の無い内容なのであったがそれすらあやふやにさせる同時に投げかける言葉の下、この乳白色の空間に気が付いたのと同様に何の前触れも疑問も抱く事もなく、全てが最初から存在していなかった様に消え失せてしまった。
目を覚ますとすっかり森の中は明るくなっていた、白さと共にあの様々な色合いが満ちた世界がそこには戻っていた。ベンチにしろ体に白朝露の湿り気を感じるがそれがふと気持ちがいい、そう思えたものだった。
(さて・・・帰ろうか・・・?)
だがその気持ちはすぐに吹き飛んだ、代わりに芽生えたのは違和感だろう。最もそれが一瞬の事に過ぎなかったのだが、まず視線が以上に低い事に気が付いた。視線と言うよりも視野と言うべきかも知れない、とにかく見慣れたベンチの背もたれと顔が並んでいるのだ。そして何よりも思えたのは視線の中に常にあった人工物、メガネのフレームが見当たらないのだ。なのに見える世界はメガネのレンズを通していた時よりも鮮明で細かく、かつ鮮やかであった。また空気も何だか味か感じるようにすら感じられて不思議な気分だった、こんな感覚は今まであっただろうか?そう思えた瞬間、ふと視野の中にある水が急速に愛しくなった。
(喉渇いたな・・・。)
思った瞬間、彼は足をそちらへ向けてそして首を垂らして舌をつけて盛んに呑み始めた。水音と舌が水面を叩く音が混ざり合い波紋が水面に走り喉が鳴らされる、そして目を細める姿は全く自然でありつつも彼としては何よりも疑問がもたれるべき姿であったと言わざるを得ない。薄黄色、淡い緑に濃い緑、そして茶色の揺れる毛並み。何よりも四足で額にある緑色の曲線を持った飛び出したしなやかな部位が体を動かす度に揺ら揺らと、その長くロゼッタ状の尻尾に比較すれば大きくはないが揺れる形が印象的な姿となっていると言うのに彼は違和感をその時には既に失っていた。
(ああ・・・良い朝、それに太陽が今日も気持ちいいな・・・。)
木漏れ日として注ぐ陽光に触れている体は陽光の吸収と共に、ふと何かを吐き出している様だった。その感覚は密やかな快感にして目覚めを体に一層促すものとなって全身に巡っては、その前足を前に突き出して大きくその背中を前屈みに伸ばすのへと繋がる。
「フィ・・・フィー。」
そして体をプルプルと振っては鳴くなり彼、いやその見慣れぬ獣は池を離れて歩き出した。踏み出す度に揺れる額に尻尾、そして大きな尻尾にも通じる形をした耳。大きな茶色い目で前を見通しつつ森の緑の中へと消えて行きその内に見えなくなった比較的大柄な体、そう緑の中へまさに溶け込む様にその姿は消えたものであった。一体何の獣なのだろう?もし見る者がいたなら、その大柄な姿に強く思い驚きを浮かべたに違いない。
だが運がよければその答えはすぐに見つけられただろう。何故ならそこにあるのだから、それは矢張りベンチの周辺。朝露の湿気を含んで重くなった紙の集まりとなったノートと本の開かれたページにある絵とその模写がそのままの姿。
「No.470 リーフィア しんりょくポケモン タイプ:くさ」
その姿と全く同じなのだから。