玉藻はふと、ドアに視線を向けた。数秒見つめ、視線を手元の資料に戻す。  
さも面倒だ、と言いたげなため息をつきながら。  
その直後、ドアは開かれた。外の暑い空気が僅かに流れ込み、聞き覚えのある…否、聞き飽きた声が響いた。  
 
「あつー…」  
 
少女は気だるげに鞄を玄関に投げ、コンビニの袋を揺らして玉藻の前までやって来た。  
 
「今日、休みでしょ。ちょっと寄らせてよ。私の部屋、クーラー壊れちゃったんだ」  
 
玉藻は少女を一瞥して、またため息をつく。  
 
「用件は?」  
 
視線は資料に向けたまま、玉藻は問いかける。少女はニッと笑い玄関まで走ると、鞄を取って戻ってきた。  
 
「宿題、教えて。数学がさっぱり。あと歴史なんだけど…」  
 
いつの間にか玉藻のデスクからは、彼の書類が全て退けられ、彼女の宿題で埋まった。  
それをいちいち手にしながら解説する少女。  
 
「夏休みの自由研究、何がいいと思う?流石に割り箸とか牛乳パックは嫌なんだ。もっとかっこいいのを作りたいんだけど、何かいいアイデアない?」  
「好きな物を作ればいいだろう」  
「何でいつもそんな態度なわけ?あ、そうだ、じゃあ狐について調べようかな。管狐も妖狐もいるし!」  
「一般人相手にそんな研究を発表してどうなる?」  
「信じないかなぁ?」  
「この町の連中なら信じるだろうがな」  
「あーあ、めんどくさい!」  
 
いずなは大きく伸びをして喚くと、後ろのソファに身を沈めた。  
 
「あたしは霊能力者になるのに、何で勉強なんかすんだろ」  
「半人前は半人前らしく、学生の本業に励むんだな。大体何故私の部屋に来る?図書館にでも行けばいいだろう」  
「あんたの部屋、広いし涼しいし、それにあんた、頭良いじゃん。勉強教えて貰えるし」  
「誰も教えるなどと言ってないが?」  
「その割には数学のテキスト見てるじゃない」  
 
そう言われて玉藻は初めて自分が問題集を開いていることに気がついた。  
 
「別に。今の学生がどのようなレベルの問題を解いているのか気になっただけだ」  
「ふぅん、で、どうなの?出来るわけ?」  
「当たり前だろう」  
 
シャーペンを取り出し、指先で弄びながらいずなは問題集を見ている玉藻を横目で見遣る。  
 
「数学はやっといて。で、自由研究なんだけどさ」  
「だから…」  
「恋愛についてやろうと思うんだ」  
「恋愛?」  
「そ、あんたも興味あるんじゃないの?」  
「私が必要としてるのは他者を守る力、愛だ。お前達学生の騒ぐ恋愛とは違う」  
「同じだよ。あんた、人間っての全然分かってないね」  
 
クスクスと、だが何処か挑戦的に笑いながらいずなは天井を向いた。  
 
「誰かを想う気持ちには変わらないんだから。好きな人がいたら、その人を守りたいし、守られたいじゃん」  
 
その視線は何処か遠くを見ているようで、瞳は少し悲しげに揺らいでいた。  
 
「ねぇ、人を好きになったことないの?」  
「私は人じゃない」  
「あーもう!分かんないヤツだなぁ!見た目はヒトでしょ!」  
「私は狐だ」  
「知ってるっての!もう、この際狐でもいいよ。誰かを好きになったこと、ないの?400年も生きてるんでしょ?」  
「…ない」  
「つまんない400年だね。あたしなんて14歳だけど、色んな人を好きになったよ」  
 
そのいずなの言葉を、玉藻は無視して手元も問題集を見る。  
 
「お母さんでしょ、お父さん、友達に和尚やぬ〜べ〜、管狐に…」  
「お前こそ、恋愛の本質を理解してないようだな」  
「え?」  
「それは親愛や友愛だろう?お前が知りたいのはもっと別のことじゃないのか?」  
「男の人を好きになるってこと?それだってあるわよ。失恋しちゃったけどね」  
「どういう気持ちになった?」  
「その人を見てるだけで幸せになれるの。喋れたら本当に幸せ。何が幸せなのか分からないけど、とにかく嬉しくなるの」  
「嫉妬は?」  
「いっぱいした。あたしの知らない女の人と話してる時、その人が嬉しそうに笑った時、あの笑顔を作るのが私じゃないって知った時」  
「ふむ、子供らしい感情だ」  
「何なのよ、さっきから!人の気持ち逆撫でするようなことばっかり!あたしは子供じゃない!」  
 
立ち上がり、いずなは玉藻を睨みつける。  
座ったままの玉藻はいずなを見遣り、口の端を軽く吊り上げた。  
 
「お前のムキになったその顔。その顔を作るのは私だけか?」  
「はぁ!?」  
「その困ったような、怒ったような顔。その顔を作るのは私だからか?」  
「あんた、何言って…」  
 
いずなの腕を掴んで、引き寄せる。少女の体は簡単に玉藻に倒れ掛かった。  
 
「何故顔を赤くする?好きな男の前でしか、そういう表情はしない筈だ。心拍数も上がっている」  
「それはっ、あんたがいきなりっ…」  
「何故私の前では笑わない?お前が私に向ける笑顔は、何処か皮肉を含んだ笑顔だろう?少し困ったような、そんな顔だ」  
「そんなの、知らないわよ!いちいち自分の顔なんかっ」  
「そう、いちいち自分の表情など意識しない。直感が、本能が表情を造るからだ。意識した瞬間、その顔は意思による作り物の仮面になる」  
 
細い指が、いずなの顎を捉える。  
 
「では、私は今どんな顔をしている?」  
「っ…え?」  
「答えろ。どんな顔をしているんだ?」  
「し…真剣な、顔。いつもみたいにムッとした顔じゃなくて…何か、辛そうな真剣な顔。眉の間に皺が寄ってて、目が透き通って…悲しそう」  
「その顔は誰が作った?」  
「それは…あんたでしょ!?」  
「違う」  
「は?」  
「お前だ」  
「お前が私をこんな顔にさせる。私の心を混乱させる…」  
「何…を」  
「なんてな」  
「え?」  
 
玉藻は掴んでいた顎を離し、スッと立ち上がる。  
いつもの、見下したような表情で。  
 
「こんなこと位で動揺していては、恋愛など何時まで経っても出来そうにはないな?」  
「なっ…!」  
「私は出掛けて来る。お前のように暇を持て余していないからな。さっさと宿題を終わらせるんだな」  
 
アディオス、と呟き踵を返す男の背中にいずなは怒鳴りつける。  
 
「このバカキザ狐!あんたなんか大嫌いだ!さっさと出て行け!」  
 
その怒声に、玉藻は少し口元を緩める。その次の瞬間、それはすぐに引き締まった「いつも」の顔に変わる。  
口元を緩めた表情の「意味」を意識したからだ。  
 
 

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