「夕叢さん。洗濯終わったけど、今日は昨日と違って天気いいし、昼まで
には乾くと思うから」
ドアから顔を覗かせた少年が霧香に声をかけた。
「あ…うん。ごめんなさい、誠君」
本来は少年の寝室である部屋の中、少年のベッドに腰掛けた霧香が
少し恥ずかしそうに答える。
「ん…こっちこそごめん。もうしばらくその服で我慢してもらう事になるけど」
申し訳なさそうに言いながら少年が微笑みを返す。
その笑顔を見た時、不意に霧香の胸は、なぜか締め付けられるように痛んだ。
…彼女が着ている、少年の持っていた予備の寝巻きは、小柄な霧香には少し
サイズが大きすぎる。
少年は、一着しかない霧香の私服をなるべく早く乾かそうと、急いでベランダへ引き返した。
(誠君、か)
霧香がまだクラスの一員だった時、ほとんど言葉を交わした事は無かったが、彼女には
「片倉君」と名字で呼ばれていた記憶が、誠にはあった。昨日、霧香と会った時、彼女は
誠の顔こそ覚えていたが、咄嗟に名前が出てこないようだった。そこで、改めて彼は、
自分の片倉誠(かたくら まこと)という名を教えたのだが、あれから霧香は彼を
「誠」と下の名で呼んでいる。
「どうして、私はここにきたんだろう」
霧香は、ミレイユと共に荘園から戻ってからの事を思い出す。アルテナがいなくなった今でも、
ソルダとの因縁が消えてはいない。アルテナとは異なる思惑を抱く者達によって、幾度も
刺客が送り込まれてきた。
二人の次の逃亡先が日本だったのは、ただの偶然だったのだが、突然の襲撃によってミレイユと
離れ離れになった霧香は、気がつけば、かつて通っていた学校へ自然と足を向けていた。
日本で自分が知っている場所なんて、かつての自宅と、あの学校ぐらいだったから。
それが理由なのだろうか。そして今は、特別親しかったわけでもない、かつての
同級生の部屋にいる……。
洗濯機から霧香の服を取り出してベランダに干していった誠は、
デニムのスカートを手にした時に、その手を止めた。
…誰かに見られてる訳じゃないけど、何か恥ずかしいな。と彼は思った。
上着はまだしも、スカートを手にすると、女物の服を洗濯しているという事を
妙に意識してしまう。
でもシミとかが残らないで良かった、と誠は思う。泥の他に、霧香の服に付いていた
妙な痕跡も、今は綺麗に落ちている。
昨日、土砂降りの中にうずくまっていた霧香の姿は明らかに異常だった。
体中に付いた泥は、あの雨の中で転んだと言われて納得もできたが、頬などに痣や擦り傷が
あるようだった。
ここにいても濡れるばかりだから、と言って、自分のアパートに彼女を招き入れた時、
電灯の下でハッキリとそれが確認できた。決定的だったのは、手足から幾筋も垂れている
血だった。服の下に隠れて見えないが、どこかに怪我を負っているらしい。
医者に行こうとすると霧香はそれを止め、誠から救急箱を借りるや、自分で簡単な
治療を済ませてしまった。…妙に慣れた手つきで。
結局その後、彼は霧香に事情を聞いたりはしなかった。霧香は誠の寝室を借りて
泊ることになり、誠本人は居間で眠ったのだった。
今思えば、まともに会話した事もない元クラスメートを一晩泊めた挙句、
服の洗濯まで申し出たのは、おせっかいが過ぎたというか、少し自分としては
大胆な行動だったように思える。しかし、あのどこか浮世離れした雰囲気を持った
霧香には、自分が突然そんな申し出をしても不自然ではないように思えた。
それに、霧香をこのまま警察や病院に連れて行くのは何かヤバい事に繋がる気がする。
何故か彼の直感がそう囁いていた。
「服、乾いたよー。あとこれ、一応昼飯ね。人に食わせた事無いから、正直、
味は自信ないけど……」
誠は簡単な食事を作って、洗濯物と一緒に霧香のいる寝室に持ってきた。
「本当にありがとう。ここまでしてもらって」
心から霧香は誠に感謝していた。しかし、同時に再び胸が痛む。お礼を述べた時、
少し和んだように見えた霧香の顔は、またすぐに、暗く憂鬱そうな表情を浮かべた。
どうして夕叢さんって、こんなに寂しそうな顔するんだろう…
と、誠は思った。昨夜からずっと見ている霧香の表情。自分に対して申し訳ないと
思う気持ちだけで、こんな表情をしているのではないらしい。誠は薄々そう思っていた。
「ま、まあ怪我してる以上放ってもおけなかったしさ。こっちこそ、
少し差し出がましかったら、ごめん。」
霧香が着替えるのなら、部屋からしばらく出ていなければならない。誠は会話を早々に切り上げて、
ドアに向かった。
「じゃ、着替えて、飯食い終わったら呼んでね」
最後にそれだけ伝えると、誠は一旦部屋から出ていった。
着替えながら、霧香は誠について考える。彼は自分の正体について何も知らない。
自分とは違う世界で、普通の人生を生きている人。もう今の自分はノワールでは
なくないといっても、私のような世界に生きている人間が、深い関わりを持つ事は許されない。
それに、どんな理由があったにせよ私は多くの人の命を奪って生きてきた。
彼のような人間にこれ以上優しくされる資格など、私にはない。
霧香は誠の笑顔を思い出す。
…私はあんな風に笑える人と、一緒にいてはいけない人間なんだ。
食事も終わり、食器を受け取りに誠が再び部屋を訪れた。
「医者とか行かなくても良いって言ってたけど、怪我が治るまではここに居てくれても
いいよ。出ていきたければ好きな時に出て行っていいから」
霧香はしばらく考え込む。確かに、体の状態を考えると、外へ行くのは危険だ。
本来ならあの程度の敵に、これ程の傷を負わされる事などないのだが、ミレイユと
はぐれて以来、ろくな食事や睡眠もとらず敵の襲撃に備えていたために、昨日の
交戦の時点では体力が限界にきていた。傷は勿論、この体力の方も回復を待たなければならない。
本当なら、今すぐにでもミレイユに自分の無事を知らせたい。しかし、ミレイユの
居場所を探して連絡を取り合うだけでも、今は危険な行動になる。でも、あまり長い間この人と
関われば、彼を危険に巻き込む恐れも出てくる…。自分たちノワールに関わったばかりに、
命を落とした人々を自分は知っている。情報屋のヴァネル、そして一人絵を描いていた青年、ミロシュ…。
あんな事は二度と繰り返したくない。
だから、少しでも体がマシな動きをするようになれば、すぐにここを出ていかなければ。例え回復して
いなくても、少しでも誠の身に危険な事があるようなら、すぐに出て行く覚悟も、霧香にはあった。
だがその前に、誠に聞いておきたい事があった。霧香は突然、その疑問をぶつけた。
「どうして何も聞かないの」
「えっ……」
急な質問にたじろぐ誠であったが、ああ、どうして夕叢さんの事情を聞こうとしないのかって意味か…
と、すぐに気が付いた。
「…夕叢さんが何か事情を抱えてるのは、分かるよ。でも、だからこそ俺なんかに簡単に打ち明けられる
ような事じゃないのかも、って思っただけだよ」
でも、話したいんなら話してくれても構わないけど、と彼は付け加える。
霧香はしばし黙り込む。…事情など打ち明けられるわけがない。
「どうして昨夜、私はあんな所で会ったんだろう。ただの偶然だったの?」
と、霧香はさらに質問を重ねる。
誠も少し沈黙した後、再び質問に答えた。
「偶然じゃない。俺の方が夕叢さんを探してたからだよ。一昨日位から『夕叢さんを見かけた』って
噂がたってね。そこで興味本位で夕叢さんを探そうとした連中がいたんだ。その時に何となく、
こいつらより先に夕叢さんを見つけてやらなきゃ、って気になって…」
夕叢霧香は女子の中では小柄で、やや幼い外見をしており、美人、というイメージとは少し違う
ものの、容姿は確かに可愛らしかった。誠から見ると、少し暗いけど大人しそうな性格の美少女、
といった印象があった。クラスの女子の批評で盛り上がる男子の間で、たまに霧香の名が
出る事もあった。
だが霧香は、ある日忽然と姿を消した。担任の教師が「夕叢は転校した」とだけ告げたが、
今まで全くそんな話が聞かされていなかったのは妙だ。
教室内で霧香が噂の種にならない筈はなかった。
それが、一昨日になって「学校の近くで夕叢さんを見た」と女子が騒ぎ始めた。
それを聞いた一部の男子が、俺、授業終わったら、探して声かけてみよっかな〜、と
ニヤニヤ笑いながら吹聴していた。
その途端、不意に、俺が先に夕叢さんを見つけて声をかけてやらなきゃ、という気持ちが湧き起こった。
こんな連中が野次馬根性で霧香にちょっかいをかける姿を想像すると、何か嫌な気分になった。
霧香がまだクラスにいた頃、彼女に対して好意でも持っていたのか、それは明確には覚えていない。
なぜそんな気持ちがおこったのか、誠は自分でもよく分からなかった。
どうして、そんな気になったのか、とさらに霧香が訊ねる。
「だから、何となくなんだって。…どうしてだろう、あいつらが夕叢さんの事情とか、
何も考えずに言ってそうだったから、見てて良い気分じゃなかったのかも…」
「ごめんなさい、逆に色々と聞いちゃって」
と、霧香は、上手く返答しかねている誠に謝った。そして、不意に
「あ…さっきの御飯、美味しかったわ。ありがとう」
と付け足した。
笑いもせず、大真面目に謝ったり、料理の感想を述べたりする霧香に、どう返して良いか
分からなくなった誠であったが
「えっ?あ、あはは…本当?味付けとか、適当だったかなって心配してたんだけど」
と、照れたように笑った。
笑いながら彼は、そんな霧香を見て、かわいい、と思い、そんな気持ちを抱いた自分に、
少し驚きを覚えた。
数日後、霧香の体力は、ほぼ完璧に回復を果たしていた。怪我の方は完治したわけでは
なかったが、ある程度の立ち回りをする位なら問題はなさそうだった。痛みはあったが、
怪我の痛みに気を取られて、動きを損なうような鍛え方はしていない。
…これだけ回復できたのなら、もうここに居続ける訳にもいかない。
「明日、出て行くわ」
その夜、突然誠にそう告げた霧香は、結局、今まで話す事の無かった事情を、
肝心な部分は殆ど省いて、簡潔に説明した。自分が今まではパリに居た事、
自分にはミレイユというパートナーがおり、一刻も早く彼女と落ち合わねば
ならない事などを。
「だから、明日には出て行く。…今まで本当にありがとう、誠君」
「そうか…じゃあ早く、そのミレイユさんと連絡取らなきゃな」
と誠は静かに言った。
そして、そのミレイユという女性と無事落ち合えば、霧香は再びパリへと
帰ってしまうのだろう…。誠はそう思うと、急に寂しい気持ちがこみ上げて
くるのを感じた。怪我が治るまで。出て行きたいときに出て行っていい。
そう言ったのは自分だったのに。
…霧香がまだクラスに居た時からこんな想いを抱いていたのか、
この数日の間に芽生えた感情なのかはわからないが、彼は少しずつ
自分の気持ちに気付いていった。
誠の思いは、顔に少し表れていたようだった。霧香はその表情を見ているうち、
彼の気持ちに感化されたかのように、決意が揺らぎかけている自分に気付いた。
ひょっとして私は、この人と別れるのが寂しいのだろうか?と、彼女は考える。
彼女は、誠の笑顔を見ると辛かった。こんな風に、自分に微笑みかけてくれる人だからこそ、
なおさら巻き込みたくはなかった。しかし、同時に、こうやって屈託のない笑顔をくれる
人との時間を、もっと過ごしていたいとも、心の底では願っていたのだ。
また、寂しそうな顔をしてる…。誠は、愁いを帯びた表情の霧香を見て、
そう思った。
「どうしたの、夕叢さん…大丈夫?」
思わず彼は、俯いて黙りこんでいる霧香の両肩に手をかけていた。
我にかえった霧香が顔を上げると、心配そうに見つめている誠と視線がぶつかった。
しばらく、その距離で見つめ合う二人。誠は、心臓の鼓動が次第に早く激しくなり、
何か切ない気持ちが、こみ上げてくるのを感じた。
どこか悲しい色を浮かべた瞳で自分を見つめる少女が、誠には愛しくてたまらなくなった。
彼は、感情に身を任せるまま、霧香を両腕で抱きしめた。
「あ……」
驚いて体を強張らせた霧香だったが、抵抗はしなかった。
愁いを含んだ眼差しで、誠を見つめる。
その瞳を見た時、彼の中で、こみ上げていた感情が爆発した。
電灯も点けていない薄暗い寝室の中。…彼は、霧香にキスをした。
霧香はやはり驚いたようだったが、それでも抵抗をしない。
我にかえった誠は、顔を真っ赤にしながら、慌てて唇を離す。
「ごめん!俺……俺は」
謝りながらも、彼は言葉を選んで、続ける。
「俺…、夕叢さんが好きだ。夕叢さんが出ていく前に、
それだけ言っておきたくて…」
霧香は、静かに誠を見つめている。誠は、さらに言葉を続けながら俯いた。
「でも、本当にごめん。どうかしてた…いきなりこんな事…」
ああ、この人は…と、霧香は誠を見つめながら思う。
この人は今、本心からの言葉を口にしてくれている。霧香には、そう思えた。
かつて自分と親しくなったばかりに、その命を落とす事になったミロシュの
微笑が浮かぶ。さらに…クロエ、そしてミレイユ。今まで自分に好意を
向けてくれた様々な人々の表情が、誠の顔にダブって見えた。
気がついたとき、霧香は自分から、誠に唇を重ねていた。
「んっ……」
2度目のキスをしてから、どれくらいの時間がたったのか…。
カーテンの隙間から月光が差し込み、ほんのりと青白い光に包まれながら、
二人は全ての衣服を脱ぎ、肌を重ねあっていた。何か自分から欠け落ちて
しまったものを求め、互いに埋め合うように、次第に二人の動きは激しく情熱的になっていく。
その最中、霧香は誠の耳元で囁く。
「誠君…私」
「私は人を殺して生きてきたの」
突然の告白。
誠は沈黙している。しかし休むことなく、霧香の体を愛しみ続けていた。
堰を切ったように、彼女は今まで、ノワールを名乗る2人の経験してきた全てを語り始めた。
…ああ、私は自分が何をしているか、分かっているのだろうか。全てを話してしまえば、
もう彼は部外者ではなくなってしまう。私も彼の事を大切に思うのなら、
巻き込んではいけないのに。そう思いながらも、彼女の言葉は止まなかった。
話し終えたとき、霧香の目から涙が零れ落ちた。しかし、誠はただ静かに
霧香の告白を受け止め、優しく彼女の涙を拭いながら自分の想いを伝える。
「…分かったよ、夕叢さんの抱えてきたもの。それでも、俺は夕叢さんが好きなんだ」
長い戦いに傷つき、酷使された小さな体を、労わりマッサージするように、
霧香の体をゆっくりと愛撫してやる誠。そして二人は、3度目のキスを交わした。
体がまだ仄かに火照ってはいたが、大分落ち着きを取り戻した霧香が、誠をいたわる。
「誠君、大丈夫」
「夕叢さん、体力ありすぎだよ…」
緊張していたせいもあってか、思いがけず体力を消耗した誠が、荒く息をつきながら答える。
いや、彼女が見かけによらず鍛えられている事も理由の一つだろうが、ひょっとして
俺の体力が無いだけなんじゃ…と、誠は男として、少し忸怩たるものを感じた。
霧香が、初めて誠に微笑みを見せた。そして、誠に小さな声で囁く。
「霧香、って呼んでいいよ。…私が貴方の事を誠君って呼んでるのは、
相手の人を名前で呼ぶのが、向こうにいる間に習慣みたいになっちゃったから。
私が誠君の事を名前で呼んでるのに、私がまだ名字で呼ばれるのは、少し変な感じがする」
「…霧香……さん?」
いや、この期におよんで、さん付けも変だろう、と、誠はまだ緊張が抜けきって
いないらしい自分に呆れた。
相手の胸にぴったりと身を寄せている霧香の髪を撫でながら、誠は思う。
日本で平穏に生きてきた自分には、彼女や、その相棒だという
ミレイユという女性を救う事など、到底出来はしないだろう。
それでも、どうにかして霧香の支えになりたい。支えてあげたいという
想いが強く芽生えていた。彼は腕の中の霧香に呼びかける。
「好きだよ…霧香」
頬をうっすらと赤く染めて、微笑みながら霧香は答えた。
「…うん」
霧香もまた、誠の腕の中で思う。
やっぱり明日、ここを出よう。私も誠君が好きだ。だからこそ、ここを出る。
そしてもう一人、私にとって大切な人…ミレイユに会うんだ。
でもそれは、誠君と二度と会えなくなるという事じゃない。いつの日になるかは
分からないけど、いつかもう一度、彼に会うために日本へ戻ってこられる日が来るはずだ。
明日、しっかりとその事を誠君に伝えよう。
そんな事を考えながら、彼女は誠の腕の中で、浅い眠りに落ちていった。