乃木坂美夏の作戦 
 
 『人間万事塞翁が馬』と言う故事がある。 
 人生に於いて未来の事は何が起こるかは誰にも分からなくて、しかもそれで事態がどう転んだのかさえ後になってみなければ判らないと言う意味らしい。 
 因果応報と言うか、それでも何かしらの結果に辿り着く迄には相応な原因とその過程があるワケなんだが、その原因も過程もそして結果も、それらが全部過去になって初めて判るようになるワケだ。 
 何だか毎回似た様な件(くだり)で始まる話をしている気がするんだが、俺としてもそう何度も人生の転機が訪れる事態が起きて欲しいってワケじゃない。 
 相変わらずの長い前置きに加えて要領を得ない説明なんだが、これから話す内容を考えれば一言断りたくもなると言うもの解って貰えるだろう。 
 つまりは、今回も例に漏れず。一体何処で俺の人生にロケットエンジンが取り付けられたのだろうかと、そんな事を考えてしまうくらいに俺の予想を打ち上げ軌道の計算をミスった観測衛星みたいに越えていったと言う事なんだけどな。 
 う〜む……。まさか本当にこんな結果になるなんて、一体誰が想像出来ただろうね? 
 尤も、今回は騒動の中心で且つ張本人が一番驚いていたのかも知れんが(いや、俺だってまだ十分に驚いているんだが……)。 
 取り敢えず、そろそろ本題について話そうと思う…… 
 
「あ、やっと出てきた。やっほ〜、おに〜さ〜ん♪」 
 昇降口から出た途端に息が白くなる夕焼けの校庭で、校門の方からやけに耳に覚えのある声が聞こえてきた。 
 いや、それだけでもう誰なのかは判るんだが、そのちんまい影はトレードマークのツインテールを揺らしながら海を割る聖人の様に、下校していた生徒たちが割れて出来た道を縫って俺に駆け寄って来た。 
「も〜、いくら掃除当番だったからって、女の子を待たせてる時は早めに上がらなきゃダメだよ? おに〜さん」 
 人差し指を立てた美夏が俺を見上げながらそんな事を言ってきたが、生憎と容量の小さい俺の記憶の引き出しを探してみても何処にもこのツインテール娘との待ち合わせなんて予定は見当たらない(つまりはアポ無し)。 
 と言うか、待たせたと言ってもほんの少し前に来たばかりだろうに。 
「あ、やっぱり気付いてたんだ? それなら、もっと早く出て来てくれれば良かったのに〜」 
 そりゃあ、美夏も春香並みに目立つ容姿だからな。校門で人集りが出来ていれば、掃除していても気付くだろう。 
 そんな他愛の無い遣り取りをしていると、まるで人里に降りて来た猪でも見るかの様な、そんな視線が周囲から何故か俺に向けられて始めていた。 
「おい、見てみろよ。あれ美夏様じゃないのか? しかも、綾瀬が何か言い掛かりを付けてるぞっ!?」 
「何ぃっ!? またか!? また綾瀬なのか!?」 
「あの野郎、春香様の妹の美夏様をこの極寒の空の下で待たせておいて、自分は悠々と暖房の利いた部屋から下校だと?」 
「何それ? 最っ低〜っ……」 
「って言うか、春香様だけじゃ飽き足らず、美夏様にまで手を出してるって本当だったの?」 
「何だと!? ……おい、星屑親衛隊に召集かけろ。今日こそ綾瀬の野郎を始末するぞ」 
「ふふふ、捨てる場所は海と山とどちらが良いのかしらね……」 
 ……おい、待て。何でいきなり美夏との待ち合わせから(繰り返すが、美夏のアポ無し)そんな竜巻が起これば桶屋の業績が鰻登りな展開になるんだ? 
 そんな事を考えている間にも、俺(と美夏)の周りには落ちた飴に群がるオオクロアリの如く、蠢く黒い山が出来始めていた。 
「にゃ? この人たち、何だか皆おに〜さんに用があるみたい? 人気者だね、おに〜さんは♪」 
 そんな周囲の生徒を見渡して美夏が何故か嬉しそうにそんな事を漏らしたが、獲物を取り囲む狼の様な血走った目の生徒たちが友好的に見えたのなら、俺は眼科よりも精神科に行かなきゃならんだろう。 
「あ、そうそう。実は、少しおに〜さんに相談があって――」 
 周囲からの殺気なんてまるで気付かずに美夏が話をしてきたが、それよりも今は俺の生存本能の警鐘に耳を傾ける事にした。 
 グラウンドでも体育館でもないのに、部活の道具を掲げて津波の如く押し寄せてくる運動部の群衆に捕まれば、度重なる転生を繰り返して最終的にトイレの雑巾になった古タオルよりもズタボロになるのは確実だろう。 
「美夏。スマンが少し走るぞ? 話はそこで聞くから」 
「え? おに〜――、きゃっ!?」 
 走り出した俺が美夏の手を取った瞬間、蜂の巣を突付いて叩き落した様な騒ぎになった。 
「あぁっ!? 綾瀬が美夏様をさらいやがったぞ!」 
「えぇい、親衛隊はまだか!? この儘じゃ、美夏様が綾瀬の毒牙にっ!」 
「いやぁ! 美夏様が汚されちゃう!」 
 ……いや、これはもう集団ヒステリーを通り越しては暴動なんじゃないのか? と言うか、一体お前らの中ではどれだけ俺は危ない奴なんだよ? 
 (俺の)血に飢えたバーサーカーと化した生徒たちから美夏の手を引いて逃げながら、俺たちは学校を飛び出したのだった。 
 
「はぁ、はぁ、はぁ……」 
 残党狩りから逃げる落ち武者の様に(いや、狙われてるのは俺だけなんだが)、命辛々追っ手を振り切った俺と美夏は辿り着いた公園のベンチで漸く一息吐いていた。 
 果たしてこんな環境で無事に卒業出来るのだろうかと、酸素が抜けた水槽でパクパクと口を忙しなく開いている金魚みたいに青息吐息の状態で悩んでいると、隣の美夏が興味深そうに俺を覗き込んでいた。 
「何何? 前にも思ってたケド、おに〜さんってひょっとして学校じゃ有名人とかだったりするの?」 
 まぁ確かに、ある意味では俺も白城では春香と並んで有名と言えば有名なのかも知れん。まぁ、春香の有名さとは月とガラパゴスゾウガメの甲羅くらいに違うんだが。 
「え〜? わたしはゾウガメさんも良いと思うけどなぁ〜? 背中が大きくて乗り心地も良いし。凄く頑丈で、とっても我慢強いんだよ?」 
 いや、確かに美夏の言う通りかもしれんが、俺の言いたい事はそう言う意味じゃないんだよ…… 
「そうかな? お姉ちゃんはわたしから見ても素敵だと思うケド、おに〜さんも十分格好良いトコがあると思うよ?」 
 そうか? 俺としてはいつも必死で、そんな余裕なんて無いんだが。 
「ううん。多分、おに〜さんの格好良さって言うのは、そう言う一生懸命さなんだと思うよ」 
 そう言って、美夏は自分の言葉にうんうんと頷いて俺を見た。 
「う〜ん。イマイチ分からん」 
 頑丈さと家事一般くらいしか取り柄の無い俺に、一体どんな格好良さがあるのだろうね。 
 腕を組んで思案しようとして、俺はまだ美夏の手を繋いでいた事に気が付いた。 
「あ。わ、悪い……」 
 咄嗟に美夏の手を放し、慌てて美夏に謝った。思えば俺の息が上がるまで付き合わせてしまっていたのだから、体格的に小柄な美夏には辛かったかもしれん。 
「あ……。おに〜さん?」 
 美夏が掴まれていた手を、微妙に不服そうな目で眺めているのは気の所為では無いだろう。 
「あ〜、その、無理に走らせてスマン、次から気を付ける。えっと、美夏も思う事があったら遠慮無く俺に言ってくれて構わんからな?」 
 気の利かない自分に呆れながら、美夏に頭を下げた。 
「え? べ、別にこのくらい全然平気だよ、おに〜さん。寧ろ、おに〜さんがどうしてもこの天使みたいに可憐でらぶり〜な美夏ちゃんの手を繋いでマラソンしたいって言うなら繋いであげない事も無いかな〜、って」 
 いや、学校から公園まで走っただけで、既にヒマラヤ登山させられたリポーターみたいになってる俺にはこれ以上の気力も体力も無いんだがな。 
「それよりも、美夏。ちょっと手を出してくれるか?」 
「うん? な、何、おに〜さん? や、やっぱりわたしと手が繋ぎたいとか? そ、それは嫌ってわけじゃないけど、そんなに直ぐに求められるとわたしとしても色々と心の準備って言うか、え〜っと……」 
 「……ほ、ほら。おに〜さん。これで良い?」と、何故か視線を逸らしながら美夏が俺におずおずと手を差し出してきたが、取り敢えず俺はポケットに入れておいた缶珈琲を美夏の手の平に載せた。 
「ほら、缶珈琲だ。寒い中、待たせちまって悪かったな」 
「……にゃ?」 
 そんな缶珈琲を、まるで折角餌にありつけると腹を空かせていたにの、餌皿の上に缶切りと猫缶だけ置かれた猫みたいな表情で美夏がキョトンと眺めていた。 
「あ、あはは〜。あ、有難う。おに〜さん。それじゃ、い、頂くね?」 
そう言って美夏がプルタブを開けると、途端に俺と美夏の周りに珈琲のほろ苦くて甘い匂いが漂った。 
「本当は冷める前に渡したかったんだが。ぬるくなっちまってたみたいだな。スマン……」 
「ううん。この缶珈琲、凄く美味しいよ。おに〜さん」 
 そんな事を言いながら、美夏は細い喉を動かして両手で行儀良く珈琲を飲んでいた。何と言うか、缶珈琲を飲む姿にも品がある辺りは流石お嬢様と言うべきなのかも知れん。 
「ところで、美夏。何か俺に話があるって言ってなかったか?」 
「あ〜っ!! そうだった、すっかり忘れてたよ!! おに〜さん!!」 
 どうやら今まで本当に忘れていたらしく、美夏が試験終了間際で名前の書き忘れに気付いた受験生の様な勢いで目を見開いた。 
「おに〜さん、お願いがあるの」 
「ん? 何だ?」 
 何やら尋常ではない美夏の様子に、俺もズレていた眼鏡を掛け直して聞き入った。 
「えっと、今度の日曜日なんだけど、ちょっと付き合って欲しいんだけど。良いよね?」 
「? あぁ、別に構わんが」 
 そんな俺の返事に、何故か美夏が長かった手術の後に成功を告げられた家族の様な、心底安心した様な表情で溜息を吐いた(大袈裟)。 
「じゃあ、一旦私のウチに来て。おに〜さん。時間は朝の十時で、遅れちゃダメだよ?」 
 そう言うと、ちんまいツインテール娘は何処か悪戯っぽさ含んだ表情で念を押してきたのだった。 
 
「……まぁ、これだけ用意しておけば足りるだろ」 
 我が家の台所。そこで所狭しとテーブルの上に並べられたプチ満漢全席宛らの光景を眺めながら、調理具を洗い終えた俺はエプロンを畳み始めた。 
 別に俺がいきなり料理の道に目覚めたとか言うワケではなく、単にアホ姉とその親友に俺が居なくても飢えない様に餌を用意しただけである。 
「へ〜、凄〜い。おに〜さん、これ全部一人で作ったの?」 
「まぁ、ウチには俺しか料理する奴が居ないからな」 
 正確には『出来る』奴だが、今更それを嘆いても仕方が無い事は既に達観済みである。そして、俺の料理スキルは今後も無駄に上がっていくんだろう…… 
 時計を見れば午前九時。約束は確か十時の筈だったから、今から準備すれば余裕で乃木坂邸に間に合う筈だ。 
 一旦部屋に戻って出かける準備をせんとな。 
「うわ〜、美味しそ〜だね〜。ね〜ね〜、おに〜さん。少し摘んでみても良いかな?」 
「あぁ、構わんぞ。結構多めに作ったからな。只、出来て直ぐのヤツもあるから、火傷には注意してくれ」 
 そこで、俺は漸く掛けられた声の主に気が付いた。 
「いや、何で美夏がウチに居るんだ?」 
 改まって目を向ければ、既にピリ辛唐揚げ(今日の自信作)をもぐもぐと咀嚼しているちんまいツインテール娘が立っていた。 
「んぐ? んむんむんむ……(ごっくん)。うん、やっぱりおに〜さんが作るお料理って凄く美味しいね♪」 
 そう言って貰えるのは作った身としては有難いんだが、それは感想であって質問の答えじゃないだろう。 
「うんうん。何でわたしがおに〜さんを迎えに来たかって事でしょ?」 
「あぁ。確か、俺が招待されてた筈なんだが?」 
 頷く美夏から返答を聞こうとしたが、そこで俺の目が美夏の格好に留まった。 
 それは如何にも『お嬢様』と言う感じで、(普通に唐揚げなんぞ食べているが)やたらとセレブな雰囲気を漂わせているドレス姿だった。 
 何となく俺の頭に浮かぶ、美夏から誘われた今日のイベント内容。 
 てっきり美夏と適当に一日付き合うのだと思っていたのだが、まさかこの格好で街中を歩き回るなんて事は無いだろう。 
 つまりは―― 
「そ。今日はわたしのエスコートをして貰うんだよ? おに〜さん」 
 俺は超上流なパーティーにお呼ばれしたらしい。 
 
 渡されたタキシード(やはりと言うか、何故かサイズも丈も合っていた。)に着替えると、俺はその儘自宅の前で待機していたロールスロイスに乗せらていた。 
 その隣には、サングラスが黒光りするにっこりメイドさんの姿。 
「あらあら、裕人様〜。まるで陸に上げられたチョウチンアンコウみたいな顔をなさっていますね〜? ダメですよ〜、女性をエスコートされる殿方が今からそんなご様子では〜」 
 早速那波さんから駄目出しを貰ってしまったが、元々そう言った上流階級のイベントとは縁の無い俺にはエスコートどころか、精々その場の空気になるくらいが関の山の様な気がするんだが? 
 そんな俺に、乗り込んできた美夏が呆れた様な視線を向けてきた。 
「も〜、おに〜さん。迫り来る狼さんたちから、このらぶり〜きゅ〜とな美夏ちゃんをしっかり守ってくれなきゃ。ってゆ〜か、守りたくなるでしょ?」 
 いや、そんなに物騒なモンなのか? 最近のセレブたちのパーティーってのは? 
 揺れを感じさせる事無く静かに走り出した車の中で、俺の言葉に美夏が思案顔で腕を組んだ。 
「物騒ってゆ〜か、こ〜ゆ〜パーティーを一種の『良い機会』って捉えてる人もいるし。ま〜、色々とね〜……」 
「そうですね〜。古今東西、この手の催し物は一種の恒例行事とでも申しますか〜。半分はその為に行われているようなものですからね〜。ですが、将来は家督をお継ぎになられるのでしたら〜、そう言う機会は逃さずにものにしなければいけませんから〜」 
 面白くなさそうに美夏が肩を竦め、那波さんも「御曹司の方も大変ですね〜」と困った様な表情でそう零した。 
 そう言や、春香の誕生日パーティーの時にもそんな事を言っていたような気がするな。しかし、そんな権謀術数が張り巡らされたパーティーに美夏も出なきゃならんとはね。 
「あ、勿論来る人皆がそうってワケじゃないよ? 今日は光や美羽っち、エリちゃんも参加してるし、皆で楽しくやる分には問題無いし。だから、おに〜さんもそんなリャマさんみたいに眉間に皺を寄せて難しい顔しなくても良いんだよ?」 
 と、眉間を人差し指でグリグリと揉み解す仕草をして、俺を覗き込みながら美夏が口元を緩めた。 
「とゆ〜わけで、おに〜さんにはわたしや光、そして美羽っちやエリちゃんを飢えた狼さんたちからし〜っかり守って貰うんだからね? おっけ〜?」 
 確かに、あの仲の良いメンバー(現代舞台芸術文化研究部)が一緒であるならばまるっきり退屈と言う事は無さそうだろう。そう言や、お嬢様学校である双葉女学院に通ってる彼女たちも立派な(?)お嬢様たちなんだったな。 
「本当は部員全員で参加したかったんだけど、一人がどうしても外せない用事があるらしくって。みんな揃わなかったんだよ〜」 
 「今度こそ、おに〜さんに会わせようって思ってたんだけどね〜」と、残念そうに美夏が頬杖を突いて溜息を吐いた。とは言っても、面識のあるあの時のメンバーなら俺も少しは気が楽かも知れんしな…… 
 ん? 今何か、さらりととんでもない事を言われた気がするんだが? 
「――って、ちょっと待ってくれ。普通に葉月さんや那波さんたちに守って貰う事は出来ないのか?」 
 いくら何でも、俺一人で四人全員をエスコートするのは、満員御礼な時間帯のレストランにたった一人で放り込まれたバイトスタッフ(研修バッジ付き)が修羅場のフロアを捌き切るくらいに無茶な事だろう。 
「葉月さんは〜、今日は春香様と玄冬様のお付きで外しているのですよ〜。それに〜、私たちはあくまで使用人ですから〜、美夏様たちに危害が及びそうにならない限りはあまり強く前には出られないのです〜」 
「まぁ、困ると申されましても精々美夏様たちが言い寄られるくらいですし〜」と、那波さんが申し訳無さそうに漏らした。 
 いや、俺としても守る気はあるんだが、如何せん物理的に無理な気がするんだが? 
「だいじょぶ、だいじょぶ〜。別にシッシって追い払えって言ってるんじゃなくて、『あんなに仲良くされてたら近寄り難いな〜。あ、ひょっとしてお邪魔? もう恋人同士だったりする? キャッ♪』みたいな感じになっていれば、じゅ〜ぶんだから」 
「……」 
 何だ、その『キングオブスケコマシマスター』(略して『KOSM』。……いや、全力でそんな二つ名はお断りするが)は? 
 と言うか、それを四人のお嬢様相手に立ち回れと? 
 寧ろ、そのお嬢様方にちょっかいを出している何処の馬の骨のどの部分なのかも判らないような変な虫(無論、俺の事である)として、俺が排除されそうなんだが?(『死屍累々』を振り回して、俺のメガネを叩き割る玄冬さんが脳裏に浮かんできた……) 
「へ〜きだってば。おに〜さん。こ〜ゆ〜のって、会場に入れるだけでじゅ〜ぶん資格があるって見られるものなんだから」 
「何せ将来を担われる大事な御子息御息女様たちですから〜。オオオナモミ(キク科オナモミ属。秋の草叢なんかで、服に取り付いてくるあのイガイガした草の実)の様に、気付いたらくっ付いてました〜。では済まされませんからね〜」 
 ……そのオオオナモミが正に俺なんだけどな。 
「だ〜か〜ら〜。おに〜さんはわたしたちと一緒に居れば他のゲストさんたちにくっ付かなくて良いし、わたしたちもくっ付かれないで済むでしょ?」 
「まぁ、美夏たちが構わんのなら俺も構わんが……」 
 振りだけなら、俺も美夏たちもセレブの見合いパーティーに参加しても問題は無さそうだしな。 
 それ以前に、俺が何処ぞのお嬢様とくっ付けるなんて在り得ないとは思うんだが…… 
「え〜?」 
 と、美夏が残念そうな声を上げて俺を覗き込んできたが、こればっかりは相手にも選ぶ権利と言うものがあるだろうに。 
「だって〜。そんな考えだと、いつ迄経ってもお義兄さんにはなれないよ? おに〜さん」 
「は?」 
 突然の美夏の言葉に、今度は俺が音楽の授業で何故か保健体育の問題を質問された様な(ホント、何なんだろうね?)、そんな間の抜けた声を上げた。 
「だ〜か〜ら〜。おに〜さんが相手がお嬢様だからって遠慮してちゃ、若し、おに〜さんを好きになったお嬢様がいた場合はどうするの、って意味」 
 いや、別にお嬢様相手にどうのこうのじゃなくてだな。今迄この方(=実年齢)モテた事の無い俺が、異性から恋愛感情を向けられると言う状態が全く以って想像出来ないんだが。 
 そもそも美夏の言う『お義兄さん』も春香と結婚すればの話で(何つーか、エラく飛躍した話だな)、春香が俺をそう言う対象として見ていると意識するのは自意識過剰と言わざるを得んだろう。 
「ふ〜ん?」 
「あらあら〜?」 
 そんな俺の言葉に、何故か美夏と那波さんが、生まれた川を間違えて用水路を登ってきた鮭を見る様な目で俺を見てきた。 
「ま、それでもおに〜さんなら何だかんだで、いつかきっとどんなお嬢様でも射止められるようになれると思うけどね〜。何たって、おに〜さんだし」 
「目指せ、逆玉ですね〜」 
 ……それだと、本当にお嬢様に付く変な虫なんだがな。 
 などと、質問と返答が微妙に噛み合ってない会話をしている間に、気付けば俺たちを運んでいたロールスロイスは停車しており、乃木坂邸へと辿り着いていた。 
 どうやら、目的地に着いたらしい。 
 
「はい〜、裕人様〜。こちらが今回のパーティー会場、『乱れ九頭龍の間』になります〜」 
 と、受付で美夏が用意してくれた招待状の提示と名前の記帳を済ませ、ドアを開いた那波さんから通された場所は、皆で一緒に新年会を開いたあの広間だった。 
「何つーか、すげぇな……」 
 以前に鹿王院家でのパーティーを経験した俺だが、それでも今回の乃木坂家のパーティーも俺の度肝を打ち抜くには十分過ぎるくらい豪華なものだった。 
 床一面から見上げる天井迄。見渡す限りに広がるのは、乃木坂家の冗談みたいなブルジョワっぷりを体現した様な異空間。 
 そして何よりも目にダイブしてくるのは、右も左も前後にも、如何にも名家良家生まれと言ったリアルセレブなお嬢様&御曹司たちだろう。 
 同じパーティーとは言え、俺たちの新年会とは明らかに違う趣向の超セレブパーティー。 
 そんな、タンチョウヅル(特別天然記念物)の群れの中に紛れ込んだカラスの様な気分を味わっていると、何やらパタパタと元気そうな足音が聞こえてきた。 
「あー、美夏と綾瀬おにーさんじゃないですかー」 
「ほんとだ〜」 
「あ、光〜、美羽っち〜」 
 美夏が振り返った方を見ると、そこには美夏と同じ様に粧(めか)し込んだ光と美羽がこっちに向かって来ていた。 
「へー、ちゃんとお洒落してくると、綾瀬おにーさんも中々に格好良いんですねー」 
「美夏も〜、何か凄く気合が入ってるみたい〜」 
「そ、そうかな〜? べ、別に普通だと思うけど――」 
「えー? でも、その割には電話口ですっごくはしゃいでたよねー?」 
「うんうん〜。美羽も〜、今日のパーティーには絶対来るように言われたよぉ〜」 
「そ、それは、ホラ。やっぱり、参加するからには楽しんだ方が良いし〜……。ね?」 
「そうなのか?」 
 車の中での口振りからは、美夏はこの手のパーティーはあまり気乗りしていなさそうに見えたんだが? これは一体、どう言う事なんだろうね? 
「あー、それはやっぱりアレですよー。何せ、綾瀬おにーさんが一緒ですからねー」 
「ち、ちょっと!? 光っ!?」 
「美夏はおに〜さんの事になると〜、一番楽しそうにしてるんだよぉ〜」 
「み、美羽っち〜っ!?」 
 何やらニヤニヤしながら囃し立ててきた光と美羽に、熟れた苺みたいに顔を真っ赤にした美夏がにゃ〜にゃ〜と声を上げて手とツインテールをぶんぶん振り回していた。そう言や、この前の双葉の教室でも同じ様な遣り取りがあったような気がするな。 
 美夏がクラスメイトに俺の話をしている事は俺自身知っているワケだし、電話口で俺の話をしていても今更隠すような事なんかね? 
 まぁ、あの時のクラスの反応を見る限り、全く気にならんと言えばそうでもないんだが…… 
「いいえ。綾瀬さんが心配なさっている様な事は無いと思いますよ」 
 と、会場の喧騒の中でも良く通る澄んだ声が俺に掛けられた。振り返ってみると、いつの間にか、そこには美夏たちと同じ様にパーティードレスに身を包んだエリが俺の隣に立っていた。 
「美夏は良く綾瀬さんのお話を私たちに聞かせてくれるんですよ? いつもとても楽しそうに話していて、美夏にとって綾瀬さんは自慢のおに〜さんなんです」 
「へぇ……」 
 どちらかと言えば、『あと一歩足りない』くらいの評価だと思っていたんだが、意外にも美夏の中での俺の評価はそこまで悪いものでもないらしい。 
 実際には一歩どころか、五十歩百歩(?)も足りてないんだが、そんな話を聞かされては、俺としても美夏の期待に沿えるようにならんとイカンと言う気がしてくる。 
 ……まぁ、最終的な美夏の期待が『お義兄さん』だと、高さがハードルどころか棒高飛びくらいになるかも知れんが。 
「ふふっ。是非、頑張ってくださいね。綾瀬さんの事、応援してますから」 
 とは言っても、何を頑張れば良いのかは俺自身まだ分からんのだが…… 
「あ、エリちゃん」 
「ホントだー」 
「エリちゃんなのぉ〜」 
 俺とエリとの会話が一段落着いた処で、こちらに気付いた美夏たちが繰り広げていた戯れ合いを止めて集まって来た。 
「美夏が言っていたお楽しみって、綾瀬さんの事だったんですね」 
「あたしもビックリしたよー。だって、美夏ってばちっとも教えてくれなかったしー」 
「美羽も〜」 
「ま〜ま〜、細かい事は気にしな〜い。それに、こう言う“さぷらいず”は内緒にしとかなきゃ面白くなくなっちゃうしね?」 
 三人に詰め寄られつつも、何処と無く美夏の表情が得意そうに見えるのは、美夏の演出が上手くいったからだろう。 
 伊達に演劇部の副部長と脚本担当を務めていないと言うか、何事も盛り上げようとする美夏の前向きさの顕れなのかもしれん。 
 そんな事を考えていると、 
「あ〜、そうそう。今日の“さぷらいず”はまだあるんだよ? 何と、今日のパーティーはおに〜さんがわたしたちをエスコートしてくれま〜す!」 
「え? 綾瀬さんがですか?」 
「綾瀬おにーさんのエスコートですかー」 
「それは中々に魅力的ですな〜」 
 美夏の言葉を聞いて、エリ、光、美羽の三人の視線が俺に集まった。 
「ほらほら、おに〜さん。ちゃんと皆に言わなきゃ」 
「あ〜、え〜と。その、宜しくな」 
 隣に立った美夏から肘で脇腹を突付かれて、俺はセーターを脱いだ後の静電気に擽られる様な痒さを項に感じながら三人に会釈を済ませた。 
「そ〜そ〜。『こんなにぷりてぃ〜で愛らしい女の子たちのエスコートを任されるなんて最高だ!! 今日は他の狼たちが手を出せないくらい、俺の熱く猛り狂ったパトスで面倒見てやる!!』だなんて。きゃっ☆」 
 …… 
 流石にその台詞はアレだろうに……。つーか、そんな危ない奴にはエスコートされたくないと思うんだが? 
「も〜、解ってないな〜。おに〜さんは。それくらいおに〜さんに喜んで欲しくて、エスコートして貰いたいんだってば。それとも、こんな美人揃いを前にしておに〜さんは何とも思わないってゆ〜の?」 
 美人って…… 
 そりゃあ、四人とも間違い無く美少女に分類されるだけの容姿だとは思うが、美人と言うよりはまだ可愛いと言うのが妥当な処だろう。 
 そんな事を考えながら、美夏、光、美羽と、ちんまいお嬢様たちを順繰りに眺めたが、頬を膨らませて不満そうな視線を放っている様を見せつけられても尚更そうは思えないっつーか、まぁ、エリくらい落ち着きがあって大人びていれば美人と言えるのかもしれんな。 
「……おに〜さん。な〜んでそこでわたしたちとエリちゃんを見比べてるのかな〜?」 
 例の如く、鋭い勘で美夏が半目でじ〜っと俺を見てきやがった。 
「え? あ、あの、綾瀬さん。私、何処か変でしょうか?」 
「ん、あぁ。何でも無い。気にせんでくれ」 
 美夏に言われて俺の視線に気が付いたエリが不思議そうに首を傾げてきたが、まさか女の子に向かって浮くどころか、クシャミの拍子に飛んだ入れ歯の様な台詞が吐ける程、俺は器用じゃないワケで…… 
「あー。まー、エリはあたしたちから見ても文句無しに綺麗ですからねー」 
「むぅ〜。美羽だって〜、もう少し大きくなったらおに〜さんを誘惑出来るのになぁ〜……」 
「そんな、私なんて……。それに、ゆ、誘惑だなんてそんなつもりは……」 
 納得した感じの光と少し残念そうな美羽の二人の言葉に、耳まで真っ赤になったエリが顔を伏せた。 
 その恥らう姿から醸し出される慎ましさや淑やかさが、また一段とエリの大和撫子っぷりを際立たせていると言うか。ウチのアホ姉とその親友にも、エリの爪の垢を煎じてガロン単位で飲ませてやりてぇな。 
 まぁ、あの二人の場合はそれ以外にも必要最低限の家事スキルの修得と酒癖の悪さを何とかせんとイカンのだが。 
「――って、おに〜さんもエリちゃんに見惚れてないで、わたしたちもエスコートしないとダメだよ?」 
「ん?」 
「そうですよー。この前は皆一緒に相手してくれたじゃないですかー」 
「む?」 
「温かくて大きくて、凄く気持ち良かったよね〜。美羽、またおに〜さんに乗りたいな〜」 
「……」 
 (最後が激しく微妙な言い方のような気がするが、)そう言って美夏を真ん中にして、右と左から光と美羽の三人が俺に寄り掛かってきた。 
「お、おい……?」 
 いくらちんまいとは言え、流石に三人からプッシュされれば二歩三歩と後退せざるを得ず、 
「おわっ!? んがっ!?」 
「にゃあっ!?」 
「わわっ!?」 
「きゃ〜!?」 
 割と入り口の近くに居たお陰もあってか、ホール隅の壁側に設置してあった休憩用のソファーに膝を折られた俺はその儘三人の押し倒される形で見事に倒れ込み、微妙にソファーの幅から漏れた後頭部を壁にブチ当てしまった。 
「あ、綾瀬さん。みんなも大丈夫ですか?」 
 一人、当然ながら無事だったエリが心配そうに覗き込んできたが、やたらとデカい上にクッション性の高かったソファーのお陰もあってか、俺の腹と腕の中の美夏たちは何とか無事のようだった。 
「あ、あぁ。ソファーのお陰で大した事は無いぞ。美夏たちも、何処かぶつけたりしてないか?」 
「う、うん。大丈夫だよ? おに〜さん」 
「あちゃー。調子に乗り過ぎちゃいましたねー。済みません、綾瀬おにーさん」 
「ごめんなさい〜」 
 一瞬、瞼の裏で星が幾つか弾けたが、喉の奥から漏れ出そうになった呻き声はそのまま飲み込んで何とか遣り過ごした。 
「あ、あの……。綾瀬さん……」 
 俺が頭をぶつけた事を知っているエリが何か言いたそうにしていたが、それを俺は首を振って制した。エスコートする俺が、余計な気を遣わせては本末転倒だろう。 
 幸いにも体の頑丈さは俺の数少ない長所であるし、それに痛さと衝撃ならこの前の初詣ででの地蔵(安産祈願)との正面衝突の方が上だったしな。 
 良い加減、この辺りで美夏たちを楽しませてやらんと俺の立場が無い気がする。 
「あー、それよりもだな」 
「にゃ?」 
「はい?」 
「なぁに〜?」 
 取り敢えず、俺の上に乗っかっている三人を立たせて、 
「折角こうやって休日にみんなで集まったんだ。ウマそうな料理も並んでるし、そろそろ俺たちもパーティーを楽しもうと思うんだが?」 
 微妙にまだ痛む頭を誤魔化す為に、ちと無理して笑ってみたんだが、 
「! う、うん。そだね」 
「! で、ですよねー」 
「! そ、そうなのぉ〜」 
 それを見た美夏たちの表情や動きが何やら途端にカタくなってしまった感じからして、俺の目論見は見事に外れたらしい。 
 むぅ……。これは若しかして、やっちまったんかね? 
「そ、それじゃ〜、おに〜さんはここで待っててね? わたしたちがお料理を運んでくるから」 
「い、行ってきますー」 
「え、えへへ〜」 
 散った後に殺虫剤を撒かれた蜘蛛の子みたいに、三人は俺から離れるといそいそと料理が載せられているテーブルに逃げる様に向かって行った。 
「……」 
 そりゃあ自分でも愛想の良い方だとは思わんが、人懐っこいあの三人に逃げられると多少なりともショックと言うか、寧ろあの三人でアレなら俺の笑顔(のつもり)は普通に通報されかねんレベルと言う事なんだろうか? 
 両手で顔を覆ってソファーにガックリと肩を落としていると、ふんわりとした甘い香りとソファーが柔らかく沈む気配が俺の隣から感じられた。 
「驚きました。綾瀬さんって、美夏とは普段からあんな風にされているんですか?」 
「いや、何つーか。その……」 
 オウンゴールでハットトリックを極めちまった様な居た堪れない気分だったが、それでも話し掛けてきたエリの方に顔を向けようとした時、「失礼しますね」と言うエリの声が聞こえてきた。 
「お?」 
 俯いていた俺の後頭部に伝わってくるヒンヤリとした冷たい感触。 
 目だけ向けて見てみれば、水の入ったグラスを持ったエリが濡らしたハンカチを絞って俺の頭に押し当ててくれていた。 
「良かった、コブにはなっていないみたいです。ですけど、少しでも体調がおかしくなったと感じられたら直ぐに病院で診て貰って下さいね」 
「あ、あぁ。悪いな、気を遣わせちまって……」 
 後は自分で冷やそうと思ってエリからグラスとハンカチを受け取ろうとしたが、エリは俺の手をひらりと上品に躱してニコニコと俺の後頭部を冷やし続けた。 
「?」 
「ふふっ。美夏が綾瀬さんの事を楽しそうに話す筈ですね。私も、クラスのみんなにお話したくなってしまいました」 
 情けない処を見られた割には、エリは清々しい表情で俺にそう漏らしてきた。 
「いいえ、全然情けなくなんてないです。ソファーに倒れる時。みんなが怪我をしないように、綾瀬さんが上手に守ってくれてました。私、何だかドラマのワンシーンみたいで、凄くドキドキして……」 
「まぁ、三人ともそんなに大きくないからな……」 
 俺自身、咄嗟に体が動いただけで上手く三人をカバー出来たかどうかすら覚えていなかったが、流石に演劇部の部長であるだけにエリは色々と細かい動作にも気が付いてしまうらしい。 
「も、若し、私が転びそうになってしまっても、綾瀬さんは美夏たちみたいに抱き止めて下さるのでしょうか?」 
「ん? スマン、良く聞き取れなかったんだが?」 
 エリにしては珍しく聞き取り難い声で話し掛けられて、後頭部を冷やされていた俺は首だけでも動かしてエリの方を見ようとして、 
「――っ!? い、いえ。何でもないです」 
 何故か急にエリにそっぽを向かれてしまったのだった。 
 処で、そんなに俺の顔は驚かれる様な造作をしているんかね? 
 
「ほらほら、おに〜さん。キョフテ(トルコのハンバーグ)を持ってきたよ〜」 
「あ、あぁ。有難うな、美夏」 
「あたしのはミーゴレン(インドネシアの焼きソバ)ですよー? どうぞー」 
「おぅ、光もサンキューな」 
「美羽は〜、トムヤンクン(タイのスープ)だよ〜。召し上がれ〜」 
「わ、わざわざスマンな、美羽も」 
 それからの俺はと言うと、あの盛大に倒れ込んだソファーの上で、せっせと(主にアジアの)料理を運んでくるお嬢様たちに囲まれ、餌付けされる雛鳥の様な状態になっていた。 
 別段、皿に盛られてくる料理の量自体はそんなに多くはないんだが、如何せん椀子ソバの早食い大会の選手の隣でスタンバっている継ぎ手の如く三人が料理を持って来てくれるお陰で、俺の胃袋は確実にその空き容量を埋められつつあった。 
「な、何でこんなに俺に食わせたがるんだ?」 
 次の料理を運んでくる為に三人が散開して行った後の小休止に、俺は天井を見上げて一息吐いた。 
 一皿が一口二口の量とは言え、流石にこのペースでは下手をすればマーライオン(つまりは、リバース)にもなりかねん勢いである。 
 取り繕わねばならん体裁や外聞の無い俺がどう思われようと一向に構わんが、このパーティーでマーライオンになってしまえば俺を招待した美夏や一緒になっていた三人にも迷惑が掛かる事は閃光弾を直視するより明らかである。 
 まぁ、美夏たちがこれ以上俺に料理を食わせなければ良いんだけどな…… 
「それは、やっぱり綾瀬さんだからじゃないでしょうか?」 
 天井を映していた俺の視界に、口元を綻ばせたエリが入ってきた。 
「俺だから?」 
 俺の言葉に、料理を持ったエリが強く頷いて肯定してきた。 
 はて? 今までの人生で食べっぷりを褒められたり、牛飲馬食の伝説を作った覚えは無いんだが? 
「いえ、そうではなくて。みんなは綾瀬さんに美味しいものを召し上がって戴いて、喜んで欲しいのだと思います」 
 確かに運ばれてくる料理はどれも文句の付けようが無いくらいにウマかったが、平均的な食の男子高校生の俺にはそろそろ兵糧攻め(?)になってきていたりするわけで…… 
「そ、そうですね、この儘だと綾瀬さんがお腹を壊してしまうかもしれませんね……」 
 エリが心配してそう呟いているものの、その手にある料理と俺とをちらちらと見ては何処と無く残念そうな表情を浮かべている様に見えるのは気の所為だろうか? 
「……(じ、じー)」 
 ……ひ、一口くらいならまだ余裕だよな? 
 引き攣りそうな胃袋の具合を細心の注意で確認しつつ、俺は覚悟を決めて口を開いた。 
「あ、あー……。そう言えば、エリが持ってる料理は何かウマそうだな」 
「そ、そうですか?」 
 俺の言葉に、青菜に天然塩だったエリの表情に期待の色が差した。その表情に奮い立たされて、俺は己の胃袋にもう一頑張りをさせてみる事にした。 
「あぁ、美夏たちが持ってきたヤツとも違う感じだし。何て言う料理なんだ?」 
「これはトゥクパと言って、チベットの饂飩なんだそうです。良かったら、綾瀬さんも如何ですか?」 
「それじゃ、一口貰うぞ?」 
「はい。どうぞ、綾瀬さん」 
 エリから皿を受け取ると、俺はトゥクパをずるずると食い始めた。 
「ど、どうですか? 綾瀬さん」 
「うん、野菜とか肉とか色々入ってる割にはあさっりしてるんだな。結構ウマいと思う」 
 結構腹が膨れていたにも関わらず、エリの持ってきてくれた料理は呆気無く俺の胃袋に収まった。そんな俺の食べる様子に、エリが安心した様に吐息を漏らした。 
「綾瀬さんのお口に合って、良かったです」 
「まぁ、エリの持ってきた料理はまだ食ってなかったしな」 
そんな俺の感想に、エリが少し驚いて表情で俺を覗き込んで、 
「あ。は、はいっ……!!」 
 何処と無く嬉しそうに頷いた。 
「……とは言ったものの、流石にこれ以上はもう入らないけどな。悪いが、エリが最初に持ってきてくれた料理で最後みたいだ」 
 そして、遂にソファーに凭れ掛かってギブアップを宣言した俺に、 
「ええ、お粗末様でした。綾瀬さん♪」 
 にっこりとエリが笑い掛けてくれたのだった。 
 
「……なぁ」 
「? どうしたんですか? 綾瀬おにーさん」 
「なぁに〜?」 
 かしまし三人娘からの物量戦から解放されたのも束の間、 
「この状況は、一体何なんだ?」 
「えー? それはー、アレですよー」 
「おに〜さんからのぉ、エスコートだよぉ」 
 今度は右と左から光と美羽に挟まれて、俺はソファーに座らせられている状態になっていた。 
 まぁ、単に隣に座られているくらいならさっきのエリが座っていた様に何ら問題は無いんだが…… 
 それが二人に掴まれた腕がそれぞれの肩を抱いて腰に回されている状況となると、何処からどう見ても俺がお嬢様(×二)を侍らせている様にしか見えないワケで…… 
「男の人って、こうやって女の人のお相手をするんですよねー?」 
「ご指名されて〜、一緒にご飯を食べたり〜、お喋りしたりするの〜。そして〜、お捻りを貰うんだよ〜」 
 選りにも選ってと言わんばかりの箱ならぬ無菌室育ちのお嬢様その認識は、一体何が元になっているんだろうね? 美羽に至っては、まんまホストだしな…… 
「あれ? でもー、あたしはコレはコレで十分に楽しいですよー?」 
「えへへ〜。美羽もだよぉ〜」 
 上機嫌そうに目を細めながら、光と美羽が俺の腕を更に引っ張ってすりすりと摺り寄ってきた。 
 当然、そんな事をすれば密着度は劇的に上がるわけで、しかも二人の肩から腰へと回されているシートベルトならぬソファーベルト(?)状態の腕に、ささやかではあるがふにふにとした柔らかい感触が伝わってくると言うか…… 
 下手に動くと余計にマズイっつーか、かと言って無碍に振り解くわけにもイカンし…… 
「どーしたんですか? 綾瀬おにーさん、何か顔が赤いですよ?」 
「お手手もぉ、ガチガチだよぉ〜?」 
 両脇の二人が俺の顔を覗き込むように、ずいと顔を寄せてきた。その拍子に、二人から起こったそよ風に乗って甘い匂いが俺の周囲を漂ってくる。……いくら何でも、無防備過ぎると思うんだが。 
「! そ、それより、美夏は何処に行ったんだ? さっきから姿が見えないんだが?」 
「あー、美夏ですかー?」 
「それなら〜、あそこにいるよぉ〜?」 
「あそこ?」 
 謎の不整脈気味の心臓を無視しつつ周囲を見渡していると、(相変わらず俺の腕を抱いた儘の)光と美羽が揃って前方を指差した。その時、マイク越しの那波さんの声が会場に響き渡った。 
「それでは〜、本日お集まり頂いた皆様に〜、美夏様から謝意を表しましての御演目がございます〜」 
 目を遣ってみれば、設置されたステージの上に、少し前にドネルケバブを持って来てくれていたちんまいツインテール娘の姿があった。 
 しかし、今壇上にいる美夏の手にあるのは料理を載せた皿なんかではなくて…… 
「ヴァイオリン?」 
「あれ? 綾瀬おにーさんは、美夏のヴァイオリンを聞いた事無いんですか?」 
「すっごく〜、上手なんだよぉ〜」 
 そんな俺を、得意そうに見上げてくる光と美羽。 
 確かに、ヴァイオリンが趣味だとは聞いていたがその腕前を披露された事は無かった気がするな。 
 そんな事を考えている間に、ステージの中央で全員の前で優雅に一礼をする美夏。その動作に、喧騒に包まれていた会場は水を打ったように静まり返っていた。 
 そして、弓をその小さな顎と肩で挟んだヴァイオリンの弦の上にそっと載せると、流れるように弓を引き始めた。 
「……」 
 聞こえてきたのは、音楽に関しては全くの素人の俺でも知っているCMやBGMなんかで良く流されている、馴染みがあり過ぎて普段なら聞き流してしまいそうな曲だった。 
「弦楽五重奏曲ホ長調G275ボッケリーニ作曲の第3楽章、『メヌエット』ですね」 
 ソファーの後ろで控えていたエリが、ぽつりと声を漏らした。 
「王室作曲家でしたボッケリーニの曲の中でも、特に名曲と言われている作品です」 
 耳に馴染みがあるだけで、割と雅な曲であるらしい。それでも、奏でられている旋律の中の何処か親しみを覚えてしまうのは演奏している美夏の腕前なんだろう。 
「何つーか、美夏らしい演奏だな。フレンドリーっつーか、聴いてるこっちまで楽しくなってくるっつーか」 
 今まで何度も耳にしてきた曲の筈なのに、心の底から高揚感が天然温泉のように湧き上がってくる。 
 時間にして三分半ちょいの短い演奏だったが、手を引かれて遊びに誘われている様な、自然と口元が緩んでしまいそうになる美夏のヴァイオリンだった。 
「ご清聴、有難うございました〜」 
 締めに美夏が一礼をした直後、 
「こんなに素晴らしい『メヌエット』は、初めて聴きましたわ!」 
「ブラボー!」 
「こ、これが、あの乃木坂美夏の実力……(ごくり)」 
 盛大な拍手と賞賛の声が一斉に会場に湧き起こった。 
「すげぇな……」 
 そんな盛り上がった空気の中で、音楽の知識も語彙も無い俺が搾り出せたのは、在り来たりな月並みの言葉だった。それでも、その一言には俺の万感の思いを込めたつもりだった。 
「でも何て言うかー、いつもより良い音が出てた感じでしたよねー? 情熱的って言うかー」 
「うんうん〜。やっぱりぃ、おに〜さんが聴いてるからなのかな〜?」 
「聴いているだけで、何だかドキドキしてしまうような演奏でしたね」 
 隣で、何やらうんうんと頷き合っている光たち。喧騒に紛れて何を言っているのか迄は聞き取れなかったが、三人の納得した表情を見れば内容を気にするまでもないだろう。 
「やっほ〜☆ おに〜さん、わたしの演奏どうだった〜?」 
「お?」 
 元気な声に振り返って見てみれば、そこには会場を沸かせたツインテールのお嬢様がアジリティー(ハードル、トンネル、シーソー等をクリアしていく犬の障害物競走)を遣り遂げたウェルシュ・コーギーのような期待に満ちた目で俺を見ていた。 
 脳裏に蘇ってくるのは、一月の旅館での温泉卓球で美夏(と澤村さん)が勝利した時の状況。 
 後ろ手にしてやや前傾姿勢を取っているのは、罷り間違っても俺に頭突きを喰らわせる為ではないだろう。 
 美夏は褒められると伸びるタイプだと言う那波さんの言葉を思い出し、俺はトレードマークであるツインテールの頭をゆっくりと撫でた。 
「あぁ、巧かったぞ。正直、びっくりしちまったくらいだ」 
「え、えへへ〜……♪」 
 嬉しそうに目を細める美夏に、俺の口の端も釣られて綻んだ。 
 甘えん坊で寂しがりやの癖にそれを認めたがらない美夏は、こうやって褒められる事とかを理由にしないと色々と素直になれんのかも知れん。 
「おー、『月下の苺姫』が真っ赤に熟れてますなー」 
「ですな〜。でもぉ、美羽も撫でて欲しいかも〜」 
「そうですね。ちょっと、羨ましいです」 
 光と美羽はニヤニヤと、エリは微妙に顔を赤らめながらそんな事を呟いていた。 
 そして、更にその周囲では、 
「おい、何だあの男は? それに、美夏様があんなに気を許した態度を取られているなんて」 
「美夏お嬢様の頭を、気安く触るだと……?」 
「いやそれよりも、あの男と一緒に居るのは確か――初瀬家と藤ノ宮家、それに塔ヶ崎家の御令嬢じゃないかっ!?」 
「……(脳内検索中)……。あぁ、思い出したぞ! 確か、春香様のお誕生日会で玄冬氏や秋穂氏に挨拶していた男だ!」 
「そう言われれば、あのメガネは見覚えがあるぞ!」 
「俺も、あのメガネだけは思い出した! まさか乃木坂家だけでなく、塔ヶ崎家ともパイプを持っているのかっ!?」 
「恐るべし、メガネっ……!(ゴクリ)」 
 などと、(主に御曹司を中心に)どよめきと憶測が広がっていた。 
つーか、どうやら俺の印象はメガネしか残っていなかったんだな…… 
 そんな周囲からの俺への認識を切ない気分で確認させられていると、会場に一人の声が響いた。 
「HEY. 皆、騙されちゃいけないよ!」 
声のした方に目を向けて見てみれば、俺たちを眺めていた人込みの中から取り巻きを引き連れたセンスの悪いスーツを着た金髪男が俺たちの前に現れ、 
「こいつはどこぞの御曹司でもなければ一国の王子様ってワケじゃない。正真正銘、只の貧乏人なんだからさ!」 
 俺を指差しながら、そのパツキンが何かイキナリそんな事を言い放ちやがった。 
「RESTROOMに涌いてくるカマドウマみたいにボクたちのパーティーに潜り込んでくるなんて。全く、油断も隙もあったモンじゃないよ。HAN」 
「GET OUT!」 
「SON OF A BITCH!」 
「GOD DAMN!」 
 仰々しい身振り手振りをしながらパツキンが気障ったらしく台詞をベラベラと垂れると、続いてその取り巻きからも野次が沸き起こった。 
「あのクソ忌々しい執事の真似事から抜け出して今日のパーティーに来てみれば、まさかお前がこんな所にいるなんてな。パパへ手土産を持参してボクの正しさを証明するついでに、どうやらボクの雪辱も果たせるってワケだ。HAHA」 
 ツカツカとシークレットシューズ(特注二十五センチ)の踵を鳴らしながらパツキンが俺に近寄ってきたが、生憎と此処に居る知り合いと言えば双葉のお嬢様たちくらいしかいないワケで…… 
「え〜っと、この人っておに〜さんのお知り合い?」 
「いや、全く以って記憶に無いと思う」 
 ダイビング中にテヅルモヅル(クモヒトデの一種で、やたらモジャモジャしている生物)を見付けた様な表情で美夏が小声で訊いてきたが、俺よりもこのパーティーに縁のある美夏ですら知らないとなれば、今日が初参加である俺の知り合いである筈が無いのは明らかだろう。 
「あー、すみませんが人違いとかじゃないですか?」 
 俺としては妥当な対応だったと思ったんだが、その対応にパツキンの眉間にビキィ! と深い皺が寄りまくった。 
「ひ、人違いだって!? そ、そんなワケがあるもんか! たかが下流の階級の下衆の分際で、に、二度もボクに恥を掻かせやがったお前の事を、間違える筈が無いだろう! 春香様の誕生日の件と言い使用人たちの集まりの件の事と言い、忘れたとは言わせないぞ!!」 
「あ〜……」 
 その言葉で、俺の頭の中のそろそろ抹消されそうになっていた記憶が浮かび上がってきた。 
 そう言えば、何かと粘着質なちょっかいを出してくる度に張り倒されたりぶっ飛ばされたりしていたパツキンがいた気がするような…… 
 まぁ、その後に色々と嬉し恥ずかしなイベントが起こったりして記憶から上書きされてしまっていたりするんだが、別に上書きされんでもコイツに関する記憶は優先的に削除フォルダ入りである事は間違い無いだろう。 
「くっ……。ど、どうしてもボクを虚仮にしたいらしいな、貧乏人……。お前が、お前如きがボクに関わってこなければ、こんなに面倒な事にはならなかった筈なのに……」 
 (不本意ながら)思い出した俺を見て、ふるふると身を震わせたサザーランドの眉間に更に日本海溝の様な深い皺が立った。 
 と言われてもコイツの場合、面倒な事は身から出た緑青(有毒)であるし、俺から関わった覚えも一切無いんだが。 
「ふ、ふん。そうやってボクを挑発して罠に嵌めようったってそうはいかないからな」 
 サザーランドは大きく深呼吸をすると、爪先で床を鳴らしながら前髪を掻き揚げて不敵に口の端を吊り上げた。 
「卑しい貧民は、高貴で誇り高いボクには考え付かないような姑息な手段で貶めようとしてくるからね。だけど、もうボクには同じ手は通用しないぜ?」 
 「何故なら――っ!」と、サザーランドは両手を大きく広げてぐるりと回転し、 
「ボクは気付いたんだ! 人の上に立つ選ばれた人間にとって、何が一番大事かって事をね!」 
 正面に戻ってきて、ビシッ! っと俺を指差した。 
「その人にとって、何が一番幸せかが判るって事さ!」 
 言い放たれた言葉は、以前のコイツからしてみれば、他人の事を考えられるようになっただけでも十分なくらいマトモな言葉だった。何だ? 一応、執事の修行とかで少しはマシになったのか? 
 そう思い掛けた時、 
「だからお前みたいな使用人は使用人同士、そしてボクたち金持ちは金持ち同士で釣り合っているのが正しいのさ。それが互いの為なんだよ。前回は悪かったな、貧乏人。あんな使用人でも、お前にとっちゃ大事な使用人だったんだろ?」 
「…………」 
 続いたのは、前言どころか、一瞬でも見直そうとした自分自身すらも撤回したくなるような言葉だった。 
「と言うわけで――」 
 呆れて物も言えない俺に、サザーランドがツカツカとシークレットシューズ(特注二十五センチメートル)の踵を鳴らして近付いて来て、 
「解ったら、その薄汚い手を美香お嬢様の頭から離せよ。この貧乏神の疫病神」 
 美夏の頭から、俺の手を叩き落としたのだった。 
「――痛っぅ!?」 
「わわっ!?」 
 いきなりのサザーランドの行為に、美夏が思わず驚いた声を上げた。 
「美夏っ! 大丈夫か!?」 
 咄嗟に美夏に手を伸ばそうとしたが、その腕をぐいと横から伸びてきた手に掴まれた。 
「ANN? ボクの言った事が理解出来てないのか? 身の程を弁えろって言ったんだよ。コレだから教養の無い下民風情は」 
 俺の腕を掴んだシュートが、自分のこめかみをトントンと叩く仕草をして片目で俺を覗き込んだ。 
「おい、みんな。この勘違いした貧乏人をちょっと捕まえておいてくれよ」 
「OK.任せとけ、シュート」 
「OH! STINK! HAHAHA!」 
「WELCOME! FUCK'ING JAP!」 
「くっ!?」 
 取り巻きに押さえ付けられ、側線を押さえられた魚みたいに身動きが封じられてしまった。 
「お、おに〜さんっ!」 
「おっと、あんな男に近づいちゃいけないよ。美夏お嬢様」 
 心配した美夏が俺に駆け寄ろうとしたが、その進路をサザーランドが遮った。 
「奴は正真正銘の貧乏人なんだぜ? どうせ美夏お嬢様に取り入って、良からぬ事をしようと企んでいる下衆な野郎に決まってるのさ」 
「お、おに〜さんはそんな人じゃないもん!」 
「OH! 可哀想に、美夏お嬢様! ホラ、みんな見たかい、聞いたかい!? その男は純真な美夏お嬢様を誑かして弄んでる最低最悪の貧乏人なんだぜ!?」 
「OH REALY!? そいつは、酷いね!」 
「SCUM!」 
「GO TO HELL!」 
 サザーランドの言葉に美夏が抗議したが、その言葉を待っていたとばかりにサザーランドが俺を扱き下ろし、取り巻きたちからもそれに呼応する様に合いの手が出された。 
「ちょ、ちょっと。いきなり何なんですかー!?」 
「おに〜さんはぁ〜、とぉってもぉ、優しい人だよぉ〜!」 
「何を根拠にそんな事を言うんですか!」 
 見兼ねた光、美羽、エリたちが抗議の声を上げるが、その言葉にサザーランドは「HAN」と鼻で笑って俺を指差した。 
「根拠? そんなもの、その男が貧乏人だからで十分じゃないか」 
「はいー?」 
「えぇ〜っ?」 
「――っ?」 
 返ってきたサザーランドの予想外の言い分に、面を喰らった三人が唖然として目を丸くした。 
 返す言葉も無い三人の様を見て論破したとでも思ったのか、サザーランドが得意そうにそのパツキンの前髪を掻き揚げた。 
「オイオイ。ボクは親切で教えてやっているんだぜ? それに、その男はこの会場にやって来てからやった事と言えば、満足に動けなくなるまで馬鹿みたいに料理を食べまくっただけじゃないか。HAN! 流石は貧乏人。さもしいったらないね」 
 コイツ、そんな時からわざわざ俺たちの事を見ていやがったのか? 
 どうせならその儘見るだけで終って欲しかったんだが、この手の連中に限ってはそうは問屋が販売拒否と言うか、何でこうも俺に関わってこようとするんだろうか? 
「NN〜? 目の前で不愉快極まりない下衆な人間がいつまでも野放しにされていたら、それを正すのは当然の事だろ? ボクはみんなの為を思って率先してやってあげてるのさ」 
 自慢げに、サザーランドが両腕を広げて会場の全員に言い放った。 
「残念だったな、貧乏人。お前の考えなんて、このボクには全てお見通しなんだよ」 
 俺の何を見通したのか判らんが、サザーランドは俺を一瞥した後、隣にいた美夏を見下ろして口の端を吊り上げた。 
 「に、にゃ〜っ……!」と、威嚇する様な声を上げて一歩後退った美夏に、サザーランドが俺を顎でしゃくる。 
「良いかい、美夏お嬢様? そいつは美夏お嬢様を利用しようとしてるんだぜ?」 
「にゃ……?」 
 ……何を言っているんだ、コイツ? 
「知らばっくれるなよ? じゃなけりゃあ、何でお前は美夏お嬢様に気に入られているのさ? HAN! どうせ、春香様を狙っているんだろう? それ以外に考えられないね!」 
「――っ」 
 サザーランドの言葉に、美夏の小さな肩が僅かに震える。その様子を見たサザーランドが、肩を竦めて溜息を吐いた。 
「ショックだったかい? 美夏お嬢様。でも、それが現実なのさ。この男は、目的の為なら人の心も平気で踏み躙る最低最悪の人間なんだからさ」 
 そして、サザーランドがしゃがんで美夏の小さな肩に手を伸ばそうとした瞬間、 
「……美夏、スマンな」 
「え? お、おに〜さん?」 
 俺は美夏に謝罪の言葉を口にしていた。 
「HA! とうとう自分の非を認めたようだね? 良いぜ。おい、その貧乏人を放してやれ」 
 俺の言葉を聞いて満足したのか、サザーランドが俺を取り押さえていた取り巻きたちに指示を出した。 
「非を認めたんなら、次は何をするか解っているよな? 貧乏人?」 
 ニヤリと酷薄に笑うと、サザーランドは自分と美夏の前の床を指差した。 
「どうせ心から反省してるなんて思わないけど、形だけでも詫びを入れさせてやるよ。這い蹲って土下座しな、貧乏人」 
「お、おに〜さん……?」 
 俺の謝罪の言葉に動揺したのか、美夏が不安そうな表情で俺を見ていた。 
「美夏……」 
 そんな美夏の前で俺は膝を着き、 
「エスコートを任されたってのに、こんな思いをさせちまって悪かったな」 
「――っ!? お、おおおおお、おに〜さんっ!?」 
 目の前の小さな体を、そっと抱き締めた。 
「ちゃんと守ってやるからな。もう大丈夫だ、美夏」 
「あ……」 
 声が震えたかと思うと、美夏はその儘俺の肩に目頭を押さえ付けてきた。 
 俺の服を掴む手の強さや腕の中から伝わってくる震えに、もっと早くこうしてやれば良かったと思い知らされる。 
「HAAN!? おい、美夏お嬢様に何をやっているんだよ!? この変質者がっ! これ以上、美夏お嬢様を辱めようって言うのか!?」 
 激昂したサザーランドが罵声を浴びせてきたが、その言葉に 
「侮辱してるのは、あんたの方だろう……!」 
「――なん、だって……!?」 
 俺は真正面から迎え討っていた。 
 俺なんかがいくら中傷されて笑われようとも、そこは流す事が出来た。 
 だけど、美夏に優しくする理由を春香に近付く為だと言ったコイツの言葉はどうしても流す事は出来なかった。 
「確かに美夏はお嬢様で色々と複雑なのかも知れんが、俺にとってはそれでも普通の女の子と変わらない存在なんだよ! 家柄だとか春香に近付く為だとか、そんな理由で優しくしてるんじゃない! みんな美夏の事が大好きで、大切にしたいからそうしてるんだ!」 
 それは美夏がみんなを喜ばせる為に周囲に配ってきた優しさと幸せに対するみんなからの気持ちで、だからこそ美夏が何処の誰であっても決して揺るがない愛されるべき美夏の本質だ。 
 それを利用価値があるだとか、そんな下らない理由で優しく接する方が美夏の事を想っていないって事だろう。 
「き、奇麗事ばかり言い並べやがって! そんな事は誰だって出来るんだよ!」 
 一気に吐き出した俺の腹の底からの言葉にサザーランドが表情を引き攣らせたが、横薙ぎに腕を払う仕草をすると周囲の人だかりに向かって大きく両腕を開いた。 
「HAN! 貧乏人には精々それくらいが関の山だろうけど、金持ちのボクなら現実的な幸せも保証出来るんだぜ? そんな貧乏人と一緒になるのと、このボクと一緒になったのとどっちが幸せかなんて判りきってるだろう?」 
 そう訴えるサザーランドに、 
「……もん」 
「ANN? どうしたんだい? 美夏お嬢様? 良く聞き取れなかったんだけど?」 
「そんなことないもん! わたしは、おに〜さんと一緒になった方が幸せだもんっ! にゃ〜っ!!」 
 俺の肩から顔を上げた美夏が、会場に響き渡る声でそう言い放った。 
「確かにおに〜さんは甲斐性無しかも知れないけど、そんなのはどうだって良いんだもん! いつも優しくて一生懸命で、偶にすっごく格好良いおに〜さんが好きなんだもん!」 
「――なっ!?」 
 とことん自分に対する反論を想定していなかったのか、サザーランドの顔色が一気に変わった。 
「WHY!? そんな貧乏人と一緒になって何のメリットがあるのさ!? どう考えたって、ボクと一緒になった方が賢明ってモンだろ!? 此処に来てる他の奴等だって、自分と釣り合う相手を探しに来てるじゃないかっ!?」 
 サザーランドが周囲に賛同を求めてみても、他の御曹司とご令嬢たちは気拙そうに目を逸らし、そればかりか、サザーランドのあんまりな言葉に嫌悪感を抱いた人たちからぽつぽつと非難の声が囁かれ始めた。 
「シュ、シュート。そんなに露骨に言わない方が良いんじゃないか?」 
「び、BE COOL.だぜ?」 
「ほ、ほら。俺たち、紳士だしな?」 
 怒り狂ったサザーランドを取り巻きたちが宥めようとしたが、それは高性能爆薬の信管のスイッチを入れる行為になっただけだった。 
「う、煩いっ! このパーティーでパパに手土産を持参しないと、抜け出して来たボクの立場が無いんだよ!」 
 と、そこでサザーランドの血走った目と俺の目が合った。 
「そうだよ。そこの貧乏人が全部悪いんだ……。春香様の誕生日会といい、使用人たちの集まりといい……。お前さえいなければ、ボクがこんな目に遭わずに済んだんだよっ……!」 
「ぐっ!?」 
「おに〜さんっ!」 
 俺の胸倉を掴むと、もう片方の腕を振り上げたサザーランドがそのまま俺を立ち上がらせた。 
「この、貧乏人風情がっ!」 
 振り上げたサザーランドの拳が、俺のメガネに迫った。瞬間、 
「んにゃ〜っ!」 
「A.AUOOOOOO!?」 
 それまで掴まれていた胸倉の感触が無くなり、ほぼ同時にサザーランドの姿が俺の視界から消えていた。 
「?」 
 周囲を見てみると、何故か天井を見上げているギャラリーたちの顔。 
 それに倣って視線を向けてみると、 
 休日の河川敷で打ち上げられたペットボトルロケットの如く、ぐんぐんと上昇したサザーランドが錐揉み状態で自由落下している姿が見えた。 
「――ぶべっ!?」 
 そして料理の載ったテーブルに墜落し、サザーランドの短い空の旅は周囲に料理をブチ撒けて終了となった。 
 以前に何処かで見た事がある光景だと思っていると、隣にはサザーランドを投げ飛ばしたと思われる技の型を取っていた美夏の姿があった。 
「わ、わたしのおに〜さんに手を出したら承知しないんだから! にゃ〜っ!」 
 ツインテールを振り回し、両手を振り上げた美夏がそう宣言した。 
「くっ……。い、いくら春香様の妹でも、こ、このボクにこんな事をしてタダで済むと思っているのかい……?」 
 倒れたテーブルの縁に手を掛けて、料理塗れになったサザーランドがゾンビの如く立ち上がってきたが、 
「そっちが先におに〜さんに乱暴しようとしたんでしょ〜が。せ〜と〜ぼ〜え〜だよ、せ〜と〜ぼ〜え〜」 
 そんな呪詛のようなサザーランドの言葉に、腰に手を当てた美夏が頬を膨らませて反論した。 
「そうですよー、こっちから手は出してませんよー」 
「言い掛かりはそっちなのぉ〜」 
「綾瀬さんは、ちっとも悪くありません」 
 続く光たちの援護射撃に、サザーランドの顔が更に怒りに染まる。 
「た、たかが貧乏人の為にサザーランドグループの後継者であるこのボクが蔑ろにされるなんておかしいだろ!? 覚えておけよ、貧乏人! サザーランドグループの力の前じゃ、お前なんか駆除される害虫なんだからな!」 
 と、そこでサザーランドはポケットから携帯電話を取り出すと、早速何処かに電話を掛け始めた。 
「HELLO.ボクだよ。何? 今ボクが何処にいるのかだって? そんなのボクの勝手だろ? それより、訴訟担当部署に繋げよ。目障りなゴミをちょっと処理したいんだ」 
 聞こえてくる言葉からして、どうやらサザーランドは会社の権力を行使して俺を潰しに掛かるつもりらしい。 
 俺としては間違った事はしていないつもりだが、それはきっとサザーランドの方も同じなんだろう。仕方が無いが、ここは腹を括って構えるしかないかも知れん。 
 そんな事を考えていた時、 
『……このッ、大うつけがッ!』 
「え、パ、パパ!?」 
 会場を震わせるような怒声が、サザーランドの携帯電話から轟いた。 
『執事の仕事を抜け出して何をしているかと思えば、そんな所にいたのか。聞いたぞ、口止めをせんとクビにすると他の者を脅したとは。このバカ者が』 
「だ、だって執事なんてつまらない下々の仕事より、他のお嬢様を口説いた方が有意義に決まっているじゃないか。ボクはサザーランドグループの為を思って――」 
『その考えを改めろと言っておるのが、まだ解らんのか。そもそも、今日お前が抜け出した執事の仕事は、誰のお相手をする筈だったのか分かっておるのか』 
「で、でもそんなのはウチの使用人たちにでもやらせておけば良いじゃないか? 所詮は接待なんだし」 
『……シュート。知らんのなら教えてやろう。今日、お前が会う筈だった相手は乃木坂グループの会長の玄冬氏と春香お嬢様だ』 
「そ、そんな……」 
 蒼白になったサザーランドの手から、携帯電話がぽとりと床に落ちた。 
『乃木坂家のパーティーに参加された方々、度々ウチのバカが迷惑を掛けた。電話越しではあるが、謝罪の言葉を述べる事を許して戴きたい。恥ずかしい限りだが、全ては育て方を間違えた私の責任だ。シュートの処遇は、そちらの裁量で決めて構わん』 
 その言葉を最後に、携帯からは規則正しい通話音が鳴り響いていた。 
 
「あらあら〜? どうやら私たちの出番はもう無いみたいですね〜」 
「うぉっ!?」 
 サザーランドが取り巻きたちに連れられ、一応は事の収拾が着いたと気が緩んでいた瞬間、いきなり頭上からにっこりメイドさんの声が聞こえてきた。 
「な、那波さん!?」 
「あらあら、裕人様〜。そんなに驚かれますと〜、那波さんはちょっぴり傷付いてしまいますよ〜?」 
 振り返って見てみると、そこにはにこにこと悲しそうな表情(?)の那波さんの姿があった。 
 いや、気配も無しにいきなり間近で声を掛けられると、肝が瞬間凍結させられるんですが? 
「隠密行動も、メイドには必須スキルなのです〜」 
「――(こくこく)」 
 と、更に那波さんの影から現れて頷くちびっこメイド。 
「すみません〜、美夏様、裕人様〜。実は、先程は丁度サザーランド様からのご連絡がございまして〜。何でも今日の玄冬様と春香様とのご挨拶をすっぽかされた御子息がこちらに来ていらっしゃらないかどうか、確認をさせて戴いていたんですよ〜」 
「――(ちょいちょい)」 
「ん? どうしたんだ? アリス」 
 俺の裾を引っ張りながら、アリスが自分を指差した。その隣で、珍しく複雑そうな表情を浮かべている那波さん。 
「え〜っと、実はアリスちゃんは既に美夏様たちを助けに行こうとしていたんですね〜。ですが、ちょっと気合を入れ過ぎたと言いますか〜。『バルムンク』を持ち出そうとしていまして〜、それで他の皆さんに何とか止めて戴いていたのですよ〜」 
「――(しゅん)」 
 何やらしょんぼりとしているアリスの手に持っている、柄に青い宝石が埋め込まれた金ピカのデカい剣。 
 最近はやたらとチェーンソーやハンマーを見てきた所為でこの手のものに接してもあまり驚きはしないが、それでもみんなが止めるような武器を使ってでもアリスが俺たちの事を助けようとしてくれていたと言う事は判った。 
「ありがとな、アリス……」 
 受け取った気持ちのお返しにアリスの頭を撫で撫ですると、 
「――(ぽっ)」 
 少しだけ頬を赤らめたアリスが、目を細めて俺を見た。まぁ、素手であの玄冬さんを昏倒させる事が出来るアリスが本気を出したら洒落にならん気がするし、そのやたらと大層な名前の剣は抜かれない方が良かったんだろう。 
 そんな事を考えながらアリスの頭を撫でていると、 
 きゅっ…… 
「ん?」 
 今度は腰の辺りを引っ張られた。 
 振り返って見てみると、 
「じ、じ〜……」 
 何か言いたそうな表情のツインテール娘が、俺のスーツの端を掴んで見上げていた。 
 むぅ…… 
普段なら思った事を徹甲弾の様な言葉で忌憚無く言ってくれる美夏なだけに、今みたいな仕草だけのアピールをされてもブラキオサウルス並に鈍い俺にはイマイチその意図が汲み取れんっつーか…… 
「あらあら〜?」 
 そんな美夏の様子に、にっこりメイドさんのサングラスがキラリと輝いた(ように見えた)。 
「それでは〜、私たちはそろそろ裏方に戻らせて貰いますね〜。アリスちゃんも〜、裕人様と離れるのは名残惜しいかもしれませんけど〜、あまりお邪魔をしちゃいますと〜、ポニーに蹴られて臨死体験ですからね〜」 
「――(こく?)」 
「ち、ちょっと、那波さんっ!? そ、それって、ど〜ゆ〜意味なのっ!?」 
「裕人様〜。美夏様たちのエスコートはお任せ致しますね〜♪」 
「――(こくり)」 
 顔を真っ赤にした美夏の質問を躱しつつ、雲隠れした様に那波さんはアリスを連れて会場の中に消えていった。 
「む、む〜。な、那波さんてばすぐにわたしの事をからかうんだから〜。そ、それは確かにわたしより年上でけ、経験だって色々と豊富なのかもしれないけど、わたしだってそろそろれでぃ〜として扱われるべきってゆうか……。ぶつぶつ……」 
 恐らくはポニーの辺りに反応したちんまいツインテールお嬢様(身長一四七センチ)が渋い表情で何やらボヤき始めた。 
 全く、那波さんも付き合いが長いんならわざわざ美夏の逆鱗を紙ヤスリで削らんでも良いと思うんだが、多分、拗ねた美夏の機嫌を直すのもエスコートを任された俺の役目と言う事だろう。 
 それに、結局さっきのイザコザは美夏に助けられたと言っても過言ではないし、良い加減この辺で何か応えてみせんと美夏の言う「もう一歩」を進む事は出来んと思う。 
「あ、あー……。美夏」 
「――っ!? な、何かな? おに〜さん」 
「その、あんな騒ぎになってこんな事を言うのも今更かも知れんが……。出来れば今日のエスコートを続けさせて欲しいんだが、ダメか?」 
「にゃ……?」 
 じっと美夏が真っ直ぐに俺の目を覗き込んだ後、美夏の顔が伏せられ、表情が見えなくなった。 
 その直ぐ後に美夏の両手がぎゅっ! と握り拳を作るのが見えた瞬間、 
「も、勿論だよ! 今日はおに〜さんに、ばっちりエスコートして貰うつもりだったし、わ、我が儘だってい〜っぱい聞いて貰うんだからね!?」 
「あぁ、そうだな」 
 後半は聞いてなかったが、そこは美夏へのささやかな恩返しの機会を与えられたと考えるべきなんだろう。 
 多少の無茶は覚悟して、俺は苦笑交じりに美夏に大きく頷いて応えた。 
 俺の首肯を確認した美夏が、「……ん、んんっ!」と咳払いをして、 
「そ、それじゃあ、おに〜さん。ま、先ずはわたしを両手で抱き締め――」 
「おーっと、綾瀬おにーさん。それは良い事を聞きましたねー☆」 
「それなら〜、美羽たちもおに〜さんにエスコートして貰うのぉ〜」 
「お?」 
 光と美羽が俺の腕の右と左とにしがみ付いてきた。 
「いやー、みんなの前で啖呵を切った綾瀬おにーさんは中々に高ポイントでしたよー」 
「うんうん〜。すごく格好良かったよぉ〜」 
 腕の内側に身を滑り込ませると、匂い付けをする猫みたいにすりすりとその特上の薄皮饅頭みたいに柔らかくて張りのある頬を俺の脇腹あたりに擦り付けてくる光と美羽。 
「お、おい?」 
「ひ、光っ、美羽っち〜!?」 
前傾姿勢を取っていた美夏が思わず踏鞴を踏んで声を上げていると、ぽふんと、背中に羽が降りた様な柔らかい重さが加わり、仄かに甘いフローラルな匂いが鼻先を擽った。 
「え、えっと……。あ、あの、で、出来れば私もよろしくお願いします……」 
「エ、エリ? あ、あー。別に構わんが……」 
俺の返事に、俺の背中に凭れながら額を軽く押し付けてくるエリ。 
ゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴ……!! 
「――はっ!?」 
 背筋に走る液体ヘリウムの様な汗と殺気に、正面に目を向けた瞬間。 
「エ、エリちゃんまで……!? む、む〜っ! お、お、おに〜さんのスケコマシ〜! ほ、ほんとに油断ならないんだから〜っ!」 
 何故かそこには、背景に荒らぶる猛虎のオーラを背負った美夏が全身を戦慄かせて俺を凝視していた。 
……いや、確かこの三人もエスコート対象だったんだよな? 
そんな疑問が俺の脳裏に浮かんでいる間に、何やら美夏がさっきよりもやけに角度の付いた前傾姿勢を取り始めた。不意に蘇る、二人で部室に閉じ込められた時の不意打ち特攻。 
「は!? ま、待ってくれ! これは一応、美夏が頼んでおいたエスコートでも――ぬおぅっ!?」 
 弁解が述べられる暇も無い儘、両腕を光と美羽に抱き付かれてノーガードとなっていた俺の腹にぐりぐりと押し付けられるツインテール娘のコルクスクリューブローな頭突き(いや、限界まで詰め込まれている腹にはかなりキツいんだが……)。 
「む? あたしたちだって負けてられないよー。美羽、エリちゃん」 
「うん〜、それそれぇ〜♪」 
「あ、え、えっと……。そ、それでは私も……」 
 美夏に呼応する様に便乗してくる光と美羽とエリ。 
「に、にゃ〜♪」 
「あははー☆」 
「えへへ〜♡」 
「……(すりすり)」 
 四面楚歌ならぬ四面お嬢様の、やたらと柔らかくて甘い香りのする押し競饅頭状態(一平方キロメートルに換算して、五百万人)を味わいながら、 
 俺は喉元に迫上がりかけてくるマーライオン変身セットの素を必死に堪えて立ち尽くしていたのだった。 
 
「それじゃー、美夏も綾瀬おにーさんも、今日はお疲れ様でしたー。いやー、でも本当に楽しかったよねー」 
「うんうん〜、す〜っごく面白かったよぉ」 
「はい、とても素敵なパーティーでした」 
 今日のパーティーの結果がこの笑顔なんだとしたら、それは大成功だったんだと受け取っても良いんじゃないかと思う。 
 そんな達成感を覚えながら、俺は美夏と一緒に玄関で帰りの支度を終えた光、美羽、エリたちの見送りに立ち会っていた。 
 そして、エンターテイナー気質の美夏なら俺なんかよりもずっと嬉しく感じているのかも知れん。 
 そう思って、隣に視線を落としてみると、 
「う、う〜……。ほ、ほんとにみんなウチに泊っていかないの? そ、それは確かにお姉ちゃんは居ないし、お母さんも料理学校のお仕事で居ないけど、折角こうやって集まったんだし……」 
 名残惜しそうに、全力で三人を引き留めようとする美夏の姿があった。心無しか、いつもは元気に跳ねているツインテールもしょんぼりと力無く垂れ下がっている様に見える。 
 そんな美夏に、光と美羽が残念そうな表情を浮かべながら、 
「あたしたちも泊りたいのはやまやまなんだけどねー。イイ女は空気が読めると言いますかー」 
「敢えて泊らないのも、女の友情ですな〜」 
 思いっきり明るい調子で、ワケの解らん事を言っていた。 
「! ま、まさか二人とも、また余計な気を遣って――」 
「えー? そんな事無いってばー☆」 
「そうだよぉ♪」 
「そーそー。でも、今度の時は絶対お泊りするから覚悟しておいてねー」 
「楽しみだよねぇ。ねぇ〜? エリちゃん」 
「? あ、はい。ええっと、今日は泊らない方が良いんですよね?」 
 何が良いのか俺には分からんが、エリが目を瞬かせながら確認する様に二人に答えた。 
「エ、エリちゃんまで……。――って、いつもは最後まで片付けをしてるエリちゃんがあの時先に帰ってたのも、やっぱり光と美羽っちの入れ知恵だったって事〜っ!?」 
 俄に美夏が騒ぎ出した時、丁度到着した迎えの車に光と美羽が異様に逃げまくる道端の猫みたいな素早い動きで乗り込んだ。 
「おーっと、それではあたしたちはここでさよならするねー☆」 
「ばいばいなのぉ♪」 
「あ、ちょ、ちょっと光、美羽っち〜っ! に、にゃ〜っ!!」 
 走り去って行く二台の車に向かって美夏が声を上げて文句らしきものを叫んでいたが、それぞれの車の窓から手を振っている二人の姿が見えなくなる頃にはやけに疲れた様子でガックリと肩を落としていた。 
「……? ええと、それでは私も迎えが来たみたいですから、さようならです」 
「あぁ、またな」 
 暫く首を傾げていたエリだったが(いや、俺もだが)、迎えの車がやってくると丁寧な挨拶をして車に乗り込んだ。そして、車が出ようとした直前、 
「あ、ちょっと良いですか? 綾瀬さん」 
「ん? どうかしたのか? エリ」 
 窓から少し身を乗り出してきたエリの声音を抑えた呼び掛けに、思わず聞き取ろうとして顔を近付けた時、 
 ふわり、と。鼻先に甘い香りが流れて来て、 
 ちゅっ。 
 俺の頬に、びっくりするくらい滑らかで柔らかなものがそっと押し当てられた。 
「え、エエエ、エリちゃんっ!?」 
「き、今日のエスコートはどうも有難うございました。み、美夏も、また学校で」 
 真っ赤になったエリの顔が上がってきた窓ガラスで見えなくなると、エリを乗せた車は音も無く静かに走り出し、やがて森の向こうに見えなくなっていった。 
 むう…… 
 大人しそうに見えて、エリも結構大胆と言うか。お陰で心臓が壊れたメトロノームみたいになっていたりするんだが。 
 つーか、最近はこう言う不意打ち気味な女子からの接触が多い気がするな。まぁ、別に男女のアレコレとかじゃなくて、単なるお礼のつもりなんだろうけど。 
 そう思っていると、 
 ンゴゴゴゴゴゴゴゴゴッ……!! 
――ゾクッ!? 
 全身の毛穴から霜柱が噴き出る様な、凍て付きそうな気配が俺の隣から放たれていた。 
「おに〜さん?」 
 朗らかに、そして今までに見た事が無いくらいに眩しい笑みを貼り付かせた美夏が俺をじぃ〜っと見上げていた。 
「今日は、ウチに泊まっていくんだよね?」 
「は?」 
 そんな事を言った覚えは無い筈なんだが? そもそも、泊る準備を一切してきていないし、何より明日のルコたちの朝飯までは流石に用意してないと言うのがかなりの気掛かりだったりするワケで…… 
「だいじょ〜ぶだよ? おに〜さん。お部屋なら元々エリちゃんたちが泊る予定だったのが空いてるし」 
 美夏の奴が何だかエラく強引に泊るのを勧めてくるんだが、これは一体どうした事なんだろうね? 
「いや、そうじゃなくてだな。明日は月曜で学校だろ? つまり、今日泊ったら明日制服やら鞄やらを朝一でウチに取りに戻らんと――」 
「その事でしたら〜、心配ご無用ですよ〜」 
「うぉあっ!?」 
 いきなり真後ろから聞こえてきた間延びしてのんびりとした声に、俺の心臓がフルスロットルで回転数を跳ね上げた。 
「那波さん。いつの間にそこに居たんですか?」 
 振り返って見てみれば、案の定と言うかやはりと言うか。暫く姿を見ていなかったにっこりメイドさんの姿があった。 
「あら〜? 裕人様。いつから居たのかお分かりにならないですか〜? それでしたら、逆にお考え下さい〜。いつでも那波さんはお仕えしていますと〜。そうすれば〜、いつ私が居ても驚かれる事は無いと思いますよ〜?」 
 どちらかと言うと発想の転換よりも、至近距離になる前に足音を立てるなり声を掛けるなりして俺が驚かないで済む接近の方法を採って貰いたいんだが…… 
 と、そこで俺の視線が那波さんの両手に持っている茶色の四角い物体に留まった。 
 別段珍しいと言うワケでも何でもなくて、寧ろ俺にとってはほぼ毎日持ち運びに使っている日用品。 
 有り体に言えば、白城高校指定の学生鞄だった。 
 ……まさかとは思うが、 
「裕人様のお鞄をお持ち致しました〜。因みに〜、お着替えと制服でしたら〜、既に乃木坂家の方で準備してありますよ〜」 
「……」 
 色々と突っ込み所が目白押しなんだが、それらを一々気にしていたらキリが無いと言うのは最早俺の中で確立されつつある認識なので、あまり深く考えないで良い事にしておいた。 
 そう言うワケで、 
「それじゃ〜、おに〜さんのお泊りはけって〜だね♪ 今夜はおに〜さんを、この美夏ちゃんの魅力でみっかみかにしてあげるんだからね☆」 
 急遽、俺の乃木坂家初宿泊(一泊半日?)が決まったのだった。 
 
「ふぅ……」 
 湯船の縁に両腕を乗せて、俺は海中に漂うホンダワラ(流れ藻の一種)の様に全身を伸ばしながら、立ち昇る湯気に曇る乃木坂家の浴室の天井を見上げていた。 
 最初は広いやらデカいやらで落ち着かなかったが、お湯に浸かって暫くしていると借りてきた猫がゴロ寝するくらいリラックスし始めていた。 
 まぁ、今日は色んな事があったから自分でも思っている以上に疲れていたのかも知れん。 
 そんな風に、今日の一日を振り返ろうとして、 
「あれは一体、何だったんだ?」 
 以前に見た玄冬さんを威圧する秋穂さんに似た、一切合切の有無を言わせない美夏が醸し出していた妙な雰囲気が脳裏を過った。 
 傍から見ていただけでもかなり強烈な迫力を感じていたんだが、実際にぶつけられてみると心臓が捩じり絞られると言うか、確かにアレなら玄冬さんも太刀打ちは出来んと言うのも解る気がする。 
……何で俺は美夏からそんな圧力を食らわにゃならんかったんだろうね? 
 思い当たる節は無いものかと記憶を反芻してみたが、 
「……いや、さっぱり分からん」 
 美夏に対して思う処を勘付かれたんならまだ分かるんだが、寧ろ今回は美夏に当てられる迄気付かなかったと思うだけに何が美夏の逆鱗と接触事故を起こしたのか見当も付かなかった。 
 いや、鈍い俺が気付かないだけで実は何かやらかしていたと言うのも十分考えられる事であるだけに、思い付かないと言うだけでこの件を安易に流すべきじゃないと思うんだが―― 
「おに〜さん。さっきからうーうー唸ってるけど、だいじょ〜ぶ? 雪野原さん呼ぼうか?」 
「いや、別に何処が痛いとかそんなんじゃなくてだな。少し考え事をしていただけで」 
「考え事?」 
「あぁ。でも結局、何だったのかは分からん儘なんだか……」 
 ――って!! 
「ちょっと、待ってくれ! 何で美夏が入ってきてるんだ!?」 
 広げていた両腕を急速潜水させて股間を隠し、更に膝を曲げて朝とは比較にならん驚きで俺は美夏に突っ込んだ。 
 確か、俺の着ていたスーツが汚れていたとかで(サザーランドがテーブルをひっくり返した時に飛び散った料理の一部が付着していたらしい)、着替えついでに美夏や那波さんから風呂に勧められたと言う状況だった筈である。 
 つまりは、俺が風呂に入っている事は美夏も知っていると言う事になるワケで。 
「え〜? だってみんなでウチにお泊りする時は、一緒にお風呂に入ったりしてるよ?」 
 ツインテールだった長くて緩いウェーブの掛かった髪を揺らしながら、首を傾げて美夏が俺を見た。 
 そりゃあ、女の子同士でなら一緒に入っても問題は無いのかも知れんが、残念ながら(別に、深い意味は無くてだな……)俺の性別が男である以上、そんな事は倫理的にも条例的にも罷り通らんだろう。 
「だいじょ〜ぶだってば、おに〜さん。そうゆ〜のって、確か届け出ないと訴えられないんだよ?(注:本当です)」 
 それは逆に考えれば、親告さえされてしまえば即俺の手が後ろに回りかねんと言う、かなり危険な状態になる気がするんだが……? 
 そんな事よりも(いや、十分重大な事なんだが)、俺に性犯罪者の烙印を押したいワケでも無いだろうに(……だよな?)、一体何をしに風呂場に乱入してきたのかについて良い加減答えて欲しいんだが。 
「ん〜? 今日はおに〜さんに色々として貰ったから、お礼におに〜さんの背中を流してあげようかな〜、って思って」 
「いや、流すとか言われてもだな……」 
 感謝の気持ちを向けられて悪い気はせんが、いくらバスタオルで隠しているとは言え、素っ裸の俺と一緒に風呂と言うのは色々と拙いだろう。 
 場合に依っては(具体的には玄冬さんやルコに知られた場合)、かなり危険な状況(俺の生命の危機とか)を招きかねんし。 
 そんな俺の割とシリアスな内心を知らないこのツインテール娘(今は解いているが)と言えば、困っている俺を見るや、まるで飢えたケダモノから身を守るかの様に両手で自分の体を抱き締めて、 
「それって、このバスタオルの下のてんぷてぃんぐな美夏ちゃんの生まれた儘の姿を想像しちゃったおに〜さんの中で、イケナイ衝動のぼるて〜じが臨界事故を起こしちゃいそうって事なのかな〜?」 
「……は?」 
 取ったポーズとは掛け離れまくったにやにやとした表情と口調で、何故か嬉しそうにそんな事を言い始めやがった。 
「うんうん、そうだよね。こんなにちゃ〜みんぐであとらくてぃぶな美少女と一緒にお風呂に入れるなんて、男の子なら誰もが羨むシチュエーションだもんね〜♪ これはおに〜さんも、やっと男の人としての機能が正常に働き始めたと言わざるを得ないかな〜?」 
 怯える振りから一転して、今度はバスタオルの裾をヒラヒラさせたり胸元をチラチラさせたりして挑発してくる美夏。 
 生憎と夜盲症のカラス並みの視力になっている裸眼の俺にはその様子がボヤけて良く判らんのだが、それよりも第三者が見れば間違い無く通報対象なこの状況を何とかせんとイカンだろう。 
「ほらほら。どう? おに〜さん」 
 バスタブでダンゴムシの如く丸まっている俺に、美夏が手の先から腕を撫でたり足を伸ばしたりと何やらアピールを続けていたんだが、いくら扇情的(のつもり)なポーズを取ってもそれに無理を感じざるを得んと言うか…… 
 寧ろ、美夏の狙っているところからどんどん離れている気がするんだが? 
「あ〜、美夏。濡れた風呂場でそんなに動き回ると危ないんじゃないか?」 
「へ〜きだってば。も〜、おに〜さんは心配性なんだから。あ! それとも、危ないってそ〜ゆ〜意味なのかな〜?」 
 言うや、胸元のバスタオルの結び目を美夏がおもむろに解き始めた。 
「――!? み、美夏!?」 
 いくら見た目が平均的中学二年生より小さいとは言え、中身は正真正銘の女の子である(当たり前だが)美夏の裸を見たとなっては流石に洒落にならんだろう。 
「あれ? おに〜さん。何で背中向けてるの?」 
 背後ではらりとバスタオルが床に落ちる気配がすると、美夏が弾んだ声でそんな事を言ってきやがった。 
 当然、俺にも目の前にあるからと言って見ないくらいの分別はある(と信じたい)ワケで…… 
「え〜? 折角、美夏ちゃんが水着姿でいるんだよ?」 
 ……おい。 
 確かに、美夏がいくらフレンドリーお嬢様とは言え、そう簡単に裸を見せてくれるかどうかなんて考える迄もなく分かる事だったな…… 
「ほらほら。 どう? おに〜さん? 美夏ちゃんの悩殺せくし-〜ぽ〜ずだよ?」 
 有罪(と肉体的懲罰)確定の危機が過ぎ去った事に胸を撫で下ろしながら振り返ると、去年の春香の誕生日プレゼント選びの時に買った赤いビキニを着た美夏がくるりと一回転してポーズを取っていた。 
 そう言えば、美夏の肩が髪で隠れて見えなかったんだが、ビキニの紐を上手く隠してたんだな。いや、別に隠してくれてるのならそれに越した事は無いんだけどな? 
「それより、早くおに〜さんの背中を流したいんだけど? おに〜さん♪」 
「……あぁ、それじゃあ頼むぞ? 美夏」 
 何はともあれ、美夏が水着姿であるのは俺の背中を流す格好としてはそれなりに妥当な落とし所だろう。同じ隠すにしても、バスタオルと水着じゃ受ける印象も鰯雲とヘドロくらいに違うしな。 
 それにいくら水着姿と言っても、美夏と一緒に風呂に入っている状態がいつ迄も続くのはどう考えても危ない状況だろうし、早く背中を流して貰って風呂から上がらんと、あのにっこりメイドさんがいつの間にか居るかも知れんしな。 
 早速、腰にタオルを巻いて湯船から上がって壁を向いてバスチェアに座ると、スタンバっていた美夏が俺の背後に回った。 
「それじゃ〜、いくよ? おに〜さん」 
 そんな気合いの入った美夏の声が聞こえると、石鹸で泡立てられた垢擦りタオルが俺の背中に押し当てられた。 
 ごしごし、ごしごし…… 
「んっしょ、んっしょ。どう? おに〜さん? こんな感じで良いかな?」 
「ああ、気持ち良いぞ」 
 綺麗に洗われていく感覚に加え、適度な力加減が絶妙なマッサージ効果となって色々と疲れていた体には普通に心地良い。 
「へへへ〜。みんなと洗いっこしてるから、結構背中を流すのは慣れてるんだよ?」 
「確かに上手いな。これならエリたちも美夏と一緒に入りたがってるかも知れんな」 
「そ、そうかな〜♪ え、えへへ〜♪」 
 実際、これだけ気持ち良く背中を流してくれるのなら美夏に頼みたくなってしまっても納得してしまうかも知れん。 
 まぁ、俺にとってはこれが最初で最後なんだろうけど。 
 と、美夏にされるが儘に背中を任せていたんだが、 
「い、一緒に入りたいなんて……。お、おに〜さんってば結構大胆なんだから……」 
 ごしごし、ごしごし…… 
 ごしごし、ごしごし、ごしごし…… 
「そ、それはこの美夏ちゃんと一緒にお風呂に入りたい気持ちは解るけど、わたしだっていつでもおっけ〜ってわけじゃないし……」 
 ごしごし、ごしごし、ごしごし、ごしごし…… 
ごしごし、ごしごし、ごしごし、ごしごし、ごしごし……! 
「で、でもおに〜さんが、ど〜してもってゆ〜なら一肌脱いであげなくもないってゆ〜か……」 
「お、おい? 美夏?」 
 既に泡だらけになっている俺の背中に気が付いてないのか、何やらぶつぶつと喋りながらも一心不乱に俺の背中を流し続ける美夏。 
 そして、徐々にだが確実に、並→強→激と美夏の出力が上がっていき、 
「うにゃあっ!? んむぅ!?」 
「お?」 
 背中に勢い良く滑った感触が走った後に、何やらものすげえ柔らかい感触が俺の背中に圧し掛かってきた。 
「あ、泡が目に入っちゃった〜。い、痛いよ〜。おに〜さん」 
 どうやら、力み過ぎた美夏が手を滑らせて俺の背中に顔から突っ込んだらしい。 
「に、にゃあ〜。拭いても取れないよ〜」 
 それは美夏は俺の背中を洗っていたんだから、その泡塗れになっている手じゃいくら落とそうとしても泡は落ちんだろう。 
「お、おに〜さ〜ん」 
「あー、待ってろ。美夏。今流してやるからな」 
 風呂桶にお湯を注ぐと、振り返って泡塗れになっている美夏の顔と手を洗い流した。 
「まだ痛むか?」 
「う、う〜。だ、だいじょ〜ぶかな?」 
 ぽたぽたと、お湯を滴らせて下を向いていた美夏が確認する様に瞬きを繰り返すと、俺を見上げながらそう答えた。 
「――っ!!」 
 と、徹夜でデータの打ち込みを終えた新人社員みたいに充血した眼をした美夏の顔が、更に茹で上がった松葉蟹(鳥取県産)みたいに真っ赤になった。 
「あ、あわわわわ!!」 
 ぷしゅ〜っと、蒸気を吹き上げて機能停止に陥る美夏。 
 何処かで見た様な光景だと思っていたら、春香の誕生日プレゼント選びの途中に拠ったアニメDVDコーナーで間違ってキラキラと光る18のマークが付いたアレなDVDを手に取った時と同じ反応だった事に気が付いた。 
 はて? そんなモノが風呂場にあるとは思えんし、一体美夏は何に反応しているんだ? 
 美夏の視線の先を辿ってみると、それが俺の腰巻きタオルの奥だったりするわけで―― 
「……って、俺なのか!?」 
 良く良く考えてみれば、俺から見れば腰に巻いたタオルで見えなくなっているモノでも、脚を閉じていない状態なら美夏の位置からだと見えてしまっているかも知れん(と言うか、見えてるからあの反応なんだろう)。 
「す、スマン!! 美夏!! 俺はもう先に上がるから、美夏は風邪引かないようにゆっくり温まってくれ!!」 
「お、おに〜さんのが。あわ、あわわわ……」 
 脚を閉じながら回れ右をすると、急いで背中の泡を流した俺はダックスフンドに追われる野兎の如く、風呂場から飛び出したのだった。 
 
「ふ、ふぅ〜。ふぅ〜……」 
 一通り体を洗い終えて湯船に浸かったわたしは、自分に聞かせるような落ち着いた声を出して深呼吸を繰り返した。 
うっかり見えちゃった、おに〜さんの、男の人の大事なトコロ…… 
 昔、お父さんと一緒に入った時に見たのとは似ているようで違うような感じの、タオルの下のお股から少しだけ覗いてた、ピンク色をしたおに〜さんの…… 
 ――ぼしゅぅ 
「あ、あわわわわ……」 
 思い出した所為で、折角休憩してたわたしの心臓がライオンから逃げるトムソンガゼルみたいに走り始めた。 
 い、いけないいけない。これじゃあ、別の意味で逆上せそうだよ。 
ふるふると頭を振って、わたしは別の事を考え出した。 
真っ先に思い浮かぶのは、今日のパーティーでのおに〜さんの事。 
 
『確かに美夏はお嬢様で色々と複雑なのかも知れんが、俺にとってはそれでも普通の女の子と変わらない存在なんだよ! 家柄だとか春香に近付く為だとか、そんな理由で優しくしてるんじゃない! みんな美夏の事が大好きで、大切にしたいからそうしてるんだ!』 
 
――ううん。思い浮かぶんじゃなくて、ずっと頭の中から消えずに残ってる――わたしを抱き締めながら叫んでくれた、おに〜さんの言葉。 
 あんなに優しくて、そして怒ってたおに〜さんは、まるで物語でお姫様を守る騎士みたいにもの凄く格好良かった。 
 勿論、守られてるヒロインはわたしって事になるわけで…… 
「――〜っ……!」 
多分、真っ赤になってる爆発しそうな顔を両手で押さえながら、わたしはばしゃばしゃと足を暴れさせた。 
あ、あんなたいみんぐで、しかも普段は見せないような真剣な表情でああいう事を言うなんて、ほ、本当におに〜さんはスコケマシだと思う。 
 す、スコケマシ過ぎて、 
「う、うぅ〜……」 
 おに〜さんの事しか、考えられなくなってる――のかな? 
 抱き締められた時の感触や息遣い、匂いなんかが今でもわたしの中で何度も繰り返されて、 
「え、えへへへ〜♪」 
 あれは嬉しくて幸せな事だったって事を、どう仕様も無く思い知っちゃっているんだと思う。 
 そんな気持ちでお湯に浸かってると、 
「あ……」 
 バスタブの中に仄かに漂うおに〜さんの匂いに、ここがさっき迄おに〜さんが居た場所なんだって事に気が付いた。 
「…………(ご、ごくり)」 
 静かなお風呂場に、わたしの喉がヒンズースクワットをする音が響いた。 
「す、す〜は〜。す〜は〜」 
 べ、別にコレはおに〜さんの匂いを嗅いでるとか、そ〜ゆ〜のじゃなくて、寧ろ落ち着かせる為に敢えて深呼吸なんかをしているってゆ〜か…… 
 じくん…… 
「に、にゃ……?」 
 お腹の奥に灯った熱っぽさに、わたしは思わず両脚を閉じて肩を抱き締めた。 
 どきどきどきどきどき…… 
「? ??」 
 やたらと元気なわたしの鼓動と不思議な切なさに驚いてその儘じっとしていると、そのじんじんする熱っぽさが少しずつ収まってくのが分かった。 
「……の、逆上せたのかな?」 
 バスタブから出て、わたしはもうすっかり温まった自分の体をバスタオルで拭きながら眺めてみた。 
 う〜ん…… 
別に、おかしなトコロは見当たらないと思うんだけどなぁ…… 
 そんな風に考えながら体を拭いていると、 
「――に、にゃっ!?」 
 お股を拭いたバスタオルから、透明な糸が一瞬だけぬるーっと伸びて切れた。 
「せ、石鹸かな……?」 
 もう何も残っていないお股と拭き取ったタオルを交互に見ながら、わたしは首を捻っていた。 
 
「それでは〜、裕人様〜。こちらが今晩の裕人様の寝室になります〜」 
パジャマに着替えた俺がにっこりメイドさんに通された部屋は、何と言うか、相変わらずの乃木坂家の財力を反映した様な豪勢な造りの寝室だった。 
春香の部屋も十分に立派だが、こちらは客人用に意識した造りになっている分、アットホームな雰囲気と言うよりはホテルや旅館のそれに近いんじゃないかと思う。 
「お鞄は机の上にありますので〜、宜しかったら中身のご確認をされますと良いと思いますよ〜」 
「あ、はい。有難うございます」 
 窓際にある高そうな執務机(マホガニー製?)の上の俺の鞄に手に取って、中身の確認をしてみる。 
 時間割を確認してみたが、どうやら明日の授業で使う教科書や教材は一通り揃っているようで、これなら問題無く学校に持って行けるだろう。 
 なんて思っていると、 
「ん?」 
 鞄の底に、何か小さな箱がある事に気が付いた。 
 はて? まさか煙草なんて事は無いと思うんだが、一体何の箱なんだろうか? 
 確認する為に取り出そうとした俺の手が、あと数センチで鞄から出る、と言う処で 
「――っ!?」 
その物体が何であるかを理解した俺は、マニュアル車をエンスト覚悟でフルブレーキをするか様に、自分の腕を緊急停止させる事に何とか成功した。 
「どうかされましたか〜? もし、何か足りないものがございましたら〜、何なりとお申し付け下さい〜」 
「い、いえ! 大丈夫ですからっ!」 
 俺の背中だけで何かを感じ取れた那波さんには流石としか言い様が無いが、生憎と今の状況を悟られるワケにはいかなかった。 
「ところで、那波さん……」 
「はい〜、何でしょうか〜?」 
「えっと、俺の鞄を用意したのって……」 
「はい〜。由香里様ですよ〜。何でも『いや〜ん。裕くんったら春香ちゃん家にお泊りだなんて、だ・い・た・ん♡ 裕くんがオトナになっちゃうのは寂しいケド、ここは餞別を贈るべきなのね。きっと一皮剥けて帰って来るって、おねいさん信じてるもの♪』だそうです〜」 
 もう、猫車に追突されて三途ボートで六道一周の旅にでも出ればいいのにあの人。 
「……取り敢えず、授業に必要な物は全部揃っているみたいですから大丈夫だと思います」 
「畏まりました〜。それでは私はこれで失礼しますので〜、裕人様は存分に寛いで下さいませ〜」 
 優雅に一礼をすると、那波さんはドアを閉める音すら立てずに退出していった。 
 一人になった部屋で、俺は改めて鞄の中からセクハラ音楽教師から仕込まれた核爆弾である問題のソレを取り出してまじまじと眺めた。 
 口に出すのは恥ずかしいので具体的には言えないが、つまりは感染症やショット・ガン・マリッジ予防の為に用いられる、ある意味では十分役に立つゴム製品だったりするワケで…… 
「全く、何を考えてるんだか。あの人は……」 
 まぁ、人の誕生日にエロ本をダース単位でプレゼントしてくるような人だから、これくらいのアダルトグッズ(主にセクハラ目的)が用意されていても何ら不思議じゃないんだけどな…… 
 とは言え、乃木坂家のゴミ箱に捨てるワケにもいかない以上、この(色んな意味での)危険物は鞄の底にでも沈めておくしか無いだろう。 
 ――コンコン 
「――!?」 
 危険物の処理作業に移ろうかと言う瞬間、部屋に響いたノックに俺の背中を冷や汗がナイアガラの如く流れ落ちた。 
「お、おに〜さん。居るかな〜?」 
「み、美夏か?」 
「あ、やっぱり居たんだ。それじゃあ、入るよ〜」 
「い、いや。ちょっと、待、って、く――うおっ!?」 
 がちゃりと俺の背後で回るドアノブの音に動揺した俺の指先が、例のブツを転がり落とし、それでも空中でキャッチしようとして空振った手がそれを盛大に弾き飛ばし、在ろう事かベッドの上にぽとりと落ちた。 
「くっ……!」 
 もう回収して鞄の中に仕舞うには間に合わないと判断した俺は、逆転を懸けたトライを決めるラガーマンの様にベッド(天蓋付き)にダイビングを敢行していた。 
「うにゃっ!? お、おに〜さん、何してるの!?」 
「い、いや。ちょっと五体投地(両膝、両肘、額を地面に付ける礼法)の練習でもしようかと思ってな?」 
「? 良く分からないけど、お泊りだからってそんなにはしゃがなくても良いんだよ? おに〜さん」 
「あ、あぁ……。そうだな」 
 いきなりの俺の胴体着陸を目撃したネグリジェ姿のツインテールお嬢様が一瞬だけ驚いた表情を浮かべていたが、俺の言葉にまるで銭湯で湯浴みをせずに湯船に飛び込む躾のなっていない子供を見る様な目で俺を見た。 
 その視線については思う所が無きにしも非ずなんだが、変に反論して藪を突いてバジリスクが出てくるくらいならこの儘誤魔化してしまう方が遥かにマシだろう。 
「そ、それで、美夏は何しに来たんだ?」 
 美夏に死角を作りながら身を起こし、腹の下にあったブツが尻の下にくる様にベッドに腰掛けて俺はそう訊ねた。 
 すると美夏は、 
「んふふ〜♪ おに〜さんだって分かってる癖に〜♡」 
 とか、意味の分からんを言って横目で俺を見て(何故か後ろ手でガチャッ! っと部屋の鍵を閉めたりして)きた。 
「夜這いだよ、よ・ば・い♪ おに〜さん。きゃっ☆」 
 微妙にどこぞのアル中教師を彷彿とさせる仕種で、しんなりと身をくねらせる美夏。 
 コレはアレか? この前、双葉女学院で部室に閉じ込められた時のあのノリなんだろうか? 
「いや、夜這いとか言われてもだな……」 
 単に、泊りに来た友人の部屋に遊びに来ただけだろうに…… 
「も〜、おに〜さんってば〜。この前もそうだったけど、ノリ悪いよ〜? 折角、こんなにお淑やかで大和撫子な美少女と二人っきりになれてるのに〜」 
 ……お淑やかな大和撫子は夜這いなんてしないと思うんだが? 
 そんな俺の冷静な態度に白けたのか、美夏が頬を膨らませて俺の隣にぽすん、と勢い良く座ってきた(!?)。 
 その場所がまた何と言うか、俺が危険物を下敷きにしている側だったりするわけで、 
「? どうしたの? おに〜さん。何か、領海侵犯した違法操業で松葉蟹を大量に積んでたトコロを海上保安庁さんに拿捕されて、職務質問されてる蟹漁師さんみたいな顔してるよ?」 
「そ、そうか?」 
 どちらかと言えば、帰国直前の出国ゲートでいつの間にか二重底に細工されていた自分の鞄から単純所持禁止なモノが発見された海外旅行者の気分なんだが…… 
「む〜……。おに〜さん。何か隠してない? おに〜さんの目がマッコウクジラさんから逃げるマサバさんの群体みたいに泳いでる気がするんだけど?」 
「う……」 
 相変わらず良い勘してやがるな、美夏の奴。 
 だが、教えろと言われて直ぐに教えられるかと問われればそれは確実にノーだろう。 
 以前に椎菜に見られた野乃ちゃんのDVDならまだ言い訳も出来たんだが、セクハラ目的で仕込まれたとは言え、今の俺が隠している物が正真正銘のアダルトグッズである以上どう言い繕ってもアウトである。 
 況してや、被セクハラ耐性皆無の耳年増お嬢様に気付かれでもすれば、美夏がフリーズどころかクラッシュしてしまうのは間違い無いだろう。 
 ……ここは思い切って、話題を変えてみるのが良いかも知れん。 
「そ、それよりも美夏。今日の俺のエスコートについてなんだが、美夏から見てみてどんな感じだったんだ?」 
「にゃ? おに〜さんのエスコート?」 
「あぁ」 
 サザーランドの騒動の後にエスコートの続きをさせて貰ったんだが、やった事と言えば四人のお嬢様全員を膝に乗せて人間ソファーになる事だったり、何故かステージに上げられてのエリマキトカゲの物真似だったりと、流石の俺でもどうかと思うものだった。 
 はっきり言って、古文の問題に英語で解答してしまった様な散々なエスコートだったんだが、話題を変えるのなら結果が分かり切ったものの方が良いだろう。 
 まぁ、エスコート自体が落第点だったのは反省すべき事なんだろうけどな…… 
 と、美夏からのダメ出しを予想していた俺だったんだが、 
「よ、良かったと思うよ?」 
「そ、そうか?」 
 美夏から返された答案用紙には、意外と高い採点が付けられていた。 
「そ、それは確かにおに〜さんにはまだ色々と頑張って貰わなきゃいけない事もいっぱいあったケド、光や美羽っちやエリちゃんも十分に楽しんでくれたみたいだから結果お〜らいだよ」 
「まぁ、美夏がそう言うんなら良かったんだが……」 
 エスコート中に何度か美夏から謎のプレッシャーを中てられていた分、てっきり美夏には不評だったのかも知れんと思っていただけに、そんな美夏の好評価に余計にパーティーでの態度が判らなくなってくる。 
 じゃあ一体、美夏は何に対して七輪で焼いた餅みたいに膨れていたんだろうか? 
 首を傾げて考えようとしていると、 
「そ、それじゃあ、わたしからも質問だよ、おに〜さん。お、おに〜さんから見て、き、今日のわたしはどうだった?」 
 隣から俺を覗き込みながら、美夏がおずおずといった感じで訊ねてきた。 
 そんなもん、釈迦に生活指導と言うか河童に水難救助訓練と言うか、今日初めてセレブのパーティーに参加した俺が美夏に付けられる文句なんて無いと思うんだが? 
「そ、そうじゃなくて〜……。何てゆ〜か、お、おに〜さんがわたしにときめいちゃったりとかどきどきしちゃったりとか……」 
「?」 
 後の台詞が小声で聞き取り辛かったんだが、どうやら俺の回答は美夏が求めていたものとは違うものらしい。 
 と言われても、今日の美夏についてどうかと問われれば、俺にとてはセレブに着飾っていてもいつもの美夏とそう変わらんと思うのが率直なトコロだしな。 
「じ、じ〜……」 
 俺が黙り込んでいる状況を否定的な雰囲気と捉えたのか、美夏がその大きな瞳を揺らして俺を見上げてきた。 
む、むぅ……。これは一刻も早く美夏を褒めてやらんと精神的にクるものがあるな。 
そう思った俺は、取り敢えず初めて聞いた美夏のヴァイオリンの事でも話題にしようとして美夏の頭に手を置いた。 
「……あ」 
 褒めようとしていた俺の表情と頭を撫でられた感触に、美夏の顔に期待の色が差す。 
 そんな美夏に、俺の中で美夏に言おうとしていた美辞麗句が、ヒューズが飛んで明りが落ちた電飾みたいに急激に色褪せていくのが分かった。 
「……」 
「にゃ? ど〜したの? おに〜さん」 
 さっきまでの表情とは打って変わって、黙った儘の俺を何処か落ち着かないと言った具合で見上げてくる美夏。 
 その不安気な美夏の頭を、俺はゆっくりと撫でた。 
「なぁ、美夏?」 
「な、何? おに〜さん」 
「美夏は、褒められる為に頑張らなくても良いと思うぞ?」 
「にゃ?」 
 俺の言葉の意味を掴み損なった美夏がキョトンとした表情で俺を見てきたが、それに構わず俺は手触りの良い美夏の頭を撫で続けた。 
「美夏が頑張った事に対しては褒められて当然かも知れんが、褒められる為に頑張り過ぎるのも程々にしとかんとな」 
「お、おに〜さん?」 
「確かに、美夏のヴァイオリンとかには俺も驚いたし、それはちゃんと褒められるべきだと思う。だけど、今俺が美夏の頭を撫でてるのは別にその事を褒めてるからじゃないって言うのは分かってくれ」 
 多分、それは美夏が最も欲していて、一番求めてこなかったものなんじゃないだろうか? 
「俺が美夏をこうやって撫でたいからじゃ、美夏を撫でる理由にはならないか?」 
「……」 
 黙って聞いている美夏の頭を撫でながら、俺は更に言葉を続けていく。 
「美夏は、もっと我が儘になっても良いと思うぞ?」 
 一見我が儘に見える普段の注文の多さも、ひょっとすると美夏の本音を誤魔化す為のものなのかも知れん。 
 だから、美夏には一人くらい無条件で美夏の我が儘を聞いてやる人間が必要なんだと思う。 
「い、良いのかな? おに〜さん。わ、わたし、何でもおに〜さんに我が儘言っちゃうかも知れないよ?」 
「俺に出来る範囲でなら構わんぞ?」 
 体を預けてきた美夏がじっと俺を見つめてくる。 
 そして美夏の小さな唇が何度か開いては閉じた後、何かの決意をした様な息を呑む音が聞こえた。 
「そ、それじゃあ、おに〜さん」 
「ん? 何だ? 美夏」 
「え、えいっ!」 
 ぎゅっ…… 
「……み、美夏?」 
「…………」 
 そんな気合いの入った掛け声が聞こえたかと思うと、気が付けば俺の肩口に顔を押し付けた美夏が俺の背中に腕を回して横っ腹にしがみ付いていた。 
 じんわりとサラサラとしたネグリジェ越しに伝わってくる美夏の温かさと柔らかさ、それと仄かに漂う甘い匂いに、俺の喉から思わず上擦った声が出た。 
「お、おに〜さん」 
「な、何だ? 美夏」 
 茹で上げられたオマールエビみたいな真っ赤な顔で見上げてきた美夏の真剣な表情に、不意に耳の奥で俺の心臓の鼓動が響き始めた。 
 む? ぬ? こ、これはいつもの引っ掛けなんだろうか? 
 それにしては少し悪ふざけが過ぎると言うか、これは流石にやり過ぎなんじゃないか? 
「ね、ねぇ、おに〜さん。おに〜さんは今、ど、どきどきしてる?」 
 その言葉に、俺の緊張が一気に解けた。 
 やっぱり、いつもの美夏の引っ掛けだったらしい。 
 そう安心仕掛けた時、 
「わ、わたしは、凄くどきどきしてるよ? おに〜さん」 
 大きな瞳に俺を映した美夏が、消え入りそうな声を絞り出してきた。 
 いつもの美夏なら、その台詞はこう言う駆け引きじゃ言った方が負けになる筈なんだが、それはつまり、どう言う意味なんだろうか? 
「う……」 
 どう反応して良いのか判らずに硬直していると、美夏が俺の胸に頭を載せて目をそっと閉じた。 
「えへへ〜……。おに〜さんも、すごくどきどきしてるんだね♡」 
 そこにいつものからかう様な感じは無くて、 
「おに〜さん……。ん……。良い匂いがするね……」 
 ――只、幸せそうに甘えてくる一人の小さい女の子がいるだけだった。 
「……」 
「……う、うにゃ?」 
 微妙にくぐもった声で、美夏が驚いた声を上げた。 
 気が付けば、俺の腕の中には美夏がすっぽりと収まっていた。 
「お、おおお、おに〜さん……!?」 
「…………」 
 キズの付いたCDを掛けたコンポみたいに言葉を詰まらせている美夏だったが、何も言わない代わりに俺はその儘抱き締める腕に力を込めた。 
 突然の抱擁に美夏が混乱しているのは判っていたが、それでも美夏が拒絶していないと確信出来たのは俺を離さないでくれている美夏の両腕に込められた精一杯の力だった。 
「……美夏」 
「……おに〜さん」 
 俺の呼ぶ声に、何処かとろんとした表情で見上げてくる顔を真っ赤にしたお嬢様。 
 じっと俺を見詰めてくる美夏の瞳に、何となく俺も目を離せなくなって美夏を見詰め返した。 
 と、 
「お、おに〜さんって、近くで見るとけっこ〜綺麗な顔してるよね……。ルコさんも美人だし、やっぱり姉弟って感じだよね……」 
 唐突に、 俺の頬に手を添えて、息が掛かってくる距離まで身を乗り出してきた美夏がぽつりとそんな事を漏らしてきた。 
「そ、そうか?」 
 一応は褒め言葉なんだろうが、男として綺麗と褒められるのは素直に喜んで良いのか判らんな…… 
 と言うか、この距離は少し近付き過ぎだと思うんだが? 
 それとなく、美夏から離れようとした俺は、 
「――!?」 
 俺の頬に添えられていた美夏の両手に、そのままガッチリと固定された。 
「み、美夏?」 
「そ、それに、お、お肌もスベスベで、もちもちしてるし……」 
 ぐぐぐっと、何故か両手に力を込めて更に顔を近付けてくる美夏。 
 いや、何つーか……。その高度差の儘だとニアミス事故を通り越して、俺と美夏の顔が接触事故を起こすんじゃないのか? 
「え、あ……」 
「む、む〜。こ、これは美夏ちゃんのほっぺとお、おに〜さんのほっぺとどっちが柔らかいか調べてみないと」 
 こ、これは一体どうすべきなんだ? 
そ、そりゃあ、今まで俺もそれなりに美夏からのスキンシップを経験してきたワケなんだが、この頬擦りがいつものスキンシップとは微妙に雰囲気が違う様な気がするのはなんでなんだろうね? 
「お、おい……?」 
「に、にゃ、にゃう……」 
 すりすりすりすり…… 
 美夏の頬が押し当てられた瞬間、烏骨鶏(体の肉が黒い愛玩用食用の高級鶏)の茹で卵が脱兎の勢いで夜逃げしそうなくらいの張りのある滑らかで柔らかい感触が俺の頬に広がった。 
 おまけに、 
「ん、ふぅ……。にゃ、ふ、ん……」 
 擦り合わせてくる度に美夏が漏らしてくる息遣いが妙に色っぽいと言うか、いや、頬擦り自体はすげぇ気持ち良いんだが、それ以外にも俺の首っ玉に齧り付いている美夏との密着度が色々とアレと言うか…… 
「ち、ちょっと、美夏」 
「あ……」 
 取り敢えず、美夏を引き剥がしてその赤く染まっていた顔を覗き込んだ俺は、 
「に、にゃ〜っ!」 
「おうぁっ!?」 
 どう言う原理なのかは判らんが、器用にも座った儘の姿勢で俺に向かっていきなり飛び掛かってきた美夏の特攻でベッドに仰向けに沈めさせられたのだった。 
 
 目の前には、ベッドの天蓋を背景にして微妙に過呼吸気味ながらも頬を上気させて俺を見下ろしている美夏の姿があった。 
 人生においてそう何度も経験出来るシチュエーションじゃ無いと思うんだが、気が付けば何故か目の前のツインテールお嬢様とは縁のある、俺が美夏に馬乗りにされている逆エロマウントポジションが成立していた。 
「お、おに〜さん……」 
「な、何だ? 美夏」 
 熟れた林檎みたいな顔で、今までで見た事も無い真剣な表情で喋り掛けてくる美夏。 
 その迫力に、何となくこの状態(逆エロマウントポジション)を壊してはいけないと言う声が俺の頭の中に聞こえてくる。 
「く、車の中で訊いたよね? も、若し、おに〜さんを好きになっちゃったお嬢様がいたら、ど、どうするのって……」 
「? あ、あぁ……」 
 確かにそんな事を話していた気がするが、それが今になって改めて美夏から話を振られる意図がイマイチ掴めんのだが? 
「そ、それで。お、おに〜さんはどうするの?」 
「いや、どうするって言われてもだな……」 
 リアルお嬢様の目の前で、俺に好意を抱いていると言う架空のお嬢様への返事をどうするのかと訊かれても、それは獲らぬ狸の皮革産業起業と言うより他ならないんだが? 
「じ、じ〜……」 
「う……」 
 しかし、俺を見る美夏の目は本気でその答えを聞きたがっていると訴え掛けていて、そんな美夏に有耶無耶な答えを出すのは何でかエラく躊躇われるワケで…… 
 い、言うしか無いのか? 
「べ、別に、気にしないんじゃないのか?」 
「え?」 
 俺の言葉に、美夏の大きな目が驚きで見開かれた。 
 いや、これだけじゃ流石に言葉足らずだろう。 
「えぇっと……。き、気にしないと言っても全然相手にしないって意味じゃなくてだな。その、俺を好きだって言ってくれるお嬢様が居たとしても、俺はそのお嬢様がお嬢様じゃ無くても嬉しいと思う」 
「お嬢様じゃなくても?」 
 俺の言葉を繰り返す美夏に、俺は「あぁ」と頷いた。 
「だから、俺はその、相手がどんな肩書きを持っていても、しっかりと相手を見て、誠意を持って返事をしたいと思う……」 
 つーか、そんなストレート設定のロットゲーム(数字合わせの賭博ゲーム)の数字を挙げる様な詮の無い俺の返答なんかに、やけに真剣な表情で美夏が思案してるのが謎なんだが? 
「そ、それじゃあ、おに〜さん。そのお嬢様が、と、年下とかだったらどうなの?」 
「と、年下?」 
「そ、そう。三つくらい、とか……?」 
「そうだな……」 
 俺が初恋をした頃が小学校に上がるかどうかの頃だし、何より、その相手が六つ年上の由香里さんだった事を考えると、三つの年に差だからって始めから切り捨てるのは相手を蔑ろにし過ぎなのかも知れんしな…… 
 かと言って、当時の俺と同じで五つ以下ならつまりは小学生と言う事になるんだが、流石にこれはアウトだろう…… 
 ともあれ、三つ下くらいなら相手に判断力も分別もそれなりにあるワケだし、(一般的には)恋愛をしたりする思春期であるのなら、妥当と言われれば妥当な範囲なんじゃないかと思う。 
「そうだな、三つくらいなら大丈夫なんじゃないか?」 
「ほ、本当!? う、うん! じ、じゃあ、次の質問だよ。おに〜さん!」 
「ち、ちょっと待ってくれ。美夏。質問はいくつあるんだ?」 
「に、にゃ?」 
 何故かテンションを上げて更に質問を重ねてきた美夏の顔の前に、俺は手の平を突き出してストップを掛けた。 
 この前の椎菜とのカラオケボックスでのデジャヴが(逆エロマウントポジション状態も含めて)頭を過ったと言うか、この儘だとこのツインテール娘に根掘り葉掘りで、ついでに土壌検査までされそうな質問責めをされかねん予感があった。 
 只でさえ小っ恥ずかしい質問に答えさせられているのに、これ以上恥の多層コーティング処理作業を続けさせられるのはある意味拷問だろう。 
 その旨を伝えると、美夏は少し目を瞑って、 
「そ、そ〜だね。それなら、つ、次の質問が最後って事で良いかな? おに〜さん」 
「あ、あぁ……」 
 幾重にもトラップが仕掛けられた爆発物の最後の解除コードを探り当てる処理班員の様な表情で、俺をじっと見つめてきたのだった。 
 そんな妙に気合いの入った美夏の態度に、俺も面接官から口頭質が始まると予告された就活生(就職浪人中)みたいに腹を括ってその続きを待つ事にしたんだが…… 
「お、おに〜さん、あ、あのね……」 
「お、おう」 
「え、ええっと……」 
「み、美夏?」 
「そ、その……。う、うにゃ……」 
「??」 
「……(パクパクと口を閉じたり開いたりしている)」 
 矢継ぎ早だった質問責めが一変して、今度は嚥下しては戻す牛みたいに、言い掛けてはその度に言葉を飲み込む作業を繰り返し始める美夏。 
 いや、そんなに抵抗がある質問なら無理に訊かんでも良いと思うんだが? 
 そう提案してみたものの、 
「――う、ううんっ! ち、ちゃんと言うよ! お、おに〜さんにはちゃんと答えて貰うんだからね!?」 
「そ、そうか?」 
 吃りながらも、ツインテールをでんでん太鼓みたいにぶんぶん振り回して、断固としてそう美夏が言い放った。 
 それで踏ん切りが付いたのか、相変わらず顔を真っ赤にした美夏は一呼吸置いた後に漸く最後の質問が出てきたんだが、 
「お、おに〜さんは、わ、わたしに恋したりしない?」 
「……」 
「……(更に赤面度が上昇)」 
「…………」 
「…………(首まで真っ赤)」 
「………………は?」 
 美夏の奴、今何て訊いてきたんだ? 
 そんな青天のゲリラ豪雨(落雷警報発令)的な展開に、一瞬で俺の頭の中が吹き飛ばされていた。 
 一方で、後は俺の返答待ちになった美夏が、何でか俺の顔を両手でがっしりと捕まえてじっと凝視してくるのがまた何とも落ち着かないと言うか…… 
「い、イエスかノーで答えてよ。おに〜さん」 
「え、ええと、それはだな……」 
 つまりは、肯定すればこれから俺は美夏を異性として接する事になるワケなんだが、いくらなんでもそれをこの状況(逆エロマウントポジション)で答えればどんな雰囲気が醸し出されるかは流石に俺でも判るワケで…… 
って、今かなりとんでもない事を美夏から告白された気がするんだが……? 
 そもそも、美夏は春香の妹であって、クラスメイトの妹に手を出すのは何と言うか、色々と思う所があると言うか…… 
 確かに、俺も美夏の事は嫌いじゃないんだが、その好きは異性に対する恋愛感情なんかではなくて、どちらかと言うと美夏が俺をおに〜さんと呼ぶみたいに俺も美夏を妹的な女の子として捉えていたのが正直な所だろう。 
「ず、ずるいよ、そんなの……。わ、わたしは、こ、こんなにおに〜さんの事が好きなのに、おに〜さんはわたしの事を好きになっちゃいけないなんて……。ふ、ふこ〜へ〜だよっ……!」 
 テンパってしどろもどろになる俺を、拗ねた様な口調で、今にも泣き出しそうな怒り顔で見下ろしてくる美夏。 
そして、圧し掛かられている所から伝わってくる美夏の柔らかさや温かさ、そして仄かに漂う甘い匂いに、俺の全身がマイクロ波でも照射させられたみたいに熱くさせられていた。 
「ほ、本当は今日のパーティーで、おに〜さんの事をみっかみかにしてあげるつもりだったのに……。それで満足する筈だったのに……。お、おに〜さんばっかりわたしに、か、格好良いトコロ見せて……。わ、わたし、もう我慢出来ないよ……。おに〜さん……」 
「――っ!?」 
 俺の胸に手を着いて、その儘上体を重ねる様にゆっくりと美夏が俺の顔に迫ってきた。 
 跳ね除けようと思えば、ちんまいツインテール娘くらい難無くひっくり返す事は出来る筈だった。 
 でも、それが出来ないでいたのは、密着している部分から伝わって来る美夏の緊張や、潤んだ瞳で俺を見詰めてくる美夏がこれ以上に無いくらい女の子に見えたからだった。 
 だから、俺の顔を再びガッチリと固定した美夏がその儘すっと目を閉じて近付いてきて、 
「――ん、ふぅ……。にゃ、むぅ……」 
 俺の口が、とんでもなく柔らかくて熱い美夏の唇で塞がれる迄全く反応出来なかったりするワケで、 
 …… 
 …………  
 ……………… 
 ちょっと待ってくれ……。 
 ひょっとして俺、美夏にキスされてないか? 
「――っぷは……。はぁ、はぁ……。おに〜さん……」 
「み、美夏……?」 
 いきなり過ぎる展開に、脳が沸騰した血液で茹で上げられたみたいに俺の思考が真っ白に染め上げられた。 
「え、あ……」 
 目の前の美夏に何を言えば良いのか、何をすれば良いのか。五里どころか千里に広がった霧の中に迷い込んだみたいに、俺は言葉にならない声を出すのが精一杯だった。 
 スーパーのタイムサービスで目が血走ったおばちゃんたちと目当ての商品を競い合った時よりも(いや、これはこれで相当キツいんだが)ずっと激しい心臓の動悸が俺の鼓膜にガンガンと響いて、思わず指先が緊張で震えだした。 
 まるでアナコンダに睨まれたミクロヒラ・ネペンティコラ(ボルネオに生息する世界最小の蛙)の様に、俺は俺よりもずっとちんまい筈のツインテール娘(身長一四七センチ)からの視線に身動きが取れなくなっていた。 
「ど、どう? おに〜さん。わ、わたしが本気でおに〜さんの事がす、好きだって解って貰えた?」 
「あ、あぁ……」 
 いくら色恋沙汰に疎い俺でも男女間で唇にキスする事の意味くらいは解っているつもりなんだが、それを差し置いて今の俺を混乱の極みに立たせてくれている、気になって仕方が無い疑問があった。 
「疑問?」 
「み、美夏は何で俺なんかに惚れたんだ?」 
 その質問に、何故か美夏が呆れと諦めの両方が交った様な表情を浮かべてきやがった。 
「ほ、本当に分かんないの? おに〜さん」 
 いや、全く思い当たる節が無いんだが? 
 そう思った事を素直に口に出してみると、 
「そ、そんなのだからおに〜さんはずるいんだよっ!! ふ、ふこ〜へ〜だよっ!! も、も〜、こ〜なったらぜ、絶対におに〜さんをみっかみかにしてあげるんだからっ!! これはもうおに〜さんとの戦いだよっ!!」 
「は!?」 
 突然、キレた美夏がまた俺の顔をホールドし、その儘の勢いで俺の口を再び塞いできたのだった。 
「ち、ちょっ!? み、美夏っ!? む、むぅ……!」 
「にゃ、ん……。ん、くぅ……。ふにゃ……」 
 夢中で母猫からお乳を飲もうとする仔猫の様に、俺の唇を吸う度に小さく喉を上下させる美夏。 
「ごろにゃ〜ん♪ おに〜さん♪」 
「う……」 
 更に追い打ちを掛ける様な今まで聞いた事も無い甘ったるい美夏の呼び掛けに、俺の中で何かが弾けそうになった。 
 だけど、その衝動に負けてしまったらきっと俺は目の前の美夏を傷付けてしまう様な予感がして、 
「み、美夏っ! こ、これ以上はちょっと!」 
「に、にゃっ!?」 
 なけなしの腹筋を使って上体を起こした俺は、美夏を膝の上に乗せる格好で何とか美夏とのキスを中断させてみると、 
「おに〜……、さん……?」 
 最初は驚いた表情の美夏だったが、直ぐに俺の行動に気付くとその瞳からぽろぽろと涙が零れ始めた。 
「……う……ううっ……ぐすっ……」 
 美夏がいくら手の甲で拭ってみても、止めども無く頬を濡らす涙はもう破竹の勢いで溢れ始めてしまっていた。 
「……どう、して、おに〜さんは、うぅっ……わた、わたしの事を、好きに、ぐすっ……なってくれないの……? お、女の子として、う……わたしの事を、ぐすっ……見て、欲しいのに……」 
「……」 
 嗚咽交じりにそう呟く美夏の姿に、狭心症が発症したかの様な痛みが俺の胸を貫いた。 
 その痛みがあんまりにも痛くて、俺は心の深い所に美夏の存在がじんわりと広がっていくのを感じた。 
 きっと、この痛みは美夏だけに感じる俺の痛みで、こんなに苦しい程に美夏は俺にとって笑っていて欲しい女の子で…… 
 そんな事を願える女の子に、今更になって俺は自分の気持ちに気が付いた。 
「……う、ううっ……ううっ……」 
「……」 
 どうして、俺はここまで馬鹿なんだろうね? 
 俺なんかよりずっと賢い美夏が、あんな告白とキスをしてくる事がどういう事かなんて解りきっていただろうに。 
 目の前で泣いているのは、クラスメイトの妹で大財閥のお嬢様でもあって、そして俺に精一杯の勇気で告白してくれたちんまい少しマセたツインテールの女の子で…… 
 だから、俺は美夏に言わなくちゃいけないんだろう。 
 今、俺が美夏に抱いた気持ちが少しでも色褪せる前に、それが嘘になってしまわない様に…… 
「……い、イエスだ。美夏」 
「……ぐすっ……。……にゃ?」 
 俺の言葉に、目を赤く腫らした美夏が首を傾げて俺を見た。 
「ほら、さっき訊かれただろ? 俺が美夏の事を好きになるかどうかって……。だからそれが、俺の美夏への答えだ……」 
「おに〜さん……」 
 俺の返事に、大きく咲いた向日葵みたいな笑顔を向けてくれる美夏。 
 その小さな体をぎゅっと愛しさを込めて抱き締めて、 
「美夏……」 
「……ん、にゃ……ん……」 
 俺と美夏は、恋人としてのキスをしたのだった。 
 
 ――とまぁ、ここ迄は良かったんだが、 
 ――くしゃり…… 
「――!?」 
「? にゃ?」 
 膝の上の美夏の座りを良くしようと体を揺り動かした拍子に、『俺の下から紙箱を潰した様な音が聞こえてきやがった』。 
 そう言や、そんな危険なブツが俺の下敷きになってたな……。いや、多分美夏に特攻を食らった時にも音はしてたと思うんだが、あの時はお互いに気付く余裕が無かったんだろう。 
「何か、おに〜さんの下から音がしてきたみたいだけど……?」  
 首を伸ばした美夏が俺の尻の下に目を向けてそう問い掛けてきたものの、このタイミングでそれが美夏に発覚すれば間違い無く今までの一連の遣り取りが全部台無しになるワケで…… 
「む〜……。そ〜ゆえばおに〜さん、わたしが部屋に入って来た時にベッドに飛び込んでケド、ひょっとして何か隠してるの?」 
「い、いや……。その、えぇっとだな……」 
 流石に二度目の話題逸らしのネタを思い付かなくて焦った俺を、小悪魔的な笑みを浮かべて肘で突いてくる美夏。 
「ほらほら〜、素直に白状しちゃいなよ。おに〜さん。隠したって、この美夏ちゃんの目は誤魔化せないんだからね〜」 
「むぅ……」 
 俺としては自分の無実を在りの儘に弁明したい所なんだが、それが叶った所で俺に掛けられた嫌疑(不純異性交遊目的とか)が晴れるかと問われれば、それはこの耳年増なツインテールお嬢様の判断に委ねられると言う事で…… 
 ……いや、どう転んでも無理があるだろ? 
 とは言っても、莫大な違法献金を貰っておきながら「秘書が勝手にやりました」と臆面も無く言ってのけた政治家みたいな(まぁ、実際にはセクハラ教師が勝手にやったんだが……)説明じゃ美夏が納得するとは思えん。 
 そもそも美夏に俺の尻の下に何かがあると勘付かれてる時点でチェスで言う所の『詰み』の状態である以上、下手な誤魔化しは通用せんだろうし、寧ろ美夏の好奇心を刺激しかねんしな。 
 そう観念して、俺は例のブツを美夏に見せる事を決断したのだった。 
 
「……(じ〜)」 
「ええっと……」 
「…………(じ〜〜)」 
「み、美夏……?」 
 形こそ潰れてはいるものの、表面にプリントされた文字やイラストからナニに使われる道具が収められているのかは一目瞭然なアレな箱。 
 それを美夏の前に出してみたワケなんだが、さっきの風呂場でのアクシデントの時みたいに取り乱すかと思いきや、ソレを見た美夏の反応は意外にもガン見すると言う静かなものだった。 
 いや、俺の呼び掛けに返事をしていない辺り、もしかすると本当にフリーズしてしまったのかも知れん。 
 そう思って美夏にもう一度呼び掛けをしようとした時、 
「じ、実はね、おに〜さん……!」 
「あ、あぁ」 
 やけに切羽詰まった美夏の声に、俺の背筋が思わず伸びた。 
「な、那波さんたちはね、今、ルコおね〜さんたちのお世話をしにおに〜さんのお家に行ってるんだよ?」 
「そ、そうなのか?」 
 明日のルコたちの朝飯を気にしなくても良いと言うのは俺にとっては有り難い話なんだが、余所様にウチの家庭の恥部が晒されていると思うと色々と申し訳無さやら情けなさやらを感じずにはいられなくなってくるな。 
「那波さんがおに〜さんの鞄を取りに行ってた時にはもうご飯が無くなってちゃってて、お腹を空かせておに〜さんの匂いを辿ってウチに来ようとしてたんだって」 
「…………」 
 確か、買い溜めていた食糧と冷蔵庫の中身の殆どを使った筈だったんだが、ウチの暴飲暴食の権化たちはウチのエンゲル係数を一体何処まで引き上げる気なんだろうね? 
 それはそれとして、天王寺家襲撃事件の二の舞を演じなくて済んだ那波さんの対応に感謝しておかんとな。 
 冬華の時は功罪相償って事で何とかなってくれたんだが、もしまた同じ轍を踏む事になっていたら借金返済執事ライフに突入する羽目になっていたかも知れん。 
「だ、だからね。おに〜さん。き、今日は、朝までずっと二人っきりなんだよ?」 
 まぁ、流石にルコたちの朝飯を作って貰うのなら、その儘ウチに泊っていってくれた方が都合が良いだろう。 
 そんな事を考えていると、 
「む、む〜……。お、おに〜さん!」 
「うぉっ!?」 
 気が付けば、目の前に何故か頬を膨らませた美夏の顔が迫っていた。 
「わ、わたしがゆってる意味。解ってるよね?」 
「? あぁ……」 
 那波さんたちがウチに泊って、ダメ社会人×二の世話をしてくれると言う事だと思うんだが……? 
「そ、そ〜ゆ〜意味じゃなくて。この状況だよ、おに〜さん。せ、折角の二人っきりなんだよ?」 
 いや、まぁ、そう言われればそうなんだが。 
 ナニに使われるアレ(×十二)が入っている箱を前にして、お互いに正座して向かい合っている状況で二人っきりと言われてもな。 
 これから美夏に単純所持についてどう言い訳をしたものかと、ずっと気が気でなかった俺にしてみればこの二人っきりと言う状況は気拙いと言う以外に言葉が無いのが本音だった。 
「え?」 
「あ、あー……。その、だな……」 
 そんな予想外だったらしい俺の態度に目を丸くした美夏に、取り敢えず俺はどうしてソレがここに存在するに至ったかの経緯について話してみた。 
 が、 
「に、にゃ〜〜っ!!」 
「うぉわっ!?」 
 説明を聞き終えた美夏の執った行動は、またもや俺に特攻ダイビングを仕掛けると言うものだった。 
「ほ、本当に、これっぽっちもそ、そんなつもりは無かったってゆ〜の? おに〜さん?」 
 押し倒した俺に馬乗りになった美夏がそう言ってきたが、寧ろ、そんなつもりで男が泊りに来たら普通は追い返すもんじゃないのか? 
 そもそも、本当ならパーティーが終わればその儘帰るつもりだったんだから、そんな邪な算段自体が在り得んだろう。 
「そ、それじゃあ、おに〜さん……」 
 そこで一旦息を吸い込むと、小さく喉を鳴らした美夏がじっと俺を見下ろしながら口を開いた。 
「わ、わたしがそのつもりだったら、どうする?」 
「……は?」 
 一瞬、美夏に何を言われたのかが理解出来なくて、思わず俺の口からそんな間の抜けた声が漏れた。 
「き、今日おに〜さんをウチに泊めたのは、お、おに〜さんをみ、みっかみかにするつもりだったんだよ?」 
 は? え? つまり、どう言う事なんだ? 
「こ、こ〜ゆ〜事だよ。おに〜さん」 
 そう言って美夏は着ていたネグリジェの裾を掴むと、その儘万歳する様に両手を頭上まで持ち上げた。 
「――っ!?」 
 見上げた先に現れたのは、レースであしらわれたフリルの純白の下着を身に付けた、じっと俺を見下ろしている美夏。 
 いつもなら直ぐに目を背ける所なんだが、美夏の桜色に染まった肌や、その胸元が呼吸の度に上下するのがはっきりと判る程に、何故か俺は美夏の下着姿から目を逸らす事が―― 
「ど、どう? おに〜さん。む、むらむらしたりえ、えっちな気分になっちゃった?」 
「…………」 
 曲がりなりにも俺も健全な男子高校生である以上、いくらちんまいとは言え下着姿の女の子に迫られて何も感じないと言う事は無いんだが、生憎とそれを相殺して余りあるくらいに本人が色々とスポイルしちまっていると思う。 
「む、む〜っ。そ、それなら、これはどうかな? おに〜さん!」 
「み、美夏っ!?」 
 そんな俺の態度に業を煮やしたのか、俺の手を取ってその儘俺の掌に下着越しの自分の胸を押し付けてくる美夏。 
 すべすべしたブラの生地を通して伝わって来る、俺の掌に密着しているふにふにとした柔らかい感触。 
 そして何より、微かに当る肋骨の下からはっきりと俺に響いてくる美夏の鼓動が、美夏の精一杯さを俺に届けていた。 
 耳に鳴り始めた自分の心臓の音に加えて、俺の顔やら体やらが熱を帯びていくのが分かった。 
「や、やっとおに〜さんもその気になってきたんだよね? み、耳まで真っ赤だし」 
「う……。まぁ、流石にな……」 
「おに〜さんの心臓。すっごくどきどきしてる……」 
 パジャマの上から俺の胸に手を置いた美夏が、安心した様な表情でそう呟いた。 
「で、でも、いつまでもおに〜さんだけ脱いでないのはどうかと思うな〜。わ、わたしばっかり恥ずかしい思いをさせないで欲しいってゆ〜か……」 
「あ、わ、悪ぃ……」 
 …… 
 ……って、ちょっと待ってくれ。 
「な、なぁ美夏。別に無理にこんな事せんでも、ちゃんと順を追っていってからこう言う事はした方が良いと思うんだが……」 
 雰囲気に流されてうっかり脱ぎそうになったが、まだ学生である俺たちがこう言う事をするのは早過ぎると言っても過言でなないだろう。 
 触れ合う事も確かに大事かも知れんが、ここは一旦落ち着いて、俺たちに見合った恋人としての付き合い方をしていけば良いと思う。 
 そう美夏に提案してみたんだが、 
 ……ぷちん 
「にゃ〜っ!!」 
「ち、ちょっ!? み、美夏っ!?」 
 何故か激昂し、胸の前で両手の拳を握りながらじっと俺を見詰めてくる美夏。 
「ぜぇ〜ったいっ、絶対っ、おに〜さんをみっかみかにするんだから〜っ!」 
「お、落ち着いてくれ。美夏」 
「お、落ち着いてなんかいられないよ! こ、こ〜なったら、わたしの魅力でおに〜さんを骨抜きにして、あ、足腰を立たなくさせてあげるんだから!」 
 そう宣言して、美夏は身体を覆っていた上下の下着を脱いで一糸纏わぬ姿になると、今度は俺が着ていたパジャマに手を伸ばしてあっと言う間に釦を外していきやがった。 
 その手際の良さに一瞬反応が遅れたものの、咄嗟に抵抗しようとして美夏に手を伸ばした瞬間、 
「えいっ!」 
「おぉっ!?」 
 エロマウントポジションを取っていた美夏に手首を掴まれて器用にうつ伏せに半回転させられ、その勢いの儘もう半回転させられて仰向けにされた時には、既に俺の上半身のパジャマは手品でもやられたみたいに抜き取られていた。 
 いや、今のどうやったんだ? 
 つーか、何処に力を込めて踏ん張れば良かったのかさえ分からなかったんだが…… 
 まぁ、サザーランドを投げ飛ばしていた美夏にしてみれば、俺が抵抗してみせたところで所詮は俎板の上のゲンゴロウブナなのかも知れん。 
 などと悠長な事を考えている間にも一応は脱がされまいと頑張ってはみたものの、その度にベッドの上でゴロゴロと縦横に回されてはポンポン服を脱がされていくと言う、武芸十八般も涙ぐみそうな美夏の技を食らう羽目になり…… 
 そして遂には、 
「え〜いっ!」 
「のあっ!」 
 そんな美夏の掛け声と共に、最後の牙城だった俺のパンツが取り払われた。 
「ふ〜っ……。ふ〜っ……」 
「お、おい……? み、美夏……?」 
 両手で股間を隠している俺とは対照的に、猛獣みたいに四つん這いでゆっくりと間合いを詰めて来る美夏。 
 やがてその細くて白い指が俺の肩に伸びて、俺は美夏に静かにベッドに押し倒された。 
「ん〜♪ ちゅ、ん……♪ にゃ〜ん♪ ふぅ、む、あむ……♪」 
「む、むぅ……。んむ……」 
 口の中に広がる美夏の匂いと味、そして舌の感触にまるで俺の頭の中が霞掛かっていくかの様に意識がフラフラと揺れ始めた。 
 ……キスって精神的なものだけかと思っていたんだが、何か普通に気持ち良くないか? 
 口の中のものが俺のものなのか美夏のものなのか、それすらも判らなくなるくらいに混ざり合うキスをしながら、気が付けば俺も美夏を抱き締めて舌を絡め合っていた。 
「すきっ、すきだよっ! おに〜さんっ! だいすきっ! んふぅ、ん♡ にゃ、ん♡」 
「――っ!」 
 在りの儘に好意をその儘に伝えてくる美夏に、俺の中で劣情と愛情が混ざり合った感情が湧き上がってきた。 
 太股にその昂りを感じて、美夏の視線がすっかり戦闘態勢になった俺のものに向けられた。 
「……え?」 
「あ……。あー……」 
 密着している体から伝わってくる美夏の強張りに、俺もその心中が何となく分かった様に思えた。 
「あ、あれ? お、おに〜さんの? ? だって、さっき見た時と全然ちがうよ?」 
 ――って、しっかり見てたのかよ! いや、まぁ、それについては今は置いておくとして。 
 俺でさえ初めてお目に掛かる、これ以上無いくらいに滾っていらっしゃる俺の分身(何故か敬語)に、美夏の中に不安が広がっているんだろう。 
「いや、まぁ、何つーか。美夏にこれだけされたら、な……?」 
 申し訳無い気持ちでそう答えたつもりだったんだが、 
「む、む〜っ! じ、じゃあ、あの時は全然どきどきしてなかったって事なの!? おに〜さん!」 
「……は?」 
 どうやら、俺の発言は美夏の地雷を踏んでしまったらしい。 
「み、美夏ちゃんがせくし〜なビキニ姿でご奉仕してあげたのに、お、おに〜さんは何も感じてなかったってゆ〜の!?」 
「いや、結構ギリギリなつもりだったんだが――」 
「それでもだよ! それなら、こ、今度からはわたしの水着姿を見ただけでこ〜ふんしちゃうよ〜に徹底的にみっかみかにしてあげるんだから!」 
 ……それだと、美夏と一緒に遊泳施設とかに行けなくなるんじゃないのか? 
 てか、俺としては所構わずに前屈みにならざるを得ない様な条件反射を植え付けられるのは遠慮したい所なんだが? 
 と、 
「にゃ? さっきより何だか小さくなってない? おに〜さん。何で?」 
 微妙に萎えた俺のソレに、美夏が目聡く反応した。 
 ムードクラッシャーも甚だしいからな。美夏は…… 
「ま、まぁ、生理現象だからな……。そう自分の思い通りにはならん事ではあるのは確かだ」 
 ここは正直に言って事態がややこしくなるよりは、それ相応な事を言っておく方が良いだろう。 
「う……。それは、確かにさっきの大きさの儘だと流石にキツそうだったし……。む、む〜……」 
 ん? 今、美夏の奴何て言ったんだ? 
「お、おに〜さん。そ〜ゆ〜のを訊くのはせ、セクハラだよ?」 
 いや、こんな事(セクシャルスキンシップ)をしてる最中に言われてもだな――って、そうじゃなくて、キツそうってどう言う意味なんだ? 
「そ、それは勿論……。お、おに〜さんとわたしが一つになるって意味だよ……」 
 ぷしゅ〜っと、顔から湯気でも出しそうなくらいに赤面しながらそう答える美夏。 
「そ、それに、ちゃんとおに〜さんに着けるものもここにあるし……」 
 そう漏らした美夏の手には、正にこう言う時の為に真価を発揮するゴム製品が収められた箱があった。 
「だから、ね? おに〜さん。」 
 「えっちな事、して……」と、美夏が俺の耳元で囁いた。 
 
「う、う〜……」 
 ベッドに腰掛けた俺と抱き合う形で、美夏が俺の膝の上にゆっくりと腰を下ろしていた。 
 亀頭の半分くらいは美夏の中に埋まってはいるんだが、そこから先に進むのは苦痛を伴うらしく、美夏の動きは進んでは戻ったりを繰り返していた。 
 どうしてこんな時に、男は女の子が感じる痛みの百分の一も味わう事が出来ないんだろうね? 
「美夏……」 
 「無理なら、別に止めても構わんからな?」そう告げようとした俺の唇が、不意に美夏の唇で塞がれた。 
「わ、わたしね、もう覚悟は決めてるんだ……。どんなに痛くっても、絶対に止めないよって……。だからね、おに〜さんも覚悟を決めてよ……。どんなにわたしが痛がっても、わたしが望んでるなら止めないって……」 
「でも、それじゃ、美夏だけが辛いんじゃないのか?」 
「ううん。おに〜さんだって辛い筈だよ? だって、おに〜さんはすっごく優しいから♡」 
 そう言って大きく深呼吸した美夏は、さっき迄止まっていた所から更に奥へと俺の分身を受け入れていった。 
「あ、あ、あ、ん……。ん〜っ!」 
 俺の背中に回された美夏の腕。その両手の爪が俺の皮膚に食い込んだ。 
 それに気が付かないか、気に出来ないくらいの痛みを感じていても、美夏は俺と一つになる事を止めようとはしない。 
 美夏が痛みに耐える事が覚悟なら、俺は美夏が痛がっている事に耐える事が覚悟なんだろう。 
 目尻に涙が滲み上がっていく美夏をじっと眺めながら、俺はそんな事を思った。 
「美夏……」 
「お、に、い、さん……。にゃ、にゃ、んっ……」 
 ずりゅ、ずりゅ、ずりゅ、と。ぴったりと閉じている美夏の膣に包まれていく感触と、それを新たに割り開いていく感触。快感を伴いながら、それが少しずつ俺の中に広がっていく。 
 そして、先端が何かを潜り抜けた様な微かな感触を覚えたと思った時が、俺と美夏が一つになった瞬間だった。 
「はぁ、はぁ、はぁ……。おに〜さん……」 
 その儘腰を下ろしていくと、やがて美夏のお腹の奥にぶつかってそれ以上進む事が出来なくなった。 
 痛みに引き攣っているのか、時折俺のものを緩急を付けて締め付けてくる美夏の膣だったが、不謹慎ながらも俺は気持ち良さを感じてしまっていた。 
 まだ動けない美夏に、俺は感謝の気持ちを込めて美夏をそっと抱き締めた。 
「良く頑張ったな、美夏……」 
「えへへ〜♪」 
 美夏の頭を撫でると、辛そうだった美夏の表情が幾らか柔らかくなる。痛みで潤んでいた瞳が、今は別の意味で濡れているのが分かる。 
 それだけで、俺の胸が一杯になった。 
「ねぇ、おに〜さん」 
「ん? どうしたんだ? 美夏」 
「キスして、欲しいな……」 
 そう言ってはにかむ美夏の唇は、もう俺の唇で塞がれていたのだった。 
 
「んっ、ふぅっ、にゃっ、う、んっ」 
 零れる唾液を啜る音と舌が絡み合う際に漏れるお互いの吐息が、二人だけの寝室にはしたなく響き渡っていた。 
「はぁっ、はぁっ、はぁっ……。おに〜さん……、おに〜さん……」 
 俺に貫かれた美夏が切なそうに俺を呼ぶ度に、俺の理性が本能で削り落される様な錯覚を覚えた。 
 両手と両足で、繋がった時から俺にしがみ付くようにして抱き合っていた美夏。 
 最初は滑らかだった美夏の肌が、いつの間にか汗ばんでしっとりと俺の肌に吸いついてくるみたいだった。 
「にゃ、にゃふ、ん、にゃあ……。にゃあ、ん、ふぁ、あ……」 
 ぬちゃ、ぬちゃ、ぬちゃ、ぬちゃと言う粘着質な音が、いつしかベッドのスプリングの音に合わせて鳴り始める。僅かに朱の混じる濁った泡が潰れては、俺と美夏との間に糸を引いて塗り広げられていった。 
「う〜……。おに〜さんの、おっきいよぅ」 
「も、もう平気なのか? 美夏?」 
 上下に動く激しい動きではなく、ぐりぐりと前後左右に擦り付けてくる美夏が、とろんとした表情でそう喘いできた。 
「ま、まだじんじん痛むけど……。入口以外なら、だ、だいじょぶだよ」 
 どうやら、処女膜が破れた所以外は美夏に痛い所は無いらしく、寧ろ激しい抽挿で擦らなければ気持ち良くさえあるらしかった。 
 まぁ、痛さしか感じて貰わないよりは美夏も気持ち良くなって貰った方が俺としては気が楽だしな。 
 それよりも、いきなり激しく動かれたら俺の方が保たんかっただろう。 
 ゴム越しとは言え、性感帯全部に常に刺激を与えてくる美夏の膣は収まっているだけで十分気持ちが良いし、控えめながらも柔らかく潰れて押し当ってくる美夏の胸やその頂きの感触や、美夏そのものの抱き心地とかでかなり限界だった。 
 ――きゅうっ…… 
「――っ!?」 
 突然締め付けてきた美夏の膣の感触に、思わず全身に力が入った。 
「えへへへ〜♪ おに〜さん、今すっごく可愛い顔してたよ?」 
「み、美夏……?」 
 俺の反応に気を良くしたのか、初めての割に器用に加減を覚え始めた美夏がきゅっ、きゅっ、と俺を攻め立ててきた。 
「ほらほら、おに〜さん♪」 
「うおっ!?」 
 美夏の体が力む度に、襲い掛かってくる美夏の膣からの強烈な刺激。 
 更に地味に擦り付けられてたのが後押しになって、 
「――くっ……あ……」 
 呆気無く、俺は精液を放ってしまっていた。 
「わわっ!? 今、おに〜さんのがびくんって跳ねたよ?」 
「あ、あぁ、そりゃあ出たからな……」 
 お腹を押さえて驚いていた美夏に、俺は脱力感に浸りながらそう説明した。 
「? 出た?」 
「ええと、その、まぁ、射精しちまったって事なんだが……」 
 まぁ、男が射精するのは知っていても、それがどんなものなのかは実際に見てみなけりゃ分からんからな。 
「今のが射精だったの? おに〜さん?」 
「? いや、そうだが……」 
 だから今さっき、美夏も身を以て分かったんじゃないのか? 
「ぜ、全然分かんないよ。おに〜さん。どんな風になっちゃうのか、見えなかったもん」 
「……ええっと、美夏。まさかとは思うが……」 
 果てしなく嫌な予感がむくむくと膨らんでいくのを感じるんだが、多分こう言う時の予想は先ず外れないと言うのが定番なんだろう。 
 案の定、美夏が要求してきた内容なんだが、 
「ね、ねえ。もう一回、射精してみせてよ。おに〜さん」 
 これは一体、何の羞恥プレイなんだろうね? 
 
「く、う……。あ……」 
「へ、へ〜。お、男の人のってこんなに硬くて大きくなるんだ……」 
 にゅちっ、にゅちっ、にゅちっ、と両手で竿を扱きながら、俺の足の間に割り込んだ美夏が感心した声でそう呟いた。 
「何か先っぽから溢れてきてるけど、こ、これっておしっことかじゃないんだよね? おに〜さん」 
「あ、あぁ……、まぁ、先走り汁とか我慢汁とか言われてるんだが、正式名称はカウパー氏腺液と言うらしい……」 
 正直、さっきから美夏にいじられていてそれどころじゃないんだが、何とか俺は質問してくる美夏に答えられる範囲で説明をしていっていた。 
 何で俺が美夏に扱かれているのかと言う事なんだが、最初は俺が自分ですると言った手前、 
「わ、わたしがするよ! おに〜さん!」 
 と、妙に張りきった美夏に押されて美夏に射精させて貰う事になっちまったと言う次第だった。 
 確かに自分でするよりは比べ物にならないくらい興奮するし、気持ち良さもあるんだが、それ以上にちょっとばかし困った事になったと思う。 
「ほ、ほら、おに〜さん、気持ち良い? 気持ち良いよね? こ、こんなにびくびくさせてて、も、も〜本当にえっちなんだから〜」 
「ふっ、う……。ちょ、み、美夏?」 
 何か変なスイッチが入ったらしく、蕩け切った表情でそう語りかけてくる美夏。 
 その上、さっきから続いている強過ぎず弱過ぎずの絶妙な力加減とストロークのリズムがまた腰が抜けそうに気持ちが良くて、膨れ上がった性感がマグマみたいに湧き上がってきそうだった。 
「ほ、ほら。早く出しちゃっても良いんだよ? おに〜さん。も、もう、爆発しちゃいそうなのは分かってるんだからね♪」 
 射精の前兆を感じ取った美夏が、ラストスパートを掛けて一気に扱くペースを上げる。 
「く、うぅ……。で、出るっ……! っあぁっ……!」 
 そしてもう堪える事が出来なかった俺は、眩暈がしそうな快感と共に、二回目とは思えないくらいの精を美夏の前でブチ撒けたのだった。 
「わわわっ!?」 
 発射口が上を向いていた所為で、何か俺の腹の上が結構悲惨な事になっちまってるんだが、まぁ、ベッドやシーツを汚さなかっただけ良かったと思う事にしておこう。 
 取り敢えず、先ずは俺の体を拭いておかんと渇いた時に色々と切ない思いをしなくちゃならなくなるので、美夏にティッシュか何かを持って来て貰わんとな。 
 そう思って美夏に視線を向けたんだが、 
「すんすん……。ん〜、何かちょっと生臭いかな?」 
「……」 
 まぁ、あれだけ至近距離で致していたらそりゃあ美夏も汚れていても不思議じゃないよな。 
 顔くらいなら拭けば何とかなったかも知れんが、流石にボリュームのある髪に付いたら洗い流さんとイカンだろう。 
 と言うワケで、目立たない程度に汚れを落とした俺たちは水着持参でまた風呂に入る羽目になったのだった。 
 
 そして二人で入る事になった大浴場なんだが、 
「やっ、あっ、あっ、お、おに〜、さぁんっ」 
「み、美夏っ」 
 汚れを流し終わった俺たちは、バスチェアに座って二回戦目に突入していたのだった。 
「すご、い、ね。おに〜さん。にゃ、う。おに〜さんのが、わたしの中に、出たり入ったり、してる、よ」 
 掛け流しになっているお湯が排水溝に流れていく音に混じって、浴室に反響する卑猥な音。 
 そんな状況の中で、向かい合う形で俺の膝の上に乗った美夏が、ずらした水着の隙間から覗く俺たちの結合部分を見ながらその様子を実況していた。 
 まだ痛みは残るものの、どちらかと言うと気持ち良さの方が大きかったと言う事で、破瓜を終えたばかりの美夏はもう一度俺と繋がりたいと言ってきた。 
 最初は乗り気じゃなかったんだが、こっそりと近藤さんを持って来ていた美夏の用意周到っぷりやら、俺も気持ち良かったりやらで結局は両者合意の上での事になったのだった。 
「にゃ、にゃう、ふぁ、あっ、あっ」 
「くっ、うっ」 
 他人には見せられない痴態そのものな露骨な腰の動きさえも、もう俺と美夏との間だけなら認め合える愛の営みそのものになっていた。 
「ああっ、ふあっ、ふにゃあああっ!」 
「くっ……。――っあ!」 
 びくっ、びくっ、と美夏の背中が反り返ると同時に断続的に襲い掛かってきた膣からの締め付けに、俺も釣られて果てた。 
「にゃ〜……。おに〜さ〜ん……♪」 
 繋がった儘俺の肩に顎を載せて、匂い付けをする猫の様に甘えてくる美夏。 
 そんな美夏が堪らなく可愛くて、美夏を強く抱き締めた。 
「えへへ〜♡ おに〜さんに捕まえられられちゃったね♡」 
「俺も美夏に捕まったから、お互い様だろ」 
 両手どころか、両脚まで使われてホールドされてりゃ、そりゃもう逃げる気なんて起きんだろう。 
「どう? おに〜さん、みっかみかにされた気分は」 
 返事の代わりに俺は、もう一度強く美夏を抱き締めた。そんな俺の思いが伝わったのか、ふるふると震えた美夏がお返しとばかりにしがみ付いてくる。 
「宜しくな。美夏……」 
「うん、ずっと一緒だよ♡ おに〜さん♡」 
 どちらからともなく、それが当たり前であるかの様に俺と美夏の影か一つに重なり合う。 
 斯くして美夏の作戦は、成功と言う運びになったのだった。 
 
<了> 

楽天モバイル[UNLIMITが今なら1円] ECナビでポインと Yahoo 楽天 LINEがデータ消費ゼロで月額500円〜!


無料ホームページ 無料のクレジットカード 海外格安航空券 解約手数料0円【あしたでんき】 海外旅行保険が無料! 海外ホテル