天宮椎菜の秘策 
 
 『一寸先は闇』と言う言葉がある。 
 まぁ、意味は誰でも知っている通り、未来の事はたとえ少し先の事でも予想がつかない事が起こるかもしれなくて、結局は何が起こるのかは分からないと言う意味だ。 
 いや、何で今更こんな分かりきった事をいちいち言わにゃならんのかと言うと、今回俺に起こった出来事がまさに予想外だったと言うか、野良犬も歩けば保健所の役人からしょっ引かれると言うか、瓢箪から暴れ馬と言うか。 
 人生、何が起きてもおかしくないが、何が起きても良いって言うわけではないと俺は思う。 
 自分で言っておいて、何が何だがさっぱり分からんな。いかん、まだ俺自身混乱から醒めていないのかもしれん。 
 状況の整理も兼ねて、先ずは何が起きたのか順を追って一つ一つ挙げていきたいと思う。 
 事の始まりは、そうだな、先週の土曜日の放課後の辺りだと思う。 
 
「ねぇ、裕人。これからちょっと買い物に行くんだけど、ちょっと付き合ってくれないかな?」 
「ん?別に構わんが、何を買うんだ?椎菜」 
 今週最後の授業が終わり、クラスの連中が次々と放課後モードへと移っていく中、教科書を鞄にしまっていた俺に椎名が声を掛けてきた。 
「いや、これから用事があるなら別に無理して付き合って貰わなくても良いんだけど……」 
「用事はあるが、実は俺も買い物に行く用事だ。休日の前には、いつも買い物をして食料を買い溜めておかないとイカンからな」 
 既に社会に出ているものの、未だに家事を一向に覚えない姉とその親友の世話(主に食事)と、食料が尽きた時に深夜に買出しに走らされる羽目になる俺自身の為である。 
「へぇ、裕人ってお姉さんがいるんだ」 
 俺の説明に、椎菜が少し驚いた様な表情を浮かべた。そう言えば、椎菜はウチのアホ姉に会った事は無かった気がするな。まぁ、俺としては身内の恥は隠しておきたいのだが。 
「そう?私は裕人の、その、お、お姉さんに会ってみたい気もするけど……」 
 何故か吃り、「そ、それに……。あ、挨拶って結構大事だと思うし……」と、椎菜が人差し指を捏ね始めた。 
 心なしか頬が赤い気もするが、ちょうど窓から差してくる夕陽の色が俺たちの教室を照らしているので多分その所為だろう。 
 まぁ、確かに初対面での挨拶は大事かもしれんが、何もそこ迄緊張せんでも良いと思うが。 
「それより、椎菜。時間は良いのか?買い物に行くんなら早目に済ませておかないと売り切れたり、店が閉まるかもしれんぞ?」 
「あ!?そ、そうだね。それじゃ、悪いけどちょっと付き合って。裕人」 
 俺としてはちっとも困らんのだが、いくらフレンドリー娘の椎菜でも親しき仲にも礼儀を欠かないのだろう。 
 ウチの姉とその親友(副担任)、そして幼馴染(♂)にも見習って欲しいモンだが、そんなのは柔らかく炊いた米を固く炊き直すくらいに無理なので早々に諦める事にした。 
 そして、荷物を纏め終えて教室を出た俺たち二人は、さっきよりも少し傾き始めた夕焼けの中、足早に買い物に向かったのだった。 
 
 と、言うワケで俺と椎菜はさっそく街に買い物をしに来たのだが―― 
「ねぇ、裕人。もしプレゼントに貰えるとしたら、何が欲しいかな?」 
 二人で街中を歩いていると、藪から竹槍とばかりに椎菜からそんな事を訊かれた。 
「ん?誰かのお祝いか何かなのか?」 
「お祝いってわけじゃないんだけど、日頃の感謝の気持ちって言うか、あたしの気持ちって言うか……」 
「?」 
 最後の方は声が小さくて聞き取れなかったが、どうやら椎菜が誰かに贈り物をしたい事は解った。 
 今回の買い物に付き合って欲しいと言う椎菜の頼みも、恐らくそれが目的だったのだろう。 
 しかし、俺はふと思った。椎菜のプレゼント相手の好みや性格すら全く知らない俺の意見など、果たして参考になるのだろうか。 
「え?う、うん。すっごい参考になるよ」 
 なるのか。 
 まぁ、そのプレゼントする相手を知っている椎菜本人が参考になると言っているのだからそうなのだろう。 
「そうだな……」 
 俺が欲しいもの…… 
 この前取り損ねた『炊飯革命 nice rice!』が俺の脳裏に一瞬浮かんだが、そんなものを貰って喜ぶのは俺ぐらいのものだろう。それに、高校生がプレゼントに買うにはいくら何でも高過ぎると言うものだ。 
 貰う相手にも気を遣わせなくて、それでいて椎菜の気持ちが十分に伝わるもの、か…… 
 一応、俺の意見が参考になると言った椎菜の方針を尊重して、俺の欲しいものを片っ端から挙げてみたが、出てくるものは調理セットや全自動食器洗浄機などばかりだった(何故か台所に集中)。 
 いや、本当に俺なんかの意見が参考になるのか激しく不安になってきたのだが、それ以上に、俺の欲しいものがこんなのばっかりだった事にも驚いた。と言うか、ショックだ。 
「あはは〜。まぁ、裕人らいしと言えば裕人らしいかもね〜」 
 椎菜も困った様な(実際、困っているのだろうが)表情で笑っていたが、何処か嬉しそうな、納得した様な感じでうんうんと頷いていた。 
「スマンな、椎菜……。全然参考になりそうにないみたいだ……」 
「そんな事無いよ、裕人。再確認って言うか、やっぱりって言うか。裕人はいつも誰かの為になろうって思ってるから、そう言うものが欲しくなるんだとあたしは思うな」 
 そうなのだろうか? 
 俺としては、単に一番忙しい台所の作業(主にエサの準備)が少しでも楽になれば良いくらいしか思っていなかったのだが。 
「それでも、だよ。裕人の欲しいものは最後には誰かの為に繋がっているんだから、やっぱり裕人は素敵な男の子だと思うよ、あたし」 
「そ、そうか?」 
 流石に面と向かってそう言われると面映いと言うか、それよりも夕焼けの中ではにかんでくる椎菜が後光が見えるくらいに眩しいと言うか。 
 むぅ、イカンな。 
 同級生の女の子から「素敵な男の子」などと言われて少し(いや、かなり?)動揺しているのかもしれん。 
 心臓が32ビートで血液を消火ホースに水を送るポンプみたいに叩き出しているのか、耳まで自分の鼓動が聞こえてくる。 
「あれ?もしかして、裕人照れてるの?」 
「おわっ!?」 
 下から椎菜に覗き込まれ、そのお互いの前髪が触れそうな距離に思わず俺は驚いた。 
 いくら仲が良いとは言え、男である俺としては女の子である椎菜の顔を、触れてしまいそうな距離で直視するには抵抗がある。 
 いや、別に椎菜の事が嫌いと言うワケでは全然なくて、寧ろ椎菜の顔が可愛かったり綺麗だったりして落ち着かないと言うか。椎菜から漂ってきたシャンプーの匂いが良い匂いだったりとか。 
 ――むぅ。今の自分の思考が、突然の乱気流に巻き込まれて操舵不能に陥った小型セナス機の様に迷走しているのが分かる。 
 それに、椎菜は俺にとっては大切な友人だ。気まずくなる様な意識をすれば椎菜も困るだろうし、それにさっきの「素敵な男の子」も単なる褒め言葉なのだろう。 
 春香しかり、きっと変な意味(まぁ、アレだ…)ではなくて純粋な只の好意なのだ。 
 それを、俺の浅ましい期待で椎菜のフレンドリーさを踏み躙ってしまっては友人として申し訳が立たん。 
「そ、それよりも椎菜。プレゼントだ」 
「あ、そうだった」 
 俺の言葉に、椎菜も気を取り直した。 
「でもさ、やっぱり裕人も自分だけの欲しいものを見つけるべきだよ?」 
 そう言われてもな…… 
「もう、裕人はもっと我が儘になっても良いと思うんだけどなぁ〜」 
「いや、結構俺は今の状態に満足しているんだけどな?こうやって椎菜と買い物してるのも楽しいし、何より椎菜は俺の事を考えてくれてるし」 
 まぁ、今は椎菜はプレゼント相手の事について考えてもいるのだが。 
「椎菜は良い奴だから、そんな椎菜がプレゼントを贈りたいって奴もきっと良い奴なんだろうな。でも、やっぱり椎菜からそうやって大事に思われているって事がそいつにとって一番嬉しい事なんじゃないのか」 
「そ、そうかな?」 
「あぁ、椎菜も俺の事を色々考えてくれただろ?それだけでも俺は十分に嬉しかったぞ」 
「そ、それじゃあいつもと一緒になっちゃうからダメだよ!!そうやって、いつも助けて貰って、結局は何もしてあげられなくて、でも自分がしたかっただけだからお礼なんか要らないって言われて……」 
 最初は勢い良く出ていた声も、少しずつ萎んでいき、遂に椎菜が俯いてしまった。そんな椎菜を俺は黙って眺めていた。 
「やだ、何かあったのかしら?あの二人」 
「女の子を苛めてるの?」 
「嘘?サイッテー」 
 と、何やら非難めいた周囲の声が聞こえてきたが、それはこの際無視しておいた。 
 兎に角、どうやら椎菜のプレゼント相手は相当にデキた奴らしい。 
 もし出会う機会があれば、椎菜の友人として俺からも何か気の利いた挨拶でもしておかなくちゃいけないのかもしれん。 
「そうだな……。お?」 
 考えを巡らせて周囲を見渡していた俺の目に、雑貨屋のショーウィンドに飾られているマグカップが映った。 
「アレなんか良いんじゃないのか?」 
「え?」 
 俺の指差した先を見て、椎菜が声を上げた。 
「ホラ、あのマグカップなんだが」 
「『スケスケ半透明・流氷の肉食†天使クリオネマグカップ』?裕人はそれが欲しいの?」 
 椎菜の視線の先には、何やら十字架みたいな形をした半透明の奇怪なマグカップがあった。 
 いや、何かコレかなりリアルに造り込んであって相当グロテスクなのだが。一体誰がこんなカップで喉を潤す気になるのだろうかと思う。 
「いや、そうじゃない。その右隣だ」 
「へぇ〜。確かに結構良いかも……」 
 そこには、ディフォルメされた烏賊の取っ手のついたマグカップがあった。 
 デザインや何やらは全く問題ないのだが、只、一つ苦言を呈するとすれば。 
「『夫婦(めおと)槍烏賊マグカップ〜触腕で熱く抱き締めて〜』……」 
 椎名が呟いた通り。 
 二つで一セットのマグカップ(なんつー商品名だ…。と、思ったらさっきのクリオネマグカップと同じ会社の製品だった…)で、しかもカップル仕様ときていた。 
「え?裕人、それってつまり……?」 
 信じられない。と言った目で俺を見つめてくる椎菜。その俺を見る瞳が、ゆらゆらと熱を帯びた様に揺れていた。 
「い、いや。別にからかおうって言う気は全然無くてだな。単純にそのデザインが良くて、あと、椎菜も烏賊が好きだろ?だからその、椎菜らしさをいつでも相手が忘れないようにって思って……」 
 思い付く理由を次々とシャリを出す回転寿司の自動握り機みたいに(フル稼働中)並べていく俺だが。 
 何故か言葉を重ねる度、ワケのワカラン羞恥心がまるでサバンナを大軍勢で疾走するバッファローの如く俺の中で暴れまくっていた。 
「ほら、何ならもう一個は椎菜が持っておいていれば相手には分からないから。いや、俺も何となくコレに眼が留まっただけで、他にも色んなものもあるわけだし」 
「でも、裕人はコレが良いって思ったの?」 
「あ、あぁ……」 
 確認する様に尋ねてきた椎菜に、俺はしっかりと頷いた。 
 確かに、名前や仕様はアレかもしれんが、このカップに何か光るものを感じたのは本当だった。 
 椎菜は「そ、そっか……。これを使ってくれてる間は、あたしの事を思い出してくれるんだ…。そ、それに、あたしもこれを使ってれば……」などと、口の中で何やらモゴモゴと呟いていたのだが。 
「決めた!!これにするね!!」 
「そ、そうか?」 
「うん!!絶対にこれにする!!」 
 決意を固めた椎菜が自分の頬に、ぱんっ、と気合を入れると、目の前の雑貨屋に入っていった。 
 ショーウィンドに飾られていたマグカップ(『夫婦(めおと)槍烏賊マグカップ〜触腕で熱く抱き締めて〜』)が店員によって運び出され、代わりのマグカップ(今度は忠犬と狂犬の奴だった…)が飾られる。 
「裕人、買えたよ!!」 
「あぁ、良かったな椎菜」 
 満面の笑みを浮かべ、椎菜が件のマグカップ(『夫婦(めおと)槍烏賊マグカップ〜触腕で熱く抱き締めて〜』)の入った袋を大事そうに抱えて戻ってきた。 
 やはり、カップルもののカップ(洒落ではない)を買うのは恥ずかしかったのか、椎菜の頬が少し赤かった。 
「いや〜、さっき店員さんに『あの彼氏さんとですか〜。らぶらぶですね〜』って言われちゃって……」 
 それは接客態度としては如何なものか……? 
 まぁ、目の前の椎菜は別に気にしていないみたいだから俺が気にしても仕様が無いのかもしれん。 
「それより、椎菜の贈ったプレゼントが喜んで貰えると良いな……」 
「うん。あたし、絶対に渡すよ。だって、座右の銘は『先手必殺』だからねっ!!」 
 それは贈り物をする場合に使用する言葉なのか? 
「あはは〜。でも、そう言う場合もあるかもね」 
 そう言うと椎菜は清々しい笑顔で笑った。 
 シャギーの入った椎菜のショートヘアーが、元気に揺れていた。 
「あ、それと裕人。何度も悪いんだけど、もう一つお願いしても良いかな?」 
「あぁ、構わんぞ?何でも言ってみろ」 
「本当?」 
 俺の承諾に椎菜が、ぱぁっ、と目を輝かせた。そこまで期待されると、何か多少無茶な要求でも(三分でツマミを作らされるとか)飲んでしまいそうになるが、そこは椎菜の人徳と言うやつだろう。 
 椎菜は「それじゃあ……」と言うと、内緒話をする様に俺の耳元に口を寄せてきた。 
 その、何と言うか、椎菜の匂いがすると言うか、すぐそこに椎菜の頬や息遣いがして――って、これじゃイカンだろう友人として。 
 変な気持ちになるんじゃないぞ、俺。これは別に変な意味ではなくて、友人同士での単なるコミュニケーションなのだ(だよな?)。 
 そして、俺だけに聞こえる声で椎菜の次の頼み事が囁かれた。 
「……は?」 
「じゃあ、そう言う事だから、裕人。お願いするね〜!!」 
 呆気に取られる俺のアホ面に、椎菜が、ビシッ、と敬礼で挨拶をした。 
「今日は付き合ってくれて有難う、裕人!!じゃあ、またね〜!!」 
 そう言うと、椎菜は人混みの中に消えて、その場に俺だけが残された。 
 一方、俺は鳩がレールガンを食らった様な、そんな表情で立ち尽くしていた。 
 目の前過ぎ行く人たちを眺めながら、俺の頭の中では椎菜の『頼み事』の内容が昨年壊れたCDコンポの様に何度も再生されていた。 
 『明日、裕人のウチにお泊りに行くね』 
 こうして、何故か椎菜の綾瀬家宿泊(一泊二日?)が予約されたのだった。 
 
 確かに、ウチには色んな人が泊まりに来る事があった。 
 由香里さんはほぼ毎日ウチに泊まっていくし(流石にウチに来る時の挨拶が「たっだいま〜、裕く〜ん。おねいさんが帰ってきたわよ〜♪」なのはどうかと思うが…)、信長や真尋ちゃんも泊まりにきていたモンだ。 
 最近では春香の家出やらクリスマスやらで、春香も泊まりに来る事もあったな。 
 いや、何でこんな回想に耽っているのかと言えば、今回の事態に対して過去の事例を列挙する事で問題の矮小化を狙っていたりするワケなのだが。 
「どうも、落ち着かんな…」 
 何故か俺の中では、椎菜がウチに泊まりに来る事に対してどうも身構えが出来てしまっていた。 
 そもそも、保護者(副担任もいるが)監督の状況下にあるとは言え、年頃の男女が一つ屋根の下でお泊まりをするなど、あまり好ましい事ではない。 
 が、それが分からない椎菜ではないのできっと何か理由があるのだと思う。 
 まぁ、単に遊びに来ただけならそれはそれで構わんが。 
 幸いにも、ウチに部屋は余っているからその部屋で過ごしてくれれば良いのだが、それでも何か胸の奥では風呂場のタイルの隙間にこびりついた黒かびの様な拭いきれない胸騒ぎがしていたのだ。 
 別に、椎菜が来る事自体は全然困る事じゃないんだけどな。 
 う〜む、この状況を何と言ったら良いのかいまいちピンと来んな…… 
 と、 
 くっくどぅ〜どぅ〜どぅ〜〜〜〜〜〜〜〜。 
 我が家の洋物ニワトリ声の呼び鈴が鳴り響いた。 
 
「あはは〜っ!!裕人の家の呼び鈴って面白い音がするんだね〜!!」 
 玄関のドアを開けると、そこにはショルダーバッグを掛けた椎菜が腹を押さえて笑っている姿があった。 
 そこにいるのはいつもの椎菜で、それを見ていると悩んでいた俺の方が何だかアホらしく思えてくる。 
 きっと、椎菜が初めてウチに泊まりに来たからそれで緊張してたのかもしれないな。 
「良く来たな、椎菜。じゃあ、早速上がってくれ」 
「うん。それじゃ、お邪魔させて貰うね」 
 そう結論付けて、俺は椎菜の訪問を素直に喜んでいたのだった。 
 取り敢えず、椎菜をリビングに案内して、部屋割りやら何やらの話を始めようとしていた時、奥のドアがかちゃりと開けられた。 
「おや?確か今日、裕人の友人がウチに泊まりに来ると言っていたが、君だったのか……」 
 私服姿のルコが(多分、寝起き)が椎菜を見るなり、何やら楽しそうな表情を浮かべて部屋に入って来た。 
「あ、裕人のお姉さんですか?こんにちは。あたし、天宮椎菜って言います。今日一日、お世話になります」 
 折り目正しい椎菜の挨拶に、年長の貫禄(あるのか?)を思わせる仕草でうんうんとルコが鷹揚に頷いた。 
「あぁ、私は綾瀬ルコ。裕人の姉だ、宜しく。そう言えば、一度文化祭のミスコンで見たことがあったな……」 
 普段はレトルトカレーを鍋に入れて五分もすれば忘れてしまう我が家の暴君でも、そんな事は覚えていたらしい。 
「え?ルコさんも見に来てたんですか?」 
「私は面白そうなイベントには積極的に参加する様にしているからな。その点で言えば昨年の文化祭は中々に面白かったと言えるな」 
 それならもっと他の事に趣味を持って欲しいのだが(酒や大食やら日本刀以外の何かに)、わざわざそれを口にして突付いた藪からリヴァイアサンを出しても仕方が無いのでここは黙っておく事にしておこう。 
「――と言うワケで、裕人。鍋の準備だ」 
「もうある程度はしてるぞ」 
「ほう、それは良い心掛けだな」 
 誰かがウチに泊まりに来る度に決まってルコが夕食を鍋にしろと言うのは、パブロフの犬が鈴の音を聞いて飢餓を覚えるくらい当然の成り行きなんでな。 
「で、何鍋にする予定なんだ?蟹か?鮭か?はたまた牡丹か?」 
「いや、まだ何にするかは決まってないが、何にでも出来る状態だな」 
 って言うか、牡丹鍋って一体何処から猪の肉なんて調達すりゃ良いんだよ? 
「乃木坂さんの妹さんに頼んだらどうだ?確か猪の餌付けが趣味らしいと聞いたが?」 
 その場合、調達してきた牡丹肉は美夏が餌付けしているペットの猪の肉になるんじゃないのか? 
「まぁ、今は特別に牡丹鍋が食べたいワケでもないし、鍋の具材については裕人の裁量に任せる。私は部屋に戻るから、料理が出来そうになったら教えてくれ。天宮さんも、それまで適当に寛いでいてくれ」 
「あ、はい」 
 椎菜の返事を聞くと、ルコは再び何処ぞの森へ帰る巨大ダンゴムシモドキよろしく奥の自室へと戻っていった(多分、二度寝だろう)。 
 そんなルコの後姿を見て、椎菜がほぅ、と溜息を吐いた。 
「……裕人のお姉さんって、すっごい美人さんなんだね」 
「……は?」 
 椎菜の言葉に、寝耳に放水洗浄(ジェット噴射)を食らった状態の俺は呆然とそんな声を上げてしまった。 
「堂々としてて、スタイルも良いし、何か格好良い感じだね。良いなぁ、あたしもあんな感じの素敵な女の人になりたいなぁ……」 
 それはもう生まれたての小鳥が初めて見た椅子を母鳥と信じて疑わない様に(酷い実験だな、オイ…)、インプリンティングなご様子の椎菜が憧憬の溜息を吐いていた。 
「いや、それは何と言うか……」 
 確かに、ルコは弟の俺からしても見てくれは良いとは思うが、見てくれに騙されてはいけないと言う実例の最たるものだと俺が太鼓判を血判で押せる人物だ。 
 春香といい、椎菜といい。どうしてウチに来る女子は悉く第一印象でルコに羨望の眼差しを向けるのだろうか。 
 かと言って、いい気分に浸っている椎菜にわざわざルコの実態を聞かせてがっかりさせてしまうのは俺としても偲びないし、何より身内の恥部を晒すなど愚の骨頂だろう。 
 食事時になれば(無論、その後の酒盛り地獄もだが)あのアホ姉の本性も椎菜に分かるだろうし、その時までは夢を見させておこう。 
「あ、あ〜、椎菜。先ず、二階の和室の部屋に行って荷物を置いてきたらどうだ?そこが椎菜が泊まる部屋なんだが……」 
「えっと、どの辺りなの?」 
「俺の部屋の隣だ。今、案内するから」 
「え?ゆ、裕人の部屋の隣……?」 
 俺の部屋の隣だと聞いた椎菜が、ドアノブを掴もうとして静電気に指先を弾かれたかの様に僅かに体を強張らせた。 
「あ〜、その、何だ。椎菜もやっぱり男の俺の部屋の隣が色々とまずいと思うならもう一つの空き部屋に移って貰っても良いんだが――」 
「ううん!!全然平気だから気にしないで、裕人!!」 
 全力で、それこそ水に濡れた犬が周囲に散弾の如く水を撒き散らすくらいの勢いで椎菜が首を振った。 
「そ、そうか……?」 
「うん。それに何か用があった時は裕人が近くにいてくれた方が色々と心強いしね」 
 首の振り過ぎで頭に血が上ったのか、椎菜は赤い顔で俺の部屋の隣を希望してきた。 
 学校でも隣の席なんだが、ウチでも俺が隣で椎菜が安心するのなら良いのかもしれん。 
 何より、椎菜にここまで要求されてはそれを無下にするのもアレだしな。 
「で、ここが椎菜の泊まる部屋なんだが……」 
 二階の和室の前に連れてきたものの、椎菜は隣の俺の部屋の方が気になっているらしく、飼い主から『待て』を命じられて血走った目をエサに向ける忠犬の様な視線を俺の部屋の扉に向けていた。 
「え〜っと、椎菜?良かったら、俺の部屋に入ってみるか……?」 
「えぇっ!?良いの、裕人!?」 
「俺は椎菜の部屋に入った事あるしな。俺だけって言うのもフェアじゃないだろ?」 
「そ、そうかな?そ、そうだよね……?」 
 犯行前のやけに挙動不審状態の犯人の様な椎菜だったが、俺は構わず自室のドアを空け、椎菜をそこに招き入れた。 
「へ〜。裕人の部屋ってこんな感じなんだね〜」 
 部屋を見渡した椎菜が感慨深そうに呟いた。 
「結構綺麗にしてるし、何か想像していたのとは大分違うかも」 
 基本的に壁など有って無きが如しだからな。ルコのアホがドアを蹴破ってくるもんだから、いつでも片付けておかないとその余波で余計なものまで壊されかねん。 
 加えて、ウチの副担任のセクハラ教師が「裕く〜ん、やっぱり裕君くらいの年頃の健全な男の子なら、発情して有り余ったその熱い欲望の捌け口の一つや二つあるわよね〜?」とガサ入れしてくる始末だしな。 
「――と、椎菜。俺はそろそろ食事の準備をしてくるけど」 
「あ、うん」 
 迫り来る夕飯の支度をすべく、俺は階下の台所へ向かって部屋を出ようとして。 
「あ、あの、裕人」 
「ん?どうした、椎菜?」 
 椎菜に呼び止められた。 
「えっと……。もうちょっとだけ、裕人の部屋に居ても良いかな?」 
「?あぁ、全然構わんが、何なら適当にその辺の物を見てくれても良いぞ?」 
 入って直ぐ終わりでは、この前の天宮家訪問とは釣り合わんだろう。それに、ルコや由香里さんのお陰で部屋には見られて困る物など殆ど無い状態だからな。 
「料理の準備が出来たら呼ぶから、それまでは俺の部屋でも椎菜の和室でも好きな方で寛いでいてくれ」 
「うん、有難う。裕人」 
 椎菜と言葉を交わすと、早速俺は台所で愛用のエプロン(飢噛のロゴ入り)で鍋の準備を始めたのであった。 
 

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