電車を降りた途端に鼻腔をくすぐった潮の匂いに信子は目を細めた。  
「野ブターーー!」  
 改札の向こうで彰が飛び跳ねながら手を振っている。  
 それに苦笑しながら軽く手を挙げて、その隣にいるものだと思っていた人間の不在に気付いた。  
「…修二は?」  
「えぇー久々に会っていきなりそれはなーいでしょ!俺にはなんか言うことないわけー?」  
「久々って……先週、会った、よね」  
「一日でも会わなかったら久々なぬー!ほらほら、会いたかったーとか、ぎゅーとか、してしてっ」  
 言うだけ言っておいて、最後には「野ブタがやらないなら俺がやる」とばかりに抱きついてきた。  
 信子がそれを拒まないのは無駄だと悟ってしまったからだ。  
「………修二は?」  
「修二君はおべんと作ってマース!だからお迎えは俺一人だっちゃ」  
 そして彰が指差した先には修二の自転車があって、信子は少し笑った。  
 わざわざ彰がそれに乗ってきたということは、そういうことなんだろう。  
「システムオールグリーン。野ブタ号、発進!」  
 信子を後ろに乗せて彰が自転車のペダルを踏み込む。  
 頬を撫でた風はやはり海の気配がして、不思議な感じがした。  
「本艦の任務は小谷信子の護送でアリマス」  
「……艦?」  
「さっらっばー地球よー」  
 機嫌好く、しかし渋い声で歌い出した彰の背中に体重を預ける。  
 そっと腕を回したら歌声が裏返った。  
 
「――あ」  
 坂道を下って、突然眼前に開けた景色に信子が声を上げた。  
「海」  
「だーっちゃ」  
 自転車はそのまま海沿いの道を走る。  
 海面を乱反射する光をぼんやりと眺めていたら、浜辺にいた少年たちがこちらを指差すのが見えた。  
「あ、あれね、今の学校のやつら」  
 彰がそう言って右手の狐に挨拶させる。  
 少年たちは口々に何か叫んでいた。  
 おそらく信子についてだろう。  
「野ブタだよ!」  
 その回答だけで納得したらしい。  
 それ以上何も訊かずに手を振る姿を見て思わず信子は彰に尋ねた。  
「わ、私の話、こっちで、してるの?」  
「してるぬー」  
「なっ、なんて?」  
「俺の一番のうちの一人ってー」  
 不明瞭な言葉でも信子には伝わった。  
 思いのほか嬉しくなって、それを隠すように腕の力を強めたら彰が大きくバランスを崩した。  
「とうちゃーく、だっちゃ」  
 しばらくして、浜辺へ続く石段の前で自転車は停まる。  
 気付いた修二が駆け上ってきた。  
「野ブタ!」  
「修二」  
「久しぶり」  
 
「うん。修二、焼けた?」  
「え、マジで?あぁでもそうかもな、彰が毎日飽きもせず海で」  
「しゅーじぃ!腹減ったナリー!」  
「うるせーな、今野ブタと話してんだから待ってろ!」  
 修二と彰のケンカのようなやり取りを見て信子が控えめに吹き出した。  
「え、なに?」  
「ううん。修二、変わってないなって、思って」  
「変わってないって……最後に会ったの、二ヶ月前?じゃん」  
 そう簡単に変わんねえって、と言う修二に信子は曖昧な笑顔を浮かべた。  
「うん、そうだよ、ね……」  
 その様子に修二が問いかけようとした言葉は、腹を空かせた彰の催促に打ち消された。  
 
「空は青いし、海も青いし、修二のおべんとはうまいし、サイコー!だっちゃ」  
「お前そんなとこに寝んなよ」  
 砂入んだろ、という修二の言葉をまるっきり無視して彰は砂浜に寝転がった。  
「そんで隣に修二と野ブタがいてー、俺もうなんもいらなーい」  
 満足そうに目を閉じる。  
「安上がりな奴だな」  
 修二の半ば呆れたような笑い声に、けれど反論は返ってこなかった。  
 まさかと思って彰を見やれば、規則正しい寝息を立てていた。  
「……寝ちゃっ、た」  
 呆然と信子が呟いて、修二は彰の隣に腰を下ろして顔を覗き込んだ。  
「まあ昨日あんまり寝てなかったみたいだしな」  
「そう、なの?」  
「夜中に超テンション高い電話掛けてきてさ。うるせーから電源切って俺は寝たけど。あの調子だと」  
 信子も同じように座り込んで、ぼんやりと彰の寝顔を見つめた。  
 
「……だからさ、こいつがお前置いて変わることなんかないと思うぞ」  
「え……?」  
 唐突な言葉に修二を見れば、昔よく見た宥めるような微笑を浮かべていた。  
「さっき変な顔してたから。そういうことだろ?」  
 修二には隠し事なんてできないのかもしれない。  
 俯いて信子は服の裾を握り込んだ。  
「……こっちの学校の人、に、会って。当たり前なんだけど、こっちでの生活も、あるんだなって」  
 ここで彰がどういう暮らしをしているのか私は知らない。  
 ここには私の知らない彰が存在している。  
「わ、我侭、なのかな。そう思ったら急に、寂しく、なっちゃって」  
 修二は小さく息を吐いて、視線を海へ向けた。  
「お前さ、そういうことは起きてるときに言ってやれよ」  
 なんだってこの二人は揃いも揃って。  
 お互いどれだけ好きなのか俺のほうが知ってるって、おかしいだろ。  
 そんな非難は言えそうにない面倒見の良すぎる自分を修二は軽く恨んだ。  
「確かにお前の知らないところだってあるだろうけど、でもそんなの、そばにいたって一緒だぞ?」  
「……そうだけど、」  
「だからそんなことよりも、お前といるときが一番こいつらしいってことのほうが重要なんじゃないの」  
 違う?  
 修二の問いに信子はゆるりと顔を上げる。  
 何も知らずに眠り続ける彰を数秒見てから、修二のほうを向いて微笑んだ。  
「…違うよ。修二もいなきゃ、彰じゃないよ」  
 だからどうしてその顔を俺じゃなくて彰に見せてやらないんだ。  
 そんな考えも頭をよぎったけれど、結局修二は父親のような気分で笑った。  
 

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