「しゅーうーじーくん」
教室に入るなり彰に捕まった修二は少しだけ顔を顰めた。
彰がこういう声で呼ぶときは大概ろくでもないことを言うときだ。
「……なに」
わかっていても訊かざるを得ない。
それは修二の人の良さか、あるいは彰の強引さか。
「ごめーんね」
「は?」
誠意のまったく感じられない、見に覚えのない謝罪に短い疑問符を吐いた。
そこから修二の記憶は途切れている。
「うわぁ修二、ドゥーしたの」
棒読みでそう言うと彰は倒れ込んだ修二を担ぎ上げた。
呆気に取られているクラスメイトたちに、狐と共に笑いかけた。
「修二が具合悪いみたいだから、早退するのよーん」
「海辺の狐から砂漠のブタへ。ターゲット、捕獲しました」
「ま、まり子さんっ」
二限と三限の間、という微妙な休み時間に訪ねてきた信子を見てまり子は目を丸くした。
「どうしたの?」
信子はそわそわと落ち着かない様子でまり子の腕を引っ張った。
「ちょ、ちょっと、来て」
鞄まで持たされ首を傾げながらもまり子は信子に従う。
腕を掴んだままずんずんと歩き進んだ信子は昇降口を通り過ぎて校庭も横切って、校門を出てようやく止まった。
それからほとんど直通回線になっている携帯電話を取り出してボタンを押す。
「さっ、砂漠のブタからっ海辺の狐へ。目的地に、到着」
物々しい口調にまり子が思わず吹き出した。
一体なんなの、と聞こうとした瞬間に真後ろから声が響いた。
「ラジャー。行動を開始します」
聞き覚えのある声に振り向けばそこに黒の学生服を着た彰が立っている。
さすがに思考が追いつかなくてぽかんとしていると、彰が笑って物陰から何かを引っ張り出した。
「小谷信子さんから上原まり子さんにお届けもの、だーっちゃ」
そして彰がまり子に差し出したのは、彰と同じ黒い学生服を着た、
「……まり子」
幾分げんなりした修二だった。
にやにや笑う彰と、俯いている信子と、ただ呆気に取られているまり子を交互に見やって特大の溜息を吐く。
もう怒鳴るのも疲れた。
「……修二…なに、どうしたの?」
「それはそっちの二人に聞いて。っていうか俺が聞きてえよ…」
鳩尾に強烈な一発をぶち込まれてから記憶がない。
まだ胃の中がおかしい。
「あっ、あのねっ」
躊躇いがちに信子が口を開く。
「まり子さんがっ、今日、誕生日だって…だから」
「……だから?」
修二のその声が怒っているように聞こえたのだろうか、信子は思わず彰の後ろに隠れるように退いた。
信子が黙ってしまったので彰が代わりに続ける。
「だーから、修二君をプレゼント、フォー!ユー。なぬ」
おわかり?
可愛らしく小首を傾げて彰は言った。
「でもって、これが俺からのプレゼントなのよーん」
そう言って遊園地のチケットを取り出すと修二の胸に押し付けた。
力一杯顔を顰めた修二など気にしない様子で彰はうひゃひゃと笑う。
「……お前らなあ」
「修二君に発言権はございません。ってか修二、俺がいないと帰れないっしょ?」
無理やり攫ってきておいてよく言う。
けれど律儀な修二はその言葉も飲み込んで黙り込んだ。
「ってなわけで、ドゥーぞ!」
子供のような笑顔の彰と疲れた笑顔を浮かべる修二に、まり子は曖昧に笑った。
ふと信子を見やれば、少し不安そうな顔でこちらを窺っていた。
「……じゃあ、ありがたく頂戴します」
「まいどっ」
彰はぱちんと指を鳴らして、修二は少し意外そうな顔でまり子を見た。
まり子は信子を見て、笑った。
「ありがと、小谷さん。最高のプレゼントだね」
その言葉を聞いて信子の顔が綻ぶ。
それを見てようやく修二が諦めたように表情を緩めた。
「行こ、修二」
「うっそ、制服で?」
「楽しそうじゃない」
まり子は修二の手を引く。
背後で彰と信子が手を振っていた。
「修二学ラン似合うね」
「え、そう?」
「真面目そうに見えるよ」
なんだよそれ、と笑いかけて修二が不意に黙り込んだ。
「修二?」
不思議そうにまり子が呼ぶと、少しだけ口元を歪めた。
自嘲の混ざった皮肉な微笑。
「ほんとはさ、こんなに早く会うつもりなんてなかったんだ」
真面目そうじゃなくて、本当に真面目になるまで。
「もっとマシな人間になってから、って…そしたら今度は、ちゃんと向き合えるんじゃないかってさ」
それがあいつらのせいで台無しだよ。
修二は笑って、けれどまり子は真直ぐに修二を見た。
「ずるいよ修二」
「え?」
「それって結局、本当は向き合ってくれないってことじゃないの?」
何故そんなことを言われるのかがわからなくて修二はただ戸惑う。
怒っているなら宥めるのなんて簡単なのに、そう泣かれそうになってしまうとどうしていいかわからない。
「情けなくったって、かっこ悪くったっていい。本当の修二が知りたい」
射抜いてきた瞳は強い意志を覗かせていた。
そういえば、と修二は思い出す。
たとえ見せ掛けでも偽りでも、まり子を選んだのはこの目が好きだったからだ。
「私じゃ駄目なの?受け止めさせてくれないの?」
本当はとうの昔に、一度まり子を選んでいたんだ。
いまさらそれに気付いて修二は笑いそうになった。
「……まり子だから、駄目なんだよ」
微妙な言い回しの差異にまり子が眉根を寄せる。
その目を直視できない自分を情けなく思いながら修二は呟く。
「まり子だから。死んでも見せたくないんだ、そんなとこは」
「…どういう、こと?」
まり子が目を瞬かせた。
修二は、昔のように都合のいい言葉が出てこないことに愕然として、同時に安堵もした。
「……まぁ、そこは男のプライドってことで、勘弁して」
曖昧に言葉を濁して、また何か訊かれる前にその手を取って歩き出した。
不器用な言動にまり子は目を瞠り、それから軽く溜息を吐いた。
「肝心なところは言ってくれないんだ」
やっぱり、ずるい。
不満そうに言いながらも握り返してきた手に修二は今度こそ破顔した。
「だからさ、俺がもっとマシな人間になってからってこと」
「……、」
「そしたら言うから。絶対に言いに行くから、それまで待っててほしいんだ」
修二は顔を見ようとはせず、まり子からは表情がわからない。
それでも繋がれた手に感じた僅かな力に、嘘なんてないと信じることにした。
「……私は今の修二のままでも、」
その続きは声には出さずに呟いた。
なに、と修二が振り返る。
「ナイショ」
「気になんじゃん。今の俺のままでも、なに?」
言わなくても答えなどわかっているくせに修二は笑った。
「修二が言ってくれるまで、言ってあげない」
だからまり子は悪戯っぽく微笑んだ。
「女のプライドってことで」
「…いまさら、だけど。なんで、砂漠なの?」
「東京っていったら砂漠なのよーん」
とーきょーさばっくー。
彰が歌い出したので信子は小さくなった二つの背中に目をやった。
「次の任務を発表します!」
唐突に彰が大声を出した。
慌てて信子が振り返ると、さっきも見た紙切れを突きつけられた。
「あの二人の尾行及び監視ナリッ」
ひらひらと目の前で踊るネズミを見ながら信子は黙り込む。
まり子の笑顔が浮かんで消えた。
「……駄目、だよ。邪魔したら」
「邪魔はしないぬー」
「だめ」
強く言い切られてしまって、彰には引き下がる以外の選択肢はない。
そのチケットも飛行機にして飛ばしてしまおうとした矢先、信子に手を掴まれた。
「い、行くなら、普通にっ行きたい」
「………え。え?」
「鞄、取ってくる」
そして校舎へ戻っていった彼女の後姿を呆然と見やる。
その足取りが少しだけ浮かれているような気がした。
「…ミッキーマジック?」
彼女の境遇を考えれば、誰かと遊園地に行った経験もなかったのかもしれない。
それはとりあえず置き去りにして、彰はネズミに感謝してみることにした。