携帯電話が何度目かの電子音を響かせている。
ディスプレイを見なくても、特別に設定された着信音を聞かなくても、相手はわかりきっていた。
それに心の中で謝り続けながら、信子は鏡台の前から動かなかった。
最後の線を引く。
鏡の中でいつもと少し違う自分が見つめ返していた。
ちょっと微笑んでみて、それから思い出して慌てて立ち上がる。
まだ彼女を呼び続けている携帯電話を掴むと大急ぎで部屋を出た。
「ごっ、ごめんね、今家出たとこでっ」
住宅の階段を駆け降りながら通話口に話しかける。
返事は、スピーカーからでなく目の前から返ってきた。
「野ブタおっそーい」
共同玄関を出た先の植え込みのところに座り込んでいた彰が立ち上がった。
「なんかあったのかと思うでしょーが」
「……ごめん、なさい」
「まあなんもなかったみたいだからいいけどー、」
ふと言葉を切って、ずいと距離を縮める。
信子の顔を覗き込んだ彰はしばらくして指を鳴らした。
「お化粧!してるー」
「…う、ん。最近、まり子さんに、教えてもらってて」
「そんで遅れたぬ?」
申し訳なさそうに信子は頷いたが、逆に彰は少し幸せな気分だった。
毎週末繰り返される彰の帰省に合わせた二人の時間は大概彰の部屋でぼんやりと過ぎる。
とてもデートとは呼べないそれのために彼女が何かしてくれるというのは、それだけで幸せなことじゃないか。
「……あの…変、かな」
あまりに見つめられて不安になったのか信子が尋ねた。
「全然変じゃなーい。修二風に言うと、かわいーかわいーちょーかわいーって感じー?」
頬をつつくと少し困ったように微笑んだ。
それを見て自分も口元を緩めた彰は、急に思い付いて考え込む。
「……んでもー。これだけ、やめにしない?」
言って口唇を示した。
そこには今は薄紅色が引かれている。
「………なんで?」
一番目立つ場所にだけ手を付けないというのは不自然だ。
訊くと彰は何故か戸惑ったように答えた。
「な、なんでって、ねえ。あの、味とか、変わりそうじゃ、ない」
「……?」
信子が訝しげな顔をする。
彰は辺りを見回して、いきなり薄紅色に自分の口唇を重ねた。
「っ、!?」
唐突なキスに信子は目を見開いた。
その隙にも彰は歯列を割って入り込んで、いやに丁寧に舐め上げていった。
「……やっぱ、マズイ。のよーん」
決め台詞を真似て、うえ、と舌を出す。
呆然としている信子の口唇を指で辿って、真面目な顔で追い討ちをかけた。
「それにほら、ドゥーせすぐ落ちちゃうっしょ」
当たり前のことのように彰が言うので、言葉の意味に赤面するのに数秒の間が開いた。
無意識で無自覚だから余計に対処に困る。
微かに写った淡いピンクを指摘したら喜んでそのままにしそうな気がしたから、黙ってハンカチで拭うことにした。