職員室から出てきた彰は笑顔でVサインを見せ付けて、彼が平穏な冬期休暇を勝ち得たことを示した。
「いやー人間やればできるもんなんだネッ」
けらけらと笑う彰に並んで歩きながら、信子も少しだけ口元を緩めた。
「…うん。彰、頑張ったもん、ね」
「これで冬休みも毎日一緒、だーっちゃ」
何気ない一言に信子はふと彰を見た。
それに気付いて彰が見返せば、おそらく彼ともう一人にしかわからない程度に嬉しそうに頷いた。
「………あ、」
ぱちん、と指を鳴らす。
「忘れてた」
「…何?」
「ご褒美」
信子が眉間に皺を寄せた。
気付かないはずもないのに彰は軽い調子で続ける。
「全部終わらせたから、ご褒美。ちょーだい」
「……そんな約束してない」
一方的に彰が喚いていただけで。
「えぇーっ?彰ショーック」
よたよたと壁に倒れ掛かる。
どうせこのまま放っておいたってすぐに立ち直るはずだ。
そんなことは知っていたのに、のの字を書き始めた彰がいやに可愛かったので信子は自分の甘さに溜息を吐いた。
「……わかった、から。歩いて」
袖を引くと彰がひどく驚いた様子で顔を上げた。
「えぇっ!?わ、わかったって、なな何?」
そんなにこの反応は意外だったんだろうか。
何故か焦る彰に少し気を良くした信子は、今度は腕を取って美術準備室へ引き摺るように連れ込んだ。
「……野ブタだいたーん」
キャーすけべ、といつもの調子を取り戻しつつある彰が後ろ手に鍵を掛けた。
「…誰のせい、だと」
「えっ俺のせいなんすか」
真面目な顔で聞かれてしまって言葉に詰まった。
確かにこの状況は彰のせい以外の何物でもないが、今のはニュアンスが違う気がする。
「うっかー俺のせいで野ブタ大胆なのかー」
「……っ何が、欲しいの」
変な笑いを浮かべて顔を覗き込もうとしてくる彰から顔を背けつつ信子は問う。
しばらく考えた彰は、やがて思い付いたという顔で人差し指を突きつけた。
「野ブタからー、キスして?」
思っていたよりずっとささやかな望みに信子は目を丸くする。
「……それ、だけ?」
「なーにー。もっとすごいことしてくれちゃいますか?」
それはそれで大歓迎だけどー。
また彰が笑って、信子はかなり毒されてきた自分に気付いて顔を赤くした。
「………だっ、だったら目っ、瞑って」
「かーしこーまりー」
ごまかすような早口の要求に彰は素直に従う。
まだ熱い自分の頬に手を当てて、改めて信子は彰を見上げた。
背伸びしないと届きそうにないと考えて、あれ、と思う。
彰は決して小さくはない。それどころか修二よりも背が高いし、自分より頭半分は大きい。
だというのに背伸びはおろか、見上げた記憶もあまりない。
それは彰がいつも自分に目線を合わせてくれるからで。
「どんときちゃって、どーんと」
ああ、なんて、ずるい人だろう。
無意識に、それを優しさとも知らず、当たり前のようにやってのける。
そして後から気付いてばかりの自分には、感謝の言葉さえ言わせてくれない。
「野ーブーター」
促す声に信子は小さく息を吐くと彰の両肩に手を置いた。
爪先に力を入れる。少し距離が縮まる。
更に踵を持ち上げて、そっと口唇を合わせた。
わずかな時間体温を共有する。
顔を離して瞼を上げれば、同じように長い睫毛の下から現れた黒い瞳が笑った。
「……、」
眩暈がした。
彰はいつだってあまりにも真直ぐでまっさらな好意を向けてくる。
ずっとそんなものとは縁遠かった信子は、それだけで火傷しそうな気がして焦った。