「っだぁー、もお!」
平山豆腐店の二階に怒声が響き渡る。
「お前!全っ然やる気ねえだろ!」
「やだー修二君カルシウム足りてないぬー」
短気は損気なのよーん。
だるだる、という擬態語が似合いそうな机に身体を投げ出した彰が言う。
そこには山のようにプリントが積まれていた。
「オ・マ・エ・が!補修嫌だから手伝えって言ったんだろう、が!!」
「ああー痛い痛い修二君ギブー」
「悲鳴までやる気ねえのかよこの生物二十八点男!」
チョークスリーパーを決めながら修二が怒鳴る。
止めに入っていいものかと信子はひたすらおろおろしていた。
「……わかったよ。補修でも何でも受ければいいだろ。俺はもう知らねえからな」
最後には静かにそう言って、そのまま部屋を出て行ってしまった。
修二が降りていった階段と彰とを交互に見つめて、それでも信子はその場に留まった。
「…プリント、やろう、よ」
散らばった何枚かのプリントを拾って彰に差し出す。
彰はそれを受け取らずに、拗ねたように顔を背けた。
「俺ってば結構マジメにやってたのにー」
ホントの本気でわかんないんだからしょうがないじゃんか。
とりあえず形から、と言って眼鏡を掛けてみたところで問題が解けるはずもない。
前髪もピンで留めた自称優等生ルックでうなだれる彰の頭を信子が軽く撫でた。
「…いいから、やる」
「……なに野ブタ、隠れスパルタ?」
その手と同様に優しい言葉を期待していた彰は軽く顔を顰めた。
信子は大真面目な顔で彰を見つめた。
「補修になったら、冬休み、会える時間、減るんだよ」
数秒の沈黙と数回の瞬きの後、がば、と彰が起き上がった。
「やろう。うん、やろう」
そして信子の差し出していたプリントを受け取り、シャープペンシルを持ち直した。
だって今のは、冬休みでも毎日会いたいって遠まわしの意思表示だ。
そのくらいなら自分にもわかる。
どんな問題でも解けそうな気になって、現金な自分に気付いて彰は笑った。
字を書く音と教科書をめくる音だけが部屋を満たしている。
机の上でしか視線を動かさない彰を見つめて信子はそっと息を吐いた。
前にも思ったけれど、こうしていると本当に彰の顔はびっくりするぐらい整っている。
それが普段はまったく気にならないのだから不思議な人だ。
…くるくる表情が変わるのも好きだけど、こういうのもたまにはいい、かも。
「なーに笑ってんぬ」
突然彰が顔を上げた。
時々こういった彰の敏感さには驚かされる。
「わ、笑って、た…かな」
「てた。口元がぴくぴくしてた」
俯く信子を下から覗き込んで、えいっ、と頬を引っ張った。
無理やり口角を引き上げて笑っている形を作らせる。
「ドゥーして下向いちゃうワケッ」
「……だっ、て…変な顔、でしょ」
自分の笑った顔がおかしいことぐらい、修二に言われる前からわかってはいたのだ。
それをあまり見られたくない、と思い始めたのは最近のことだけれど。
「俺はー、野ブタが笑うと、嬉スィー。のよーん」
そう言って笑った彰は優しすぎるぐらいの笑顔。
こんなふうに笑えればいいのに。せめて、この人の前だけでも。
「……私も、」
「うん?」
「私も、彰、が笑うと嬉しかったり、楽しかったり…する」
じんわりと胸の奥が温かくなって、そして泣きたくなる。
真顔になった彰は信子の頬からそっと手を放した。
「問題。そーゆーの全部まとめて伝えたいときに使う言葉を二文字以内で答えなさい」
突然の出題に信子は目を丸くする。
意図に気付いて視線の逃げ場を探しても、顔を覗き込まれているので目を伏せるほかになかった。
「……二文字?」
「二文字ー」
そういえばそれを自分から口に出したことは一度もなくて、彰だって冗談紛れに言うことがほとんどだった。
もしかしたら逃げていたのかもしれない。
言ってしまったら、完全に捕まってしまうような気がして。
「…………好、き?」
判定を待って強く目を瞑ると瞼の裏の暗闇が少しだけ形を変えた。
数瞬の静寂の後、掠め取るように口唇に体温が触れていった。
瞼を上げる。彰の黒い瞳に真正面から見据えられる。
眩暈がしたのはきっと眼鏡のレンズを通したからだ。
息が詰まったのは、普段は長い前髪に隠れている右の目が、真剣に自分の姿を映していたから。
「………プリント。やらなきゃ」
「息抜きは必要、デショ」
非難めいた言葉は即座に否定される。
それに反論することなど容易いのに、近付く吐息に信子はもう一度目を閉じた。