出迎えた人物を見るなり信子は数秒固まった。
そんな信子の顔を覗き込みながら彰が尋ねた。
「ドゥーした?」
首を傾げる彰の顔をのろのろと指差す。
そこには見慣れないものが鎮座していた。
「め、眼鏡」
レンズ越しの瞳が納得したように瞬く。
「あーこれはぁ、目から鱗がポロポローって」
「……うろこ?」
「コンタクト落としちゃったなりー」
それ探してる途中だったのよーん、と軽く眼鏡を持ち上げた彰が言った。
「んで、野ブタは何の用だっちゃ?」
「あ…さっき、忘れ物、しちゃって」
「うっかうっか。じゃあ上がりんしゃい」
まだどうにも不思議な気持ちで、とりあえず信子は彰の部屋に上がった。
「足元気ぃ付けてね」
言われて信子は慎重に足を進める。
当の彰は相変わらず机に足をぶつけていた。
探していたブタのお守りを机の上に見つけて信子はひとまず息をついた。
ふと彰を見やれば、無心にコンタクトレンズ捜索を続けている。
……別人、みたい。
眼鏡のせいで大分真面目そうな印象を受ける。
その上今は何も言わずに床を探っているので、普段のお調子者の面影などどこにも見えない。
おかげでいつもは気にならないことが気になってしまう。
「そんなに見つめられると照れちゃうのよーん」
「えっ」
急に声をかけられて信子は軽く肩を震わせた。
彰は捜索を中断して信子に向き直る。
「似合わねっすか、これ」
慌てて信子は首を振った。
そんな意味で見てたんじゃないのに。
「ち、違う人みたいに、見えるからっ」
先に続く言葉は、さすがに飲み込んだ。
その整った顔を妙に意識してしまった、なんて言えるはずがない。
「ホントの私、デビュー!」
いきなりそう言って彰は眼鏡を外した。
ぼやけた視界に顔を顰めると怪訝そうな顔の信子が尋ねた。
「どう、したの?」
「…なんも見えないぬ」
それが否定の言葉ではないとわかっていても、それでも「違う人みたい」な自分は居心地が悪い。
俺は俺で俺以外の俺なんて知らないし要らないんだよ。
よくわかんないけど。
「…そんなに、目、悪いんだ」
「悪いの。野ブタの顔とか、こんっくらい近くじゃなきゃ見えないのよーん」
信子の顔がはっきり認識できるところまで近付いてしまってから、彰の思考回路は一瞬ショートする。
目を見開いた彼女の黒い目に映った自分の姿さえ確認できる、その距離。
おそらくわずかな力の作用だけで、触れてしまえる口唇。
あまりの近さにその空間だけ時間が止まった。
それを動かしたのは、彼女が先。
「……あ、あのっ」
後退ろうとする、その先にそれを見つけた彰が思わず声を上げた。
「ちょっと待った!ストップ!!」
慌てて彼女の肩を掴んで、片方の手で床をさらう。
指先で拾い上げたのは探していたコンタクトレンズだった。
「いよっし見ーっけ!って、うお、わぁ!?」
図らずも信子を抱き締めるような形になってしまった彰が慌てて離れようとする。
が、勢い余ってバランスを崩して二人床に倒れ込んでしまった。
「いって…」
体を起こしかけた彰はまた凍り付いた。
――なにこれ。ミラクル?
そのまま固まっていたのはもしかしたら一瞬で、もしかしたらもっとずっと長かった。
多分彼女と目が合わなければ、ずっとそのまま動けなかったかもしれない。
目が合った彼女の顔が真っ赤に染まるのを見なければ、あるいは。
「…野ブタ!」
「はっ、はい!?」
そのままの、信子を組み敷いたままの体制で、彰はできる限り感情を抑え込んで叫んだ。
握った拳に鈍い痛みが滲む。
「十秒あげるから逃げて、全力で!」
「……え?」
「はやく!」
戸惑う信子を無視して彰の心はカウントダウンを始める。
それは時限爆弾のタイマーだ。
とっくにスイッチを切ったつもりで、奥のほうにしまっておいたはずの。
「逃げてくんないと、俺、誤解するから」
そうやって都合悪いこと全部人のせいにして、自分に言い訳して、そうでもしないとホントのことさえ言えないんだ。
さいあく。
知ってるそんなの。とっくに知ってる。
それでも選んだんだ、選んじゃったんだ、だからだからお願い。
「逃げて」
そのあまりに小さな声は言葉と正反対の祈りに似ていて、信子はそっと手を伸ばした。
右目にかかる長い前髪を持ち上げれば、彰の顔が泣きそうに歪んだ。
「……逃げ、ない」
五。四。三。
心臓の音が残り時間を刻んでいく。
「ご、誤解っていうの、誤解、だから」
そして彼女は少しだけ微笑んだように見えた。
たとえ霞んだ視界の見せた錯覚でも、それだけでよかった。
これがゲームオーバーでないなら、始まりと信じていいのだろうか。
――ゼロ。
リミットをぶっちぎった心は理性なんて吹き飛ぶほどの熱を発しているのに、ぎりぎり触れたキスだけで戸惑う自分に戸惑う。
華奢で繊細で透明な彼女は壊れないだろうか、傷付かないだろうか、汚れないだろうか。
そうやって怯えながらも、いっそ滅茶苦茶にしてしまいたいと思う自分さえ存在している。
「…好き過ぎてどうしていいかわかんない」
間抜けな呟きが溜息と一緒に零れて落ちた。
それで笑ってくれれば幾分ましだったのに、信子は真顔で彰の目元を擦った。
「なんで……泣く、の?」
指に触れた液体の熱に困惑しながら信子は問う。
泣いたままで笑った彰は「わかんない」と答えた。
「好きで好きでしょうがなくて泣いてんのかもね。ココロが」
その透明な雫は、今この瞬間きっと何より綺麗だ。
たまらなくなって信子は彰の頭を抱き寄せた。
「……ほんとだ」
それはきっとお互いの温度のせいで、どうしようもない若さのせいかもしれない。
そうだとしても、そこには一片の偽りさえなかった。
「好き過ぎると、泣けてくるんだ、ね」
例えば世界の全部が嘘だったとして、そんなふうに泣ける相手がいる。
それだけで世界は美しい。
かつてはそのすべてを憎んだ世界を想って信子はまた涙を零した。
濡れた頬を拭って、目蓋にキスを落として、やがてその熱は彰を侵食し始める。
何度も口唇を重ねれば更に温度は上がり、触れるだけの口接けは吐息一つ逃がさないようなものに変わった。
「…ん、ぅ」
少し乱暴なくらいに口を塞がれてくぐもった声が洩れる。
熱源が離れた頃には酸欠も手伝って眩暈がした。
「……へーき?」
首の皮一枚繋がっている理性を総動員して彰はそれだけ訊ねた。
ぼんやりとした視線でそれでも彰を見据えた信子が荒い息のままで答える。
「あっ、あんまり平気じゃない、けどっ……草野君なら、平、気」
あまりにも大真面目に言われて思わず彰は目を丸くした。
それから特大の溜息を吐いた。
あーなんか今頭ん中ぷっちーんっつったなんかトんだ。
「はーいバンザーイ」
「ば、ばんざい……んぶっ」
あっという間に上着を脱がせて、言われるままに両手を挙げた信子のベストを引き抜く。
そしてまた上着を着せたところで信子が不思議そうな顔をした。
「…なんでまた着るの?」
「男のロマンなのー」
無表情で彰は答えて、信子の膝裏に腕を回した。
「んで、これが女の子のロマン?」
そのまま軽々と、いわゆるお姫様だっこで抱き上げる。
くるりと一回転して相変わらず表情のない彰に信子は首を傾げた。
「もう先に謝っとく。ごめん」
視線を合わせずに彰は言って、お世辞にも片付いているとは言えない部屋の中を信子を抱えて進む。
ベッドの上に降ろせば二人分の体重にスプリングが悲鳴を上げた。
「できるだけ優しくしたいんだけどー、無理かもしんない」
あんまし余裕ないの。
そう言った彰の顔が歪んだのは視界の悪さのせいか、別の理由か。
信子がそれを理解する暇はなく、噛み付くようなキスの勢いでベッドに押し倒された。
「……っ、ぅ」
首筋を滑った口唇の感触に得体の知れない感覚が背筋を通り抜ける。
小さな悲鳴を飲み込んだ喉もとのネクタイを解いて、シャツのボタンを外していけば白い素肌が外気に触れた。
「な、なんか、変っ…」
くすぐったいような、それだけではない、不思議な感覚。
彰の指は何かを探すように信子の肌の上を彷徨っていて、どんどんその感覚も強くなっていく。
「…っひゃ、あ!」
反射で身体を震わせてから、自分のものではないような声の響きに目を瞠る。
背中に指を這わせた彰は若干楽しそうに呟いた。
「野ブタは背中が弱いのねー」
背骨の溝に沿うように指を滑らすと信子は逃げるように身体を捻った。
「や、だ、…っ」
その訴えは聞こえない振りで、延長線上にある下着の留め金を外す。
小ぶりな胸を露出させると掌でその形を変えていった。
「ふぁ、あ、…っ」
衝動的に口を突いて出た声は明らかな熱を帯びていて、信子は頬に血を上らせた。
彰は絶えず柔らかな膨らみに刺激を与え続けている。
色付いた先端を口に含むと彼女が悲鳴のような声を上げた。
「ひ、ぁ…っ!」
その反応を楽しむ余裕もなく彰は乱暴な愛撫を続ける。
強すぎる刺激は痛みさえ呼ぶが、それでも空気を満たす声は甘いものに変わっていく。
焦れた指がスカートの中に潜り込んだ頃には、そこはわずかに湿っていた。
滲み出す粘液で濡らした指を硬くなりだした突起に擦り付けると、電流が流れたように信子が身体を弓なりに反らした。
「あぁっ、んっ!や、ぁふ…ん、ひあ、あ…っ!」
新たに溢れる蜜は快感に支配されている証拠だ。
少し強引に指を埋めると彼女は一瞬息を止め、自分の中の自分でないものの存在に耐えた。
はじめ不快で仕方なかった内部を掻き回される感覚は、その行為を助けるための自身の分泌液によって変化していく。
彼女に似合わない淫猥な声も熱に浮かされたような濡れた瞳も何もかもが彰を追い立てた。
もどかしく取り出したそれはとっくに硬くなっていて、ある意味でどこまでも純粋に彼女を求めている。
すっかり濡れてしまった下着をずり下げて蜜の溢れるそこにあてがい、一気に腰を沈めた。
「―――――――ッッ!!」
声にならない悲鳴が信子の喉を震わせる。
自分の身体の奥深く、鋭い痛みを伴う強大な存在感。
痛みと熱でどうにかなってしまいそうで、信子はシーツを握り締めた。
「…そーいうのって無粋って言うんじゃないぬ」
少し呆れたような声に顔を上げる。
けれどその先にあったのは柔らかな微笑で、何故かそれにひどく驚いた。
「目の前にこんなしがみつき甲斐のある背中があるのに。んねえ」
信子の両手を自分の背中に回させて彰は満足げに笑う。
その瞳に無性に泣きたくなって、信子は腕に力を込めた。
なんでこんなに優しい目をするんだろう、この人は。
「…っ、あ、ぅ」
緩やかに動きは再開されて、灼け付くような痛みが襲ってくる。
それでも、もう、大丈夫だ。
「や、あっ、草野く…っ」
ベッドが軋んで一定のリズムを刻んでいる。
繋がったところから濡れた音が立って、じわりと思考を蝕んでいく。
「あぁっ…ん、あ、ふっ…!」
痛みは熱に上書きされ始め、洩れる声に色が滲む。
それに応えるように動きは激しくなっていった。
「…っ!ぁあっ…は、!」
腰を突き上げられて、大きく身体が跳ねた。
激しい痛みの向こうにある快感を呼び覚ますように激しく、何度も、打ち付けられる。
「あ、あんっ!ぁあ、ひゃ…ぁふ…っ!」
繋いだ箇所から融けて混ざってしまいそうで、彼の背中に縋り付いた。
そうしないと正気を失ってしまう。
もしかしたら、とっくに正気ではないのかもしれない。
「ひ、ぁ、おかしく…なりそ…っ、」
何度も一番奥まで攻め立てられて、白んでくる視界、遠のきそうになる意識。
「…いーね。おかしくなっちゃえ」
吐息混じりの低い声は掠れて響いた。
「や、あ、も…だ、めっ……!ふ…あっ、あっ…あぁん…ッ!!」
一際高い声で啼いて信子は絶頂を迎えた。
その急激な収縮で果てた彰の囁きに、私も、と薄れゆく意識の中で答えた。
「あーっ、惜っしいことした!」
いきなり声を上げた彰を何事かと見やれば眼鏡を手に唸っていた。
どうしたんだろうと思っていたらそれが届いたかのように彰は振り返る。
「意地張んないで掛けとけばよかった」
「……なんで」
鈍痛を訴える身体を放り投げたまま訊ねると心底残念そうな声が答えた。
「野ブタのイくときの顔、良く見えなかったぬー」
「……み、見なくていい、そんなの」
「やだ」
駄々をこねる子供の口調で、けれどれっきとした男の顔で、レンズを透かした彰は言った。
「野ブタのことは全部知ってたいのー」
全部。
果たして自分ではない誰かの全部を知ることは可能なんだろうか。
もしそれが可能だったとして、心の底に沈めた黒い部分に触れても、彼は笑ってくれるのだろうか。
「まあいいや。今度見せてね」
のんきに笑った彰を見て、ああ、なんか大丈夫な気がする、とどこか諦めにも似た感覚で信子は思った。