足を速めながら、信子は世のハイヒールを履いている女性を尊敬した。
こんなものを履きながら、よく普通に立ったり、まして歩いたり走ったりできるものだ。
足が痛いが、特にかかとが痛い。
ひょっとしたら靴擦れが出来ているかもしれない。
けれど立ち止まってそれを確かめている余裕は、信子にはなかった。
息が上がってくる。
走って逃げられたら一番いいのだろうけれど、生憎履きなれないハイヒールのせいで早歩きがやっとなのだ。
痛い、痛い、苦しい、苦しい、もうダメだ……。
だから前方に彼の背中が見えたとき、信子の足は安堵のあまりへたりこんでしまいそうになった。
彼に会えたのは偶然だったのだろうが、天の助けだ。
「あれ? え、野ブタじゃん。どしたん?」
こちらに気付いた彰の目が、驚きに見開かれた。
無理もないだろうと思う。
信子だって、できれば彼に見られたくなかったのだ。
今のこの姿――――いかにも「夜のお仕事です」といった、大人の女の格好を。
明らかに背伸びした、信子には似合わない服装だ。
「へ、変な人が追いかけてくるみたいなの」
怯える信子の背中越しに、彰が向こうを見る。
信子は逃亡中一度振り返ってみたが、変質者の類なのは明らかだった。
なにせ茶色のコートからズボンではなくすね下の素足が覗いている。
そんな男が、ぴったりついてくるのだ。
しかも時々電信柱の陰に隠れるなどして。
「あー……見るからに変な人だね」
彰はぐいと信子の肩を抱き寄せた。
それからきょろきょろと周りを見回す。
「なんもないか。しゃーない」
言うと、自分のカバンから太い木の棒を取り出した。
なんでそんなものが入ってるの、と信子は思ったが黙っていた。
「はっ!」
気合一撃、彰の手にあった棒は真っ二つにへし折られた。
結構な太さがあったにもかかわらず、だ。
かなりの力を込めないと折れないだろう。
“変な人”は、一目散に逃げていった。
彰の鮮やかな撃退に、信子は無言でぱちぱちと拍手した。
その棒をカバンにぽいとしまって、
「だぇめでしょー、そういうかっこでふらふら歩いてたら、襲ってくださいって言ってるようなもーのーよん」
「……」
信子には返す言葉もない。
「でもさぁ、なんでそんなかっこでこんなとこ歩いてるわけ? てかその服、どこで買ったの?」
「そ、そっちこそ」
「俺っちはぁ、だってご近所だし」
「え?」
冷静になって辺りを見れば、彰の言うとおり確かに彼の家の側だった。
いつの間に足が向いていたのだろう。
無意識のうちに、彼に助けを求めていたのかもしれない。
「んで、質問に答える! ほい!」
「……が、頑張ってみようと思って。おしゃれとか」
「でもその服、ちょっと野ブタには早いんじゃにゃーい?」
彰の上下する視線を感じて、信子は顔を俯かせた。
言われるまでもなく、似合っていないことなどわかっているのだ。
それでもこの服を着てみたのは。
信子はごくりと喉を鳴らした。
「で、でも、こういう服好きって」
「へ?」
彰の服の裾を掴む。
「だから……着て、みようって」
彰は一瞬きょとんとしたが、信子の言葉の意味に気付いて声を張り上げた。
「あー! お、俺が!? 俺があんとき、お水っぽいのがいいって言ったからっ!?」
こくり、と頷く。
自分でも馬鹿みたいだとは思うが、事実だった。
「あー、そっかー。うんうん」
彰は信子の奇抜な格好が自分のためだと知り、信子の無用心さを怒りづらくなったようだ。
一人でうんうん繰り返している。
ひょっとしたら照れているのだろうか。
しばらくしてようやくうんうんが止んで、彰は信子の肩にぽんと手を置いた。
「でもさ、プロデューサーの俺が言うのもなんだけど、野ブタはそのままでじゅうーぶん可愛いから、
あんまし無理する必要ないって! ねっ!」
「……いい、のかな」
「いいって! さ、帰ろっか。送るから」
「え、ひ、ひとりで帰れる……」
「嘘はだーめだーめ。今絡まれたばっかでしょ!? 俺っちがぁ、責任もって守るからん」
否やを言わせぬ彰は、さっさと歩き出した。
家まで送ってもらう道、信子はもう、足の痛さを気にすることはなかった。
終わり。