「おいちゃーん俺っち胸が苦しいのよーん」
草野は下宿先の豆腐屋の店主である平山一平にこうこぼした。
平山は下がり気味の眉をさらに下げて、「病院いく?」なんて言った。なんて見当はずれな。
「ぶっぶー、だめー、ぜんっぜん駄目〜」
「えぇー、じゃあどうしたのぉ」
草野はテーブルの上の漬物を摘んで口に放り込んだ。黄色いその食べ物は口の中でぱりっぱりっと勢いのよい音を立てて砕けた。今日も食卓の上に納豆と豆腐が上っている。
「恋ですよ、恋」
「……恋」
「そう、ラーブ。彰君は恋に落ちちゃっていたんですねぃ」
そういって草野は熱っぽい息を吐く。頭の中を占拠するは小谷信子。通称野ブタ。(自称)親友と、人気者にしよう!プロデュースを実施中の女の子だ。
どこに惹かれたんだろ?ちゃんとすれば結構可愛いとこ?実は誰よりも人のこと見てて、やさしいところ?それともこれはただの同情で、虐められてる信子をかわいそうに思ってのことなのか。
「……ちがう」
草野の呟きを聞いた平山が、何が?と聞き返したが、あいにく草野の耳には届いていなかった。
後者は、違う。それだけははっきりしていた。同情だけであんなに愛しいと感じる?
例のほんとおじさんの件で自分の気持ちに気付いてからというもの、小谷が愛しいという気持ちが膨らんでしょうがないのだ。
いじめとか、その他すべての苦痛から小谷を守りたい。小谷を傷つけるものは何であろうと許さない。
小谷の感情総てが自分のためにあると良いのに。小谷を笑わせるのも、怒らせるのも、泣かせるのも、全部が自分であったら。
通常とは言動のピントの違う草野でも、恋をすると並みの高校生に戻るらしい。
子供っぽい独占欲に苛まれて胸の締め付けられる気持ちに拍車掛かる。
「いやーおじちゃんの高校生の時好きだった人はねー、ピアノが上手で…」
気付けば平山が自分の思い出を遠い目で語りだしていたが、草野は敢えてそれをスルーした。もう、人の恋愛話を聞いている余裕なんてなかった。
どうしたらいい?親友である修二に相談でもしてみようか、いや、もういっそ想いを伝えるべきか?
玉砕覚悟で?『ごめんなさい』って言う小谷の姿がやたらリアルに浮かんできて草野は背筋を凍らせる。
「クラシックなんか知らないのに無理してあの子の好きな曲のレコードを・・・」
「のぶたちゃん……」
もう初恋の思い出語りが止まらなくなった親父の横で、草野はもう一つ熱いため息をついた。
平山豆腐店の二人の夜はこうして(噛み合わないまま)更けていく・・・・・・。
「にいちゃん、好きな人いるよね?」
弟の突然の質問に、コーヒーを飲んでいた修二は大いに噎せた。
「げっほ…んだよ!いきなり、いねえよそんなもん!」
修二は顔が熱くなるのを自覚した。くそ、こいつ小学生の癖に生意気だ、誰に似たんだ。(………俺か?)。弟は好奇心に目を輝かせている。
「えー、だっていつも弁当作ってもらってんじゃん!」
「……ああ、マリ子か」
待てよ、自分。一体誰を想像した?学校のマドンナで、付き合ってる、とまで言われているマリ子ではなく、一体誰を。
思考は一瞬で一人の人物に行き当たり、修二は苦い顔をした。
―――・・野ブタだ。
「ねえ、付き合ってんの〜?」
「うるっせ、クソガキ、早く寝ろ」
といって弟の尻を蹴飛ばす。八つ当たりだ。弟は兄ちゃん変なのーといいながら退室。
…最近の自分がおかしいのは言われずとも自覚していることだ。
(―――恋?)
思い浮かんだ言葉の、なんと甘酸っぱいことか。自分には不要だし、縁のないものだと思っていた。
(だって、面倒くさい。好きだとか嫌いだとか。だいたい人の感情なんて綺麗なものばかりじゃない。嫉妬とかもう勘弁してほしい。
俺をそんな独りよがりに使わないで欲しい。気持ちが、悪いから。みんな馬鹿ばっかりだ)
そう、いまでも思う。そんな自分が恋?笑い飛ばしてしまいたかった。しかも、よりによって相手はあの野ブタだ。どこに好きになる要素があった?
修二は自分の携帯電話を開いた。文化祭後の写メール。じつは軽く心霊写真だったのだが、その本物たちより野ブタのほうがよっぽど怪奇に写っている。
前に笑った顔も見たが、かなり引き攣っていて、まともに見れたものじゃなかった。でも
(……ちゃんと笑ったら可愛いんだろう。)
ちゃんとおしゃれして、うつむくのをやめて、心から笑った野ブタは、小谷は、きっと可愛いんだろう。まず男どもは手のひら返したように小谷をちやほやするだろう。
女たちもいじめなんて忘れて、信子って呼んでいい?とか言ってオトモダチになるんだ。
そして俺たち以外とも仲良く喋るようになって、そのうち彼氏とかできて?うれしそうに報告に来るんじゃないのか?
修二のその感情は嫉妬以外のなんでもなかった。本人だって気付いていないはずもない。
こんなの、自分の最も忌む感情のはずなのに。
―――ああ、そうだよ、馬鹿は俺のほうだよ
修二は冷えてしまったコーヒーを啜り、忌々しげにため息を吐いた。