髪の毛の先がくすぐったくて、頭皮がちくちくする。時折むず痒くなるのだが、手は緊張のために  
脇に固定されていて動かないので、掻けない。  
 緊張の発生源は、信子自身の髪の毛だ。否、正確に言えば信子の髪の毛を弄っている手。  
 それは生る指で髪先を摘んで、意味も無く引いてきたりする。くるくると十本程の髪の毛を指に巻  
いては、しゅるりと解いて、そんなことをもう五分は繰り返していたりする。  
「く、草野……くん……?」  
 いつも俯き加減な顔を少しだけ上げて、信子は隣に居るひとを盗むように見た。  
 名前を呼ばれた草野くん――草野彰――は、「んー?」と適当な相槌を返す。それと同時に彰の上  
がった目線は信子のものとかち合った。  
「あ……な、なん、でも、ない……」  
 男性にしてはやけに綺麗に輝いてる眼に、信子は思わずどきりとした。他人を茶化したりする、所  
謂お調子者のものとは思えないほど、真っ直ぐで――。  
 目下の筋肉を微かに引き攣らせて目を逸らした信子に、彰は奇妙な声で一笑する。  
「なになに? 気になるじゃぁ〜ん。秘密はいけないっちゃー話すナーリ」  
「ひ、秘密じゃ、ない」  
 ただその訳の解らない行動の意味を知りたいだけだと云う信子の言い分は、逸らした瞳を追って彼  
女の顔を覗き込んできた彰により、喉から出てくる事は無かった。  
(ち、近い……)  
 びくっと肩を跳ね上げて、信子は一歩後退する。するとフェンスに頭を打ってしまい、結構な痛み  
を感じながら此処は屋上なのだと今更ながらに彼女は気づいた。  
 一方で、彰はその大袈裟過ぎる動作につられて驚き、間抜けな悲鳴を上げて一歩後ずさった。  
瞬間、それまで好き放題に弄っていた信子の髪が指から風流に逃げていく。  
 名残惜しそうに自分の指をまじまじと見た後、彰は後頭部を擦る信子に眼を移す。何の感情も込め  
ずに眉を寄せて、彼女の様子を窺った。  
 後頭部を髪ごと擦りながら、信子は恐る恐るといった様子で彰を見返す。――もしや、不快にさせ  
てしまっただろうか?  
「ご、ごめん。あたし、す、すごい、リアクション」  
 数々の思い出したくない過去のひとつに、リアクションについてのことがあった。気持ち悪いと  
……感じ悪い、と、言われた一日があった。  
 虚しい思い出に頭痛が酷くなって、ぎゅっと信子は瞳を瞑った。  
 口の端をくいっと持ち上げて、彰は首に垂らしていた玩具のメガホンの吐き口を信子の耳に押し付ける。  
「スゲェーリアクション大王ー」  
 一瞬信子は身を震わせたが、間も無くしてぽんっと頭に乗った手の平にゆっくりと瞬く。  
 
 彰の手だった。  
 ぽんっぽんっと彰は弱く信子の頭を叩いて、優しく撫でた。  
「ギネス載れるギネス! 野ブタはぁーテンッ! サイ!」  
 ふっ! と最後に息を吹き掛けられて、信子はイヤホンが離れると直ぐに耳を押さえた。  
 少し、濡れている。  
(唾だ……)  
 水気がうつった指の腹を擦り合わせて、信子は瞳を歪める。  
 しかし不思議と嫌だと思うまでには至らず、それどころかリアクションの虚しい過去があたたかい  
ものに包まれて消えていくような、実に不思議な感覚を信子は憶えた。  
 後頭部の痛みも、血液がほんわり熱ってとろりと全身に溶けて広がって、和らいだ。  
 ――よしよしと子猫を可愛がるように優しく優しく頭を撫でてくれる手の平のせいだろうか。  
 すう、と信子は夕日の差し込む屋上の空気を吸い込む。  
(……ごめん、草野くん)  
 思わずとはいえ、間接的とはいえ、過去の苛めっ子と彰を重ねてしまったことに心で謝った。  
「野っぶったちゃーん! なんと! この草野彰が明日直筆の表彰状を持ってきてあげることになり  
ましたぁーっ」  
「? ……な、なんで?」  
「ギネスを再現するに決まってんジャーン! 俺はギネスあげる人で、信子はギネス貰う人ね」  
 うん? と信子は頷いたものの、困惑して首を傾げた。  
 彰は言動ひとつひとつの切り替えが速いというか、話が繋がっているようで繋がっていないという  
か、一言で言えばついていけない。  
 ――だってほら、言わんこっちゃない。髪の毛弄りがふたたびやってきた。  
 ぴんっと髪を引っ張られて、信子は横目を流す。彰の指から解ける自分の髪を見ながら、口を小さ  
く開いた。  
「なんで、さ、さわる?」  
「お触りしたいからよ〜ん」  
 だらしない笑みを浮かべて、彰は「二本巻き!」と言って信子の髪を人差し指と中指に器用に巻く。  
「なんで?」  
 更なる質問に、ぴくん、と彰は急に指の動きを止めた。  
 沈黙の風が吹く。  
 唾の掛かった耳が冷えて、信子は背中に寒気を走らせる。気まずさを感じて、「今のナシ」と弁解  
しようとしたそのとき。  
 夕日で少し茶色の帯びた黒い髪を絡めたまま指を丸めて、彰は緩い拳を作る。  
「……野ブタの髪が好きだからよーん」  
 言って、彰は拳を口に運ぶ。掴んだ信子の髪の毛に、口付けをひとつ落とした。  
 目蓋が上がって、目元の筋肉が張る――信子は、自分の瞳が見開かれるのを感知した。  
(……どう、返せば良いのかな)  
 脳みそがぐらぐら回る。キスされた。その事実に信子は困った。  
 目線を落とすと、髪の毛へのキスはまだ現在進行中である。  
(……分からない。どう、すれば、良いのかな)  
 困惑は深くなり、信子の脳みそはぐわんぐわんと音を立てて回転する。鼓膜にはムシャムシャとい  
う音が木魂する。  
 ――ムシャムシャ?  
 ぶれていた信子の視界が鮮やかになって、そこに飛び込んできたのは自分の髪――とそれを噛んでいる彰。  
「た、たべっ!? ない、で……!」  
 心臓が飛び出るほど驚いて、信子は後退する。一度目の二倍くらいの強さで、彼女はフェンスに頭を打った。  
「味しなーい。石鹸の匂いしかしなーい! ウナギの蒲焼を匂いだけで味わうのと同じじゃね? ってスゲー発見! 俺もやっぱりテンサァーイッ!」  
 一人で笑い捲くると、彰はフェンスに寄りかかって信子の髪を手放した。  
 それからう、と低く唸って苦い顔をする信子の頭を彰は撫でた。  
「んねえ、んねえ、ギネスのタイトル、『フェンスでリアクション』と『フェンスなリアクション』どっちがイーイ?」  
 彰の手の感触が信子の頭を、声色は耳を包む。  
 二度目の頭痛は中々消えてくれなかったが、先程の『困った』は消えたので、信子は善しとした。  
「……どっち、でもいい……」  
 夕日色を被る屋上の地面を見つめて、信子は口の片端をヒクつかせた。  
 
終。  
 

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