「とーまるっちゃ、野ブタちゃーん」
私のほうはもう、息も絶え絶えといった感じなのに、自分のすぐあとを走る男は息を乱す様子すらない。
「と、止まったら・・・っ、捕まるじゃない!」
「まあ、とまんなくってもぉ、捕まえるけど、ねっ」
がばっ、と、後ろから抱きつくように腕を回される。
「ひぁっ」
じたばたと藻掻きながら、どうしてこんなことになったんだっけ、と、頭のどこかで考えた。
それは、三十分ほど前のことだっただろうか。
「のーぶーたーちゃん」
言いながら、私の頬に愛らしい野ブタちゃんぬいぐるみを押しつけてくる。
それはもう、ぐりぐりと。
「な、なんれふか」
「んーとね、俺と鬼ごっこしよっか」
・・・え?
「お、おにごっこ・・・?」
私が思わず聞き返してしまったのも、無理のないことだと思う。
さっきまでこのぬいぐるみ(今現在、私の顔をつぶす凶器と化している野ブタ)と、楽しげに戯れていたというのに。
それがなんで、鬼ごっこ?
「俺が捕獲するほうで、のぶタンが捕獲されるほうね」
話している最中にも、ぬいぐるみを押しつける力はどんどん強くなっていく。
「草野くん・・っ、そろそろほんひれ痛いれふ・・・」
「野ブタが逃げきったら、このかぁいらしい野ブタちゃんぬいぐるみをプレゼントぶー」
やっとぬいぐるみを離してくれる。
「んっ・・ぷはっ、い、いらないから・・・別に」
「じゃあ、今から十数えるからぁ、野ブタちゃんは好きなとこ逃げ回ってくだっさーい」
・・私、今いらないって言ったよね?
理不尽さから、うっすら浮かんだ涙をぐっと飲み込んだ。
もういい、とにかく今は走ろう。 十をカウントする、この能天気な声が響いている間に。
結局、それから何十分と経たないうちに追い付かれ、冒頭の会話が繰り広げられているわけだ。
「らぶりー野ブタ、一匹捕獲なりー」
「は、はなして・・っ」
この、抱きつかれたままの体勢はどうにも恥ずかしすぎる。
「やーだ。・・・それとさぁ」
胸の下あたりに回された手に力がこめられ、
もぞもぞと肩に顔が埋められる。
「俺勝ったんだし、なーんかご褒美ほしいっちゃ?」
「ご、ほーび?」
高いのは無理だよ、と忠告しようとふりかえった。 その瞬間、
ちゅっ
軽やかな音をたてて、
唇に何か、柔らかいものが触れた。
たっぷり六秒間はそのままで、私はその間、瞬きするのも忘れて
目の前にあるこのうえないほど整った顔を、馬鹿みたいに見つめていた。
相手の顔と、唇に触れていた温もりがゆっくり離れていって、やっと私の脳は活動を再開していく。
「・・・っな、な・・っ、き、ききき、き・・・・っ!?」
きっと、今の私の顔はゆでだこみたいに真っ赤だろう。
頬が熱くてたまらない。
「野ブタすげー、林檎ほっぺー」
林檎林檎ー、野ブタとちゅーvなどと、無邪気にはしゃぐ男が腹立たしい。
でも、そこでふと、私はある可能性に思い当たる。
「・・も、もしかして、草野くん・・・・キスしたかったから、わざわざこんなことしたわけじゃ・・ない、よね?」
恐る恐る尋ねてみると、草野くんは感心するような表情を見せる。
まさか、まさか。
「ぴんぽーん、野ブタ鋭いっちゃー。」
だーって、ちゅーさせてって言ってもさせてくんないもーん。
ご褒美だったら良いかなーって。
拗ねたように唇を尖らせてぐちぐち文句を言う彼に、一気に体中の力が抜けた。
馬鹿だ、この人は本当に馬鹿なんだ。
なんとなく、しみじみとそう思う。
俯いて黙り込んでいると、不思議そうに顔を覗き込んで呼び掛けられた。
「どしたー?なんか元気ないねえ」
そーゆー時はあれだ、野ブタパワー注入ー。
それと、よく走ったご褒美に、特別に野ブタちゃんぬいぐるみを進呈しまーす☆
「・・ありがと」
ぬいぐるみを受け取り、気付かれないようにこそりとため息をつく。
その馬鹿が愛しくてたまらないんだから、私もかなりの大馬鹿なのかもしれない。
そこまで考えてもう一度、今度は深くため息をつく。
・・もう、誰が馬鹿だろうがどうでもいい。
今が楽しければ、それで良いじゃないか。
「・・・野ブタぱわー、ちゅう、にゅう」
「そーだ、野ブタパワー注入だっちゃ」
きゃっきゃとはしゃぐ彼を見ながら、きっと、これからもずっと振り回されていくんだろうな、と、確信に近い思いを抱いた。
・・・・ちなみにあの後、草野くんと二人で野ブタパワー注入のポーズをキメているところをバンドーさんに目撃されてしまい、
しばらくの間、私とバンドーさんの間にはきまずい空気が流れていたのだった。
end