屋上。どこまでも空に突き抜けていきそうな、屋上。  
 遠くに視線をやれば高層ビルが見えるけど、真上に顔を向けてしまえば、視界を遮る物は何もない。  
 少し前まで、信子は彰と修二と三人で、ここに集まることが多かった。  
 彼ら曰く「プロデュース」をするための、作戦会議に。  
 しかしここ数日、修二は忙しいのか顔を見せない。  
 信子は彰と二人きりで、おやつにアンパンと豆乳を食べる。  
 どちらも彰が持ってきたものだ。  
 お昼にお弁当をちゃんと食べたので別にそこまでお腹がすいているわけではないけれど、  
 せっかく貰ったのだし、食べない理由もないので食べている。  
 放課後の中途半端な時間。  
 朝と昼の間はブランチというけれど、昼と夕の間はなんというのだろう。  
 そう思いついて尋ねてみたら、目の前の不思議な男の子は首をひねった。  
「んー、ランナー?」  
 言った後、爆風スランプの曲を声高に歌いだす彼を見て、信子は頬を引きつらせて笑った。  
 まだ上手く笑えない。  
 はしるーはしるーおれーたーちー。  
 彰は熱が入ったようで、拳を振り上げどうやらマイクのつもりらしい自分のネクタイを引っつかみ、  
 引っつかんだ結果首が絞まりかけて「ぎ、ギブギブ〜」と一人コントを繰り広げた。  
 けほけほとむせる彼に、信子は「だ……大丈夫?」と声をかけた。  
 彰は神妙な顔をして答えた。  
「大丈夫くない」  
 いつものおちゃらけた彼はどこかにいってしまったかのようなその表情に驚いて、  
 これはただごとではないのかもと思う。  
「背、背中撫でようか」  
 普通の――――いや、普通より下の女子高生でしかない信子には、それくらいのことしかできない。  
 知識があるわけでもない、修二のように要領よく人気があるわけでもない、  
 彰のように力が強くお金があるわけでもない、ちっぽけな手。  
 そんな手だというのに、そんな手にさすられて、彰はにっこりした。  
「あんがとさんっ」  
 でもすぐに真顔に戻ってしまった。それは「男の子」の横顔だ。  
 信子は落ち着かない気分を味わっていた。  
 彰の背中に制服越しに触れている手のひらから、確かな体温が伝わってくる。  
 生身の人間の身体、男の子の身体。  
 彰は細身だったが、それでもやっぱり男の子で、信子のそれとは全然違った。  
 全然違う生き物なのだ。  
 
「あのさぁ、俺っち変なの」  
「へ、へんって、どんな」  
 大変だ、病院にいったほうがいいのかもしれない。信子は慌てた。  
 こんな屋上でのん気にアンパンとか食べてる場合じゃない。  
 いやアンパンは美味しかったし嬉しかったけれど。  
 彰は信子をじっと見ている。  
 ああ、そんなに見られたら穴が開くんじゃないだろうか。  
「なんかさぁ、胸がむかむかするんだよねぇ」  
「……はぁ」  
 アンパンと豆乳の食べあわせは悪かったのだろうかと、信子は思わず自分の腹を押さえた。  
「でもってさぁー、この辺? が、もやもやぁっ、と、するんだよねぇ〜」  
 彰は自分の胸の周りをぐるぐる、とんぼを捕まえるときのようなジェスチャーで指し示した。  
「んでぇ、それって野ブタにさすられてると、余計きゅううー、ってするのよ〜ん」  
 信子の顔は蒼白になった。  
「そ、それってびょ、病気? わ、わわわ……わたしの、せい?」  
 本当に病気だったら大変だ。  
 しかもそれが信子のせいだったらもっと大変だ。  
「びょっ、病院行く?」  
「やぁーだ」  
 彰は子供のように唇を尖らせた。  
「病気かぁ、病気って、うつるっちゃ?」  
 そう言って、彰は何か考え込んでいるようだった。  
 信子はどうしようどうしようと、そればかり考えた。  
 でも今すぐ病院に行く以外の方法が見つからない。  
 ぐるぐるマーブル模様の思考の渦に引きずり込まれそうになったとき、彰の声が信子を引っ張り上げた。  
 
「野ブタはぁ、恋したことあんのー?」  
「えっ?」  
 唐突に問われて、信子は止まった。  
 今の会話の流れで、どこをどうしたらそうなるのだろう?  
「恋。こいこい、春よこい〜」  
 今度は松任谷ゆみを歌いだす不思議少年。  
 さっぱり次の行動が読めない。今は冬なのに、と思った。  
 どうやら彰は信子を別のぐるぐるに放り込んだだけだったようだ。  
 洗濯機の中の服のように、信子も回る、回る。  
 こい。……恋?  
「あのさ、ちょいこっち来てミソ」  
 ちょいちょいと呼ばれて、信子は彰の側に寄る。もっとと乞われてもっと寄る。  
「もっと近く」  
「……」  
「もっとー」  
「……」  
 オッケーを出されたのは本当にすぐ側で、少しでも身じろぎしたらもうそれだけでどこかが触れてしまいそう。  
 かちんこちんの身体は、食べようと思って放置していたら三日経ってしまったアンパンの表面のようだ。  
「あ、の」  
 何か言おうと思ったが、その何かを言う前に、彰の唇が信子の唇をふさいだ。  
 
 ――――何を言おうと思ったか、完璧に忘れてしまった。  
 
「病気、うつるかにゃっ? 恋のやまいだーっちゃ」  
 悪びれた様子もなく、けらけら笑う彰の声。  
「返事はうつったら教えてくれればいいよーん」  
 恋とはウイルス性なのだろうかと、信子は思った。  
 
終わり。  
 

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