彰にキスされてから一夜明けて、信子は学校に来た。  
 表面上は何事もなかったように授業を終え、昨日と同じ様に屋上に来た。  
 ただ違うのは、昨日ここに来たのは放課後だったのに、今は昼休みだということ。  
 今日も修二はいない。彼はお昼を可愛い学園のマドンナと食べる。  
 今日も彰と二人きり。彼はお昼を根暗な学園のいじめられっ子と食べる。  
 信子はちらりと真向かいに座った彰を伺う。  
 緊張して箸が上手く持てなかった。  
「野〜ブタちゃ〜ん。ルパンのまね。似てた? 似てた?」  
 うひゃうひゃ笑う彰の顔を見ながら、信子はなんだか熱に浮かされたみたいにぼーっとする。  
 ……恋がうつったのかな、と思って、そんなまさか、と思い直した。  
 もくもくと箸を動かしてお弁当を口に運ぶと、無理矢理飲み込む。  
 胸が詰まったようで苦しい。  
「ごっちそうさまでしたー」  
 信子と違ってとっとと食べ終えた彰は、古めかしい表紙の本を開いた。  
 紙が黄ばんでいて、分厚くて、どこか怪しげな雰囲気の本だ。  
 そういえば以前前世占いの本を持ってきていたことを思い出し、またその手の本なのかと尋ねてみた。  
「……それ、なに?」  
「んん? 気になりますか? なっちゃいますか?」  
 彼の目はびーだまのようにキラキラしている。  
 まるで小さな子どもだ。無邪気で、どこまでも明るく透き通っている。  
 昨日の今日で、こんなに顔が近くて。意識するなという方が無理な話だ。  
 見ていると頬が熱くなってしまったので、信子は両手で自分の顔をサンドイッチにした。  
「……きになる」  
 そのサンドイッチ状態のまま喋ったので、きっとものすごくブスだっただろう。  
 でも彰は気にも留めずに、  
「じゃんじゃじゃぁ〜ん! なんと驚き、魔法の本なのでーす。ビビデバビデ、ブブブのブー」  
 ぶー、とブタのように鼻を人差し指で持ち上げる。  
「そ、それは……」  
 
 彰は得意げだ。  
 信子の視線は、彼の手の中の胡散臭い本に注がれた。  
「……すごいね」  
「だしょだしょ? これ全部読んだら、魔法使いになれちゃうかも南蛮?」  
 そう言って、ステッキを振るまねをする。  
 パイロットになりたいとか野球選手になりたいとか将来の夢を語るときみたいに言うから、  
 まるで本当に叶う職業のように思えてしまう。  
 そう信子に思わせること自体がすでに魔法なのではないだろうか。彰はすごい。  
 すごい、と誉めようとしたら咳が邪魔した。  
「ごほっ、ごほっ!」  
「ん? 野ブタ、どした? むせた? ほれ、まめちち」  
 彰がビンを差し出した。さっきまで彰自身が飲んでいた豆乳のビンだ。  
 一瞬ためらったが、ありがたく一口頂戴した。痛む喉を冷たい豆乳が滑り落ちていった。  
「あ、ありがと」  
「どーいたましてー。って、うわっ! そういや間接ちゅーだ!」  
 だから信子は躊躇したのに、彰は今気付いたのだろうか。  
 昨日は自分からキスしたくせして、いまさら間接キスでうわーうわーと大騒ぎしている。  
 そんな彰を見ていると、どうも信子の胸が痛む。喉も痛む。  
 この痛みは、  
「……うつったのかも」  
 信子は何がうつったのかは言わなかったのに、彰はすぐにわかったようだ。  
「えっ、何? うつっちゃったの? マージでぃーすかー!?」  
 本もほっぽって椅子を倒す勢いで立ち上がった彼に、信子の腰は引ける。  
 かも、で断言じゃないのだが、こんなに嬉しそうにされるとは思わなかった。  
 断言じゃないのが悪いような気さえしてくる。  
「あ、ああああの、でも、よく、わ、わかんない」  
 言ってるうちに本当にわけがわからなくなってきた。熱い、ぼーっとする。  
「えー、わかんないんすか?」  
「だ、だって、昨日あれからずっと草野君の顔ばっかり浮かんで、  
 お風呂入ってても布団の中でも浮かんで、消えなくて、なかなか寝れなくて」  
 だんだん早口になる。  
 
「それが単にキ、キキスされたせいかもしれないし、うつったのかもしれないし、よくわかんな、い」  
「ほうほう? でっ」  
「あ、熱くて、苦しくて、……胸と、の、喉が痛い」  
 信子は自分の胸と喉を押さえた。手のひらから燃え上がるようだ。  
 彰は、――――手を頭の後ろで組んだ。  
「あー、俺、オチが読めたナリ」  
「へっ?」  
「それ、ウイルス性風邪症候群。つまり風・邪。午後の授業は早退したほうがいっかもよ」  
「……」  
 なんだそうか。  
 じゃあこの動悸は恋のときめきじゃなくて風邪のどきどきか。  
 胸が痛いのは切なさじゃなくて肺が弱ってるのか。  
 頬が燃えるようなのも熱のせいか。  
 彰にぬか喜びをさせてしまった、恋と風邪の区別もつかない自分のお間抜け加減に嫌気がさしていると、  
 彰が信子の額に手を当ててきた。  
 ひんやりと冷たくて気持ちいい。  
「……目、閉じて」  
 言われるままに目を閉じた。  
「今から魔法をかけちゃいます。風邪がすっげぇ早く治る魔法です」  
 真っ暗な中に彰の声が聞こえる。明るい、光のような。  
「ちちんぷいぷい、遠いおやまに飛んでいけー」  
 うに、と頬を掴まれた。  
「ほい、目開けて」  
「……」  
 終わりなのだろうか。  
 閉じたときと同じく言われるままにすると、至近距離の目と目が合った。  
「どした?」  
「……またキスされるのかと思った」  
「あー、そっちの魔法のが良かった? 俺が、野ブタが俺に恋するような魔法を覚えたら使っちゃる。  
 期待しててーだーっちゃ」  
 彰はまた熱心に魔法の本を読み始める。  
 信子の風邪が治ったら、それはきっと彰の魔法が信子には効くから。  
 じゃあ、恋の魔法も効くだろうか。  
 少しだけ期待していてもいいかな、と信子は額に手を当てた。  
 
終わり。  
 

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