「ねぇ、一条君。 キスしてもいい……?」  
 
今彼女は一体なんと言ったのだろうか。  
息がつまり、先程まで声に出していた彼女の名前が途中で止まる。  
ついコンクリートの陰に隠れてしまい、息を殺した。  
二人のやりとりを伺おうとしている自分に背徳感を抱きながらも口を押さえた。  
 
 
 
「え、……」  
 
恋する女の子に突然キスしてもいいかと訊かれ、こちらもやや混乱気味のようで。  
心の準備が出来ていたり、あるいは二人ともそういった仲であったのならば即答も出来たのであろうが  
突然の事態に楽の頭はついていけない様子だ。  
 
「ちょ、ちょっと待ってな……?」  
 
ゆっくりと深呼吸して、昂る気持ちを必死に抑える。聞き間違いなどではない。  
確かに彼女はキスしてもいい?と言ったのだ。しかしなぜそんなことを訊いてきたのか。  
この海辺で二人並んで楽しげに会話してた雰囲気に中てられたからなのだろうか? そんなはずはない。  
普通に考えたら彼のことを好いているからキスしたくなった、と考えるのが普通だが、楽は好意を寄せていた相手がまさか自分に好意を  
 
寄せているなどということが果たしてあるのだろうかと、釈然としなかった。  
しかしここで『なんでそんなことを訊いたの?』と訊き返したならば、なんでもないとはぐらかされるのが落ちだろう。  
告白をすっ飛ばしてそんなことを言ってきた彼女にいいよ以外の言葉を返したら、それは間違いなくダメと言っているようなものだ。  
しかしどうしたらいいのかと、楽は考える。彼女の真意が知りたい。何を想ってその言葉が口からこぼれたのか。  
腹を決めて小咲のほうを向いた瞬間、此方を見つめていた彼女と目が合い、見つめ合ってしまう。  
 
「「…………っ!」」  
 
両者共に耐えられなくなったのか、バッと同時に反対を向いて先程のように黙りこくってしまった。  
しかし、そんな空気でも決して居心地が悪いわけではなく、むしろこのむず痒い状況を心地よいと感じていた。  
 
「あのね、一条君。聞いて欲しいの」  
「ん……?」  
 
俯いたままの小咲が、落ち着きなさそうに手をもじもひとさせながら続ける。  
 
「私ね、一条君と一緒に海に来れてね、すごく嬉しくて、楽しかった」  
「泳げないのにか? あ、でも砂浜のあれは……」  
「ううん、そうじゃないの」  
「え?」  
 
海にきても泳げない小咲は砂浜でサンドアートに興じたりと、泳げなくとも別の楽しみを見つけていたからそこそこ楽しかったのだと思  
 
ったが、予想とは違った返事に楽は少し戸惑った。  
 
「一条君と一緒にいるんだ、って。そう思うだけでね、すごく元気が湧いてきて、浮ついちゃって……」  
 
目の前の想いを寄せている女の子が頬を朱に染め、どこか嬉しそうに自分と一緒にいると楽しいと言っている。  
聞いていた楽まで顔が熱くなって、小恥ずかしい気持ちに陥ってしまう。  
もしかして……と考えてしまうが、そんな都合のいいことがあるのだろうか、些か自信がもてない。  
そう思った矢先、楽のそれは確信へと変わった。  
 
「一条君と話せば話すほど、一緒にいればいるほど、この時間がもっと、ずっと続けばいいのにって」  
「もう、どうしようもないくらい好きなんだなって」  
 
彼女の言葉から迷いのない言葉がさらさらと零れ出る。  
本当に楽に恋して、好きで好きでたまらなくて。  
色々な想いが交錯する意識の中で、嘘偽りのない想いが、小咲自身不思議だと思うくらい言葉として紡がれていく。  
 
 
その言葉に、思わず息を呑んだ。彼女が自分を好きだと言った。  
動悸が激しくなり、頭が煮立ってるんじゃないかと思うくらい熱くなる。  
楽は思わず彼女のほうに顔を向けると、彼女も同じよう此方に顔を向けた。  
またお互いにじっと見つめ合うが、今度は先程とは違った。  
小咲は楽との距離をずいっと詰めて、若干汗ばんだ手を、楽の手に重ねた。  
ここまできてしまったのだから、行ける所まで行かないと終わらせられない、そんな決意を宿した小咲は再び楽に訊いた。  
 
「キス、してもいい……?」  
 
うるうると上目遣いで訴えるその瞳に、ゆっくりと吸い込まれるように楽の顔が近づいていく。  
小咲もまた、楽が受け入れてくれたのだと感極まりながらもゆっくりと瞼を閉じた。  
 
「!…………」  
 
そっと唇が触れた瞬間、小咲はぴくりと肩を震わせた後、少しだけ楽の唇に自分のそれを押し付けた。  
触れたときのようにそっと唇が離れ、未だ緊張の解けない楽とは対照に、小咲は照れ臭そうに笑った。  
たった数瞬触れるだけのキスで、柔らかな感触と共に楽の想いが流れ込むように伝わった気がする。  
そして自分も、楽のことを愛しているという気持ちが伝えられたと小咲は感じた。  
胸にほんのり広がっていく温かさに小咲は安堵を覚え、楽を好きだという気持ちがより強くなり、溢れ出そうだった。  
 
「小野寺……」  
 
とても真面目な面持ちで何かを伝えようとする楽だが、そこで黙りこくってしまう。  
きっとさっきの自分と同じように、言いたい事、伝えたいことを選りすぐっているのだろう。  
小咲はもうわかっていた。楽はきっと、自分のことが好きなのだと。  
楽は決して雰囲気や状況に流されて、あんなことをしたのではないのだと。  
それでも彼の口から好きだという言葉が聞きたくて、じれったい気持ちになってしまう。  
楽に寄り添い、心地よい音を立てながらゆっくりと打ち寄せる細波を見つめながら、言葉を待った。  
 
「俺も小野寺のことが好きだ」  
 
返事の代わりに、楽の手をぎゅっと握る。  
楽の方も、指を絡ませて小咲の手を握り返した。  
 
「ずっと、好きだった」  
 
空いたほうの手で小咲の頬に手を添えて、楽は続けた。  
 
「もう一回、してもいい?」  
 
楽が無理して応えてくれているのだと小咲は思っていたが、楽のほうから求めてくれている。  
私とキスしたいんだ。それだけで堪えられなかった。  
今まで想像だけで済ませていた、むしろ済ませられなかったことが現実のものに出来る。  
手に入るとわかり、かつてないほど想い人を渇望している自分がいる。  
小咲は楽に抱きついて押し倒す。  
 
「私も、一条君としたい」  
「もっと、一条君とキスがしたい。キスだけじゃ、我慢できないよ……」  
 
少し痛かったのか、少し顔を顰めていた楽だが、微笑みながら小咲の頭に手を回し、抱き寄せる。  
楽とて小咲と同じ気持ちで、我慢をする必要も、拒むことももうない。  
 
「俺も……」  
 
唇を薄く開いて、再び合わせる。  
言葉だけでは満足いかなくって、身体でもって気持ちを体現する為に。  
満天の星空の下、二人は愛を誓い合った。  
 
…   
 
……  
 
 
 
物陰から一連の出来事を見ていた少女は居た堪れなくなり、複雑な思いに囚われながらもゆっくりとその場を後にした。  
 
「桐崎さん、楽たちは居た?」  
 
今ここであの場に割り行って帰るだなんて言える筈が無い。  
あの二人の情事を邪魔するのは無粋にもほどがある。  
そのうち宿に戻るだろうし、きっとここにいる皆もそれを知っていたら黙って宿に戻るだろう。  
それに今は明かりでも無いと辺りが真っ暗なのだから、気づかないだろう。  
 
「いなかったから、先に帰ったみたい」  
「そっか、じゃあ皆宿に戻ろうか」  
 
親友と、好きでもない偽の恋人。  
二人がくっついたって、私には関係が無いのに。  
小咲はどうしてか痛む心を気にしないよう努め、宿に戻っていった。  
 
 

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